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Japan on the Globe 国際派日本人養成講座

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Japan on the Globe(124) by CLICK INCOME

2000/02/05


     _/    _/_/      _/_/_/  The Globe Now: チベット・ホロコースト
        _/  _/    _/  _/          50年(下)〜ダライ・ラマ法王の祈り〜
       _/  _/    _/  _/  _/_/                           21,055部 H12.02.06
 _/   _/   _/   _/  _/    _/  Japan On the Globe(124)  国際派日本人養成講座
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■1.法王の脱出■

     1959年3月10日、数万の群衆がダライ・ラマ法王のいるノ
    ルブリンカ宮殿を包囲した。その日、法王は中共軍司令部での
    演劇に招待されていた。しかも中共側は法王が護衛なしで来る
    ことを要求していたのである。今まで東部チベットで、高僧が
    中共軍司令官からパーティに招待され、殺害、あるいは、投獄
    されるケースが4回もあった。群衆は、法王を中共軍の手に渡
    すまいと決意していた。

     法王は中共軍司令部に大臣を派遣して、訪問に反対する「民
    衆の熱意があまりにも強固なので、断念せざるを得ない」と告
    げた。中共軍の将軍たちは激高して叫んだ。
    
         いままではわが政府も我慢づよかった。しかし今度の事
        件は叛乱である。これが決裂点である。われわれは今こそ
        行動にでるであろう。だから覚悟しろ。
        
     群衆は、何日経っても、宮殿のそばから離れなかった。3月
    17日、中共軍陣地から発砲された重臼砲の砲弾2発が宮殿の
    近くに落ちた。法王はこのまま宮殿にいれば、中共軍と群衆の
    対立がいや増すだけだと考え、国外脱出の決意を固めた。群衆
    の指導者の協力も得て、法王は一兵卒に変装し、その夜、ひそ
    かに宮殿を脱出した。[2,p127-169]

■2.中共軍「反乱を鎮圧」■

     法王の脱出に気がつかなかった中共軍は、3月19日午後2
    時から、宮殿に向け、一斉に砲撃を開始した。集中砲火は41
    時間続けられ、宮殿はハチの巣のようになった。3日間で、1
    万から1万5千人のチベット人が殺された。宮殿の内外は死体
    で埋め尽くされ、中共軍は法王の死体を探し回った。

     中共軍は、さらに「反乱を鎮圧」するために、チベット全土
    に戒厳令を敷き、23日までにラサだけで4000人を逮捕し
    た。[4,p136] 中共軍の内部資料によると、10月までに、ラ
    サおよびその周辺地域で8万7千人のチベット人を殺害したと
    いう。[3,p89]

     3月28日には、中国国務院が周恩来首相の名で、チベット
    政府の解散と、その職権を「チベット自治区準備委員会」に移
    すことを発表した。そしてダライ・ラマ法王が「拉致」されて
    いる間、パンチョン・ラマを準備委員会主任代行に任命した。
    [4,p136]

     パンチョン・ラマは、ダライ・ラマ法王を助けるために、チ
    ベットに現れたと信ぜられ、法王に次ぐ宗教的権威を認められ
    てきたが、世俗的権力はなかった。このパンチョン・ラマも、
    中国の傀儡にはならず、89年には「チベットは中国から得たも
    のよりも、失ったものの方が大きい」という歴史的な声明を発
    表し、そのわずか4日後、謎めいた不慮の死を遂げた。
    [4,p161],[3,p214]
    
■3.ヒマラヤ超え■

     世界中の新聞が、ダライ・ラマ法王のラサ脱出を一面で報じ、
    その安否を気遣っている間、法王の一行約100人は、200
    名の兵士、ゲリラ兵に守られて、徒歩でラサから道もない広大
    な山岳地帯を南南東に進み、ヒマラヤの主幹をなす連峰を横断
    して、インドへ向かっていた。

