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Japan on the Globe 国際派日本人養成講座

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Japan on the Globe(140) by CLICK INCOME

2000/05/27

---------------Japan On the Globe(140)  国際派日本人養成講座
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         _/          人物探訪: 汪兆銘〜革命未だ成功せず
        _/
  _/   _/    売国奴の汚名を着ても、汪兆銘は日中和平に賭けた。
   _/_/      中国の国民の幸せのために。
-----------------------------------------H12.05.28  24,923部

■1.失敗すれば、家族全体が末代までも批判される■

         今、父が計画していることが成功すれば、中国の国民に
        幸せが訪れる。しかし失敗すれば、家族全体が末代までも
        人々から批判されるかもしれない。お前はそれでもいいか。
        
     汪兆銘は17歳の娘、汪文琳にこう問いかけた。時に1937
    (昭和12)年。汪兆銘は国父孫文の大アジア主義を継承して、
    日中の共存共栄こそ中国国民の幸せに至る道である、と確信し、
    中国共産党や蒋介石とは異なる独自の道を目指した。

     結果はこの言葉の後半そのままとなった。妻は獄死、子ども
    たちは海外にちりぢりとなった。汪兆銘本人は「漢奸」(中国
    の売国奴)と今でも非難されている。そしてなによりも、彼が
    幸せを願った中国の国民には、さらなる戦乱と、共産党独裁政
    権のもとでの圧制という過酷な運命が待っていた。
    
     汪兆銘を抜きにしては、近代中国の悲劇も、日中関係の不幸
    も語れない。

■2.革命の決心■

     1925年2月24日、孫文の病状が絶望的になった時、後継者
    の筆頭として汪兆銘は代筆していた遺言を孫文に聞かせた。孫
    文は満足そうにうなづき、「大賛成である」と言った。そして
    3月12日、死の前日に署名をした。汪兆銘は自分の代筆した
    遺書を、孫文が一字一句も直そうとしなかったことを生涯の誇
    りとした。[1,p113]
    
     その遺書は、「余は国民革命に力を致すことおよそ四十年、
    その目的は中国の自由平等を求むるに在り」から始まり、「現
    在革命未だ成功せず」という有名な一句を含んでいる。
    
     孫文は、1894(明治27)年、広州で最初の革命の兵を挙げ
    て以来、宮崎滔天など日本の朝野の志士の支援を受けて、革命
    運動を続けていた。[a]
    
     日露戦争後、東京には清国の留学生が1万人以上も滞在し、
    日本の驚異的な発展に続こうとしていたが、汪兆銘もその一人
    だった。1905(明治38)年、孫文の二度目の来日を機に、中国
    同盟会が東京で設立され、汪兆銘はわずか22歳で書記長に抜
    擢された。そして機関誌「民報」で健筆をふるった。24歳の
    時に発表した「革命之決心」には次の一節がある。
    
         革命の決心は、だれもが持っている惻陰の情、言うなら
        ば困っている人を見捨てておけない心情から始まるものだ。
        たとえば子供が井戸に落ちていると聞けば、だれもが思わ
        ずその子を救いたくなるだろう。[2,p93]

■3.兵乱は絶えることなく■

     1912(大正元)年、辛亥革命が成功し、清朝は滅びたが、実権
    は北洋軍閥の総帥袁世凱が握った。その後の中国の政情につい
    て、汪兆銘は「国民党史概論」において次のように論じている。
    [1,p103]
    
         彼(袁世凱)の死するや、部下の将領は四分五裂して蜂
        起した。その混乱状態は、今日に至るまで全く収束されて
        いない。・・・それ以来北方の反革命家は大軍閥となり、南
        方の変節せる革命党員は小軍閥となった・・・かくて14年、
        兵乱は絶えることなく、中華民国は太陽なき暗黒となった。

     1921(大正10)年、中国共産党が結成された。この時、レーニ
    ンの秘書マーリンが、上海での共産党代表大会に参加し、孫文
    とも会って、新経済政策を吹き込んだ。また中国共産党員がコ
    ミンテルンの指示で、次々と国民党に入党し、主導権をとろう
    としていた。
    
