政治・経済

頂門の一針

急所をおさえながら長閑(のどか)な気分になれる電子雑誌。扱う物は政治、経済、社会、放送、出版、医療それに時々はお叱りを受けること必定のネタも。

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頂門の一針5019 号  2019・4・19(金)

2019/04/19

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わたなべ りや うじらう のメイル・マガジン「頂門の一針」5019号
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        2019(平成31)年 4月19日(金)



             郭台銘が台湾総統選挙へ:宮崎正弘

               「青い山脈」の頃:渡部亮次郎

      福澤諭吉論に見る、皇室と国民の関係:櫻井よしこ 

             紫式部と蕪村の「和紙」:毛馬一三

                      話 の 福 袋

                        反     響

                      身 辺 雑 記



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郭台銘が台湾総統選挙へ
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成31年(2019)4月18日(木曜日)
        通巻第6046号  
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「中国の代理人」=郭台銘が台湾総統選挙へ立候補を熟慮
  北京の指令を受けたのか、個人的野心を果たそうとしているのか
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シャープを買収したことで日本でも突如有名になったが、郭台銘は外省人
2世で親は山西省から移住した。アップルなどにスマホ部品を納入する鴻
海精密工業(フォックスコンン)は最盛期、中国全土に130万人もの従業
員を抱えた。

こうなると、台湾企業というより、鴻海精密工業はいまや中国の大企業で
あり、胡錦涛時代から「中華思想」を鼓吹し、習近平とも2回個別に会見
している。台湾民衆はかれを阿漕な経営者とみている。

台湾の国会を占拠した民主化運動では「民主主義など糞の役にも立たな
い」と言い放ち、民主活動家からは蛇蝎のように嫌われている。

映画にもなったが深センの鴻海精密の工場では過酷な労働条件に自殺が相
次ぎ、工場には飛び降り防止の金網が張られた。悪名が中国でも轟いた
が、まったく怯まず、従業員を酷使した。

もともと彼はプラスチック成形の小さな町工場から起業し、王永慶を深く
尊敬して猛烈に働いた。フォーブスの富豪ランキングでは2018年に世界
78位となった。

スマホ不況に陥ると、主力の河南省鄭州工場で5万人を平然と馘首し、同
時にロボット化を進めて、近く50万人のレイオフを準備している。各地の
工場では深刻な労働争議が続いている。中国での評判も共産党高層部は別
として庶民の間に評判は芳しくないようである。

トランプ大統領と会ってウィスコンシン州に巨大投資をなして液晶パネル
工場を建設すると約束したが、先行きが暗いとなるや計画の大規模な縮
小、研究センターに留めるなどとした。

トランプ大統領が直接郭台銘に電話をかけて見直しを要請した。郭台銘は
記者会見をやり直すなどジグザグぶりを示した。

この舞台裏では孫正義、アリババの馬雲が密接に繋がっていた。

台湾への愛国心は稀薄で、メンタリティは中国大陸的だ。

大胆不適な決断力と電光石火の行動力、そして巨額の借金を気にしない直
進型、いや暴走型経営で知られる。


 ▲民主主義を敵視する中華思想の持ち主

かくして、この暴れん坊が台湾総統選挙に国民党から立候補を準備してい
ると言うのだから、ちょっとした国際ニュースになる。国民党は着々と巻
き返し作戦を展開しており、昨地方選挙では、民進党の牙城といわれた高
雄市長選挙で、番狂わせ、韓国諭を当選させる。

国民党は朱立綸が本命と見られてきたが、韓国諭のほうが世論の人気が高
く、また無所属で何哲文が立候補するとなると乱戦になる。

他方、与党・民進党は、レイムダックに陥った蔡英文では次の総統選挙に
勝てそうになく、ライジングスターの頼清徳(前首相、元台南市長)が首
相を辞任して立候補を表明し、党内が星雲のような分裂状態にある。もと
より同党は四つの派閥からなる合従連衡の政党であり、民主派、リベラ
ル、独立派の寄り合い世帯であるから一本化することはこれまでにもな
かった。国民党のあまりの中国傾斜に危機感を募らせると、団結する強み
はあるものの、党内対立も亦根深いものがある。

この状況下、郭台銘は地震のような政治行動に打って出たのだが、台湾で
の反応はひややかである。

「実業家が政治家となるには公私混同してはならない。鴻海実業の経営か
ら郭台銘は完全に手を切らない限り選挙民は立候補に不純なものを嗅ぎ取
るだろう。ブッシュは経営する企業から離れ、財団として公私の区別を鮮
明にした。トランプはトランプタワーの経営を弟たちに一任し、しかも大
統領の報酬を寄付している。公私の峻別が出来るのか」という批判が『自
由時報』などに掲載されている。
     
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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW
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宗教は霊的存在である神を中心にした虚構であり、
それを共有できれば信者。かくして宗教が成立し、やがて混じり合い、そ
して。。。。

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小林登志子『古代オリエントの神々』(中公新書)
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人間は神々を必要とした。人間が神を発明した。

だから本書の著者もずばり言う。

「宗教は霊的存在である神を中心にした虚構であって、虚構を共有できれ
ば信者である。(中略)神が人間を創造したのではなく、人間が神々を創
造した。神々の創造は人間精神の歴史での、最高の発明であった。明日の
ことなぞわからない人生を歩んでいく人間の羅針盤であり、杖ともなっ
て、そして精神を安定させる仕組みが、神であった。古代人は神々を必要
としていた」。

