政治・経済

頂門の一針

急所をおさえながら長閑(のどか)な気分になれる電子雑誌。扱う物は政治、経済、社会、放送、出版、医療それに時々はお叱りを受けること必定のネタも。

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頂門の一針5136 号  2019・8・14(水)

2019/08/14



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 わたなべ りやうじらう のメイ ル・マガジン「頂門の一針」5136号
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    雀庵の「宝は天職、良妻、健児」:“シーチン”修一 2.0

      中国のアフリカ投資は公約が600億ドル:宮崎正弘

              「浜辺の歌」であわや:渡部亮次郎

                      話 の 福 袋    
                       反     響
                      身 辺 雑 記



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雀庵の「宝は天職、良妻、健児」
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“シーチン”修一 2.

【Anne G. of Red Gables/10】「石の上にも三年」というが、大企業に勤
めた友は出世街道から外れたのか、仕事はつまらなそうで、趣味に癒し、
生き甲斐を見つけていた。「石の上にも四十三年」で満期退職して「待っ
てました!定年!」ととても元気で、毎日が趣味三昧。守備範囲が広いか
ら退屈なんてまったく知らず、「♪山口さんちのツトム君 たちまち元気
になっちゃって」そのもの。



ご両親は100歳近くでも元気、本人も100歳はイケルと思っている。良かっ
たね、ツトム君。



大企業は退職金は結構あるし、企業年金と厚生年金で月間50万円くらいに
なるだろうから、生活にはちっとも困らない。住宅ローンもとっくに完済
した(資産運用に長けていたみたい)。子供1人も嫁いだ。まさに悠々自
適。つまらない仕事、気に入らない仕事でもひたすら我慢してきた甲斐が
あるわけだ。



人生で一番の幸福は「天職」に出会えることだと思う。小生の場合、時代
の巡り合わせと先輩、友人らの感化、協力、それを含めて「運が良かっ
た」とつくづく思う。



森ビル創業者に憧れて横浜市大に入ったのは1969年。東大は安田講堂事件
で入試中止、優秀な貧乏人は横浜市大に結構流れ込んできたようだ。入学
の数年前(1965年)に横浜市大の奥浩平(中核派)がマドンナ中原素子
(早稲田の革マル、高校は奥浩平と同じ都立青山)に失恋したり、運動へ
の(多分)むなしさ、挫折から自殺し、遺稿集「青春の墓標」は市大生の
多くが読んでいた。



市大も全共闘運動が盛んで入学早々新左翼連中がバリケードを築いてほと
んど授業がなく、1970年には何となくベ平連(ベトナムに平和を!市民連
合)にかかわり、現代史研究会を創ったりしていたが(横須賀港を封鎖し
ようなどと考えていた)、2年生になりアダム・スミス研究で知られる田
中正司教授ゼミ「マルクス経済学・哲学草稿研究」を選択した。



ゼミ生は6人ほどで、2人(京浜安保共闘と社青同解放派は自殺)、ずば抜
けて頭の良かった2人は肺病みで休学(自炊ができない→栄養失調→病
気)、ずば抜けて単細胞で元気だけ(+自炊得意)が取り柄だった小生は
「知性より腕力、理論より行動だ!」と思うようになり、友(黒田藩の修
猷館高校の英才。市大特待生で授業料免除。言語不明瞭、意味不明の変
人。ヒッキーを経て今は社長、大金持ち)の誘いで中核派の兵隊になり、
ゼミは崩壊、このゼミは翌年以降はなくなった。



「壮大なるゼロ」でしかなかった70年安保(6月)の後はひたすら白ヘル
中核の兵隊で、71年に遂に捕縛され、独居房でひたすら読書と日記。バカ
につける薬として友達連中が差し入れてくれた本はボルシェビキ批判の
「裏切られた革命」「クロンシュタットの反乱」「ローザ・ルクセンブル
グ」など。トロツキーもワルの一員、「昨日の同志は今日の敵、奴らは敵
だ、敵を殺せ!虫けらのように叩き潰せ!」と煽った。



71年末に保釈、刑務所を出るときは健さん映画のように刑務官が「二度と
来るなよ」と言ってくれるのかと思っていたら無言、愛想なしだった。夜
道をとぼとぼ千葉駅へ向かった。



72年は親不孝の償いのつもりで家業手伝い、73年は新左翼諸派の逮捕者を
支援する救援連絡センターで蠢き、そこのボス=中核派の幹部Aさんから
勧められて東急学芸大学駅前にある工務店相手の金物屋「中野鋼鉄店」に
勤め始めた。



そこの若旦那がある日いう、「修一君、横浜市大だってね、奥浩平の本、
読んだ? 中原素子って、僕の姉だよ」。



当時、素子は結婚して小さな子供がいた。時々実家に来ていたが、俳優の
松方弘樹と結婚した女優の仁科亜季子に似ていた。知的なお嬢様という印
象だった。



若旦那は1968年の新宿騒乱事件の被告だった。72年当時は中核派のシンパ
というか腐れ縁でカンパなどや売り物の白ヘルメットなどを提供していた。



同僚は詩人のYで、彼によって小生の脳内革命は大きく「文学志向」へ傾
いていった。不思議な縁だが、実家から勘当された修猷館野郎のTは東急
学芸大学のペンキ屋で糊口を凌いでおり、詩人はTを「ペンキ屋」と呼ん
で、仕事帰りに3人で喫茶店でだべったものだ。



そのうち仕事の関係で鳶職の親方からリクルートされ、体力、気力はある
からまあまあ仕事は覚えていった。給料も結構よかった。当時の大卒初任
給は5〜6万円、中野鋼鉄店は5.5万円ほど。鳶はきついけれど10万円ほど
にはなった。



現場で知的な仕事は図面を手にしてあれこれ指示している現場監督ぐらい
しかない。ある日、親方から、無免許で運転していた車が違法駐車で撤去
された、ついては「身代わりで警察へ行ってくれ」という。そのうち身代
わりで何を頼まれるしか知れないから辞めた。



「てめえみたいなド素人に一人口(いちにんく)のカネを払っていたん
だ、それをなんだ!」



会津小鉄会系碑文谷一家の出身という“地”は、堅気になっても半端な刺青
同様、消せないものである。まあ、普通はいい人で、2年後ぐらいに新車
を見せにきた。「今、俺、妾のところに住んでいるんだ」と自慢してい
た。車も女も新しいオモチャはうれしいのだ、男の子には。



さて、貯金は20万円ほどある。この際、専門学校へ行って一級建築士でも
目指すか、と本屋で専門学校案内を見ていて、急に編集・出版業界を目指
すことにした。運命の大転換だった。



日本エディタースクールで編集の基礎を学び、1975年(24歳)、英文和訳
の能力が評価されてT社に入社。2年間みっちり編集、記事、レイアウトな
どを仕込まれ、学び、面白くて仕方がない。「ああ、これが天職なんだ、
なんて幸せなんだろう」といつも思っていた。



ただ、同僚(社長夫人の甥)のバカさ加減にはウンザリした。ファッショ
ンとホステスにしか興味がないのだ。「バカとは一緒に仕事はできない」
と辞めた。社長は「部長から委細事情は聴いた、社業に貢献してくれてあ
りがとう、いつでも戻って来い」との手紙をくれた。



