政治・経済

頂門の一針

急所をおさえながら長閑(のどか)な気分になれる電子雑誌。扱う物は政治、経済、社会、放送、出版、医療それに時々はお叱りを受けること必定のネタも。

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頂門の一針5168 号  2019・9・15(日)

2019/09/15


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 わたなべ りやうじらう のメイ ル・マガジン「頂門の一針」5168号
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       2019(令和元年)年 9月15日(日)



        昨秋以来、習近平から笑顔が消えた:宮崎正弘

               「風立ちぬ」の命日:渡部亮次郎

       痛い!惜しい!河野太郎外相:山岡 鉄秀   
     
                      話 の 福 袋    
                       反     響
                      身 辺 雑 記

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昨秋以来、習近平から笑顔が消えた
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
令和元年(2019)9月14日(土曜日)
         通算第6194号  
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昨秋以来、習近平から笑顔が消えた
追い込まれ、つるし上げられ、孤独のなか、香港問題で戦術的後退
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最初のスローガンは「反送中」だった。たとえ容疑者と言えども、ちゃん
とした裁判が行われず、法治がない中国へ送還してはいけないという要求
だった。
 
97年の約束事は「一国両制度」。香港人にとっては「港人治港」(香港
人が香港を治める)と錯覚したが、選挙は擬制の民主政治だった。

民主化要求のデモ隊は「逃亡犯条例」の撤回を勝ち取ったが、これからの
裁判を前にして、「独立した第三者による調査委員会の設置」から、収監
中の活動家の全員釈放、そして「普通選挙」を呼びかける5つの要求をな
らべ、「五大訴求、欠一不可」(五大要求のうち一つでも欠けたら駄目)
となって恒久的闘争を宣言している。
 
この標語は駅の外壁から街のビル壁など、いたる所で大書されている。
 香港での異変、騒擾。乱闘、狼藉。しかし暴動につきものの商店襲撃、
略奪は発生しておらず、治安は保たれている。

武装集団にも一定の掟のような秩序が存在しているようだ。彼らはヘル
メットにマスク。お互いに誰が誰かを知らない。指導者がいないという点
でも、フランスで昨秋来つづく黄色のベストによる抗議行動と似ている。

民主派からみれば香港政庁は名ばかりの旧態依然の体制でしかなく、国民
が全体主義の支配者によって監視され、冷酷に静かに支配される現状を突
破するたたかいであり、体制翼賛会的な中国同調派や親中派から観れば、
警官隊に火炎瓶を投げ、鉄パイプや長い棒で戦う武装集団は「暴徒」と総
括される(火炎瓶を投げている過激派は、デモ隊に混入した中国の工作員
という説が有力)。

香港メディアの論調は鮮明に別れ、中国よりの「文わい報」は「暴徒害
港」と書いたが、自由民主擁護の「リンゴ日報」は、「怒火闘争」と書い
て、火焔瓶も放火も、怒りの結集と比喩し、デモ隊の要求は「港人求美懲
中共」(香港市民は米国に対して、中国共産党を懲罰するように求めてい
る)とした。
 
香港空港には数千、数万の香港市民が座り込み、国際線の欠航便が相次い
だため、国際的関心事となった。世界から現在、およそ七百人前後の
ジャーナリストが押し寄せ、地元のメディアとテレビを併せると千数百の
報道陣が蝟集している。

ところが、警官隊がPRESSにも暴力行為をふるったため、香港警察は
ジャーナリストの大半を敵に廻してしまった。

外国メディアで香港政庁の遣り方を支持する論調を見つけるのは至難の業
である。ところが、大陸のメディアは香港の民衆が「反米デモ」をしてい
ると報じている。

取締まりに当たった香港警察の発表(9月10日)によれば、負傷した警
官は238名に及び、また使用した「武器」は、催涙弾が2382発、ゴ
ム弾が492発、スポンジ手榴弾が225発、ビーチバックが59個。そ
して実弾は3発だったという。


 ▲共産党にとって、中国王朝にとって妥協は「犯罪」である

香港へ年間3千万人とも言われた観光客の足は遠のき(もっとも2千万近
くは中国大陸からの買い物客)、土産屋、デューティ・フリーの売り上げ
は激減。ブランドの旗艦店、たとえばブラドなどは店じまいの態勢には
いった。

空港へいたる電車の駅でも座り込み、ハイウェイにはバリケード。このた
め渋滞が起こり、空港は閉鎖寸前。旅客はそれでも辛抱強く再開を待ち、
抗議行動への批判はなかった。

金鐘駅から湾仔、中環という香港の心臓部には政府庁舎、官庁街、巨大商
社の高層ビルが林立し、五つ星ホテルが豪奢を競っている。ビルとビルと
は回廊が結び、ビルの谷間には緑オアシスのような公園が点在している。
これらの地下鉄駅は、券売機も改札も、案内板も、そして防犯カメラも破
壊され、出入り口は閉鎖された。

中国共産党は、「弾圧か、妥協か」の二者択一を迫られ、まずは十月一日
の建軍パレード前に事態を収めようと、突如、林鄭月峨行政長官に命じ
て、「逃亡犯条例」を撤回させた。

直前に国務院の香港マカオ弁事処主任と香港政庁との打ち合わせでは埒が
あかず、常務委員会は担当だった韓正を担当から外し、王岐山が香港との
国境に派遣された。

しかし中国皇帝のメンタリティから言えば、妥協とは犯罪である。妥協と
は見せず、戦略的後退を図ったが、それがたとえ戦術であるにせよ、中国
が帝国主義的覇権を求めるという究極の戦略は微動だにしていない。

