政治・経済

頂門の一針

急所をおさえながら長閑(のどか)な気分になれる電子雑誌。扱う物は政治、経済、社会、放送、出版、医療それに時々はお叱りを受けること必定のネタも。

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頂門の一針5206 号  2019・10・23(水9

2019/10/23



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 わたなべ りやうじらう のメイ ル・マガジン「頂門の一針」5206号
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       2019(令和元年)年 10月23日(水)



        ソロモンのツラギ島を中国は:宮崎正弘

                  3度の失脚と復活:渡部亮次郎
    
       「専門家」に勝つのは「勇気ある素人」:和田憲治

                     
                      話 の 福 袋    
                       反     響
                      身 辺 雑 記

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ソロモンのツラギ島を中国は
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
令和元年(2019)10月18日(金曜日)弐
         通算第6241号  
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 ソロモンのツラギ島を中国は軍港化する野心
  台湾断交の代償=鉱山開発の裏に潜む中国の途方もない野望
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 英国系メディアが一斉に伝えている。したがってシンガポールと豪のメ ディアも大きく扱うニュースである。

 9月16日、台湾と断交し中国と国交をひらいたソロモン諸島だが、 「いったい何と取引したのか」と外交筋は情報収集に躍起だった。外交の 連鎖は、南太平洋の島嶼国家にドミノがおこり、三日後にキリバスが続い た。その次はツバルと言われたが、ツバルは台湾断交を思い留まった。

 英国はMI6で知られる情報大国。そのうえ「ファイブ・アイズ」 (米・英、豪、加、NZ)が情報を共有する。この筋から漏れてきた情報 は「中国がソロモン諸島のツラギ島に目を付け、軍港化への布石を打ち始 めた」とするものだ。

 小誌で既報(下段に再録)のように、中国は8億2500万ドルの援助 で、鉱山開発プロジェクトを持ちかけ、ソロモン政府は、その巨額を前に 目が眩んだ。だが「見せかけの巨額にだまされ、実際にはプロジェクトは 実現せず、のこる借金は返済できず、結局、港を担保に取られる」と豪の シンクタンク「ローリー研究所」は言う。
 
 事実、スリランカのハンバントタ港は99年リースで軍港化し、パキス タンのグアダール港は43年リース、ジブチは中国に一万人規模の軍事基 地を提供した。
 
 フィリピンのクラーク空軍基地とスビック湾からアメリカ軍が撤退した あと、真空状態となった南シナ海に、中国は七つの島を造成し、そのうち の三つに滑走路、レーダー基地にミサイルも配備した。
 
南シナ海は「中国の海」と化したように、いま中国の野望は南太平洋の 島々に向かっている。

 さてソロモンのツラギである。この島が戦略的要衝であることは、国際 政治では常識であり、西隣のパプア・ニューギニアにかけて大東亜戦争で は日本軍と連合軍との壮烈な戦いの現場だった。

 ソロモンの中心はガダルカナル島。その「首都」はホニアラ。このホニ アラから40キロ北に浮かぶツラギ島は深海。この間に流れるのが「アイ アンボトム海峡」である。
 この海域には日本海軍の艦船が二十隻近く沈んでいる。連合国側も二十 数隻が沈んでいる。ガダルカナルを巡っての激戦があった。

 ツラギには日本軍が開いた軍港、水上飛行機の拠点でもあり、日本軍兵 士およそ800名は、一部の捕虜を除き全滅した。
そのツラギに、中国は鉱山開発を持ちかけていた。台湾との断交前日に、 中国とソロモン政府は、開発の覚え書きに署名を済ませていた。
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(再録)「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」令和元年(2019)10 月10日(木曜日)
 裏切りの代償は8億2500万ドルの金鉱山開発だった
  ソロモン諸島、中国と国交、台湾と断交。米・豪は激怒
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 中国語のソロモン表記は「羅門群島」である。10月8日、ソロモンの ソガバレ首相が32名の訪中団を率いて北京を訪問し、翌日に習近平主席 と会見した。中国は「ソロモンは一帯一路の海のシルクロードの拠点」と 持ち上げ、8億2500万ドルの金鉱山開発を発表した。ソロモンが世界 史で名前を見かけるのはスペイン冒険家が初めて上陸し、砂金を発見した からだ。欧州でひろく信じられていた「ソロモンの秘宝」が、この群島に あるという裏付けのない噂が広がった。実際にソロモンには金鉱山がある。
 9月16日にソロモン諸島は台湾と断交した。国内では野党が猛反発し た。トランプ政権は激怒し、訪米したソロモンの副首相に対して、ペンス 副大統領は面会を拒否した。その直前の9月13日に、ソロモンの外務大 臣は台湾を訪問して、蔡英文総統と会見し「両国関係は良好であり、外交 関係は維持される」と発言していたのである。
 ソロモンの野党指導者は「これでソロモンは中国の植民地化しているこ とがわかった」と批判を強めた。ソガバレ首相は、この四月の首相となっ たばかりで、ソロモンの国民は中国に嫌悪感を抱いており、逆に台湾には 親しみをもっている。2006年にはガダルカナル島にある首都のホニア ラのチャイナタウンで反中暴動が起こり、華僑系商店が襲撃されて九軒が 破壊された。
 ソロモンでは中国人が土地を購入したり、パスポートを裏から手を回し て取得したり、怪しい行為が展開されており、この現象はバヌアツ等も同 じである。また西隣のパプア・ニューギニアが親中派に転び、ポート・モ レスビーの港湾近代化工事を中国が行っている。
パプアには大々的に中国資本が投下されている。すでに六月頃から断交の 噂が広がり、豪首相はソロモンへ飛んで、188億円の経済援助を約束し た。これは「焼け石に水」だったのか。
   