1977年、2番目の会社、K社から誘いが来て面接の際、T社社長の手紙を見
せたら「明日から来てくれ」。給料も特別に良かった。先輩、同僚は記者
としてとても能力が高く、大いに感化された。1979年には28歳で編集長
(部長)になった。



専務からは「修一っつぁん、寿司屋通いは10年早い」なんて言われたが、
専務のお気に入りの店には先輩、同僚、後輩とともに押しかけたものだ。
運よく専務が飲んでいれば「伝票はあっちに回しといて」で済んだ。いい
時代だった。



1984年、労組から「アルバイトに時給1300円は許せない」と弾劾を受け
た。アルバイトではあってもフリーの優秀な編集者だから1300円は当たり
前だと言ったところで、嫉妬、妬みに凝り固まった労組は納得しない。会
社は「騒いでいる奴らをクビにするからいてくれ」と有難い言葉をかけて
くれたが、気持ちが萎えてしまって謝辞した。社長はポケットマネーで餞
別5万円をくれた。



すぐに起業したが、最初にK社から仕事が来た。クライアントが小生を指
名してくれたのだ。次にT社から仕事が来た。有難かった。



ただ、小生の専門分野は海外旅行業界で、1980年の第2次オイルショック
以来、旅行者数が伸び悩んでおり、「新たな専門分野を開拓しないとマズ
イ」と電力産業に手を出してみたが、まったく知らない分野だから恐ろし
く効率が悪い。



起業と同時に不動産事業にも手を出したが、長期の借り手がなく不安定
だった。



本業も副業も芳しくない。起業して仕事をしても入金は3か月、4か月、時
には半年後といった具合だから運転資金に追われる。「首をくくるしかな
いか」なんていささかブルーになっていたが、ある日、ビックリする事件
が起きた。



<1985年秋の「プラザ合意」以降の急激な円高とバブル景気の後押しを受
けて海外旅行者数は90年には1000万人の大台を突破した。2000年には1782
万人と史上最高を記録した>(日本旅行業協会の依頼で小生の会社が作っ
た統計本)



干天に慈雨のプラザ合意とイケイケドンドンのバブル景気。いい波どころ
か恐らく空前絶後の奇跡的な波で、バブルは91年に一応は終わったのだ
が、98年頃まではIT革命もあってどうにか残り火でやっていけたのだ。



お荷物になりかねなかったビルは結果的にはバブル前に建てたから安く上
がったし、コンビニ各社にセールスをかけてファミリーマート(当時は首
都圏で50店舗しかなく、セブンに追い付け追い越せで拡大路線の真っ最
中)が長期テナントとなり、ホッとした。



始発で出社、終電で帰宅、徹夜、3か月休みなし、GWや年末年始休みな
し・・・当時はそれなりのやり手は皆こんな風だった。「血尿が出て一人
前」「足の皮がぺろりと向けた」なんていう話しもあった。



スタジオでCFを徹夜で作っていると、元請けの広告代理店の部長がひょっ
こり来て、寝ている部下2人を殴っていた、「修一さんが頑張っているの
にお前ら何してるんだ!」。そういう時代だった。



大好きな仕事、まるで絶叫マシンやスポーツの試合みたいな楽しくてスリ
ル(納期!)満点の天職は、2001年の米国同時多発テロでオシマイになった。



当時、小生のクライアントには米大陸のUSエアウェイズ、サウスウェスト
航空、アエロメヒコ、ランチリ航空、欧州のブリティッシュミッドランド
航空などがあったが、9.11同時多発テロで多くのクライアントが販促を停
止、3か月後にはわが社の売上は通常の4分の1になってしまった。



この先、業界がどうなるのか、テロが起きるかどうか次第で、全然分から
ない、銀行は「融資できません」、カナダの旅行会社が会社をたたん
だ・・・まだ生きているうちに会社を清算するしかないと2001年12月末で
1984年から17年間、小生を楽しませてくれた「天職」はフェイドアウトした。



2002年末までに元社員が起業した会社に仕事を引き継いでもらい、2003年
に胃がん手術と療養、2004年から“ペンキ屋”の東京進出を手伝い、2009
年、母の介護のため58歳でリタイアした。



こうして振り返れば「天職」に出会えたことは誠に幸福だった。カミサン
も良く協力してくれ、子供というか豚児3人も所帯を持った。「妻は戦時
(子育て戦争)にあっては同志、平時にあっては敵(イヤミ、ヘイト
屋)」だが、まあ、やがて介護をしたり、してもらう同志になるのだろう。



長くなったので今回はこれでオシマイ。ああ、面白かった。いつくたばっ
てもいいや、と思いつつ後妻を探している自分を「ずいぶんな奴だなあ」
と半ば呆れている。ミユキか、レイコか、ミチコか、マドンナか・・・カ
ミサン曰く「お金儲けてドンファンになったら」。一服盛られて大往生と
いうのも面白そうだ。(つづく)2019/8/13



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中国のアフリカ投資は公約が600億ドル
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
令和元年(2019)8月12日(月曜日。振替休日)
        通算第6168号
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中国のアフリカ投資は公約が600億ドル、実態は88億ドルと言われたが、
過去二年間でIMFと当該国家との交渉により、中国は相当額の債券放棄
をしていることが判明した。

中国の最大のアフリカ投資はアンゴラ(海底油田)、ついでエチオピアで
ある。これに続きコンゴ、ジンバブエ、スーダンなどと言われる。

エチオピアへの中国の融資額は137億ドル。このうち33億ドルがジブチへ
の鉄道建設に廻され、すでに鉄道はアジスアベバからジブチまで開通して
いる。

エチオピアは償還期限が来ても、外貨準備がない。ジブチは担保として中
国軍の軍事基地を提供している。

レアメタル、とくにコバルトの鉱山を抑えるために中国はコンゴへ25億ド
ルを投資した。IMFとの交渉では4億4900万ドルの債券放棄を迫られた。

カメルーンへは7800万ドルの投資が宙に浮いた。ボツアナには7200万ド
ル、ソレトへの1060万ドル、スーダンへの1億6000万ドルが債券放棄と
なった模様だ。

アフリカ全域への無謀な投資の結末は、およそ22億ドルの債券放棄となっ
ており、4月に開催された「シルクロード國際フォーラム」において、習
近平が具体的な援助数字を述べることが出来なかったことは記憶のあたら
しい。

まさに「一帯一路」をあらわすBRI(BELT ROAD 
INITIATIVE)はDRI(DEBT ROAD 
INITIATIVE)となった。
    
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1938回】                  
 ――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(31)
鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

              △
「外國留學生の失敗である」がゆえに、「支那に於て外國文明に對する反
動が起つて來た」。その原因の1つは「支那人にして外國文明を輸入した
る留學生の實力が乏しかつた」ことであり、残る1つは「支那に來てゐる
外國人が從來の如き五光をさした神壇から引き摺り卸されたといふことで
ある」。

これまで「全く西洋文明に無理解であつた」から、「歐米の最新知識を
賣藥の萬能膏の如くに崇拝した」。だが「?育の進歩は、支那人の知識と
外國人の知識との距離を接近せしめた」ことで、「東洋本來の面目に立ち
歸つて、彼等は新しき眼を開いて外國人を熟視した」。そこで西洋人の本
然の姿に気づいた結果、若者の中から「支那の文學を革命して、新しき生
命あるものとしなければならぬといふ」文学革命運動が起こった。