それゆえ逃亡犯条例撤廃など、目先の誤魔化しと見抜いた民主派は一斉に
「5つの要求のうち、ひとつでも欠けては行けない。最後まで逃走を続け
る」と宣言し、警官隊の凶暴性を帯びた弾圧に怯まず、集会、デモ、授業
ボイコット、人間の鎖、国際社会へ訴え続ける。

そこで「親中派」や中国共産党の「第5列」は戦術を変更した。

歌声広場の演出というソフト路線である。香港の随所にある巨大ショッピ
ンモールの吹き抜けロビィに大きな五星紅旗を掲げ、愛国的な革命歌の合
掌を始めた。

一方、民主派は同じショッピングモールに集会場所を変えて、賛美歌や広
東ポップなど。呉越同舟という奇妙な空間が生まれだした。サッカー予選
で、スタジアムを埋めた数万の民衆は、突如鳴り響いた中国国歌に激しい
ブーイングを繰り出し、「われわれは香港人」「中国ではない。中国の国
家を演奏するな」と叫んだ。

 ▲「香港市民」の政治観、国家観、歴史観、人生観の大変化

筆者が不思議と思ったことは幾つかあるが、最大の関心事は香港の新しい
世代が物怖じしないという人生観、その世界観の異変(というよりグロー
バル化)、共産党の暴力を怖れずに、民主主義のために戦うとする姿勢を
崩さないことである。
 
拘束された若者らには裁判が待ち受け、法廷闘争が長引くだろうし、就職
には不利になるだろう。それでも彼らが立ち上がったのだから、そこには
或る決意があったことになる。

半世紀前、筆者が最初に香港に足を踏み入れたとき、異臭がただよい、
人々は半裸。うちわで涼み、汗の臭いが街に充満していた。

自転車が主流でタクシーはオースチンかベンツだった。アパートは貧弱で
薄汚れ、エアコンを備えたビルは少なく、若い女性もサンダル、化粧もせ
ず、粗末な衣服を身につけていた。

中国大陸から着の身着のままで逃げて来た世代である。香港財閥一位と
なった李嘉誠は広東省の北端、潮州から難民として香港へやってきた一人
だった。かれは、今回の騒擾を「暴力はやめよう、お互いに冷静に」と新
聞に意見広告を打った。

1970年代に香港は落ち着きを取り戻し、経済活動に邁進し、儲かる話なら
なんでものった。蓄財が一番、政治には無関心を装い。ともかく金を貯
め、子供達をカナダや英国へ留学させ、いずれは香港から自由な国々に移
住するというのが香港人の夢だった。

 全体主義に立ち向かうという迫力はなく、北京の遣り方には背を向けて
いた。

当時、貿易会社を経営していた筆者は何十回となく香港へ通い、工業街の
プレス音、金属加工の飛び散る火花、町中でも黒煙が上がり、輸出基地と
して華やかだった。まったく公害対策はなかった。いまは工業街跡地には
高層マンションが建っている。自家用車もベンツが主流だったが、いまで
はトヨタ、BMWなどが疾駆している。

その時代に付き合っていた貿易相手の工場長や商社の人々は、カネをため
るや、豪、カナだ、そして米国へ移住していった。あの時代の貿易関係の
知己、知り合いは香港に誰もいない。まさに誰も香港からいなくなったのだ。

「全体主義の恐怖」を知っていたからこそ、かれらは自由に最大の価値を
見出し、香港の将来に早々と見切りをつけていた。「ここは永住する場所
ではない」と。

1980年代、うってかわって中国が「改革開放」を本格化させるや、まっさ
きに大陸に工場を造り、賃金の安さと土地の減免税特典に惹かれ、香港華
僑の多くが投資先を移しはじめた。

それでも1989年の天安門事件を目撃して衝撃を受けた世代は、97年返還後
の中国人民解放軍の進駐を懼れ、海外へ海外へと移住先を選定し、また英
連邦諸国は香港からの移民には前向きだった。

この時代に中国へ大規模な投資を敢行したのが李嘉誠だった。かれは王府
井の入り口に高層ビルを建てた。香港は江沢民派の利権の巣窟に化けつつ
あった。

 ▲自由への意思

天安門事件から30年の歳月が流れ去ってまた世代が交替した。

いまの高校生、大学生は感覚的にも教養的にも狭隘な中華思想などに拘泥
せず、国際化され、高層ビルの近代都市となった香港を生まれたときから
観てきたし、テレビは世界各国のニュースを流し、書店へ行けば習近平批
判本がうずたかく積まれ、携帯電話で地球の裏側とも結ばれている。

欧米の自由な制度に比べると規制が強く、息の詰まるような香港の政治制
度の矛盾を掌握しており、広東語を喋ることは軽蔑され、北京語という広
東人にとっては外国語が学校で強制されたことにも反感を強めてきた。

若者の中には「香港独立」を言い出す勇敢なグループも出現し、香港独立
党を旗揚げした。根拠は香港の知識人、徐承恩が書いた『香港――躁鬱な都
市国家』で、香港の原住民とは、ポルトガル、英国と痛恨してきた百越の
人々が構成し、『香港民族』と呼ぶべきだとする説である。