         国境に近づけば近づくほど、旅は、よりいっそう難渋を
        きわめた。そうして、つづく二,三日というもの、大吹雪、
        雪に反射するぎらぎらする光、それから滝のようにおちる
        激しい雨などの異常な連続によって、わたくしたちは悩ま
        された。・・・
        
         非常に寒かった。指や手は感覚を失った。そして眉毛が
        凍りついた。・・・こうした旅のあいだに、口ひげの伸び
        た人々もかなりあったが、その人々の口ひげには、氷がい
        っぱいついた。
        
         それでもわたくしたちは、別に着替えを持っていなかっ
        たから、暖を保つ唯一の方法としては、ただ歩くことだけ
        であった。[2,p193]

     途中の村で、中国側がチベット政府を解散させたというニュ
    ースを聞き、法王は同行していた人々で臨時政府を作り、その
    宣言のコピーをチベット全土に送った。
    
     法王の一行が、正式な許可を得て、インドに入国すると、町
    や村では、心からの親切な歓迎をした。ネール首相も、電報で
    歓迎と、無事の到着を喜ぶメッセージを送ってきた。さらに全
    世界からの百人を超す新聞記者やカメラマンが待ちかまえてい
    た。[2,p200]
    
     法王の亡命後、数ヶ月のうちに、およそ8万人のチベット人
    が、同様に困難な国境越えをして、逃れてきた。途中で行き倒
    れになった人数は数知れない。[3,p88]

■4.アデの悲しみ■

     アデは16年の刑期が終わっても、釈放されなかった。常に
    囚人の先頭にたって、中国人看守たちに反抗したからである。
    厳しい生活環境、過酷な強制労働、そして看守達の懲罰を、ア
    デは耐え抜いた。1960年にゴタン・ギャルドの収容所に一緒に
    移った百人の女囚のうち、3年後に生き残っていたのはアデを
    含め、わずか4人であった。
    
     21年目の1979年、アデは生まれ故郷への15日間の旅を許
    された。バスが故郷のカンゼ停留所に着くと、通りにたくさん
    の中国人がいることに驚かされた。標識はすべて中国語で書か
    れていた。実家の家も、土地も家財道具も、すべてが没収され
    ていた。
    
         森や丘を眺めるだけでも、丘が文字通り不毛の地になる
        まで、薬草や花がやみくもに採取されていることがわかっ
        た。私はその荒廃ぶりに圧倒された。生命あるものに対し
        て、これほど完璧に敬意の念が欠けているということは、
        いったいどういうことなのか理解できなかった。[1,p276]
        
         私の若いころにはとても活気に満ちていた、カルナン僧
        院、カンゼ・デイツァル僧院、デ・ゴンボ僧院は完全に破
        壊され、略奪されていた。カンゼ・デイツァル僧院が以前
        建っていたところには、野生の灌木が生い茂っていた。
        [1,p273]
    
     アデの母と兄の一人は、飢饉で餓死していた。二人の兄は人
    民裁判で暴行され殺された。最愛の姉ブモは、ゲリラのリーダ
    ーだった夫ペマ・ギャルツェンの処刑後、発狂して死んだ。
    
     息子のチミはアデが連行されてから、狂ったようになり、母
    親の名前を呼びながら、泣き叫ぶばかりで、そうしているうち
    に、川に落ちて死んでしまったという。
    
     アデが逮捕された時、生まれたばかりだった娘タシ・カンド
    は、アデの幼なじみのツォラが育ててくれていた。アデは22
    歳になっていた娘を初めて見た。娘は近く結婚する事になって
    おり、アデは幸せな生活を送って欲しいと、自分の悲惨な過去
    についてはあまり話さなかった。
        
         私は悲しみでいっぱいになりながら、ワ・ダ・ドゥイ
        (収容所)に戻る準備を始めた。またバスに乗り、カンゼ
        を通り過ぎるとき私が考えていたのは、「もう何も残って
        いない」ということだけだった。苦痛、別離、そして失っ
        てしまった21年間がすべて心の中にこみあげてくるよう
        な気がした。それは本当に耐え難いものだった。そして、
        いまの私には何も残されていなかった。[1,p281]
        