「斯の如くにして支那人は、支那人の支那といふ言葉に復活しやうとして
ゐる」。

新しい視点に立って既往の文明を捉え直し、「偏見と因襲とから脱却した
批評眼を以て研究しやうと試み」がなされ、西洋文明に対しても新しい考
えが起こってきた――新しき潮流は、「日本の過去に於て起つたと同じ運動
である」。

そこで「日本の新しき文明の研究といふ事」に行き着いた。北京大学教授
の周作人が「日本文學系なる新講座を北京大學に創設して、日本文學の研
究を始めたことは、その一例であ」り、若者が日本語研究を始め、日本の
新聞雑誌小説に興味を持ち、「吉野博士の議論や、有島武郎氏や、武者小
路実篤氏の小説が、支那人に讀まれるやおうになつたのも、その一例であ
る」。

このように「日本の新文化運動が支那の新文化運動と接近すべき運命を以
て次第に近づいて來た」わけだが、一連の動きは、「日支親善といふやう
な月並な目的の爲に、不自然に養成されたところの潮流」ではなく、「眞
理を索める人間の已み難き慾求から發して居る」。

かくして鶴見は、「日本に甞て留學した年若き教授たち」が若者の「思想
的中心とならむとしている」状況に、「東洋文化再興の爲に、新しき望み
の火の手を揚げるもの」と大いに期待を寄せた。

だが、その後の両国の辿った歴史を考えれば「東洋文化再興」は夢のま
た夢だったように思う。

いや、そもそも「再興」すべき「東洋文化」とは具体的に何を指すのか。
この辺りを精緻に突き詰めない限り、「東洋文化再興」は曖昧模糊たるス
ローガン、あるいは夢物語に終わってしまう運命にあるように思える。と
どのつまり「東洋文化」とは日本人が思い焦がれながら描きだした蜃気楼
ではなかったか。

とはいえ、矢張り鶴見の視点は興味深い。それというのも「『一體、日
本人は何故こんなに支那人に憎まれるのでせう』といふ質問を、自分は無
遠慮に大勢の支那人に出してみた」というのだから。

すると日本でも名の通った政治家は、ロシア・イギリス・フランスの
「侵略主義に比べて、日本が特に惡かつたと自分達も考へない」が、日本
とは事情が違う。

それらの国々によって「支那全體を奪はれるといふ感じは起らない」。だ
が「日本が滿洲に蟠居し、山東を占領するといふことであれば、吾々はい
つ何時支那の本土を侵略せられるかも知れないといふ虞が終始起つて來
る。故に日本の一不正行爲に對しても吾々が躍起となつて攻?する所以で
ある」と応じた。

この主張が腑に落ちない鶴見は、「自分の久しく尊敬していた王景春君」
に同様な質問をしたのである。

すると王は「ゐずまひを正して」、「それは一言にして盡きる。現代支那
のナショナリズムの自覺の故である」。「今吾々支那人は最近數年來始め
て支那國民又は中華民國といふ國家意識乃至民族意識を強烈に意識するや
うになつた」と口にしたのだ。《QED》
       
   
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「浜辺の歌」であわや

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     渡部亮次郎

ある日、米内沢(よないざわ)で作曲家、故成田為三の記念音楽祭があ
る、と聞いた。まだテレビが地方まで普及していない時代。音楽祭という
のはどんなのか知らないがラジオにとってはうってつけの素材だろう。

ところが下宿で調べると録音テープが底をついているではないか。早速秋
田の局へ電話して、客車便で送ってもらう手配をした。夜9時ごろの奥羽
線下り急行で大館駅に到着することになった。

大学を出てまだ1年目とはいえ、既にいっぱしの酔客になっていた。
急行が到着するまで時間がある。一杯飲み屋で日本酒を飲み始めた。
銚子で2−3本は確かに飲んだ(酔った)。

時計を見て、自転車に跨った。坂道を下って駅を目指した。間もなくタク
シーにはねられて道端に吹っ飛んだ。新品の自転車はくちゃくちゃ。そこ
は坂下の十字路。確かに即死しても可笑しくなかったが、起き上がってみ
たら、額に小さな瘤ができているだけで亮次郎はちゃんと生きていた。

多分、酔っていたために無抵抗だったのがよかったのだろう。翌日は汽車
で米内沢をめざし、音楽祭の一部始終を録音して事無きを得たのであっ
た。デスクには秘匿した。老齢になって初めて人に語る真実である。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、成田 為三
(なりた ためぞう)は1893(明治26)年12月15日―1945(昭和20)年10月
29日)秋田県出身の作曲家。

秋田県北秋田郡米内沢町(現在の北秋田市米内沢)の役場職員の息子とし
て生まれる。1909(明治42)年、鷹巣准教員準備場を卒業、秋田県師範に
入学。同校を卒業後鹿角郡毛馬内小学校で教鞭を1年間執る。

1914(大正3)年、上野にある東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入
学。在学中、ドイツから帰国したばかりだった在野の山田耕筰に教えを受
けた。1916年(大正5年)頃、『はまべ(浜辺の歌)』を作曲。

1917(大正6)年に同校を卒業。卒業後は九州の佐賀師範学校の義務教生
をつとめたが、作曲活動を続けるため東京市の赤坂小学校の訓導となる。
同時期に『赤い鳥』の主宰者鈴木三重吉と交流するようになり、同誌に多
くの作品を発表する。

1922(大正11)年にドイツに留学。留学中は当時ドイツ作曲界の元老と言
われるロベルト・カーンに師事、和声学、対位法、作曲法を学ぶ。

1926(大正15)年に帰国後、身に付けた対位法の技術をもとにした理論書
などを著すとともに、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普
及を提唱し、輪唱曲集なども発行した。

1928(昭和3)年に川村女学院講師、東洋音楽学校の講師も兼ねた。
1942(昭和17)年に国立(くにたち)音楽学校の教授となる。1944(昭和
19)年に空襲で自宅が罹災、米内沢の実兄宅に疎開する。生家は阿仁川へ
りにあったが1959(昭和34)年に護岸工事で無くなっている。

実家で1年の疎開生活を送った後、1945(昭和20)年10月28日に再び上京
するが、翌日脳溢血で53歳の生涯を閉じる。葬儀は玉川学園の講堂で行わ
れ、国立音楽学校と玉川学園の生徒によって「浜辺の歌」が捧げられた。

遺骨は故郷の竜淵寺に納骨された。故郷の米内沢には顕彰碑が建てられ、
「浜辺の歌音楽館」で為三の業績を紹介している。

「浜辺の歌」や「かなりや」など歌曲・童謡の作曲家、という印象が強い
が、多くの管弦楽曲やピアノ曲などを作曲している。しかし、ほとんどが
空襲で失われたこともあり、音楽理論に長けた本格的な作曲家であったこ
とはあまり知られていない。

愛弟子だった岡本敏明をはじめ研究者の調査では、作品数はこれまでに
300曲以上が確認されており、日本の音楽界で果たした役割の大きさが再
認識されつつある。2012・5・1


        
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中国国防白書、対米戦勝利への決意
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          櫻井よしこ