また中国大陸には結社の自由、信仰の自由、表現の自由がなく、そればか
りか政党は共産党以外認められず、自由投票はなく、人間性が押しつぶさ
れた体制のなか、庶民は全体主義支配に隷属していることを知っている。

人間本来の活動も、自由な言論も破壊されつくした状況を知っている。か
れらの感性が共産主義を受け付けないのだ。
あまつさえ香港社会の諸矛盾の筆頭は所得格差である。驚くべき数字だ
が、香港の『ジニ係数』たるや、0・539と、まるで中国なみである(中
国は0・62)。

大学の門は狭く、受験競争は日本より激しく、たとえ一流企業に就職でき
ても、これほどマンション価格が上昇すれば住宅取得も、そして結婚も難
しくなる。人生に明るい展望が希薄となった。


 ▲特権階級のいいとこ取りを許せない

ところが大陸からやってくる「太子党」のこどもたちは大学に裏口で入
り、コネで企業にあっさりと就職し、カネにあかせて豪勢な生活を営んで
いる。「特権階級のいいとこ取り」と映り、かれらは怨嗟の的となる。

すなわち植民地の宗主国が英国から中国に変わっただけではないか。若者
達の怒りは深く堆積していた。

この点で旧世代の香港人の意識とは異なる。とくに1967年の香港暴動は反
英国環状が爆発し、その背後で指令していたのは北京であり、周恩来が叛
乱を支持していた。

6月以来、香港での抗議集会やデモ、署名活動に参加している若い世代
は、共産党の押しつけた歴史教育を否定した。

中国共産党が流すフェイクニュースをすぐに見破り、共産党製のプロパガ
ンダはまったく受け付けなくなった。

アンチ共産主義の精神土壌が自然と築かれていた。

中国が目論んだ香港市民の洗脳工作は、みごとに失敗したと言って良いだ
ろう。

だから「生きるか、死ぬか」と悲壮な決意を以て全体主義と戦うのであ
る。欧米はそれを支援する。資金カンパ、応援部隊、プロパガンダのノウ
ハウが学生らに供与され、自由世界の知識人は香港支援に立ち上がった。
沈黙しているのは日本のエセ知識人くらいだろう。

また日本のメディアは中立が賢い行き方とでも思って、民主主義を守り共
産主義支配と戦っている香港の若者を前面的に支援しないのだ。日本が西
側の自由民主人権法治を価値観とする陣営にあるという自覚がないからで
あり、これが「中立幻想」に取り憑かれた現代日本人の知的劣化、あるい
は一国平和主義というエゴイズムの露骨な態度表現である。

      
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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW
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 陳独秀と胡適は共産主義を「民主、近代技術」の理想社会とした
  中国共産党は、ふたりの大知識人の功績をきれいに消し去った

佐藤公彦『陳独秀 その思想と生涯 1879−1942』(集公舎)
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「中国共産党の創設者」=陳独秀の存在はあまねく知られてはいない。陳
独秀の伝記に関して言えば、横山宏章のものを読んだ記憶しかない。胡適
は、台湾へ行けば選集も出ているが、日本では誰も相手にせず、研究者も
少ない。

つまりこの二人の大知識人は歴史に存在しなかったように忘れられた。革
命後、毛沢東が党の歴史から、陳独秀の名前を削除したからだ。
本書の副題は「胡適序言・陳独秀遺著『陳独秀の最後の見解(論文と書
信)』」となっているように序文を寄せているのが中国を代表した知識人
の胡適である。

しかし戦後、彼らの名を知る人はよほどの中国通である。孫文は大いに知
られるが誇大妄想的詐欺師という真姿はスルーされており、孫文の伝記は
美化された肯定的な面にのみ収斂され、プラス方面に一方的に歪められ、
なにか英傑のように日本では語られる。

革命の主役だった宋教仁(国民党の事実上の代表)も、黄興(辛亥革命の
主役)も語られなくなった。つまり現代中国史は、毛沢東が主役、本当に
革命をなした知識人や活動家は埋もれ木となって、歴史家いがい忘却の彼
方へ散った。

本書の肯綮は次の数十行が代弁している。

「胡適は失望させられた人だった。陳独秀は挫折させられた人だった。か
れらは『新しい文化と教育』の力によってあるいは『新しい階級』の力に
よって、旧い中国を『近代』的な社会・国家に生まれ変わらせようと奮闘
した。しかし新しい文化と近代革命を通した中国の近代的な社会・国家へ
の転型は結実しなかった。(その替わりに)王朝・帝国が再建された」

しかも「この『共産党』王朝・『大中華』帝国は、内に『少数』諸民族を
抑圧してその言語と文化を奪い、『人民の移動の自由』を農村戸籍制度で
奪い、人民の『宗教・思想・言論・出版の自由、集会結社の自由』を奪
い、IT・AI技術を駆使した『監視社会』を作り上げ、14億人民への
『個別人身支配』の完成を目指して邁進している(中略)。外では『一帯
一路』と言って金銭力と軍事力で周辺域を威圧しつつある」

要するに共産主義なるまやかしスローガンは歴代王朝のごとく帝国主義に
なるのである。

本書は浩瀚、それでも中国研究者には必読の文献だろう。
            
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読者の声  どくしゃのこえ  READERS‘ OPINIONS 
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   ♪
(読者の声1)御新刊の『地図にない国を行く』(海竜社)を、ようやく
拝読しました。特派員さえ足を踏み入れていない世界の奥地、そこに俄然
進出している中国企業の実態。現地の様子を活写されていて、感動を覚え
ました。