     孫文の遺書にある「革命未だ成功せず」とは、まさしくこの
    ような内憂外患の状況であった。

■4.ソ連の魂胆■

     孫文の死後、国民党右派の中心人物となったのが、蒋介石で
    あった。蒋は、日本陸軍で4年ばかり学んだ後、1924(大正13)
    年に新しく設立された黄埔軍官学校の校長となった。長年の失
    意の経験から、革命には近代的軍事力が不可欠であるという孫
    文の構想であった。
    
     蒋介石はその前年にソ連を訪問し、その侵略的な意図をかぎ
    つけて、孫文に次のような報告をしている。
    
         ソ連はまるで誠意を持っていない。・・・ソ連共産党の中
        国に対する唯一の目的は中国共産党をその分身とするこ
        と・・・ 彼らのいわゆるインターナショナリズムとか、世
        界革命とかも、その実はウィルヘルム?世の帝国主義とな
        んら変わることなく、ただ名前を変えて世間を惑わそうと
        するものだ。[1,p121]
        
     蒋介石は孫文の死後、共産党勢力の排除に乗り出す。上海で
    クーデターを起こし、南京国民政府を設立して、武漢の国民党
    中央と対立するまでに至った。
    
     一方、汪兆銘も偶然、ソ連から派遣された国民政府最高顧問
    ボロディンへのコミンテルンからの訓令の内容を知り、ソ連の
    真意を知った。そこには、汪兆銘、蒋介石らを駆除すること、
    クーデター後、コミンテルンの命令に従い党の改組を行うこと、
    などの内容があった。中国共産党は、まさしくソ連共産党の手
    先であり、それと組んでいることは、中国の自主性を奪われる
    ことであると気づいた。
    
     こうして汪兆銘と蒋介石の見方が一致し、両者は協力して32
    (昭和7)年、南京で国民政府を組織した。

■5.汪兆銘・蒋介石の日中和平路線■

     この前年、満州事変が勃発していたが、汪兆銘は「一面抵抗、
    一面交渉」という基本姿勢を示した。その前提は、孫文の遺訓
    でもある「日中戦うべからず」であった。汪兆銘は青年時代に
    日本で、アジアの自立と解放を学んだ。現在の日本は、国際的
    な孤立や経済的苦境から大陸進出を企んでいるが、内心は中国
    との協力、提携を求めているに違いない。軍事的には抵抗しつ
    つ、外交的には妥協と歩み寄りを求める。
    
     33年(昭和8)年、塘沽停戦協定が締結された。35(昭和10)年
    には、広田弘毅外相が議会での姿勢演説で、日中双方の「不脅
    威・不侵略」を強調し、日本はアジアの諸国と共に東洋平和お
    よび、秩序維持の重責を分担する、と主張した。
    
     この誠意に満ちた演説は、中国側に好感をもって迎えられ、
    一週間後、蒋介石は次のような声明を発表した。
    
         中国の過去における反日感情と日本の対支優越態度は、
        共にこれを是正すれば、隣邦親睦の途を進むことができよ
        う。わが同胞も正々堂々の態度を以て理知と道義に従い、
        一時の衝動と反日行動を押さえ、信義を示したならば、日
        本もまたかならずや信義をもって相応じてくることと信ず
        る。[1,p190]

     このような形で、汪兆銘と蒋介石の指導のもと、日中和平路
    線が着々と進められたが、これを喜ばない勢力もあった。35
    (昭和10)年11月、国民党六中全国大会で、汪兆銘はカメラマン
    に扮した刺客から3発の銃弾を受けた。危うく一命はとりとめ
    たが、療養のため、ヨーロッパへ渡った。
    
■6.「最後の5分間」から蘇生した中共軍■

     日中和平を喜ばない勢力の一つに、中国共産党があった。蒋
    介石は、30(昭和5)年からの数次にわたる共産軍掃討作戦を進
    め、36年頃には共産軍は数万人規模にまで落ち込み、蒋介石の
    表現によれば、掃討戦は「最後の5分間」の段階に来ていた。
    [3,p364-374]
    
     共産軍が最後の拠り所としたのが、「一致抗日」をスローガ
    ンとして中国人の民族意識に訴える宣伝戦であった。各地で在
    留邦人を狙ったテロ事件が続発し、日中和平を阻もうという動
    きが激化した。汪兆銘は後に次のように述べている。
    
         中国共産党は、コミンテルンの命令を受け、階級闘争の
        スローガンに代わるものとして抗日を打ち出していたので
        す。コミンテルンが中国の民族意識を利用して、中日戦争
        を扇動しているの私は読みとりました。謀略にひっかかっ
        てはなりません。[2上,p246]