中国が7月24日、4年ぶりに国防白書、「新時代における中国の国防」を発
表した。米国への強烈な対抗意識を剥き出しにした同白書は、2017年12
月、トランプ大統領が発表した「国家安全保障戦略」、続く19年1月に米
国防総省が発表した「中国の軍事力」の報告に、真っ向から対抗するものだ。

トランプ政権は中露両国を米国の安全と繁栄を侵蝕する脅威だと定義し
た。国際法や戦後の世界秩序を否定して、力で現状変更を試みるのが中国
を筆頭とする国々だと名指しで非難し、米国主導の体制を守り通さなけれ
ばならないと謳い上げたその米国に、中国が立ち向かっているのが今回の
白書である。

同白書は、新時代の中国の国防は習近平国家主席の「強軍思想」に全面的
に従うことによって成されるべきだと繰り返し、強調している。

「戦えば必ず勝つ」強い軍を作るために高度の技術革新を行い、情報化を
徹底して「軍事革命」を完遂することを掲げている。

目標は2020年までに戦略構築能力を顕著に磨くこと、35年までに軍事戦
略、軍組織と人材、武器装備体系の近代化を成し遂げること、21世紀半ば
までに世界最高水準の軍を創ることである。

習氏はなぜ、このようにあからさまに軍拡を強調するのか。理由のひとつ
は、国内政治基盤が盤石ではなく、強気の政策で求心力を高めなければな
らないからだとの指摘がある。習氏の強気の構えが、白書では軍拡の責任
をすべて米国に押しつける形となって表れている。以下のように、米国が
一方的な軍拡路線を突き進んでいると非難するのだ。

「米国の挑戦で主要国間の競合が激化した。米国は核能力を増強し宇宙、
サイバー、ミサイル防衛を進め、世界の戦略的安定を損ねている」

そもそも国際社会の軍事的緊張は、中国が過去30年間、世界史の中でどの
国も行ったことがないような大軍拡を続けてきたことに起因するとの自覚
はどこにも見られない。

「一番ダーティな仕事」

台湾情勢についても、台湾が「米国の影響」を虎の威のように借りて頑強
に独立を志向している、と中国は断ずる。台湾は92年合意を認めず、中国
との関係を切り、独立を手にしようとする。憎悪の対立を深めるこれら分
離主義者は中国の安定を最も深刻かつ直接に脅かすと、言葉の限り、非難
している。チベット独立、東トルキスタン(ウイグル)独立も中国の安全
保障と社会の安定において同様に脅威だと非難する。

米国を秩序と安定を乱す勢力として厳しく責めるのとは対照的に、中国自
身の軍事力はあくまでも防衛と平和維持のためだと言い張るのだ。

たとえば第一章の「国際安全保障の状況」の中では、「アジア太平洋諸国
は運命共同体の一員としての自覚を強めている」として、南シナ海の情勢
をバラ色に描いている。

「南シナ海情勢は安定しており、沿岸諸国のリスク管理は適切になされ、
相違は超越され、均衡と安定、開放性を備えたアジア安全保障の枠組みに
多数の国々が包摂されている」という具合だ。

他国の島々を奪い続ける中国に不満を持ちながらも、弱小国であるが故に
十分な抗議ができないベトナムやフィリピンを持ち出すまでもなく、南シ
ナ海情勢が安定しているとは、中国以外の国々は考えないだろう。

ここで私は、静岡大学教授の楊海英氏が雑誌『正論』9月号で語った言葉
に深く納得する。氏は「中国という国はいつも世界で一番美しい言葉を
使って一番ダーティな仕事をします」と喝破したのだ。

中国の内モンゴルに生れた楊氏は、モンゴルの人々が中国共産党から受け
た信じ難い迫害の詳細な調査を長年続けてきた。だからこそ氏の中国観察
には真の力がある。中国の国防白書には楊氏が指摘したように、背後に暗
い闇を隠した美しい言葉がちりばめられている。

再度南シナ海を見てみよう。日本のタンカーは石油を満載してホルムズ海
峡からインド洋を東進し、マラッカ海峡から南シナ海南端部に入り、台湾
海峡またはバシー海峡を通って日本に到達する。

日本の生命線の一部である南シナ海を、中国は均衡と安定を特徴とする開
かれた海だと白書に謳った。だが、約ひと月前の7月2日、中国は同海域で
対艦弾道ミサイル東風(DF)21Dと、東風(DF)26の2発を発射し
た。対艦弾道ミサイルは中国だけが配備する特殊な兵器だ。

中国大陸から発射されたDF21Dに関しては、江蘇(こうそ)省南京と広
東省韶関(しょうかん)に各々一個旅団が配備されている。射程は1500キ
ロ、南シナ海全域はカバーできないが、空母キラーと呼ばれて恐れられて
いる。

台湾の次は尖閣と沖縄

なぜ、空母キラーか。DF21Dはイージス艦に搭載される弾道弾迎撃ミサ
イルのSM3なら撃ち落とせる。だが、イージス艦に搭載できるSM3の数
は限られており、中国が同時に多数のDF21Dを発射すれば、防御は困難
で空母への大きな脅威となるのだ。

DF26も脅威だ。射程4000キロで、南シナ海全域をカバーする。無論、日
本も射程内だ。核弾頭と通常弾頭の両方を搭載可能で、彼らはこれをグア
ムキラーと呼んでいる。

中国軍は彼らの最新兵器であるこの東風ミサイルを正確に撃ち込むため
に、ゴビ砂漠に空母を象(かたど)った目標を建築し、日々、訓練したと
いう。

こうして見ると、「南シナ海情勢は安定」という中国の主張は、南シナ海
が中国の支配する海になりかけているという意味だと思えてくる。万が
一、そうなった場合、日本のタンカーも商船も負の影響を受けずには済ま
ないのは明らかだ。

南シナ海の東北の出入口に当たる台湾はどうか。習氏は今年1月、台湾は
香港と同じく「一国二制度」を受け入れよ、台湾独立の動きには軍事力行
使の選択は除外できないと演説したが、まったく同じ主旨が白書にも明記
された。

「何者かが台湾の分離独立を目論むなら、いかなる代償も惜しまず、国家
統一を守る」と、蔡英文台湾総統に向けて、青白い炎のような恫喝を放っ
た。台湾が中国の手に落ちれば、次は尖閣と沖縄であり、長崎県五島列島
だと考えなければならない。

中国の白書は実に多くの警告を日本に突きつけている。中国は米国と全力
で覇を競い続けるだろう。当面中国に勝ち目はないが、中・長期的に、仮
に中国が覇者となったとして、その支配する世界は日本やアジア諸国に
とって不幸のどん底の世界になるだろう。一国二制度の実態も、民主主義
を約束する中国の言葉の欺瞞性も、私たちは既に知っている。

だからこそ、我が国は米国との協調を密にし、一日も早く、軍事を含むあ
らゆる面で日本自体の力を強化しなければならない。

『週刊新潮』 2019年8月8日号 日本ルネッサンス 第863号




━━━━━━━
重 要 情 報
━━━━━━━

◎「少し韓国の話題から離れよう」と思って:前田正晶
勝ちに不思議あり」か?