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1972回】                
 ――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(9)
田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)

   ▽
 『臺灣訪問の記』には、これまで見てきた「臺灣訪問の記」(全204 頁)の後に「附録 臺灣統治策」(全69頁)が付されている。田川によれ ば「これは、私の三十年前の作」であり、旧知の乃木將軍が台湾総督に任 命された際、「不圖、臺灣統治に關する卑見を、將軍の參考に供してみた い」と考えて纏めたもの。
「將軍からは讀み終つた、注意して讀んだが大體同感だ」との返事をも らったと言う。

 乃木が第3師団長(中將)から第3代台湾総督に就任したのは明治 29(1896)年10月。同年5月に田川は台湾に渡り、主筆として『臺灣新 報』に職を得ている。「臺灣統治策」は翌6月に『大阪毎日新聞』主催懸 賞論文の第2席となり(賞金100円)、翌年4月10日から15日の間に6回に 分けて同紙に連載されている。

ところで乃木の総督在任中に亡くなったご母堂の墓石が台北の都市再開 発の際に見つかったことがある。
四囲を板で囲み家屋の柱として使われていたと記憶するが、いつ、誰の手 でそうなったかは不明だが、墓石を板で囲い柱にするなどという発想は日 本人にはない。

 乃木(任期は1年4カ月)の前任の桂太郎は第2師団長からの転出で任期 は4カ月。乃木の後任は児玉源太郎で確か乃木と同じ第3師団長からだっ たはず。着任は明治31(1898)年2月で任期は8年2か月と長期だ。
台湾総統のまま陸軍大臣(第4次伊藤内閣)、内務大臣兼文部大臣(第1 次桂内閣)、参謀本部次長、満洲軍総参謀長、参謀次長事務取扱などを歴 任し、明治39(1906)年4月に台湾総督兼参謀次長事務取扱から参謀総長 に異動。南満州鉄道創立委員長就任から10日後の同年7月23日に脳溢血の ため急死。享年僅かに55歳。

 こう簡単に後半生を追っただけでも、児玉もまた明治と言う時代の骨格 を造った重要人物であることが容易に想像できる。おそらく、その早すぎ た死が彼を逸早く忘却の彼方に送ってしまったのだろう。かりに早い死が なかったら、児玉はその後の日本の柱となって黙々と歩いていたに違いない。
余りにも短いが、極限にまで凝縮された人生だったと思う。

 田川は、「將軍からは讀み終つた、注意して讀んだが大體同感だ」と伝 えられたと田川は綴る。素直に読めば、総督としての台湾統治に関する乃 木將軍の方針を示していると言えそうだが、新聞記者への社交辞令として 「大體同感だ」と伝えたとも考えられる。

 田川は「私の主張する根本の方針は」、30年前に乃木將軍に献策した当 時とは「何等の相違がありません」。30年前の主張――「臺灣の先住者を、 早く官吏に採用せよ」、「臺灣の民兵を組織せよ」、「自治」と「臺灣議 會」を認めよ――は、30年後も変わっていない。ということは30年間の日本 統治を経ても、「私の主張する根本の方針」は実現していないことにな る。ならば30年間の台湾統治は、いったい、なんであったのか。なにが原 因となって「私の主張する根本の方針」は実現するに至っていないのか。