     共産軍を「最後の5分間」から蘇生させたのが、36(昭和11)
    年11月の西安事件であった。蒋介石が西安で共産軍掃討戦を
    行っている張学良を督励するために訪れた時、突如逮捕監禁さ
    れた。8年前、父親・張作霖を日本軍に爆殺され、満州から追
    われた学良は、抗日意識の盛り上がりに乗じて、共産党と通じ
    たのである。
    
     共産党がモスクワの指示を仰いだところ、スターリンは蒋介
    石を釈放し、「連蒋抗日」を命じた。蒋介石を殺せば、国民党
    軍により中共軍が壊滅せられ、汪兆銘がトップとなることを恐
    れたものであろう。蒋介石を殺すべしと考えていた毛沢東は真
    っ赤になって怒ったと伝えられている。[3,p374-380]
    
     西安事件で蒋介石と共産党との間でどのような密約が交わさ
    れたのかは分かっていないが、蒋介石は国共合作・抗日へと方
    針を急転換し、掃討戦を中止した。さらにこの7ヶ月後の廬溝
    橋での日中両軍の衝突が起こり、ここに33年5月の塘沽停戦協
    定から4年2ヶ月にわたる日中和平の時期は終わりを遂げた。
    
    (31年9月の満州事変勃発から、45年8月の大東亜戦争終戦ま
    でを「日中15年戦争」などと称する言い方があるが、この期
    間は合計しても13年11ヶ月にしかならず、なおかつ4年2ヶ月
    もの和平期間を無視している。学問的な用語というより、コミ
    ンテルン史観に基づくプロパガンダ用語と解すべきである。)

■7.我は苦難の道を行く■

     西安事件の直後、ヨーロッパでの療養から帰国した汪兆銘は、
    国民党副主席の地位についていたが、戦いの陰で日中和平工作
    を進めた。
    
         人々は、簡単に抗日を国内統一の手段にしようなどとい
        うか、抗日戦争で負ければ我々は滅亡するのだ。いちかば
        ちかの賭けに出て滅亡した場合誰がどう責任をとるのか。
        [3上,p136]
        
     蒋介石は表に対日抗戦を叫びつつ、裏で汪兆銘に和平工作を
    進めさせ、また反共を信じながら、表で容共を説いていた。し
    かしその間、国民政府軍は上海、南京、漢口と敗走を続け、重
    慶にまで追い込まれた。そして撤退のたびに、南京、武漢、長
    沙などの都市を焦土作戦で火の海とした。この状況下では、日
    本側の条件を呑んで、和平を選ぶしかないのだが、それをすれ
    ば共産軍に蒋介石打倒の口実を与える。
        
         中日戦争の見通しは明るくない。中国を救うには日本と
        の和平しかないと自分は考えており、近く重慶を出て、別
        の地から和平工作を手がけるつもりだ。どこに抜け出そう
        と、戦争している相手国と和平ルートをつくる役割は、周
        囲から非難中傷を受けるのみならず、危険も伴うに違いな
        い。しかし、自分が身を捨てる覚悟でにやり遂げるつもり
        だ。[3上、p166]

     39(昭和14)年、汪兆銘は蒋介石に対して、「君は安易な道を
    行け、我は苦難の道を行く」との書簡を送り、重慶からハノイ
    に脱出して、以後、単独で日本政府との交渉を進めた。それは、
    冒頭の言葉にもあったように、成功すれば中国の国民に平和を
    もたらすが、失敗すれば末代まで「売国奴」の汚名を着せられ
    るまさしく「苦難の道」であった。

■8.革命未だ成功せず■

     汪兆銘の重慶脱出と呼応して、雲南、四川、西康、貴州の四
    省が同盟して、対日和平に立ち上がる根回しが進んでいたが、
    蒋介石に阻まれてしまった。
    
     汪兆銘は国民政府の分裂を避けたかったが、事ここにいたっ
    て、日本政府の援助のもとに、翌40年、南京に新政府を樹立し
    た。しかし日本政府も蒋介石政権との和平ルートを模索するな
    ど腰が定まらず、汪兆銘政府を正式に承認したのは8ヶ月も後
    だった。
    
