政治・経済

頂門の一針

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頂門の一針5158 号  2019・9・5(木)

2019/09/05



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 わたなべ りやうじらう のメイ ル・マガジン「頂門の一針」5158号
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       2019(令和元年)年 9月5日(木)



  雀庵の「ネジが馬鹿になるとマズイ」:“シーチン”修一 2.0

        20億HKドル相当の金塊が香港から:宮崎正弘
     
              3橋が国重要文化財に:渡部亮次郎
 
                      話 の 福 袋    
                       反     響
                      身 辺 雑 記


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雀庵の「ネジが馬鹿になるとマズイ」
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“シーチン”修一 2.0



【Anne G. of Red Gables/22(2019/9/4)】昔は建設現場で鉄と鉄を繋ぎ合 わせるために「リベット」がよく使われていた。


最後に見たのは1980年頃かもしれない。真っ赤に焼いたリベットを10メー トルほど上にいる打ち手のバケツに投げ上げる、打ち手は神業で受け取 り、それを穴に突っ込み、反対側の人とともに自動ハンマーで叩いて固着 する。ほとんど芸術的!


今でも駅などではリベットで線路廃材を使った「遺構」が現役で活躍し、 山手線のガード下の風情なんぞ、レトロでいいものだ。有楽町の高架下の 飲み屋の暖簾をくぐって「まずはホッピーと肉豆腐!」なんて・・・あ あ、あの日に帰りたい。


造船所などでもリベットはずいぶん使われていたが、今は溶接やボルトネ ジにとって代わられた。


日本製ネジの価格は中共製の2〜3倍もするそうだ。「ねじが外れてる」 奴、「ねじが緩んでいる」奴の「ねじ(ゼンマイ)を巻く」にも、口だけ 達者のバカに「逆ねじを食らわす」にも、「ねじが馬鹿になっている」か ら全然だめ、日本製ネジに全とっかえしないとやばいぜ、なんて言いたく なるなあ。


「香港の 暑さに支那も 熱くなり 天安門は 炎上するか」


燃えよドラゴン(龍争虎闘)! アマゾンじゃなくて主戦場は支那大陸と 半島だで。大和男児は応援せにゃあかん、中共大使館を包囲せよ! ネジ 巻かんと動かないんか? え? わては足手まとい、皆さんの邪魔になる だけやさかい、オフサイトでアジるだけで・・・堪忍や。


「ワタシハイケナイ ミンナハゲンキデ」


ネジの歴史は紀元前の古代ギリシャ(アルキメデス発明説あり)に遡るそ うだ。日本では種子島の鉄砲伝来(1543)でネジを知ったが、戦争に倦ん だ家康の方針だろう、鉄砲など西洋風技術革新は江戸時代では封印され た。ネジの普及は遣米使節団の小栗上野介が、ワシントンの造船所の技術 を間近で見て驚き、持ち帰った「ねじ1本」が日本の近代化を後押しした と言う(日東精工)。


ネジは「産業の塩」と呼ばれている。メーカーによるとクルマは1台あた り約3万個の部品からできていて、うちネジは1300〜2500本くらい使われ ているそうだ。塩がなければ生きていけない。


日本ねじ工業協会の「ねじエッセイ・小論文コンテスト」受賞作「ボルト 君の活躍」(西郷史隆著)はとても勉強になった。以下抜粋。


倉庫から自動車整備工場へ運ばれた、ちょっと旧式のボルト君・・・


<その後に起きたことは僕にとっては大きなターニングポイントだった。 そして、このようなことは初体験だった。 僕は新品のサスペンションリ ンク君の「懐の穴」の中をくぐった。すると、僕の先端のねじ部にほかの 部品が噛みこむのを感じた。


その部品は「ナット」と呼ばれる部品だ。故障した車についていた物で、 僕と違って穴の中にねじがついている。この部品は女性だったので「ナッ ト姫」と呼ぼう。「初めまして、よろしくお願いします」と僕は言った。 彼女は年上。


「ちょっと私は汚れているけど、しっかりあなたと噛みこむから」と、彼 女。 「そう、私たちは一緒でないと役に立てないのよ」


「え?一緒でないと役に立てない?」「そう、合体する運命なの」「運 命?」などと二、三会話をしていたら、直後にその意味が分かった。


整備工場の息子はインパクトレンチという道具を出してきて、僕の六角の 頭を思いっきりグルグル廻し始たではないか。ナット姫もそれにつられて 一緒にグルグル廻り始た。


「チッ!供回りするか。メガネでナットを止めなきゃ」。メガネという道 具でナット姫が固定されると、僕の「ねじ」が彼女のねじとしっかりと噛 みこんだ。レンチが回転するに従い、ますますナット姫は更にしっかりと 噛み込んでくる。


僕の胴回りはどんどん伸ばされて行く。たまらず首の上にある僕のフラン ジ部はサスペンションリンク君を押しつけていく。同様にナット姫のフラ ンジ部もリンク君の反対側を強烈に押している。僕の筋肉質の胴回りは更 にどんどん伸ばされる。でも、僕はとてとて強い高強度ボルトという素質 をもっているからだ大丈夫だ。限界には少し余裕がある。