     アデが釈放されたのは、逮捕から27年目の1985年だった。
    アデはその後、インドに脱出し、ダライ・ラマ法王がチベット
    亡命政府を組織しているダラムサラに住むようになった。

■5.収奪された国土■

     第二次大戦後、アジアやアフリカの民族が次々と独立してい
    く中で、チベット民族はこうして、唯一、植民地に転落した。
    
     チベットは、ヨーロッパ共同体に匹敵する広大な領土を持っ
    ていたが、その東部は分割されて、四川省、雲南省、甘粛省な
    どに編入された。北部のアムド地区は青海省とされた。たとえ
    ば、アデの生まれ育ったカンゼ地区は、四川省甘孜(カンゼ)
    チベット族自治州とされている。細かく分割して、周囲の省の
    少数民族とされたのである。残るチベット自治区の面積は、約
    半分にすぎない。[3,p83]

     1949年当時のチベットの森林面積は22万平方kmであった
    が、中共軍による乱伐で、1985年には13.4万平方kmとほ
    ぼ半減した。中共軍は旧国民党系の囚人や、チベット人を使っ
    て、原始林へのアクセス道路を切り開き、伐採した木材を中国
    本土に送っている。
    
     チベットは、インドや東南アジアを望む戦略的地域である。
    中国はここに90基の核弾頭を配備している。アムド地区の中
    国西北核兵器研究所は、その核廃棄物をきわめてずさんな方法
    でチベット高原に廃棄したと伝えられている。[3,p170-179]

■6.生活と文化の破壊■

     チベット亡命政府は、1949年から79年の30年間に死亡した
    チベット人は、120万人をくだらないと発表している。その
    内訳は、拷問17万3千人、死刑15万7千人、戦闘43万3
    千人、飢餓34万3千人、自殺9千人、傷害致死9万3千人で
    ある。侵略以前のチベット人口が600万人なので、5人に一
    人が殺された事になる。チベット人の家庭で、家族が一人も投
    獄、殺害されていない家を見つけるのは難しい。[3,p99-10]

     仏教国家チベットには、6,259もの僧院、尼僧院があっ
    たのが、1976年に残っていたのは、わずか8つに過ぎない。仏
    像や装飾品などは、ことごとく中国本土に持ち去られた。59
    万人いた僧、尼僧などのうち、11万人強が拷問死し、25万
    人以上が還俗を強制された。[3,p146-149]

     僧院に付随して学校があったのだが、それらも一緒に破壊さ
    れた。チベットの12歳以上の文盲率は、中国側の発表でも、
    74.8%であり、中国本土の31.9%の2倍以上となっている。
    [3,p132]
        
     中国政府は、産児制限や、中絶・不妊手術により、チベット
    人の人口抑制を図っている。その一方で、中国人の移住を数々
    の優遇策によって奨励した。その結果、チベット人口600万
    人に対して、チベット全土に住む中国人は750万人と見積も
    られている。[3,p166]
    
     チベットは、中国の過剰な人口の捌け口とされ、チベット人
    は自らの国土においても、少数・劣等民族とされてしまったの
    である。
    
■7.ダライ・ラマ法王の祈り■

     ダライ・ラマ法王の働きかけで、国連総会は1959年、61年、
    65年の三度、「チベット人民の基本的人権と、その独特の文化
    的ならびに宗教的生活を、尊敬することを要求する」と決議し
    ている。
    
     近年、多くの国の議会がチベットの人権を尊重するよう中国
    政府に求める決議を行ってきた。たとえば欧州議会(1987-90,
    4回)、旧西ドイツ(1987)、イタリア(1989)、オーストラリア
    (1990,1991)など。アメリカの上下院は10回以上の決議を行
    っている。[3,p114]

     1989年には、ノーベル平和賞が法王に授与された。ノルウェ
    ーのオスロ大学での受賞記念講演では、法王は「平和は私達一
    人一人の内から始まります。内的な平和があれば、周囲の人々
    とも平和を分かち合うことができます。」との信念を披瀝し、
    「非暴力による平和の追求」が世界の一大潮流になっているこ
    とを指摘した。
    