 30年前に田川が考え、総督着任を前にした乃木將軍が「大體同感だ」と 口にした「私の主張する根本の方針」が、じつは台湾の現実を無視した単 なる理想論でしかなかったのか。それとも「私の根本の方針」を実現させ ないような条件が、台湾側(在住日本官民、台湾社会など)にあったのか ――こう考えると、あるいは田川が掲げる「臺灣統治策」の検討を通じて、 日本の台湾統治の未知の部分、いわば現在に伝えられてはいない部分に光 を当てることが出来るかも知れない。

 田川は「一、日本が臺灣を支那より得た原因」「二、近世殖民に關する 外國の態度及び形成」「臺灣の人民は、將來に於ても尚ほ現在の臺灣人即 ち支那人なるべきか、將た現在移住しつゝ日本人なるべきか」の3点から 考察を始める。
 そこで最初の問題だが「日本が方今の世界的潮流に順應し」たからだと 捉えた。
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 読者の声  どくしゃのこえ  READERS‘ OPINIONS  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
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(読者の声1)貴誌、このところ香港騒擾の分析が多いですが、この記事 を集めた一冊をお考えなのでしょうか?
 もしそうでしたら類書がありませんので期待したいところです。
   (FD生、浦和)

(宮崎正弘のコメント)香港問題を半分くらいの中国シリーズ、11月下 旬刊行予定ですが、くわしくは追って。
    

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3度の失脚と復活
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  渡部 亮次郎

ご承知の如く私は中国については国交回復のとき、記者として田中総理に 同行し、6年後は福田内閣の外務大臣園田直の秘書官として日中平和友好 条約の締結に関与した。

振り返って日中関係の主人公は中国では毛沢東主席であり周恩来総理だっ たが、隠れたる主役がトウ(鄧)小平だったと思う。だから産経新聞連載 中の「トウ小平秘録」を夢中で読みながら、彼に生涯初めて厭がる鮪の刺 身を食べさせたことなどを思い出している。

周恩来は日本に留学するがトウは16歳でフランスにわたる。1927年に帰国 し、ゲリラ活動を開始。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無 計画な李立三路線に振り回される。

1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソ ヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。

しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部 は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従う鄧小平を失脚させる。 これが生涯3度の失脚の1回目。

鄧小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗(数千万人の餓死者)以降、 次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が 政務の第一線を退いた後、共産党総書記となっていた鄧小平は国家主席の 劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとら れ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」と 批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌 年江西省南昌に追放される。これが2度目の失脚。

そこでは政治とはまったく無関係なトラクター工場や農場での労働に従事 した。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げ るが、鄧小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺に までは至らず、一命を取りとめた。トウ氏はせっせと毛沢東に助命嘆願の 手紙を書き続けた。

1972(昭和47)年9月の田中角栄総理による日中国交回復交渉に同行取材し たとき、トウ小平の名は誰の口からも出なかった。出せば毛沢東の怒りに 触れ、命を失うかもしれないから当然だった。

漸く1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰する。73年4月、カンボジア のシアヌーク訪中レセプションで副総理の肩書きで出席して2度目の復活 がわかった。

しかし1976年4月には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1 次天安門事件によって3度目の失脚。毛沢東夫人江青らの陰謀だったこと がのちに分る。

いずれ広州の軍閥許世友に庇護され生き延びる。同年毛沢東が死去すると 後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後1977年7月 に生涯3度目の復権を果たす。

中国では政治家や軍人の動静や異動についていちいち発表がないから、在 中日本大使館といえどもトウ小平3度目の復活の確認作業をどのようにし ていたかは知らない。

しかし、個人的に廖承志氏とのパイプを維持していた官房長官(当時)園田 直氏は早くに知っていた可能性がある。日中平和友好条約の締結に極めて 積極的だったからである。

日中国交回復してから既に5年になろうと言うのに両国の政治・経済関係の 憲章となるべき日中平和友好条約が中国側の頑なな態度によってなかなか 締結できない。その中にあって福田内閣の官房長官園田直だけが早期締結 を唱えて自民党内右派の非難を浴びていたほどだ。

77(昭和52)年7月に復活したトウ小平は、秋には党副主席、78年春には第1 副総理、全国政協主席に選出された。一方の園田は77年11月には官房長官 から外務大臣に追われて就任。
そこで中国育ちの武道家をしばしば旧知廖承志の許(もと)に派遣。その結 果、中国政府がトウ小平副総理の下、条約の早期締結にカジを切り替えた ことを確認する。

私は外相秘書官とはいえ、元は一介の政治記者であり、但し外交について は素人である。

だが、条約締結の見通しについて福田総理と園田外相の間に決定的なミゾ の広がりだけは痛感するようになっていた。トウ小平の存在を知った外相 と全く知らない総理。総理には外務省情報しか入っていない。