きっと街で売られている普通のボルトだと、そういかないだろう。 そう だ。僕はそこらへんの奴とは限界体力が違うのさ。


「えーっと、トルクレンチはどこだっけ?親父」息子がいう。僕の背中は かなり伸ばされているが、さらに彼はぼくをナット姫に深く食い込ませよ うとしている。 結局僕は更に二回廻された。体中の筋肉が大変な力で伸 ばされる。反対に、サスペンションリンク君を僕はありったけの力で押さ えつけている。


合体したナット姫も必死だ。彼女の持てる最大の力で僕のねじに食い込 み、共同で力を発揮させている。


そうだ。これが僕の本来ある姿だ。今まで倉庫に寝ていた期間は何だった のだろう。この姿こそ、世間の役に立つ姿だ。僕は実感した・・・>


ボルトとナット、これをオネジ(雄ネジ)とメネジ(雌ネジ)と名付けた 人は大したものだ。縄文遺跡には輪の中を棒が貫いている土器がしばしば 発掘されている。産めよ殖やせよ、カミよ、我らに子供を授けたまえ、と 願ったのだ。


形も姿も機能も違う2人が、新しい命を生むために合体する・・・産経OB の織田作曰く「僕と共鳴せえへんか」。


近代産業はネジの産業ともいえる。ネジがあるから旋盤ができ、ネジとと もに旋盤は改良され、やがて機械を作る「マザーマシン」(工作機械を作 るために用いる母なる機械、母機)へと発展した。


ネジが馬鹿になったら機械はちゃんと動かなくなる、放置すればやがて修 理不能のポンコツ、ガラクタになる。ネジ1本の不具合を直さなかったた めに破滅を招くのだ。


千里の堤も蟻の一穴から崩れる。支那大陸にとって香港、半島にとって日 本、EUにとって英国・・・ソフトランディングというか、自ら一穴を補修 する、ネジを新しいのに交換するとか、きちんとやらないと墓穴を掘って 自滅することになる。


赤い支那、赤い半島、アカモドキのEU・・・「前世紀の遺物」登録、「ざ んねんないきもの事典:国家編」入り、それに落選しても「レッドブッ ク」入りは確かだろう。


最後の皇帝・習近平、自爆テロリスト大統領・文在寅、デタラメルケル・ マザコンマクロン漫才「ピンクのベスト」、歴史の判決は如何に。


発狂亭“ネジマワシ鳥クリティーク”雀庵の病棟日記から。


【措置入院 精神病棟の日々(140)2017/1/12】【産経】産経抄「良くも 悪くも戦後の日本をリードした団塊の世代が元気を取り戻し、若い世代が 新たな文化を創造できなければ、日本は本当の危機を迎える」・・・って 本当か?


ロカビリー、ビートルズ、ミニスカ、フリーセックス、グループサウン ド、全共闘、赤軍、内ゲバ、平凡パンチ、朝日ジャーナル・・・をリード し扇ぎ捲った団塊老人は、今は静かに舞台下手へ去りつつあるのに「元気 を取り戻せ」って・・・


抄子も団塊世代なのか、未だに夢見る乙女、妄想老人みたい。鳩ポッポ、 カンカラ菅、軽佻浮薄、共鳴したくないね。


主張「天皇陛下の譲位 実現の方向性示す時期だ」。産経は「譲位」で固 まったようだ。平成天皇の御代は天変地災などで「平らかに成る」とはな らなかったが、占領憲法下で天皇・皇后陛下のあるべき姿、方向性を昭和 天皇から引き継ぎ、ほぼ完成させたのではないか。


しかし、真の国民憲法がなければ真の立憲君主制(元首・教皇=天皇と、 政治=国会議員=総理といった五カ条のご誓文を踏襲した制度)はありえ ない。


国家主権のない占領下で押し付けられた現行憲法を「棄憲」し明治憲法復 活、同時に新たな「暫定憲法」制定、3年後に国民投票、あるいは衆参同 時選挙で民意を問うというような手順を踏む「一括法」を成立させ、3年 間「暫定憲法」の是非を国会内外で議論し、現実的かつ理想的な憲法に仕 上げるという、いささかアクロバット的な方法でしか真の国民憲法はでき ないのではないか。2019/9/4



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20億HKドル相当の金塊が香港から
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
令和元年(2019)9月3日(火曜日)弐
          通算第6183号  
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 20億HKドル相当の金塊が香港から逃げ出していた
  香港の経済危機は、富裕層の海外脱出に拍車をかけている
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 香港の反中国抗議行動は四ケ月目に突入した。
 第一に刮目するべきは、すでに逮捕者が900名を超えているというの に、自分の将来を犠牲にしても、香港の自由。というより人間の自由と尊 厳のためには就活も人生も擲つことになるかも知れない行為に、香港の若 者が疾走していることである。