パプアニューギニアで展開されている中国の戦略的進出ぶりに合点がいき
ます。英国は旧大英連邦の国々を大切に考えており、コモンウエルズとし
ての豪州、ニュージーランドの利害にも中国が影響を与えている現実を前
に、英国海軍はいよいよ本格的に出て行かざるを得ない雰囲気があります。
自由航行作戦に空母を派遣していますが、本格化はこれからでしょう。
                      (NO生、千代田区)
  ♪
(読者の声2)貴誌の最近の訃音欄で、竹村健一氏、佐藤雅美氏、安部譲
二氏への追悼がありましたが、やはり先生が親しかったと推測しているの
ですが長谷川慶太郎氏への訃音が載りませんね。(TK生、茨城)


(宮崎正弘のコメント)およそ無縁の方です。90年代初頭だったか、光
文社カッパ・ブックスから2人の対談本の企画があり、「考えてみます」
と返事を遅らせている裡に、先方もためらいがあったのか、立ち消えた企
画でした。

志賀義雄の鞄持ちだった来歴からも真性の保守とは思えず、かと言って深
い学究的理論を元に構築された学説でもなく、長谷川氏の経済予測は最初
の「石油危機は突破できる」論いがい、ほとんどが外れでした。

とくにドルが新札を用意し、その配色も決まっているというすっぱ抜きの
長谷川レポートが『週刊文春』を飾ったとき、当時編集長だった田中健五
氏に電話をして、どの程度の信憑性があるのか、尋ねた記憶があります。
当時、貿易の決済現場にいた小生から言えば、あり得ない突拍子もない与
太話という認識でしたから。

 氏の予測の根幹にあるのは楽天的、明るい未来であり、日本人に希望を
持たせる。それが人気の秘密だったのでしょうね。佐高信が、「光の使
者」と揶揄したものでしたが。。。。

そういえば、或る政治家のパーティと飯島清氏の葬儀会場でお見かけした
ことがありました。 


             
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「風立ちぬ」の命日
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   渡部 亮次郎

5月28日。名作「風立ちぬ」の作者。20世紀の業病(号病)肺結核をモ
チーフにし、肺結核に倒れた堀辰雄の命日である。今から61年前、
1953(昭和28)年のことだった。

「風立ちぬ」という松田聖子のアルバムもあるが「立ちぬ」という感傷的
な語感を借りただけで、堀の作品とは無関係である。

堀 辰雄(ほり たつお)のことを知ったのは中学生の頃で、兄が読んでい
たのを勝手に読んだのかも知れない。死去した時は既に高校2年生。関心
は別のところに変わり、その死は知らなかった。

堀 辰雄は 明治37(1904)年12月28日、東京市麹町区平河町(現在は東京
都千代田区)で生まれた。 最終学歴は東京帝国大学国文科。

東京府立三中から第一高等学校へ入学。入学とともに神西清と知り合い、
終生の友人となる。

高校在学中に室生犀星や芥川龍之介とも知る。一方で、関東大震災の際に
母を失うという経験もあり、その後の彼の文学を形作ったのがこの期間で
あったといえる。

東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治や窪川鶴次郎たちと知り合う
かたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌にも関係し、プロレタリア文学
派と芸術派という、昭和文学を代表する流れの両方とのつながりをもった。

1930(昭和5)年に『聖家族』で文壇デビュー。 このころから肺結核を
病み、軽井沢に療養することも多く、そこを舞台にした作品を多くのこし
たことにもつながっていく。

1934年、矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を病んでいたために、翌年、
八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院する。しかし、綾子はその
冬に死去。この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材と
なった。

この『風立ちぬ』では、ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』を引用して
いる。このころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受ける。

王朝文学に題材を得た『かげろふの日記』のような作品や、『大和路・信
濃路』(1943年)のような随想的文章を書き始める。また、現代の女性の
姿を描くことにも挑戦し、『菜穂子』(1941年)のような、既婚女性の家
庭の中での自立を描く作品にも才能を発揮した。

戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代
の中にも多くの支持を得た。また、堀自身も後進の面倒をよく見ており、
立原道造、中村真一郎、福永武彦などが弟子のような存在として知られて
いる。

戦争末期からは症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、
信濃追分で闘病生活を送った。

代表作「風立ちぬ」は1936(昭和11)年から執筆、『改造』などに分載さ
れたのち38年4月野田(のだ)書房より刊行。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」とバレリーの詩句の引用をもって始め、リ
ルケの『鎮魂歌(レクイエム)』をエピローグに置く。

高原療養所とそこから山一つ隔てた「K村」とを舞台に、婚約者節子の病
床に寄り添い、やがて彼女に先だたれていく「私」が、死にさらされた自
分たちの生の意味と幸福の証(あかし)とを模索し、ついにそれらについ
ての確信を得ていく過程を描く。

婚約者矢野綾子の死という自らの痛切な体験を、詩情あふれることばのな
かで昇華し永遠の生の思想を訴えかけてくる点において、堀文学の代表的
名作となっている。
昭和28( 195年5月28日信濃追分(現・長野県北佐久郡軽井沢町)で死去
(満48歳没)2010・5・26
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  

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痛い!惜しい!河野太郎外相
━━━━━━━━━━━━━

┠──────────────────────────────── 痛い!惜しい!河野太郎外相のブ
ルームバーグ寄稿文を解析する!
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全世界のアメ通読者の皆様、山岡鉄秀です。