トウ小平の胸には既に経済の改革開放路線が出来上がっており、そのため には日本の資本と技術の導入が不可欠であり、更にそのためには日中平和 友好条約の早期締結が不可欠だったのだ。日本外務省はそこを読めなかった。

中華人民共和国は共産主義国家であるが、それは極端な独裁的人治国家で あることを見抜いていなかった。トウ小平が以後1997年2月19日の死に至 るまで中国を振り回す人物であることを見抜けなかった。

3度の失脚、3度の復活。地獄から這い上がったと思ったら失脚。さながら ジェットコースターのような人生の中で人生と人間と言うものの本質をや や究めた人物トウ小平。彼は毛沢東を乗り越えた。

毛は死体となっても水晶の箱で薬品漬けで君臨しているようにしている が、トウの遺骨は胡錦濤の手で上空に撒かれて墓はない。文中敬称略 参 考:ウィキペディア他2007・06・22


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「専門家」に勝つのは「勇気ある素人」
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              和田憲治


▼特典は本日最終。「専門家」に勝つのは「勇気ある素人」


渡部昇一先生は、
上智大学で教員としてのキャリアをスタートした時、
安保闘争の真っ只中でした。

1,安保反対はオカシイ

世間は安保反対です。
国会議事堂前を占拠する学生だけでなく、
朝日をはじめとした大手新聞テレビメディアには、
安保反対の進歩的知識人たちであふれました。

彼らは、連日、安倍首相の祖父・岸信介首相の
安保改正の大批判です。
どう考えても日本にとって良い政策なのに
大反対のオンパレードなのです。

どう考えても岸首相のほうが正しい。

そこで、「岸信介を励ます会」的なのをつくったが、
賛同者も少なく、渡部先生の運動下手でもあって、
励ましの手紙を書くくらいで
終わったそうです。

2.朝日新聞はオカシイ

続いて、1971年に起きた林彪事件
ってご存知ですか?

文化大革命後に毛沢東と反目していた
林彪が死亡した。
限りなく暗殺に近い形の事件ですが、
当時、世界の新聞では報じられていました。
ところが、中国共産党への深い愛からか、
共産党への忠誠からか、
それともすでに「中国共産党の奴隷」だったのか、
朝日新聞は中国共産党の闇を報じたくないため、
林彪は生きていると報じていました。

英字新聞を読んでいる渡部先生は、
林彪は死亡しているのに、
それを隠す朝日はオカシイと
「諸君!」に書いて、言論誌デビューしました。
それから渡部先生の言論界での活躍がはじまったわけです。

ここで整理しますと、
渡部先生は図書館のような自宅で生活をしている人で、
多方面に深い知識はあります。

しかし、専門は「英文学」でした。

大学、学会には偉い「政治学」の先生たちがたくさんいます。
安保の政治評論だって、東大法学部の偉い教授がたくさんいる。
「政治学」の専門家ですよ。

朝日「大」新聞は、メディア界の大権威です。
そして、日本のジャーナリズム界の頂点でした。

現在は夕日新聞なんて言われるくらい
朝日の権威はありませんが、
当時の朝日新聞は
大学教授をひれ伏させるどころか、
簡単に潰すことができますし、
実際に自殺に追い込むくらいの力はありました。

3,専門家が間違っている

政治の「専門家」でない、
ジャーナリズム、言論の「専門」でない、
渡部先生が朝日新聞批判をしたのは
私にはとても表現する力がないのですが、
当時、誰もできない「勇気のある素人の行動」だったのです。
(載せた文藝春秋社も当時はすごい)

専門家が権威をかざしていても、
間違っていると思うことは主張すれば、
それが風穴を開けることができる。

実際、渡部先生のこの「勇気ある告発」言論は、
固い信念とともに死ぬまで続き、
日本の保守言論界の屋台骨になったわけです。

ここで、大手メディアの「言論オピニオン」や
東大法学部を頂点とした「政治学」は、
まったくカスだったとしかいいようがありません。

私は渡部先生の爪の垢を煎じて飲んできただけですが、
政治を専門に勉強もしてませんし、
大手メディアで仕事をしたこともありません。
しかし、こうは言えます。

朝日を頂点とした言論界、
東大法学部を頂点とした政治学者たち、
彼らのほとんどは間違っていると。
中国共産党に忖度していると。
すでに奴隷と化した『忖度の専門家』ではないか!
こちらが素人であっても見識では勝っているのです。