9月2日から再開された新学期。大学ばかりか、高校の授業ボイコットの 呼びかけに1万2000人が応じた。

第二に警察隊のガス弾に対抗して、学生らは火炎瓶、また暴力的衝突に関 しても、戦闘の技量をあげて、まるでゲリラ戦法のように戦術を格段に向 上させていること。往時の全共闘を彷彿させる。ただし火炎瓶は学生を偽 装した警官隊の仕業とする説が香港では有力である。

第三に香港財界を主流とした北京支持派が急速に力を失い、まだ共産党を 礼賛し「愛国」を叫ぶジャッキー・チェンらが香港市民からはまったく相 手にされず、彼のツィッターへの反論は、香港にみならず世界中から数百 万もの反対意見が寄せられて、完全に北京擁護派が浮き上がっているとい う報道されない事実があげられる。

第四に繁華街の一つで下町の旺角(モンコック)あたりで、先週まで繰り 広げられた中国支持派の愚連隊、マフィアらの抗議集会やデモ隊への襲撃 に対抗して、その拠点に、学生らの戦闘部隊が報復戦に挑んだ。マフィア も驚くという事態が生じている。

第五にしかしながら、意外な得点をあげたのは、じつは習近平なのだ。
北戴河会議で長老達からつるし上げられたが、香港危機を前にして、むし ろ習解任とか習失脚ではなく、共産党が一丸となって対応しなければ克服 できないという切羽詰まった危機意識が醸成され、なんと習近平が回避し てきた中央委員会総会(4中全会)が2年ぶりに10月に開催されることに なったことだ。

習近平のカリスマも指導力も地に落ちたが、香港危機がバネとなって、彼 の政治生命を延命させた。これこそ、意外な展開である。つまり中国共産 党指導部は香港での抗議集会、デモがかつての東欧を襲った「カラー革 命」の再来となる事態を真剣に懼れ始めたのだ。

まして香港経済の落ち込みが激しく、株式市場は4・8%の下落(2016年 の「雨傘革命」時は2・75%だった。以下括弧内同じ)。

上場数は42%の減(37%)。そして新規公開における資金調達は 87%の落ち込み(29%)と惨憺たる数字が並びだした。

すでに過去3ヶ月のあいだに香港から持ち出されたゴールド(金塊、コイ ンを含む)は香港ドルで20億ドルに達している。
 香港の経済危機は、富裕層の海外脱出に拍車をかけている 
      
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1950回】         
――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――?田(5)
 ?田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

              △
やがて南京へ。先ず長江河岸の下關に着き、それから対岸の浦口に向かった。

下關で長江の大きさと共に、「下關は小さな港なのに日本、イギリス、ア メリカ等の河用砲艦、さらに驅逐艦、小さな巡洋艦までが數せきもならん でいたこと」に驚き、「各國の軍艦の展覧會みたようなものだが、この各 國の軍艦が南京を壓倒しているさまをみて、中國青年が血をわかしたのも 無理はない」と中国青年の心情に思いを馳せた後、「この異樣な威嚇感は まつたく不愉快そのものであつた」と苦々しく綴る。

長江を渡った先の「浦口は非常に汚い中國人の街だ。街ともいえない暗? さを感じさせる」。些か揚げ足を取るようだが、さて「非常に汚い」が形 容するのは「中國人」か、それとも「街」なのか。それとも「人」と 「街」の双方なのか。

じつは?田は浦口から汽車で山東省に向かい、その後、満洲を抜けて満 州里で蒙古入りしモスクワに向かっているが、長い車中でのことだった。

!)田の乗った寝台付き客車には「外國人と中國人のブルジョワ的なヨー ロッパ化した連中だけが乘るらしい」。?田が入っていくと「五分間もた たないうちに、彼らは荷物をまとめて部屋を出ていつた。どうやら私が日 本人だと知つて敬遠したものらしい」。彼らの振る舞いに「日本人への憎 惡感と壓迫感を感じ」取った?田は、「こうして中國の?養ある人々が日 本人との同席さえも心よく思わないことは私の胸に非常に強い印象をあた えた」と記す。かくして「帝國主義にたいする憎しみは日常の生活にま で、實に實に深刻に表現されることにおどろく」のであった。

無数のクリークが発達している「ほとんど平たんな田畑」が延々と続く から、「まるで河の中を汽車が走つているような感じだつた」。

やがて孔子廟のある曲阜駅に。「プラットホームからおよそ三米も離れ てたくさんの乞食がずらつと並んだものである」。「この乞食がまた人の 顔だかタドンだかわけがわからないほどまつ?に汚れている。顔の所々に はでき物ができていて赤かつたり、紫がかつたりしているのだ。こういう 怪物にも等しい連中が老人、婦人、子供ありとあらゆる年ぱいの男女にま じつてつずいているのはまつたく異樣なものだつた」。

外国人が彼らに小銭を投げ与える。「そうすると乞食の群はまるで戰爭で も始つたように奪い合うのだ。その樣子をおもしろいと思うのか、さわぎ がしずまるとまたザァーッとばらまくという風で、まつたく目もあてられ ない有樣だつた」。