     89年6月の第2次天安門事件において、「中国で同じような
    変化をもたらそうとした勇気ある人々の努力は、・・・暴力で
    うち砕かれてしまいました。」しかし中国の若者達が「権力は
    銃口から生まれる」と教えられ続けて来たにも拘わらず、非暴
    力を選んだことを、法王は高く評価した。
    
         チベット高原全体を、人間と自然が調和して、自由に平
        和に暮らして行ける保護区にしようというのが、私の夢で
        す。世界中の人々が、世界各地の緊張や圧力から逃れ、自
        分自身の内にある平和の真の意味を探し求める地区とした
        いのです。
        
     として、チベットの非武装、非核化、自然保護、そして国際
    人権保護機関の設置を提案した。法王は演説を次の祈りで締め
    くくった。
    
        世界に苦しみがあり、
        生き物が残っている限りは、
        私も、残ります。
        世界の苦難を消すために
        
     ダライ・ラマ14世の肉体は滅びても、その魂は15世とし
    て、この世に戻ってくる。世界の苦難を消すために。チベット
    仏教の輪廻転生信仰は、世代を越えて受け継がれる人類の「内
    なる平和への意志」の象徴とも言えよう。

■リンク■
a. 009 米中の人権論争
   http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h9/jog009.htm
   中国が抱える火種は南のチベットだけではない。西のウイグル、
  北のモンゴル、そして東の北朝鮮との国境沿いの朝鮮族と、全方
  位で異民族の土地を占拠している。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. ★★★「チベットの女戦士 アデ」、アデ・タポンツァン、
  総合法令、H11.5
2. ★★「この悲劇の国 わがチベット」、ダライ・ラマ、
  創洋社、S54
3. ★「チベット入門」、チベット亡命政府情報・国際関係省、
  鳥影社、S11.5
4. ★★「チベット入門」、ペマ・ギャルポ、日中出版、H10.3
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

■人間の「闇の部分」を剥き出しにさせる共産主義思想
                   佐々木さん(富山)より

   共産党軍の非道ぶりの根本は、第一にはやはり共産主義思想に
  あると思います。どんな人間にも「闇の部分」はありますが、共
  産主義思想はこの「闇の部分」を剥き出しにさせる、という点か
  らも、まさしく「悪魔の思想」といえるのではないかと思うので
  す。JOG123号で印象に残った部分はたくさんありますが、中でも、

  >     アデの父親は、地域の有力者として選ばれ、派遣団の一
  >    員として、中国視察に送られた。彼はそこで国民党員の囚
  >    人をあふれるほど載せて処刑場に向かうトラックを見て、
  >    中国共産党の正体を知った。

   という部分が特に印象的でした。この光景を見た時の、アデさ
  んのお父さんの戦慄は想像を絶するものがあると思います。同じ
  漢民族に対してすら、考え方が違う、というだけの理由でこれほ
  どの仕打ちをする共産党が、まして異民族に対しては、と考えた
  時はまさしく「背筋が凍った」のではないでしょうか。
 
■ 編集長・伊勢雅臣より

   憎悪と嫉妬を階級闘争理論で正当化し、それを政治的エネルギ
  ーとして噴出させる所に、共産主義が人間的良心をマヒさせるメ
  カニズムがあるのでしょう。アデさんの獄中での次の言葉は印象
  的です。
  
       私が共産主義思想への賞賛をずっと拒否し続ける姿は、彼
      ら(JOG注:共産党の権力を笠に着る看守たち)自身の人間
      としての弱さを何度も思い出させることになった。[1,p244]
  
   アデさんやダライ・ラマ法王の戦いは、まさに人間の尊厳をか
  けたものです。
  
   読者からのご意見をお待ちします。本メールへの返信で届きま
  す。掲載分には、本誌総集編を差し上げます。

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