奥山先生と『トリプル・インベージョン』音声講座を
つくったのは、この日本国内の中国忖度文化に
風穴を開けなきゃいけないと思ったからです。

みんなが確信をもって、
反日メディアや売国政治家を批判することが
できれば、この国は変わってくると思います。

あなたが、私と同じ『素人』であったとしてもです。
一人でも多くの人に、「日本にとって良い側」に
加わって欲しいのです。

実は、今、香港にいます。
10月1日は、中華人民共和国のできた国慶節です。
今年はその70周年記念の年です。
香港人は自由を賭けてデモを行っています。
北京の犬、奴隷である警察と市民は戦っています。

香港の俗語で、政治的無関心は『豚』です。
国民や市民が『豚』であった代償は大きい。

素人であっても政治に関心を持ち、
小さな行動を行えば、
『豚』から『中共の奴隷』になることから
脱却できるかもしれません。

『豚』から『勇気ある素人』にならないと
すでに奴隷と化した『忖度の専門家』たちから
人生の主権を奪うことはできません。

このメルマガを読んだり、番組を見てくれている人は、
大手メディアの『忖度の専門家』たちよりは
すでに、見識では上だと思います。

日本のサイレントインベージョン序章と
香港情勢の特典付きは本日までです。
 
     
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重 要 情 報
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◎秋時雨も天の清めの即位礼  (北村維康)

オウム真理教と日本国憲法真理教との相似点

オウム真理教は日本破壊を目指した。日本国憲法真理教も、同じく日本破 壊を目指してゐる。それは、日本を骨抜きにして外国からの侵略に対して 無防備にさせようと意図したことから明らかである。 

以上


☆番外編 アジアから出戻って☆

第33回

帰って来た。
つまり、生活拠点をまた日本に移した。
子供たちは転校。
年齢的に、親しい友人を得、習い事に勤しみ、社会の一員として活発
になってきていた上の子供たちふたりは、意外にも気落ちせず変化を
受け入れてくれた。ネット社会の恩恵もある。 

物理的に離れても、簡単に会話が出来るし、互いの訪問を楽しみに
することも出来る。 
この先誰とどこで再会するかもわからないし、縁がある人とは意外な
ほどに顔を合わせるものだ。 10年前に同じ都市にほんのひととき住
んだだけで、後はずっと別の国にいるのに、以来ずっと年に2〜3回は
家族で会っている友人がいる。 

同じ国に住んでも、それほどの頻度で家族ぐるみの付き合いをする
相手はそう多くはない。 縁なのだろう。 
普段の生活が離れているから話せる悩みもあり、人生はなかな
か複雑だ。

引っ越ししたら毎度することは家探し学校探しだが、そこは日本。 
家は元の家。 学校も同じところに戻る。 となれば習い事の手配と
医療系のチェックアップのアレンジのみ。忙しいながらも比較的イ
ージーモード。 一気に新しい環境になると、それなりに摩擦もある。 
日本の水泳環境にはビックリさせられた。

人口に対しプールが少なく、浅くて狭い。古い施設が多いから仕方がない けれど、改善されない原因の一つとして、浅いプールを好む保護者が多い のだそうだ。
私は声を大にして言いたいのだが、浅くても溺れる。
浅いと油断するし、飛び込んだ時の事故率は上がる子供の適応力は素晴ら しいから、最初から足がつかないのが当たり前の環境に居れば、それで慣
れる。浅いプールの方が絶対に危険だ。 そういう風な認識が広ま
れば、プール授業で怪我をする人が減るのではないかと思う。

環境の違いは仕方がない。 日本の楽しいこともたくさんあるのだ。 
居心地がいいと感じられる場所、人々となるべく付き合い、そこで出
来る限りのことをするしかないのだろうと思う。 
場所を移るたび、新しい人間に会う。合わないなと感じることも当
たり前にある。なんでそうなるんだろう、そんな言い方ってあり? 

日常でよくある摩擦。自分のなかで、出来事を反芻して、怒るべき
と反省すべきを仕分ける。怒りは更に、飲み込むべきと抗議すべき
かを仕分ける。多くの場合は時間の経過とともに飲み込めるように
なる。 この作業を繰り返していれば、最後に残るのはまともに受け
止めるべき人々と物事だ。

シドニーに引っ越したときも、日本で暮らした日々も、シンガポール
も香港も昔のシドニーも、暮らし難い北京さえもそうだった。
次の暮らしも、よい学びがありますように。


━━━━━━━
身 辺 雑 記
━━━━━━━
23 日の東京湾岸は、やっと晴れ、久しぶりに爽快。

22日の東京湾岸は朝のうちは雨。散歩は午後回し。

都立猿江恩賜公園から見る東京スカイツリーは綺麗だった。


                     読者:6003人




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創刊日:2004-01-18  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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