寝台車の中で「中國人のブルジョワ的なヨーロッパ化した連中」から向け られ「日本人への憎惡感と壓迫感を感じ」たと綴るが、どうやら共産主義 者であるはずの?田だが、「こういう怪物にも等しい連中」が「こういう 怪物にも等しい」状態に陥らざるを得なくなった社会の矛盾は気にならな かったのか。いや?田の基準からして、「こういう怪物にも等しい連中」 はヒトの部類に入らなかったということか。

ここで?田は「ここのステーションに群がる乞食たち」を「奴れいにもな れない貧窮者」として、彼らを生みだす社会構造を分析する。

「孔子の生まれたこの地方は早くから發達したところ」だが、「長い長い 封建主義の彈壓の下に人口は増えても土地はなく、農民はまつたくひどい 零細農になつたものと考えられる」。

彼ら「貧農の中から落伍したものが上海、大連、天津その他の開港場に集 まるいわゆるクーリー(苦力)である」。「殊に滿州にはこのクーリーが 大々的に輸出され」、奥地でも工場労働者、農夫、鉄道工夫として「働か され」、さらに「ウラジオから沿海州まで森林勞働者として流れていつて いる」。
「おどろくべき人間勞働力の輸出」であった。《QED》
 

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読者の声 どくしゃのこえ READERS‘ OPINIONS 読者
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(読者の声1) 今の人類が最も必要とするものは何か?

マルクスが人類に対して行った重大な犯罪は、ヘーゲルの学問を壊してし まったこと、否、壊しただけでなく、そのヘーゲルの楽音の輝きを盗み とって加工し、人類を騙すという詐欺をおこなって、人類を、はてしない 地獄への道へと彷徨い込ませてしまったことです。

そのマルクスの犯した人類への散財の中で、最も基本的かつ重要な罪は、 ヘーゲルが、論理学の歴史を踏まえて創り上げた、画期的な生きた論理学 を壊して、前の時代の論理学である死んだ論理学、すなわちあれかこれか の形式論理学に戻して、人類の歩みを後退させてしまったことです。

ところが当の本人は、唯物弁証法はヘーゲルの弁証法を前進させたもので あると思い込んで、いい気になっていたようです。

それが如何に嘘であったかは、その後の歴史が証明しています。事実から 出発する唯物論の立場に立つとしながら、実際には、事実を無視して未熟 な観念を現実に押しつけて、現実からしっぺ返しを受けて、大勢のマルク スを信奉する人民を飢え死にさせたという、社会主義の輝かしい実績があ るからです。

また習近平も、そうした歴史的に実証された誤った社会主義の独裁を性懲 りもなく実践しようとして、本来社会主義の主体であるはずの労働者を信 用せずに、弾圧の対象として監視する体制を社会主義と嘯いています。こ れがマルクスの云う唯物弁証法の実態であり、独裁か民主かのあれかこれ かの形而上学的でしかない実体なのです。

しかし、この発想は、習近平に限らず、現在の人類の共通してみられる、 今の人類の論理学の現実なのです。

つまり現在の人類には、ヘーゲルの生きた論理学は、残念ながら見あたら ないという実態だということです。これは、偏にマルクスの罪であり、マ ルクスが行ったことは、人類に対する重大な犯罪だったということです。
 このような人類の論理学の現状だから、ほとんどの者が、理念と現実と を統合できず、理念を主張する者は、現実を無視する傾向が強く、現実を 主張するものは単視眼的になって、本質的な議論ができにくいという現実 となっているのです。

ところが、ヘーゲルは、彼の生きた論理学から、普遍性は現実性である、 と理念と現実を統合した見方を示しました。すると、すかさず、マルクス は、これを根本的二元論だ、と批判しました。しかし実際は、あれかこれ かの二元論は、マルクスの方で、ヘーゲルはその根本的論理を統合した結 果として、普遍性は現実性であると主張したのです。

先日、「これでいいのか文科省」という討論番組を見ました。

教育の現場で現実と真摯に取り組んでいる人が集まって、鋭い問題提起が されていました。その中で、理念を現実に押しつけて現実を見ようとしな いことに対する批判も出されておりました。その一方で、国家像の必要性 が指摘されてはいましたが、そもそも「教育は何のためにあるのか?」と いう本質的な問題に対する正しい解答を出せずに、苦慮しているようにも 見えました。

こうした議論が、結局のところで行き詰ってしまうのは、民主主義と国家 主義・全体主義とを、あっれかこれかという形で相容れない対極のものと 固定化して捉える、死んだ論理学に囚われているからに他なりません。だ から、国家主義的な観方をすることが、民主主義に反するものとして憚ら れ、自主規制されて、本質的な議論をできなくしてしまっているように思 います。

ヘーゲルは、全体と部分、国家と国民とは、互いに否定的媒介を通じて一 体化して捉えることが、まともな学問的なとらえ方である、としていま す。普遍性は現実性であり現実性は普遍性であるとは、国家は国民である ということであり、国民は国家であるということです。