     41(昭和16)年5月、来日した汪兆銘は、日本国民の熱狂的な
    歓迎に感激した。また昭和天皇に拝謁し、日中間の「真の提
    携」を願っているとのお言葉に、この一言だけで訪日目的の大
    半は達せられたと述べた。「日中戦うべからず」との孫文の遺
    訓を抱く汪兆銘は、昭和天皇と日本国民に相通ずる心を見いだ
    したのであろう。

     同年12月8日、日米開戦。汪兆銘は次のように言った。
    
         この戦争は間違いです。日本はアメリカと組んでソビエ
        トと戦わねばならないのです。真の敵はアメリカではあり
        ません。しかし、こうして開戦した以上わが国民政府はお
        国に協力します。同生共死ということです。[4,p83]

     44(昭和19)年3月、南京で病に倒れた汪兆銘は、名古屋で治
    療を受けたが、11月10日帰らぬ人となった。南京空港から公館
    までの道のりを民衆が詰めかけて、棺を迎えた。
    
     翌年、日本が敗れ、南京政府も瓦解した。孫文を祀った中山
    陵の傍らに作られた汪兆銘の墓は、蒋介石の指令で爆破された。
    その蒋介石も共産軍に敗れ、やがて台湾に逃げ込む。
    
     汪兆銘が国民革命に一生を捧げて救おうとした中国人民には、
    共産党独裁政権のもとで、大躍進や文化大革命で数千万人が餓
    死するなど、さらに過酷な運命が待っていた。そして今に至る
    まで一度も民主選挙で自らの政府を選んだことがないという点
    では、清朝時代の人民と変わらない。「革命未だ成功せず」。
    [b-e]
    
■リンク■
a. JOG(043) 孫文と日本の志士達
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog043.html
   中共、台湾の「国父」孫文は、革命家としての30年のうち、
  のべ約10年を日本で過ごした。その間、多くの日本の志士と友
  情を結び、中国の為に一命を捧げた日本人志士も少なくない。
b. JOG(109) 中国の失われた20年(上)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog109.html
    2千万人餓死への「大躍進」
c. JOG(110) 中国の失われた20年(下)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog110.html
    憎悪と破壊の「文化大革命」
d. 「大アジア主義」講演 孫文 
http://members.aol.com/rekisi/greatasia.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 「人われを漢奸と呼ぶ」★★、杉森久英、文芸春秋、H10.6
2. 「我は苦難の道を行く・上下」★★、上坂冬子、講談社、H11.10
3. 「大東亜戦争への道」★★★、中村粲、展転社、H2.12
4. 「私の見た中国大陸五十年」、小山武夫、行政問題研究所、S61.8
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■前号「The Globe Now: ジュラシック・パーク・アメリカ」
                                Midoriさん(アメリカ在住)
     アメリカ人の友達が相手のささいなミスで学生ロ−ンを却下
    されてしまいました。相手と最後に話した時、相手側が承知し、
    ちゃんと処理すると言ったにもかかわらず、その学生ロ−ンは
    通らずじまいでした。
    
     私が ”そんなの訴訟したらいいんじゃないの?”と言った
    ら、相手側は大きい会社だし、腕のいい弁護士がそろっている
    だろうから無理だと言っていました。どんなに相手が悪くても、
    相手がお金を持っていて腕のきく弁護士を雇ったらまかり通っ
    てしまうんですね。

                                          世良田さん(東京)
    今迄、柵によって保護されていた臆病な羊たちが、「自由にな
    りたい!自由にしてくれ!」と喚き散らした挙げ句、柵を取り
    払って貰ったはいいけれど、途端に次々と狼どもに食われてい
    く、という寓話的光景を想像してしまいます。日本人のお気楽
    なグローバリストは、まさしくこの「羊」的人間のように思え
    てなりません。
    
     21世紀の「侵略」は、軍事的にではなく、このような形を
    とるのではないか、とも思います。これに対抗する有効な手段
    を、早く考えなければならないでしょう。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     「羊」たちが柵の外に出たら、恐竜がうようよ、という恐ろ
    しい光景。国際派日本人は、知的武装も必要です。

     読者からのご意見をお待ちします。本メールへの返信で届き
    ます。ご意見は、本誌おたより欄掲載させていただく場合があ
    ります。メール・アドレスは伏せます。掲載不可、匿名または、
    ハンドル名ご希望の方はその旨、明記下さい。おたより欄掲載
    分には、薄謝として本誌総集編を差し上げます。

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