河野太郎外相が、韓国ホワイト国外し問題について
ブルームバーグ紙に寄稿したことが話題になっています。

これまで、日本の外務大臣が
積極的に海外発信したことは皆無に等しかったのですから、
画期的な試みだったと言えるでしょう。

ネット上にも河野大臣を称賛する声が相次いでいます。
外国人の友人から、「これでよくわかった」
と言われたという喜びの声もありました。

では、その河野大臣の寄稿文を分析してみましょう。

最初に私の評価の結論を述べると、
「これまでになく事実に踏み込んでいる点は評価できるが、
なんとも痛い点と惜しい点がある」です。

2019年9月4日
日韓間の真の問題は信頼−河野太郎外相

寄稿文はまず、現在の日韓関係が、
第二次大戦中の旧朝鮮半島出身労働者に関して、
1965年の国交正常化に伴って
両国間で結ばれた合意を韓国が一方的に反故にした為に
厳しい状態にあると述べ、続いて、
最近の韓国への輸出管理運用の見直しは
完全に別の問題だと強調します。

その後、実に8つの段落を使って
1965年の日韓請求権協定の内容と、
韓国が長く合意事項を認めていながら、
最近になって突然一方的に
反故にしてきた経緯を説明します。
これによって信頼関係が毀損されたことを訴えます。

しかしここで河野外相は再度、
ホワイト国外しが朝鮮半島出身労働者問題とは
関係ないことを明言します。
そして、この決定が安全保障の観点からのみ
行われたことを強調します。

簡素化された手続きの運用は
継続的な対話を前提としているのにも拘らず、
過去三年間韓国が対話に応じていないこと、
その間、韓国に関連する輸出管理をめぐり
不適切な事案が発生したことを述べ、
これ以上維持することが困難になったと説明します。

そしてさらに再びこの問題が
旧朝鮮半島出身労働者問題に関する報復でも
対抗措置でもないことを強調し、
その上で、韓国が輸出管理運用見直しへの報復として
GSOMIAを終了させると決定したのは的外れで、
北東アジアの安全保障環境を
完全に見誤っていると指摘します。

いかがでしょうか?
これまでになく事実関係を
明確に説明していると言えるでしょうか?

いわゆる旧朝鮮半島出身労働者問題について、
次のように明言したのは評価できるでしょう。

「…日本側からは、個人に対する支払いを提案したが、
韓国側は、国として請求した上で、
日本から受領した資金の分配は
韓国政府の責任で行うと明言した」

やっと言ってくれたか、という感じです。
これを読んだ外国人は、
「なんだ、韓国政府に責任があるんじゃないか」
と思うでしょう。

また、ホワイト国外し問題について、
韓国政府が必要な協議に
三年間も応じなかったことを明記したのも良かったでしょう。
私自身、月刊Hanada10月号掲載の記事で、
この事実を強調することの大切さを主張しています。
(逆に言えば、3年間も放置したのは怠慢ですが)

このようにいい点がある一方で、
私が思わず「イタタタタ!」と叫んでしまった部分と、
「惜し過ぎる!」とため息をついてしまった部分があります。

まず、「痛い」部分です。

韓国が1965年の日韓請求権協定を
長らく認めていたことを説明するために、
韓国側の認識をそのまま記載しています。

「40年後、2005年8月に、韓国政府は、
日本から無償資金協力として受け取った3億ドルには、
『強制動員』に関する『苦痛を受けた歴史的被害』
の保証も含まれていることを再確認している。
それによって、韓国政府は、
受領した無償資金のうちの適切な金額を
そのような被害者の救済に使わなければならない
道義的責任を有することを明確にした」

この、“『強制動員』に関する
『苦痛を受けた歴史的被害』の保証”という表現は
あくまでも韓国側の認識であり、
これをこのような文脈で外務大臣が引用してしまうと、
読者は「朝鮮半島出身労働者の全員が
強制動員の被害者であったことは事実で、
日本国が正式に認めているのだ」
と解釈してしまうでしょう。

ちなみにこのくだりの英訳は
“historical fact of suffering
 of the victims of forced mobilization”です。

つまり、韓国側が合意の順守を
明確にしていたことを強調する意図で、
逆に歴史的事実に関しては
韓国側の主張を全面的に認めてしまっているのです。

実際には強制性を伴う徴用が実施されたのは
1944年9月からで、日本に来た朝鮮人労働者の数は、
自発的な出稼ぎ労働者の方がずっと多かったのですから、
そのことを明確に述べずに
韓国の認識を無批判に引用するのは手痛い失敗です。
私が河野外相の原稿をチェックする立場にいたら、
必ずこの部分を書き直したでしょう。

あるいは、河野外相は、
この韓国の認識を支持しているのかもしれません。
記事では「徴用工」という言葉を使わず、
「朝鮮半島出身労働者」という言葉を使っているのに、
この不用意な引用で無意味となってしまいました。

次に「惜しい」部分です。

ホワイト国から外した理由について、
河野外相は次の2点を挙げています。

1:過去3年間、優遇措置の前提となる協議に応じてこなかった。
2:その間、韓国の輸出管理をめぐり不適切な事案が発生した。

この二番目のポイントも極めて重要なのは言うまでもなく、
大いに強調すべきですが、
日本政府はなぜかこの部分を曖昧にします。
あまり明確にすると、手の内を明かすことになる
と考えているのかもしれませんが、
韓国側で公表された公文書に、
軍事転用可能な戦略物資が北朝鮮と
関係の深い国に流れていた例が明記されていたのだから、
そのことを最大限活用すべきと思いますが、
非常に控えめな表現しかしません。