だから、この普遍性を現実性化するために、教育は存在するのです。つま り、教育とは、その国家の普遍性・歴史性を、その国の子供たちにしっか りと学ばせて、その国の国民として立派に育っていけるようにして、そう いう国民に支えられて、その国が国家としてまともに発展していけるよう にするためのものです。

決して、抽象的個人が、人権を盾として、それぞれ自分勝手に自分の好き なことをして生きていけるようにするためのものではありません。日本の 国家が戦前に比べて劣化し、日本人もそれにもまして劣化している現実 は、そのような教育がずっと行われてきたからに他なりません。

また、その議論の中で、特に気になったことは、「国語の論理学」なる授 業が行われているそうで、そこでは、契約書等を正確に認識できるように することが、論理学なのだそうです。

ここでいう論理学とは、まさにAはAであってBでない、という形式論理学 そのものであって、今の教育の実態は、それすらもままならないほどに、 論理的認識が育っていない現実があることが話されていました。したがっ て、その必要性に異論はなさそうでした。しかし、本当に人類に必要な論 理学、今の子供たちが学ばなければならない論理学は、そんなものであっ てはならないはずです。

なぜなら、それでは人類は、まともな発展を創り出すことはできないから です。

本当に学ぶべきは、人類史・人類の学問の発展史における、論理学の発展 の歴史を学ぶとともに、かつて人類が到達した最高峰、すなわちヘーゲル が成し遂げた、生きた論理学、つまり運動体の弁証法の論理学の内実を学 び、それがマルクスによって破壊された結果として、人類の発展は大きく 歪められてしまったこと、その中で、かつての日本は、そのヘーゲルの生 きた論理学を自然成長的に実践してきた世界で唯一の国であることを、 しっかりと教えるべきです(稲村 正治)

 
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3橋が国重要文化財に
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          渡部亮次郎

春のうららの隅田川には有名ないくつもの橋が架かっているが、下流に近 い勝鬨(かちどき)橋、永代(えいたい)橋、清洲(きよす)橋の3橋が2007 年4月20日に国の重要文化財(建造物)に指定された。隅田川にとっては初 めてのことである。

また敗戦時からの復興著しく、最近は「水彩都市」を自称する江東区(一 部は元深川区)は松平定信の墓、旧弾正橋(八幡橋)、明治丸に次ぐ4、5件 目の重要文化財指定だと喜んでいる。

と言っても橋そのものは江東区ではなく国の所有物だ。永代橋と清洲橋 は、共に関東大震災(1923年9月1日)後の帝都復興事業の象徴として内務省 (現在の国土交通省)直営で作られた。

また勝鬨橋は当時、最先端の技術を駆使した日本で最大規模の跳ね橋とし て作られ、いずれもわが国橋梁技術史上、高い価値があると評価された。 遊里深川に渡る永代橋は男性的、清洲橋は曲線の美しさから女性的といわ れている。

永代橋が架橋されたのは、元禄11(1698)年8月であり、江戸幕府5代将軍 徳川綱吉の50歳を祝したもので、現在の位置よりもやや北側、(西岸中央 区日本橋箱崎町、東岸江東区佐賀一丁目付近)当時大渡し(深川の渡し) のあった場所である。隅田川で4番目に作られた。

当時は深川新地の象徴として歌川広重などの錦絵にもよく描かれている。

「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたから という説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説 (「永代島」は「永代橋」から採られたとする説)がある。

幕府財政が窮地に立った享保4(1719)年に、幕府は永代橋の維持管理を あきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費 を町方が全て負担することを条件に存続を許した。

文化4(1807)年8月19日、深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛け た群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こす。

橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆が 次々と押し寄せては転落し、死者は実に1500人を超え、史上最悪の落橋事 故と言われている。この事故について、大田南畝が狂歌を書き残している。

永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼

なお古典落語の「永代橋」という噺も、この落橋事故を基にしている。

明治30(1897)年、道路橋としては日本初の鉄橋として、鋼鉄製のトラス 橋が現在の場所に架橋されたが、関東大震災に被災し、木製の橋床が損傷 し大正15年に震災復興事業の第1号として現在の橋が再架橋された。

「震災復興事業の華」と謳われた清洲橋に対して、「帝都東京の門」と言 われたこの橋は、ドイツライン川に架かっていたレマーゲン鉄道橋をモデ ルにし、現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100mを超えた 橋でもある。

平成12(2000)年に清洲橋と共に土木学会の「第1回土木学会選奨土木遺 産」に選定された。

構造形式
中央径間:スチールアーチ橋
両側:鋼桁橋
工法 ニューマチックケーソン工法
橋長 184.7m
幅員 25.0m

着工 1923年(大正13年)12月
竣工 1926年(大正15年)12月20日

施工主体 東京市復興局
設計 田中豊原案、竹中喜忠設計
橋桁製作 神戸川崎造船所
施工 太丸組/間組

清洲橋(きよすばし)は、東京都道474号浜町北砂町線(清洲橋通り)を 通す。西岸は中央区日本橋中洲町、東岸は江東区清澄1丁目。「清洲」と いう名称は公募により、建設当時の両岸である深川区清住町と日本橋区中 洲町から採られた。