12日は当方にとっては何の有難味がないどころか、有害でしかなかった3
連休の最終日だった。しかも追い打ちをかけて本日は新聞休刊日と来た。
だが、あの酷暑ではウッカリ外に出るのを躊躇わさせられるものがあっ
て、昼間は高校野球を見て過ごしていた。最も興味深く且つ勝負の恐ろし
さと面白さを味合わせて貰ったのが、智辯学園(奈良)と八戸学院光星の
試合だった。野村克也が得意とする台詞の「勝ちに不思議あり、負けに不
思議なし」を当て嵌めようと思えば、矢張り負けた智辯学園の方が弱かっ
たという結論になる。だが、本当に勝負の怖さがまともに出た試合だった。

私の閃きでは「光星の勝ち」と出ていたが、光星が7対1と大量のリードと
なったところで「6点差では不十分」と密かに心配していた。すると、果
たせるかな智辯学園は1回で7点を取って反対にリードする優位な立場と
なった。後は光星が如何にして8回と9回に再逆転するかだけとなった。こ
こから先が勝負の怖いところで、9回の満塁のチャンスに出てきた打者は4
番打者なのだが、代走だったかで甲子園初登場の3年生だった。その補欠
選手が1球目を叩いて猛烈な一塁ゴロとした。それを一塁手が脚に当てて
捕りきれずに決勝打にしてしまった。

補欠を4番に入れてしまったところが、そういう所で決勝打を放つ辺りが
勝負の怖さであり、妙味があるところだ。と言う事は「光星」の方が強
かったのであり、腕でツキを消さなかった事になってしまったのがあの試
合での強さだったのだと思っていた。それにしても、進学校であると聞く
智辯学園は和歌山も出てきているのは凄いと思う。

夜はPrime Newsまでの間、阪神に2連敗してしまった広島が、活気を取り
戻した読売とどのような勝負をするかの、ただ一点の興味で見る事にして
いた。ところが先発投手にアドウワを起用してきたのを見て「これは
ひょっとして緒方監督は捨て試合にする気か」と、興味半減以下になって
しまった。そして案の定、このアドウワ投手は1回に4点取られて試合をぶ
ち壊してしまった。一方では原監督が久しぶり使った山口俊が決して出来
が良くなかったので、アドウワ君を使わざるを得なかった広島の投手日照
りが敗因だった。山口は3回で引っ込められてしまった。

これは何度も指摘して来た事で、広島は丸佳浩に逃げられた空白を未だに
埋め切れておらず、バチスタを使っているようでは読売を追い越せる訳に
は行くまいと思う。理由は簡単で「外国人はどれほど仕込んでも、言って
聞かせても『自分第一』という思い込みというか思考体系から抜ける事が
出来ないのだと思う。日本式の野球のテイームバッテイングとかじっくり
と自分が狙っている投球が来るまで待っているという根気のよさはなく、
ただひたすら投手と勝負に行ってしまうのだから、平気で打っても前に飛
ばないような難しい球種にも手を出して自滅する」傾向があるのだ。



12日夜の敗因の一つに挙げても良い事は「4番打者の鈴木誠也が、ここぞ
という好機に元高野連会長の脇村春夫君があれほど強調していた『見逃し
の三振』を2度もした事」を挙げておきたい。脇村君は「バットに当てて
前に飛べば何かが起きるはずだ」と繰り返し指摘していた。昨夜も解説の
槇原は当たってゴロになればフライとは違って、野手は捕球して更に投げ
ると二重手間になるではないか」と指摘して鈴木を批判していた。こうい
うのをまともな解説というのだと、槇原を褒めておきたい。広島は腕で勝
負運を消してしまった感が濃厚だった。


◎「少し韓国の話題から離れよう」と思って:前田正晶
勝ちに不思議あり」か?

12日は当方にとっては何の有難味がないどころか、有害でしかなかった3
連休の最終日だった。しかも追い打ちをかけて本日は新聞休刊日と来た。
だが、あの酷暑ではウッカリ外に出るのを躊躇わさせられるものがあっ
て、昼間は高校野球を見て過ごしていた。最も興味深く且つ勝負の恐ろし
さと面白さを味合わせて貰ったのが、智辯学園(奈良)と八戸学院光星の
試合だった。野村克也が得意とする台詞の「勝ちに不思議あり、負けに不
思議なし」を当て嵌めようと思えば、矢張り負けた智辯学園の方が弱かっ
たという結論になる。だが、本当に勝負の怖さがまともに出た試合だった。

私の閃きでは「光星の勝ち」と出ていたが、光星が7対1と大量のリードと
なったところで「6点差では不十分」と密かに心配していた。すると、果
たせるかな智辯学園は1回で7点を取って反対にリードする優位な立場と
なった。後は光星が如何にして8回と9回に再逆転するかだけとなった。こ
こから先が勝負の怖いところで、9回の満塁のチャンスに出てきた打者は4
番打者なのだが、代走だったかで甲子園初登場の3年生だった。その補欠
選手が1球目を叩いて猛烈な一塁ゴロとした。それを一塁手が脚に当てて
捕りきれずに決勝打にしてしまった。

補欠を4番に入れてしまったところが、そういう所で決勝打を放つ辺りが
勝負の怖さであり、妙味があるところだ。と言う事は「光星」の方が強
かったのであり、腕でツキを消さなかった事になってしまったのがあの試
合での強さだったのだと思っていた。それにしても、進学校であると聞く
智辯学園は和歌山も出てきているのは凄いと思う。

夜はPrime Newsまでの間、阪神に2連敗してしまった広島が、活気を取り
戻した読売とどのような勝負をするかの、ただ一点の興味で見る事にして
いた。ところが先発投手にアドウワを起用してきたのを見て「これは
ひょっとして緒方監督は捨て試合にする気か」と、興味半減以下になって
しまった。そして案の定、このアドウワ投手は1回に4点取られて試合をぶ
ち壊してしまった。一方では原監督が久しぶり使った山口俊が決して出来
が良くなかったので、アドウワ君を使わざるを得なかった広島の投手日照
りが敗因だった。山口は3回で引っ込められてしまった。

これは何度も指摘して来た事で、広島は丸佳浩に逃げられた空白を未だに
埋め切れておらず、バチスタを使っているようでは読売を追い越せる訳に
は行くまいと思う。理由は簡単で「外国人はどれほど仕込んでも、言って
聞かせても『自分第一』という思い込みというか思考体系から抜ける事が
出来ないのだと思う。日本式の野球のテイームバッテイングとかじっくり
と自分が狙っている投球が来るまで待っているという根気のよさはなく、
ただひたすら投手と勝負に行ってしまうのだから、平気で打っても前に飛
ばないような難しい球種にも手を出して自滅する」傾向があるのだ。

12日夜の敗因の一つに挙げても良い事は「4番打者の鈴木誠也が、ここぞ
という好機に元高野連会長の脇村春夫君があれほど強調していた『見逃し
の三振』を2度もした事」を挙げておきたい。脇村君は「バットに当てて
前に飛べば何かが起きるはずだ」と繰り返し指摘していた。昨夜も解説の
槇原は当たってゴロになればフライとは違って、野手は捕球して更に投げ
ると二重手間になるではないか」と指摘して鈴木を批判していた。こうい
うのをまともな解説というのだと、槇原を褒めておきたい。広島は腕で勝
負運を消してしまった感が濃厚だった。