これでは、いまひとつことの重大性が伝わらず、
説得力に欠けます。
なぜこんな控えめな表現しかしないのか、
理解に苦しむところです。

というわけで、従来にない積極性と
論理的な説明努力は高く評価できますが、
私の観点からは「痛い」「惜しい」部分がある、
という分析結果となりました。

事前に見せてくれたら意見できたのですが…。


           
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重 要 情 報
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◇◆◇写真映像情報網◇◆週刊AWACS 2019年9月15日◇◆◇◆◇

▼唸声一言/戦犯企業って何でしょうか?

戦犯ステッカーを貼ることを認める条例をプサン市や京畿道議会で決めました。なんともおぞましい条例です。常日頃から差別だ差別だと大騒ぎする人たちが、戦犯ステッカーを貼って反日ヘイト差別するのですから!


そもそも戦犯企業とは何でしょうか?反日ドーパミンが作りだした言葉でしょうか?それとも、慰安婦を性奴隷と言い換えた反日日本人の知恵なのでしょうか?旭日旗も戦犯旗と呼び、これからも新造語は際限なく増えていき、日本のすべてを戦犯**と呼ぶようになるのでしょう。


騒ぎ方と言いステッカーを貼るなどナチがユダヤ人にやったことと何が違うのでしょうか?現在の政権と次期政権がこのまま韓国民を煽り続ければ、こうした悪意はいずれ収拾が付かないところまで行きつく筈です。そうなった時にすべての責任は日本にあると言いきれますか?


世界が異常な国家である韓国を見ています。嘘八百を並べ立てても(これも異常)、やっていることがこうした異常な差別を国家が推進すれば、それはリベラルな国連では通りません。そうした国連にしたのも韓国なのですから。


ちなみにホワイト国外しに対する報復なのでしょうが、この戦犯ステッカー条例案はホワイト国外しのずっと前から議会に出されていました。


今後、日本企業が韓国に進出することはほぼゼロとなるでしょう。どんなクレームを付けてくるか分かりませんからね。日本企業の撤退も始まっています。在韓米軍にも韓国議員が文句を付けており、これ以上の米韓悪化は、戦争の危機さえ呼び寄せることになります。学生運動大統領の文在寅は実に危険です。


文大統領の場合は反日ドーパミンだけでなく、南北統一ドーパミンも発生しています。


では、今週号をお楽しみください。

https://ameblo.jp/unarigoe/entry-12525324780.html


2019/9/15 唸声




◎私の英語論とその思い出:前田正晶

「語学」という表現はおかしい:

私は事英語の学習については、そもそも「語学」という表現はおかしいと
信じている。その理由は簡単なことで「日常の意志の表現と伝達の道具で
ある言葉が学問であるはずがない」と考えているのだ。しかしながら,我
が国の学校教育では英語を「科学」(=Science of English)の如くに
扱っているだけではなく、恰も数学のように教えているので「学問」だと
思い込んでいるか、思い込まされた人が多いのだろうと思う次第だ。

昭和20年の終戦直後には私が住んでいた神奈川県藤沢市でも、当時普及し
ていた言葉だったGIを数多く見かけたし、県の内部の厚木等には基地も多
く置かれていたので付近に住む方々は、英語が解らないことに対する恐怖
感の如きものがあったのだろうと、子供心でも認識していた。その終戦直
後には藤沢市でも回覧で英語が解らない多くの人たちの為に、進駐軍の兵
士に何か問いかけられた際に言うべき文章を指示されていたのだった。そ
の文章は未だに鮮明に覚えているので紹介してみよう。

“I am sorry I cannot speak English. Please wait a while. I will
bring a man who can speak English.”

だった。文法的にも誤りはなく十分に役に立つ英語ではあるが、今と
なっては訂正したい衝動に駆られてしまう。それは、私が屡々指摘して来
たことで“I cannot speak English.”では英語を既に話しているのであ
り、ここでは“speak”ではなくせめて“understand”としておく方が現実に
近いだろうと屁理屈の一つも言ってみたくなる。

この英文の興味がある点は、この頃から既に「謝る表現」が教えられてい
たことで、この表現が意味するところまでに英語という言語を理解してい
なかったか、誰も相互に文化に違いがあるだろうなどと考えが及ぶ訳がな
かったのだと思っている。もしも、訂正せよと言われれば “Sorry but I
cannot understand English.”辺りになるかと思う。だが、私はこの点を
責めるべきではないと思う。それは、当時はほんの数ヶ月前まで敵国で
あったアメリカの言葉は敵性語して広く教えられていなかったし、占領し
にやって来た進駐軍の兵士に対して恐怖感があったのは当然だろうと思う
訳だ。より具体的にいえば、彼らはつい先頃までは「鬼畜米英」だったのだ。

私はこの英文が示すことは「英語が話せるということは恰も特殊技能のよ
うに受け止められていた」のだろうと思っていた。その英語が話せること
を特殊技能と看做す風潮は未だに残っているのではないかと疑いたくなる
時すらある。私は旧制中学に入って「敵性語」だった英語の授業があると
はほとんど予想していなかった。ましてや、その先生が何処から見ても白
人であり、現在でいう「ハーフ」だったのも本当に意外だった。