関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された。「帝都東京 の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、「震災復興の華」と も呼ばれた優美なデザインである。

当時世界最美の橋と呼ばれたドイツケルン市にあった大吊り橋をモデルに している(この橋は第2次世界大戦で破壊され、現在は吊り橋ではな い)。海軍で研究中であった低マンガン鋼を使用して、鋼材の断面を小さ くする努力がなされた。

もともと「中州の渡し」という渡船場があった場所でもある。

構造形式  自碇式鋼鉄製吊り橋
橋長 186.3m
幅員 22.0m

着工 大正14年3月
竣工 昭和3年3月

施工主体 東京市復興局
設計 鈴木精一
橋桁製作 神戸川崎造船所

勝鬨橋(かちどきばし)とは、東京都中央区で隅田川に架かる橋。晴海通 り(東京都道304号日比谷豊洲埠頭東雲町線)が通る。

日本では珍しい可動橋(跳開橋)であるが、現在では機械部への電力供給 も無く、可動部もロックされ、跳開することはない。近年、再び跳開させ ようとの市民運動や都の動きはあるものの、機械部等の復旧に莫大な費用 (約10億円)がかかること、また現在は多数の道路交通量があることか ら、実現のめどは立っていない。

1905年(明治38年)1月18日、日露戦争における旅順陥落祝勝記念として 有志により「勝鬨の渡し」が設置された。

築地と、対岸の月島の間を結ぶ渡し舟である。埋め立てが完了した月島に は石川島造船所の工場などが多く完成しており多数の交通需要があったこ とで、1929年(昭和4年)「東京港修築計画」に伴っての4度目の計画によ りようやく架橋が実現することとなった。

建設当時は隅田川を航行する船舶が多かった。このため陸運よりも水運を 優先させるべく、3千トン級の船舶が航行することを視野に入れた可動橋 として設計され、跳開により大型船舶の通航を可能とした。高架橋とする 案もあったが建設費が安く済むため、可動橋案が選定された。

勝鬨橋の工事は1933年に着工し、1940年に完成を見た。1940年に「皇紀 2600年」を記念して月島地区で開催予定であった国際博覧会へのアクセス 路とする計画の一環でもあったため、格式ある形式、かつ日本の技術力を 誇示できるような橋が求められた。

そのため、アメリカ等から技術者を導入せず、全て日本人の手で設計施工 を行った。結果的に博覧会は日中戦争の激化などもあって軍部の反対によ り中止されたが、勝鬨橋は無事完成し「東洋一の可動橋」と呼ばれるほど の評判を得た。なお当初から路面電車用のレールが敷設されており、1947 年から1968年まで橋上を都電が通行していた。

設置当初は1日に5回、1回につき20分程度跳開していた。この頻度はほぼ 1953年ごろまで続いたが、船舶通航量の減少と道路交通量の増大により次 第に跳開する回数は減少し、1964年以降は年間100回を下回るようになった。

1967年には通航のための最後の跳開が行われた。その後は年に1度ほど試 験のため跳開されていたが、1970年11月29日を最後に跳開されることはな くなり、1980年には電力供給も停止された。

構造形式
中央部 跳開型可動橋
両側 鋼ソリッドリブタイドアーチ橋
可動部 双葉跳開型(可動支間長 44m)

橋長 246m
幅員 22m

着工 1933年(昭和8年)6月
竣工 1940年(昭和15年)6月14日

施工主体 東京都・銭高組

橋桁製作
月島側アーチ橋 石川島造船所
築地側アーチ橋 横河橋梁製作所
跳開橋 川崎車両
橋脚 宮地鉄工所
可動部(機械)渡辺製鋼所 (電気)小穴製作所

参考資料:ウィキペディア    2007・05・01


    
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重 要 情 報
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◎私の文化比較論、即ち「謝罪の文化」は我が国独自の美風である:前田正晶

ここに改めて私のW社を1994年1月末でリタイアするまでの経歴を振り返っ て「私が何故このような文化比較論を再三採り上げるのか」のご理解を賜 ろうとして見よう。私は1955年に新卒で旧国策パルプ(現日本製紙)の内 販会社に採用して頂き国内市場担当の営業部員として勤務し、1972年8月 に縁あってアメリカの大手紙パルプメーカーのM社に転進し、1975年3月に W社に移籍した次第だった。即ち、全く文化も歴史も我が国の企業社会と は異なる世界に向こう見ずにも移っていったのだった。

その2社に22年半も勤務した間に遭遇した「日本とアメリカの企業社会 における文化と思考体系の相違論」は今日までに何度何度も繰り返して論 じてきたので、今日ここに詳細を語ろうとは思っていない。そこで今回 は、今週になって採り上げた“「世界広しと雖も潔く自らの誤りなり非な りを自発的に認めて謝罪する文化」は我が国独特の歴史的な美風であっ て、ヨーロッパやアメリカの諸国や中国や韓国においてはあり得ないこと なのである”と指摘した「謝罪の文化」を論じてみよう。