◎暑くなった車内の温度を下げる方法

猛暑が続くこの時期、駐車場内の車内温度は上昇し、車に置き去りにさ
れた乳幼児の熱中症事故も起きている。社団法人日本自動車連盟(JAF)
のテスト(2012年8月実施)によると、炎天下でエアコンなど空冷の対策を
しないで駐車する場合、車内空気の温度はボディ色で異なるが、車内最高
値が52℃〜57℃、車内平均値が47℃〜51℃に達する(*1)。

折しも2019年8月9日夕刻NHK総合TVで、暑くなった車内の温度をエアコン
使用前に素早く下げる方法が放映された。その方法は、助手席の窓を全
開、運転席側の窓を全閉し、運転席側ドアを5回程度開け閉めするという
ものである(解説担当はJAF(*2))。これは運転席側のドアを素早く締め
ることで、運転席近傍の空気にモーメンタムを与え、助手席側の窓から車
内の熱い空気(熱気)を強制的に押し出す方法で、一種のアクティブ法
(強制的空冷法)である。これに関連し私は2008年7月12日テレビ朝日の
番組“賢(かし)コツ”で、「人生賢くエコドライブ“のタイトルで、パッシ
ブ法(受動的空冷法)を積極的に取り込んだ方法を解説した(*3)。

一般に流体が物体と接して流れている場合、流体分子は物体表面上で静止
(粘着)しており、この性質は流体の粘性と言われている。この性質は流
体の粘り濃さで、例えば油は水より粘性が大きく粘っこい、空気の粘性は
水より小さくさらさらしている。つまり車内の熱気(空気)は、車内壁面
上では空気の粘性によって静止し壁に粘着している。そのため運転席側ド
アを開ける場合、ドア内壁面に粘着している空気分子が剥離しないように
ゆっくり開けることが肝要で、もし剥離が起こるとその領域に外気が入り
込んできて、車内の熱気の排き出し容量が低下してしまう。こうして運転
席側ドアを静かに開けることで、運転席側ドア近傍の熱気を省力的に効率
よく引き出すことができる。すると車内における質量保存則に基づいて、
運転席側ドアから引き出された熱気と同量で、かつ車内より低温の外気
が、助手席側窓から自然に(強制的ではなくパッシブに)車内に流入して
くる。

この後、ドアを閉めるステップでは、2つの方法(パッシブとアクティ
ブ)があるが、時間的物理的効率の観点から従来通りのアクティブ法、即
ちドアを素早く閉じて運転席側近傍の空気にモーメンタムを与え、その
モーメンタムで車内の熱気を助手席側窓から押し出す方法がベターであろ
う。パッシブ法の場合、運転席ドアの空いている部分からの空気の流出が
考えられ、助手席窓からの車内熱気の追い出し効率の低下が懸念されるこ
とに加え、ドアに粘着した空気が剥離しないようゆっくりドアを閉じるこ
とで時間がかかり、すぐにでも発車したいドライバーの心境を鑑みると現
実性に乏しいことが懸念される。但し上記前者の効率低下について、定量
的には流体力学的実験ないしは計算機を用いたシミュレーションが望まれる。

NHKで放送された方法では、運転席側ドアを開閉する際に、開ける時と閉
める時とで違いが特段言及されていないのに対し、本法では流体力学的考
察に基づいて、運転席側ドア開ける際にドアに付着している車内の熱気が
ドアから剥離しないようゆっくり開け、閉める時はNHKの放映と同様に運
転席側ドアを素早く閉じて運転席側ドア近傍の空気にモーメンタムを与える。

以上の考察に基づき、より省力的効率的方法を要約すると次のようになる:

助手席の窓を全開、運転席側の窓を全閉にした状態で、“運転席側ドアに
付着している車内の熱気がドアから剥離しないように”を意識して、運転
席側ドアをゆっくり開け、その後素早く閉じる。この動作を5回ほど繰り
返す。酒井勝弘 大学名誉教授 (本庄市在住)

◎文在寅大統領の何処までやるの:前田正晶

韓国と文在寅大統領は本当に変わっていると思う。この度は明らかに報
復措置である我が国向けの輸出を規制する処置を発表した。即ち、優遇国
から一つ格を下げるというもの。それは我が国が輸出手続きの変更を発表
した際に猛抗議をして、WTOに提訴すると息巻いた事と全く同じやり方な
のである。では、我が国がWTOに提訴はしないだろうが、かかる自己矛盾
を平気で犯してくる大統領であり国家なのだ。しかも、文在寅大統領は国
民に「感情的にならぬよう」と呼びかけていた。

韓国の政府筋は事ここに至ればGSOMIAなどは破棄するのが当然とまで言い
出した。「欽チャンの何処までやるの」を真似れば、、将に「文在寅さ
ん、何処までやるの」だ。極端な見方をすれば「文在寅大統領は国交断
絶」までを視野に入れているのか、あるいは既に指摘したように彼は来年
の選挙で大勝して憲法を改正して習近平主席並みに大統領の再任を合法化
しようと企んでいるかのようだ。その為には是が非でも「反日と抗日」の
姿勢を維持し続けねばならないのだろう。

今回の輸出管理手続きの変更を見て、我が国の韓国からの輸入は如何な
る状況かを検索してみた。18年の統計では総額81兆円の中で韓国は5位
で、金額にして3,550億円で全体の4.6%を占めていた。その約半数が軽油
だったのは意外だったが、これは韓国以外からの輸入は可能という意見も
出ていた。なお、1位は中国で19兆円で23%を占め、アメリカが2位で9兆
円で比率にして11%弱だった。最も面白いと感じた意見は「我が国はアメ
リカで禁輸にしている海苔を輸入しているが、この輸入の手続きに長期間
を要すれば最も困るのがこれを我が国で販売している韓国の小売業者では
ないか」だった。

閑話休題。テレビなどに登場される専門家の中には「対韓国問題に落とし
所はあるのか」と言われる方がおられた。「ある訳がない」というのが大
方の見解だ。翻って韓国側を見れば、文在寅大統領が就任以来積弊の精算
などと称してここまで拗れさせておきながら、アメリカに仲裁を求めてい
るのだ。しかもトランプ大統領は日頃の一刀両断的な表現の仕方ではな
く、我が国と韓国の何れの肩を持つ事を回避されて「仲良くするように」
と言うに止まっている。これではあれほど協力し支援してこられて安倍総
理の顔をお立てになる意志がないとしか見えないのが残念だ。

ところで、私独特の見方では「落とし所」があるのではないかと言える
のだ。それは「我が国も韓国も輸出手続きの変更を中止して元の形に戻
し、安倍総理と文在寅大統領が緊急の首脳会談を行ってこれまでの泥沼化
した状況から脱出すべく65年の条約にも付いた話し合いを実行し、韓国は
大法院の不当な判決を破棄して差し戻しとして、方々に違法に設置した少
女像なるものを至急に撤去し、レーダー照射問題での虚言も撤回して詫び
を入れる事」辺りである。こういう落とし所に文在寅大統領が賛成するだ
ろうか。そんな事がある訳があるまい。

故に、12日夜のPrime Newsで何方かが言っておられたように「文在寅大統
領の在任中には事態の好転などあり得ない」というのが非常に遺憾なが
ら、今日の我が国対韓国の間柄なのである。文在寅大統領の手法を見れば
「損か得か」というような経済的な視点には立っていないようだ。経済的
に苦境に追い込まれる事など意に介しておられない様子だ。