私がアメリカの会社に在職中に接してきた我が国の上場企業の精鋭の
方々の英語は、多くの場合に我が国独特の「科学として英語」を教えられ
て育ってこられた為に「話し言葉」と「文語乃至は文学的な表現が混在」
する我が国独特の言葉になっている例が多かったのだった。そのような英
語であっても、アメリカ人たちに理解されていたのも事実だと言える。だ
が、矢張り余りにも生真面目で堅苦しい感は免れなかった。

このような文学的というか、アメリカ人たちが“wordy”(=using too
many words, especially formal onesとOxfordにある)と形容する英語に
なっている理由は、私が何度か採り上げて説明していた。その中で最も特
徴的であるのは、同僚の一人が我が国の高校3年の英語の教科書を見て叫
んだことである。それは「日本では高校の頃から英文学者でも育てようと
しているのか。アメリかではこのような難解の文学作品を教科書に採用す
ることはない」だった。私は文科省の意図を善意に解釈して「我が国では
英語を通じて生徒たちの教養を高めようとしているのだ」と真面目に考え
ている。

問題はこの教え方が良いか否かではなく、「我が国では英語教育に対し
て実用性に乏しいというか、外国人との意思の疎通を図ろうとする為に学
校で英語を教えていないので、実際には役に立たないという点を非難する
声が上がっている点」が問題なのではないかと思っている。確かに、学校
教育では実用性を等閑にした「科学としての英語」の教え方をしていると
思う。だが、英語を教える目的が実用性というか「会話」の能力を高める
点にはないと断言された高校の英語教師がおられた以上、話せるようにし
てくれとの要求は「木に登って魚を求める」ようなことだろうと言える。
だが、どうやら現在までの英語教育の在り方を再検討する時期が来ている
のではないかと考えてもいる。

そう考える根拠には、私は近頃来日する外国人たちがあれほど正確に日
本語で自己表現が出来ていることの背景に何があるかを本気で追求するべ
きだと思っていることがある。これも何度が採り上げた実例で「オレゴン
大学(州立大学だ)で2年間だけ日本語を勉強しただけのアメリカの青年
が、明治大学に留学して日本語での講義に何の不自由もなくついて行けて
いる」という事実をどう考えるかというのもある。更には国家的プロジェ
クトで英語教育をしているという韓国に及ばない例をアメリカで数多く見
たというのも残念な事実だ。それにも拘わらず,未だに英語の試験の成績
ばかりを重視して、大学入試にTOEIC等の点数を用いようなどと言ってい
るのでは救いがないと思っている。

英語の発音:

ここでは話題を変えて、英語の発音を考えて見よう。私の見方では英語が
「綺麗だ」と感じさせる為には「発音が(native speakerたちに近くて)
正確で美しいこと」を第一に挙げたくなる。その先にある英語での表現乃
至は説明の内容の質までを判定することは別な次元のことになるので、こ
こでは詳細に論じることはないと思う。

私は我が国の英語教育における問題点の一つには「発音」があると指摘
して来た。後難を恐れずにその原因と思うことを挙げれば「そもそも英語
の先生方の発音がローマ字的且つカタカナ語的な点にあるという点だ。私
は幸運にも最初にアメリカ人そのものの先生に教えられたが、そうでな
かった場合には、そうは行かないのだろうと思っている。私はだからと
言って「何処の馬の骨」かも解らないようなnative speakerに教えて貰う
のはもっと危険だと言いたい。それは、あの広いアメリカには南部訛りも
あれば東海岸独特の早口もあるのだ。更に、アメリカの女性に家庭教師を
依頼した家庭で、その女性が“cow”を「キャウ」、“counter”を「キャウン
ター」と発音したのを聞いて即座に契約解除したという例もある。だが、
London cockneyやオーストラリアやニュージーランドの訛りはそんな程度
ではないのだと認識しておくべきだ。

私は我々にとって英語の発音を困難にさせるその最大の理由の一つには
「英語には日本語にはない音や顔の筋肉の使い方があるし、“th“だの“l”
だの“r”のように舌の使い方が難しい発音もあれば、“f”と“v”のような下
唇を噛む音もあという独特の発音」という点だと認識している。これらの
他にアクセントだのイントネーションや連結音があるのだから、なお一層
面倒になるのだ。

畏友・佐藤隆一氏によると綺麗な発音が出来る者が多い韓国でも「あのハ
ングルの文字では表現に限度があり、ハンバーガーという表示は出来ない
ので、ヘンボゴになっている」のだそうだ。私も実際にソウルで経験した
ことは「メックスウエルのコピー」というのに出会ったが、それは
Maxwell のCoffeeのことだった。言うなれば、これ即ち韓国訛りの英語な
のだろう。

我が国では上述の英語独特の発音を克服出来ていない先生方が最初に教え
ておられるのだから、学んでいる方がそれ以上にnative speakerに近い発
音になる訳がないのだと言えるだろう。だが、繰り返して強調するが「問
われるべきは発言の内容」なのである。良い例を挙げれば、1994年7月に
故宮沢喜一元総理が大いに語られたパネルディスカッションでの発言をそ
の場で聞いたことがあった。宮沢元総理の発音はカタカナ語的だっただ
が、内容の質は誠に高く恐れ入って聞いていたものだった。