ご存知の通り、我が国では何か失態を演じた企業でも官庁でも何でも「謝 罪会見」を開き、責任者全員が揃って深々とお辞儀をする習慣がある。ま たそれをしないと、マスコミは口を揃えて「謝罪がない」と声高に非難す るし、誰もそれを不思議だとは思わない。私も「素直に詫びれば、お客様 は許して下さるのが普通で、営業担当者の重大な職務の一つは詫びること だ」と教えられ、それに従ってきた。同時に、我が国では「お詫びすれば 罪一等を減じられる物だ」と信じてきた。

ところが、アメリカでは企業のみならず一般社会でも、先ず如何なる場 合でも「何が何でも事故乃至事件が発生した際に、冒頭から謝ってしまう ことはない」どころか謝罪することなどは先ずあり得ないと知って驚愕す る前に「潔く我が方の非を認めないと話が進まない」という世界で過ごし てきた身には「謝らない文化」には非常に悩まされたのだった。我が国の 学校教育の英語では気安く“I am sorry.”という謝罪の意思を表す表現を 教えている。だが、企業社会ではこれは「全面的に我が方の誤りを認めま すと同時に如何なる金額の補償も致します」と認めたことになってしまう のだ。

W社の事業部は1975年には未だ我が国の市場ではアメリカのサプライヤー5 社中の最下位の弱小メーカーであり、絶えず品質問題を起こしては得意先 の本社や工場や末端の需要家にまで謝罪に回っていたような有様だった。 ところが、本部や工場からやってくる責任者たちや技術サービス担当者 (解りやすく言えば「トラブルシューター」たち)は絶対に「我が社が悪 う御座いました。お詫びします(=We are sorry for what has happened.”)とは口が曲がって言わないので、私は苦境に立たされたの だった。その姿勢が悪げがあってのことではなく「誤らないのが彼らの文 化であった」と理解できるまでには数年を要した。

そこで、彼らに説いたことは「“I am sorry.”と言わなくとも良い。そ れでなければ精一杯の謝罪を意味する“We regret that we shipped poor quality products.”くらいを言うか、さもなくば何でも良いから下俯いて ボソボソと言ってくれ。それを私が心がこもった謝罪の意向の表明のよう に訳して置く。そうすれば、貴方方には信じにくいことだとうと思うが、 我が国の得意先はその正直さに免じてこれまでの厳しさから転じ、優しい 姿勢で補償問題の交渉に応じてくれると保証する」だった。

これでも彼らは簡単には謝罪をしようと言うか、“regret”程度にまで踏 み切るのに時間をかけた。だが、その程度のつぶやきのような言い方でも 得意先の態度が軟化すると確認出来た後は、躊躇することなく「こんな不 良品を出荷して申し訳ありませんでした。今後は技術部や研究所とも協調 して品質改善に努力するとともに、工場の労働組合側にも厳重に注意して 品質の改善あってこそお客様に信頼されるのだと言い聞かせます」と言え るようになった。

ここまででお解り願いたいことは「アメリカ人の心の中では謝ってしま うことの恐怖感があって大変なことなのだ」という、我が国の謝罪の文化 の中で育ってきた方々には容易に理解出来ないだろう相違点があることな のだ。アメリカ人が重大な決意の下に謝罪したことが、我が国の得意先に それほど評価されて信頼を勝ち得るとは彼らは想像も出来なかったのだっ た。同時に、我が国の客先でも、アメリカの同業他社の時には傲慢である かのように見える自社の過ちを認めようとせず謝罪を拒否する態度に手を 焼いていたので、相対的に我が社の信用度が上がっていったのだった。

とは言ったが、我が社と雖も最初から謝ってしまうのではなく、得意先 の技術陣とは「もしかして御社側の印刷加工の工程に不備ありませんでし たか。当社の製品の特徴は此れ此れ然々ですから、その点に配慮されまし たか」くらいの議論をはした。それは冒頭に非を認める姿勢を示したの で、先鋒も胸襟を開いて率直に意見交換に応じてくれるような親密さが出 来ていたからだった。私が転進してからの2人目の技術サービスマネー ジャーは文化の違いを認識して、工場側に言い分を(聞き辛いことだった が)十分に聞く姿勢に徹したことが信頼感を獲得する重要な要素になった。

長々と述べてきたが、決して自慢話をしているのではない。私の好む分野 である文化比較論の中の一項目に過ぎない。それがアメリカにはない「謝 罪の文化」というか「難しい品質問題の補償の交渉には先ず我が方がその 非を認めるべき場合は率直に認めれば交渉が滑らかに進む」という認識が 本部にも出来るようになったのだ。だが、そこまでに到着するには4〜5年 は要したと記憶する。敢えて言えば、問題は如何にしてアメリカ人に文化 の相違である「謝罪したとしても、全面的に無条件で補償するという意思 表示にはならない」という点を理解させねばならなかったと言うこと。