◎外国との交渉では曖昧さを排除して断定的に発言しよう:前田正晶

今回は文化比較論でもあるかと思って頂きたい。11日にアメリカエスパー
国防長官の「海洋安全保障イニシャティブ」への参加を要請されたことに
対して、総理も原田防衛副大臣も「総合的に慎重に検討する」という答え
方で対応されていた。この答え方に対して畏メル友の佐藤氏は「曖昧であ
る」との見解を表された。私も全くその通りだと思う。アメリカのような
二進法的思考回路の持ち合わせがないわが国の文化では「イエスかノー
か」の即答が出来ぬ局面にある時は、このような曖昧な答えが返ってくる
と経験上も解っている。決して「正式な回答は某日某時刻までお待ち下さ
い」という、曖昧ではなく断定的である表現も先ず出てこない。

私は1972年にアメリカの会社に転進して、この二進法的思考体系で常に
「白か黒か」や「実行するのかしないのか」等々の決断をあっけなく決め
つけて、断定的に言う人たちの集合体である世界に入っていたのだった。
しかしながら、この頃では相互の文化と思考体系の相違などには全き気付
く余裕もないままに、そういう自意識もなく彼らのイエスかノーかをアッ
サリと決めて断定的に物を言う文化に染まっていたのだった。それは転身
後2〜3年を経て出会った昔の上司に「良くそこまで断定的に物が言えるも
のだな」と感心されても、何を言われてるのか全く解らなかった。

今にして思えばなのだが、その頃でも既にアメリカ式の二進法的思考体系
に嵌まっていたのだった。それ故に無意識的に我が国とアメリカとの思考
体系を表している特徴の一つである「曖昧さ」排除した思考体系に影響さ
れ、それに基づいた発言になっていたのだということのようだ。日本人同
士では細部まで言わずとも「有無相通ず」で理解し合えるだろう。だが、
アメリカ人には事細かに言うべき事柄を全て省略することなく「ここまで
言わなくとも解ってくれるだろう」というようなことを期待せずに断定的
に主張しないと、先ず言いたいことを理解されることはないだろう。

余程日本のビジネスパーソンたちの曖昧で断定を避けた表現の仕方に慣れ
ているアメリカ人を除けば「日本の交渉相手の人たちたちの交渉は当日の
課題の核心(heart of the matterと言ったりsweet spotなどと言う者も
いました)の周りをぐるぐる回っているだけで具体性がなく、何時まで
経っても何が言いたいか解らない」と苛立つってしまう者もまた多かった
のだ。このようなアメリカ人に対しては、日本人社員が余程しっかりとし
た介添えの任務を果たしてやらないことには「お互いに時間の浪費だっ
た」という結果に終わる危険性が高いのだ。

私はこういう曖昧な姿勢が諸外国には通じないと、もう解っても良い頃で
はないかと期待している。あるいは、総理以下既にお解りであっても、敢
えて曖昧さで閣内で検討する時間を出そうとお考えかなとも想像してい
る。もしも“We will kick your proposal around among us,
comprehensively and prudently.”などと訳して伝えていたのであれば、
エスパー新長官は「答えになっていない」と、さぞかしご不満だっただろ
う。だが、現実にはそういう交渉事を経験していない方々が政治家で事に
当たっていたのでは前に進まないだろう。では、河野外相のように英語が
話せれば良いかという問題でもないと思うよ。

話は一寸逸れるが11日の朝のフジテレビに櫻井よしこさんと登場した橋下
徹氏が「韓国の弁護団が差し押さえた三菱重工等の資産を換金するという
のならば、日本国内の韓国の企業の資産を差し押さえると言えば良い。だ
が、これは法的には無理なことだが」と語っておられた。この発言を例に
挙げたのは「これくらいにハッキリと物を言う度胸が国際的な交渉事では
必要だろう」と言いたかったからだ。私は実際に経験したから言えるのだ
が、我が国の顧客との重要な交渉事の場で日本人社員がアメリカ側にに有
利な条件を提示する発言をするのは、非常に恐ろしくもあるしストレスフ
ルであれば、度胸を要するものなのだ。でも、言わねばその場にいる意味
がないのだ。

在職中には「日本人の私が日本の企業の方と命の遣り取りのような交渉を
するのは色々な意味で精神的にも大きな負担である。だが、そうは言って
いられない。何しろ、私はそれやり遂げる為に雇われているのであり、そ
れ即ち、彼らが常に言う“I am paid for that.“だから」と気を許してい
た人には個人的に語っていたのだった。私が失礼を顧みずに不安を表明す
れば「これまでに余りにも上品且つ温和しく交渉に当たってこられた外務
省の公達に、韓国を相手にそこまで断定的に物事を主張して説得する傍
ら、我が国の正当性を諸外国にズバリと訴え出て貰えるだろうか」という
点だ。

◎外国との交渉では曖昧さを排除して断定的に発言しよう:前田正晶

今回は文化比較論でもあるかと思って頂きたい。11日にアメリカエスパー
国防長官の「海洋安全保障イニシャティブ」への参加を要請されたことに
対して、総理も原田防衛副大臣も「総合的に慎重に検討する」という答え
方で対応されていた。この答え方に対して畏メル友の佐藤氏は「曖昧であ
る」との見解を表された。私も全くその通りだと思う。アメリカのような
二進法的思考回路の持ち合わせがないわが国の文化では「イエスかノー
か」の即答が出来ぬ局面にある時は、このような曖昧な答えが返ってくる
と経験上も解っている。決して「正式な回答は某日某時刻までお待ち下さ
い」という、曖昧ではなく断定的である表現も先ず出てこない。

私は1972年にアメリカの会社に転進して、この二進法的思考体系で常に
「白か黒か」や「実行するのかしないのか」等々の決断をあっけなく決め
つけて、断定的に言う人たちの集合体である世界に入っていたのだった。
しかしながら、この頃では相互の文化と思考体系の相違などには全き気付
く余裕もないままに、そういう自意識もなく彼らのイエスかノーかをアッ
サリと決めて断定的に物を言う文化に染まっていたのだった。それは転身
後2〜3年を経て出会った昔の上司に「良くそこまで断定的に物が言えるも
のだな」と感心されても、何を言われてるのか全く解らなかった。

今にして思えばなのだが、その頃でも既にアメリカ式の二進法的思考体系
に嵌まっていたのだった。それ故に無意識的に我が国とアメリカとの思考
体系を表している特徴の一つである「曖昧さ」排除した思考体系に影響さ
れ、それに基づいた発言になっていたのだということのようだ。日本人同
士では細部まで言わずとも「有無相通ず」で理解し合えるだろう。だが、
アメリカ人には事細かに言うべき事柄を全て省略することなく「ここまで
言わなくとも解ってくれるだろう」というようなことを期待せずに断定的
に主張しないと、先ず言いたいことを理解されることはないだろう。

余程日本のビジネスパーソンたちの曖昧で断定を避けた表現の仕方に慣れ
ているアメリカ人を除けば「日本の交渉相手の人たちたちの交渉は当日の
課題の核心(heart of the matterと言ったりsweet spotなどと言う者も
いました)の周りをぐるぐる回っているだけで具体性がなく、何時まで
経っても何が言いたいか解らない」と苛立つってしまう者もまた多かった
のだ。このようなアメリカ人に対しては、日本人社員が余程しっかりとし
た介添えの任務を果たしてやらないことには「お互いに時間の浪費だっ
た」という結果に終わる危険性が高いのだ。