確かに発音は良いに越したことはないのだが、その壁を越えた英語力を備
えた方には仕事の場以外でも何人かにお目にかかっていた。でも、私は
「発音が綺麗なことは七難隠す」と言って指導してきた。発音を綺麗で正
確にする為には、最初に英語を教えられた先生が何処まで正確で綺麗な発
音が出来ているかに懸かっていると言えると思う。私の場合の幸運は、そ
の最初の先生がアメリカ人のハーフで完璧なアメリカ発音を聞かせて下
さったことだった。英語にはWell begun is half done.と言う諺がある。


◎私のスポーツ経験談:前田正晶

これは私のブログにコメントを寄せて下さった方に対してのお礼の言葉で
あるとともに、私の経験を簡単に振り返ってみたものです。

コメントを頂戴し誠に有難う御座いました。身に余るお言葉で恐縮してお
ります。そこで、この機会に私の野球とサッカーの経験を振り返ってみよ
うと思いました。

既にご高承かと思いますが、私は昭和20年4月に旧湘南中学に入学した時
からの蹴球部員(現在ではサッカー部と言うようですが)で、野球は余技
のような競技でした。但し、湘南では戦後になって設立が許された野球部
では、慶応大学野球部のOBの佐々木久男氏(故人で、佐々木信也君の父
君)が監督をされていました。その佐々木氏の力で慶応在学中の別当薫
(故人でタイガース)や大島信男と加藤のバッテリー(中日でしたか)、
矢野外野手といった一流の大学選手がコーチに来ていました。

蹴球部は野球部と同じサッカー場の広さしかないグラウンドを半分にて
使っていたので、先に練習が終わった時にはその大学の名手たちの指導法
を聞きに(見に?)行っていました。また、慶応大学の練習に参加して
コーチ学を習得していた2期上の中学生助監督もおられました。その理論
をベンチの横で聞いて知り得た知識の例には「一死で走者二三塁て四球を
取ってきた者が叱られていました。それでは相手にダブルプレーのチャン
スを与える危険性があると言ったじゃないか」というのもありました。

また、昭和24年に甲子園で優勝した時の三塁手で東大に進み、東洋紡の専
務になってからの引退後に大阪大学大学院で経済学博士となった脇村春夫
君は同期の同級生でした。彼は大学院に行きながら高野連の会長も務めて
いました。彼とは高校2年時の野球の野球部員も出て良いという異例の組
別の軟式野球の校内大会では、テイームを組んで優勝しました。私は普段
は投手兼三塁手で余技の野球を楽しんでいましたが、脇村君がいるので一
塁手にさせられました。

その際に生真面目な脇村君に練習までさせられて指導されたことは「一塁
手は悪送球に備えての捕球の練習と、無理に捕球しようとせずにベースを
離れてでも、球を内野の中に残すように注意せよ。それは打者走者を二塁
に行かせない為だ」でした。脇村君は帰国子女でアメリカで基礎の野球理
論を身につけていました。因みに、投手は甲子園でベストナインに選ばれ
たセンターの根本君で、その他に甲子園に補欠で行った者が2人いたので
したら、勝って当たり前のテイームでした。彼らは皆東京六大学野球並み
の理論を承知していました。彼らから基本を学べたということです。

その上にアメリかでは会社というか、我が事業部の副社長がキングドーム
のボックス席を持っていたのでMLBの野球を見に行けましたし、ともに観
戦した部の内外の野球通たちからも野球の理論を聞かされる機会もあると
いう幸運もありました。その1人はかの大魔神・佐々木主浩の投球を見て
「この投手のあのフォークボールは投手に有利なカウントに持ち込まない
と空振りは取れない」と指摘した途端にホームランを打たれました。彼ら
は確かにシアトルマリナーズを応援していましたが、我が国の仲間に気ば
かり遣っている解説者よりも立派な野球理論に通じていたので勉強させら
れました。

私自身は社会人になってからは会社の野球を30歳になるまで内野手と投手
をやって楽しんでおりました。本職であったはずのサッカーは28歳で一度
止めてから、42歳で藤沢四十雀クラブで再開し48歳まで続けました。そし
て、70歳になった頃から昭和23年の国体で優勝し損なった顔ぶれが集まっ
てフットサルをやっていました。それも私は72歳の末期に心筋梗塞を発症
して止めることになりました。このフットサルの代表者は優勝し損ないの
時の主将で、後のメルボルンオリンピック選手だったKさんです。

だが、遺憾ながら現在のサッカーは我々の頃のWMフォーメーションの時代
とは別世界のような高水準にあるので、その試合振りを批評するのは僭越
かと思うのです。だが、ついつい「俺にも言わせろ」となって妄言を吐い
ている次第です。私は精神主義は排除すべしと思っておりますが、現代の
サッカー(だけとは限られていないと見えますが)の指導者の一部には未
だそういう観念が抜け切れていないように見える時があります。

余談ですが、何かと言えば「パワー」だの「フィジカル」だの「メンタ
ル」だの「ハードワーク」などと言う訳の解らないカタカナ語を乱用する
のは止めて欲しいと思っております。こういう英語の表現はないのです。
語ればキリがないのですが、何かのご参考になれば宜しいかと愚考し、簡
単に解雇してみました。


━━━━━━━
身 辺 雑 記  
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15 日の東京湾岸は久し振りに晴天、爽快。

東京湾岸は14日も曇天。冴えない気分で散歩した。他に散歩者ナシ。



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創刊日:2004-01-18  
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