同盟国であるアメリカにもこの点を理解させ、謝罪が出来るようになる までに苦労もしたのだ。そのような次第であるから、韓国があれほど頑迷 に自国の非を認めようとしないのは同じ文化圏内にあるようでも、我が国 と異なる姿勢であるのも不可思議である。彼らとの交渉に当たっては、政 府と管轄する官庁にもその相違点を十分に認識して当たって頂きたいし、 二度と河野や村山談話の如き謝罪の意を表すような姿勢を見せるべきでは ないと考えている。「遺憾に存ずる」辺りが限度だろう。彼らは我が国の 美風に付け込む隙を見出させてはならないのだ。


◎3日のPrime Newsに緊急出場した河村建夫議員に思う:前田正晶

冒頭に登場した河村建夫元官房長官(74歳、慶大商学部卒)はソウルを訪 れて知日派とされている李洛淵(イ・ナギョン)国務総理(=首相)との 懇談の結果を語っておられた。私の結論から申し上げれば「河村建夫氏の ように議員経験が長く党内でも重きをなしておられる方でも、現在のよう にねじれ切った対韓国関係の修復というか改善の為の交渉役には適材だっ たとは思えない」のである。確かに「戦中の半島出身労務者問題の解決」 こそが我が国の最優先である事を強調されてきた由だったが,その代替に 「1+1+α」という訳が解らない提案をされそれを総理にも報告したそう だった。

永年アメリカ側の一員として精神的にも厳しい負担となる重要且つ難しい 対日輸出交渉に従事した経験から言わせて貰えば「この一線を譲ること」 即ち「妥協点や落とし所を探る」であるとか「先方の主張を聞き入れよう とする」ような姿勢を採ることなどあり得ないのだ。感情を一切排して、 時には「論争と対立を恐れず」に自社の主張を通りとなるように説得する のが、ごく普通の交渉術なのである。更には「これを言うことで失うもの はない」という、我が国から見れば高飛車の姿勢で臨む戦法に出る同業他 社もあると聞いていた。

自慢話として受け止められても結構だが、私は本部から日本に交渉にやっ てくる者たちに言ったことは「“Be a good listener.”であって、一方的 に会社の意向の代弁者にならずに得意先の主張も聞くようにしよう」だっ た。これは既に指摘したことで、対日交渉では「先方の主張を聞くことが 良い結果をもたらすことになる」からである。だが、韓国の主張を聞くの はこれとは別個のことであろう。

上記を換言すれば「アメリカ式交渉術は概ね先手必勝方式」であって、先 ず自社にとって最も有利な条件を提示してから先方か取引先との negotiationと言うか交渉に入っていくのだ。交渉役として派遣されてき た者が事業部の責任者でない場合には「譲歩」や「妥協」などの権限は元 から与えられておらず、不調に終われば「残念でした。また会いましょ う」という次第で物別れに終わってしまうのだ。こういう交渉を感情的 (emotional)にならずに出来るのは、国民性と恐らく学校教育でdebate を学んできた結果だろうと思って見てきた。韓国の交渉術にはかなりアメ リカ式に類似した点があると思う。

そういう点から昨夜の河村建夫氏の穏やかな口調の帰朝報告を聞いていて 感じたことは「ごく一般的な国会議員の姿勢として、一切のアメリカ式先 手必勝の議論を排して自国の主張も十分且つ日本的で礼儀正しく控え目に 主張されただけではなく、李洛淵氏の主張をも誠意を以て聞かれたのだろ うと察している。私は敢えてこの礼儀正しい交渉術を批判する気はない が、少なくとも韓国側に我が国の正当性と彼らの数々の国際法違反を如何 なる口調かは別にして、真っ向から順々説き聞かせて,妥協を求めるよう な提案など受け付けて欲しくはなかった。

私が危惧する点は「1+1+α」を持ち帰ったと韓国側が知った時点で「日本 は未だ与し易し」と判断しただろうことなのだ。私がヤンワリと国会か政 府を批判することをお許し願えば、河村建夫氏のような対外国との(私が 在職中に屡々友人や知己に語った「命の遣り取りのように感じた」)国際 的な交渉不慣れだとしか思えない方をあの場に送り込んだことが適切だっ たのか)という点である。更に後難を恐れていえば「長期の議員経験と国 際的交渉能力とは同じではない」と指摘したくなるのだ。

終わりに、一般論をも兼ねて言えば「その場に臨むことで背負う責任の重 大さを感じる時に、思い切ったことを言い出して万一にも不発に終わった 場合の怖さを味わっていない人物に委任すべきではなかったのでないの か」なのである。私は20年以上も経験したが,その場に臨む時の並々なら ぬ緊張感を思い出しながら、河村建夫氏の報告を聞いていた。「河村様、 ご苦労様でした」で締め括って終わる。



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身 辺 雑 記  
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5日も曇天、太陽は何処へ行った。

東京湾岸は4日も曇天。うすら寒いのに隣の第3亀戸中学校ではプールで女 生徒たちが朝から泳いでいた。夕方、シャワーを浴びた。
               読者:6001人


















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