私はこういう曖昧な姿勢が諸外国には通じないと、もう分っても良い頃
ではないかと期待している。あるいは、総理以下既にお分りであっても、
敢えて曖昧さで閣内で検討する時間を出そうとお考えかなとも想像してい
る。もしも“We will kick your proposal around among us,
comprehensively and prudently.”などと訳して伝えていたのであれば、
エスパー新長官は「答えになっていない」と、さぞかしご不満だっただろ
う。だが、現実にはそういう交渉事を経験していない方々が政治家で事に
当たっていたのでは前に進まないだろう。では、河野外相のように英語が
話せれば良いかという問題でもないと思うよ。

話は一寸逸れるが11日の朝のフジテレビに櫻井よしこさんと登場した橋
下徹氏が「韓国の弁護団が差し押さえた三菱重工等の資産を換金するとい
うのならば、日本国内の韓国の企業の資産を差し押さえると言えば良い。
だが、これは法的には無理なことだが」と語っていた。この発言を例に挙
げたのは「これくらいにハッキリと物を言う度胸が国際的な交渉事では必
要だろう」と言いたかったからだ。私は実際に経験したから言えるのだ
が、我が国の顧客との重要な交渉事の場で日本人社員がアメリカ側にに有
利な条件を提示する発言をするのは、非常に恐ろしくもあるしストレスフ
ルであれば、度胸を要するものなのだ。でも、言わねばその場にいる意味
がないのだ。

在職中には「日本人の私が日本の企業の方と命の遣り取りのような交渉を
するのは色々な意味で精神的にも大きな負担である。だが、そうは言って
いられない。何しろ、私はそれやり遂げる為に雇われているのであり、そ
れ即ち、彼らが常に言う“I am paid for that.“だから」と気を許してい
た人には個人的に語っていたのだった。私が失礼を顧みずに不安を表明す
れば「これまでに余りにも上品且つ温和しく交渉に当たってこられた外務
省の公達に、韓国を相手にそこまで断定的に物事を主張して説得する傍
ら、我が国の正当性を諸外国にズバリと訴え出て貰えるだろうか」という
点だ。


◎外国との交渉では曖昧さを排除して断定的に発言しよう:前田正晶

今回は文化比較論でもあるかと思って頂きたい。11日にアメリカエスパー
国防長官の「海洋安全保障イニシャティブ」への参加を要請されたことに
対して、総理も原田防衛副大臣も「総合的に慎重に検討する」という答え
方で対応されていた。この答え方に対して畏メル友の佐藤氏は「曖昧であ
る」との見解を表された。私も全くその通りだと思う。アメリカのような
二進法的思考回路の持ち合わせがないわが国の文化では「イエスかノー
か」の即答が出来ぬ局面にある時は、このような曖昧な答えが返ってくる
と経験上も解っている。決して「正式な回答は某日某時刻までお待ち下さ
い」という、曖昧ではなく断定的である表現も先ず出てこない。

私は1972年にアメリカの会社に転進して、この二進法的思考体系で常に
「白か黒か」や「実行するのかしないのか」等々の決断をあっけなく決め
つけて、断定的に言う人たちの集合体である世界に入っていたのだった。
しかしながら、この頃では相互の文化と思考体系の相違などには全き気付
く余裕もないままに、そういう自意識もなく彼らのイエスかノーかをアッ
サリと決めて断定的に物を言う文化に染まっていたのだった。それは転身
後2〜3年を経て出会った昔の上司に「良くそこまで断定的に物が言えるも
のだな」と感心されても、何を言われてるのか全く解らなかった。

今にして思えばなのだが、その頃でも既にアメリカ式の二進法的思考体
系に嵌まっていたのだった。それ故に無意識的に我が国とアメリカとの思
考体系を表している特徴の一つである「曖昧さ」排除した思考体系に影響
され、それに基づいた発言になっていたのだということのようだ。日本人
同士では細部まで言わずとも「有無相通ず」で理解し合えるだろう。だ
が、アメリカ人には事細かに言うべき事柄を全て省略することなく「ここ
まで言わなくとも解ってくれるだろう」というようなことを期待せずに断
定的に主張しないと、先ず言いたいことを理解されることはないだろう。

余程日本のビジネスパーソンたちの曖昧で断定を避けた表現の仕方に慣れ
ているアメリカ人を除けば「日本の交渉相手の人たちたちの交渉は当日の
課題の核心(heart of the matterと言ったりsweet spotなどと言う者も
いました)の周りをぐるぐる回っているだけで具体性がなく、何時まで
経っても何が言いたいか解らない」と苛立つってしまう者もまた多かった
のだ。このようなアメリカ人に対しては、日本人社員が余程しっかりとし
た介添えの任務を果たしてやらないことには「お互いに時間の浪費だっ
た」という結果に終わる危険性が高いのだ。

私はこういう曖昧な姿勢が諸外国には通じないと、もう解っても良い頃
ではないかと期待している。あるいは、総理以下既にお解りであっても、
敢えて曖昧さで閣内で検討する時間を出そうとお考えかなとも想像してい
る。もしも“We will kick your proposal around among us,
comprehensively and prudently.”などと訳して伝えていたのであれば、
エスパー新長官は「答えになっていない」と、さぞかしご不満だっただろ
う。だが、現実にはそういう交渉事を経験していない方々が政治家で事に
当たっていたのでは前に進まないだろう。では、河野外相のように英語が
話せれば良いかという問題でもないと思うよ。

話は一寸逸れるが11日の朝のフジテレビに櫻井よしこさんと登場した橋
下徹氏が「韓国の弁護団が差し押さえた三菱重工等の資産を換金するとい
うのならば、日本国内の韓国の企業の資産を差し押さえると言えば良い。
だが、これは法的には無理なことだが」と語っておられた。この発言を例
に挙げたのは「これくらいにハッキリと物を言う度胸が国際的な交渉事で
は必要だろう」と言いたかったからだ。私は実際に経験したから言えるの
だが、我が国の顧客との重要な交渉事の場で日本人社員がアメリカ側にに
有利な条件を提示する発言をするのは、非常に恐ろしくもあるしストレス
フルであれば、度胸を要するものなのだ。でも、言わねばその場にいる意
味がないのだ。

在職中には「日本人の私が日本の企業の方と命の遣り取りのような交渉
をするのは色々な意味で精神的にも大きな負担である。だが、そうは言っ
ていられない。何しろ、私はそれやり遂げる為に雇われているのであり、
それ即ち、彼らが常に言う“I am paid for that.“だから」と気を許して
いた人には個人的に語っていたのだった。私が失礼を顧みずに不安を表明
すれば「これまでに余りにも上品且つ温和しく交渉に当たってこられた外
務省の公達に、韓国を相手にそこまで断定的に物事を主張して説得する傍
ら、我が国の正当性を諸外国にズバリと訴え出て貰えるだろうか」という
点だ。


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身 辺 雑 記  
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14日の東京湾岸は晴れ。

東京湾岸はこのところいい天気が続いていて爽快である。散歩する公園で
はセミが盛んに啼いている。若い頃取材で旅をした北京を思い出す。

                        読者:6001人


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創刊日:2004-01-18  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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