ユダヤ、キリスト、イスラムという3大宗教が成立する以前。オリエント
には無数の神々がいた。ユダヤ教の成立基盤にはそれ以前のミトス教があ
り、ペルシアのイスラム教はゾロアスターとの習合がある。インドにはヒ
ンズーがあって仏教が改革を叫び、インドから東へ拡がった。

多神教のオリエントからアジアにかけての世界にいつしか一神教が成立
した。

日本でも神道という自然崇拝に仏教が習合した。その習合前に、日本にお
いても衝突があり、廃仏毀釈があった。聖徳太子が仏教を国教化する前の
時代、およそ百年間、廃仏毀釈が行われた。明治維新前後の廃仏毀釈は、
むしろ政治イデオロギーとしての国学の復興が外来宗教に敵対した社会現
象であり、仏教はその後も滅びず、神仏習合は維持されている。

文明の嚆矢は、多くの学説があるが、シュメール、メソポタミア、エジプ
トあたりに集中した。幾多の宗教が、西オリエントでは、イスラムという
一神教に統一されていったのは何故か、本書はこの謎に挑む。
 著者はこういう。

「多神教と一神教は截然と分けられるのではなく、分かちがたい関係にある」

無神論の多い日本人は、宗教論に興味を示すひとが少ないが、欧米の研究
者の問題点とは、ユダヤ、キリスト教の信者が多いため、「古代オリエン
トの神々への視点は客観的とは言い難い」特質を附帯している。その?を
小林氏は衝いた。

ユダヤ教以前の神、太陽信仰のミトラ教はイラン、印度あたりで発祥し、
民族の移動とともに西へ移った。ミトラはギリシアへ、ローマへと伝播した。

ミトラが拡がった地にはゾロアスター教があった。両者は対立し、年月を
経て、それぞれの神が変形し、ゾロアスターの神もキリスト教に取り入れ
られ、あるいはイスラム教に取り込まれ変形した。

しかしゾロアスター(拝火教)の神殿はアゼルバイジャン、イラン各地に
残り、いまもゾロアスターの信者はイランとインドにもいる。

たとえば、「ミスラ神がギリシア語化したミトラス神は、ヘレニズム時代
のアナトリア諸王国の守護神であった」(82p)

ミトラスは太陽神だった。それゆえに定住農耕民族にも、移動する牧畜民
族にも太陽信仰は共通だ。遠い地に駐屯した兵士らにとってミトラスの神
は、「不敗の太陽」であり、ミトラスの信仰が拡がった。ローマ帝国がキ
リスト教を国教とする前、ひとびとはミトラス教を信じていたのだ。

そしてミトラスの密儀は多彩な祭祀となり、おもわぬ場所へあらわれる。

「『日本書紀』には帰化人で百済からやってきた味魔之が呉で学んだ伎学
をつたえた」、また奈良の大仏の開眼供養には、当該伎楽が演じられた。
その、「演者がかぶる伎楽面の種類とミトラス教の信者の位階が一致す
る」という(92−93p)

古代オリエントの神々に共通したもうひとつの特質は神々が死んで復活す
ることである。

この信仰を活かしたのがキリストであり、イエスは死んで、復活した。
 かくして本書の結論とは宗教は霊的存在である神を中心にした虚構であ
り、その虚構を共有できれば信者になり、過去幾多の宗教が成立し、やが
て混じり合い、そして連れ去られ、ともに生きた。

通読しながら評者(宮崎)はしきりに縄文時代の自然崇拝、すなわち太陽
信仰を考えていた。天照大神はまさに太陽であり、天の岩戸は日蝕であ
り、自然が信仰の対象だった。たとえば大神神社のご神体は三輪山それ自
体であり、鳥居、社殿の出現は仏教渡来以後であり、しかし神道には偶像
はない。

縄文遺跡から出土する夥しい祭祀器具、副葬品としての土偶、翡翠、耳飾
り等々。明らかに神道の源流が縄文時代からあったことを証明している。
縄文人も霊的存在としての神を祭った。渡来人が農作を伝えた弥生式にな
ると社殿が造られ祭祀を司る長が現れた。神秘に満ちた古代人の信仰に、
本書を通読しつつ、思いを馳せたのだった。
        
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜★読者の声 ★READERS‘ OPINIONS ★どくしゃのこえ 
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  ♪
(読者の声1)https://www.youtube.com/watch?v=4LkEifmpihE
4月16日夜に放映された日本文化チャンネル桜「フロントジャパン」の画
像です
。↑
宮崎正弘先生の「イスラエル総選挙、その後」と「元号『令和』効果」に
ついて、前半の30分にあります。
   (チャンネル桜)
   ♪
(読者の声2)貴誌前号の「読者の声(TY生、名古屋)」氏のノートル
ダム大聖堂を「寺院」と表記することへの疑問、長年の慣習なのでしょう。

戦前から昭和の時代、カトリックや正教の教会は寺・寺院とするのが一般
的。教科書でもローマのサン・ピエトロ寺院と表記されていました。

プロテスタントの教会には十字架しかないのに、カトリックや正教の教会
にはキリストの磔刑像やらマリア様やら諸聖人まで、日本のお寺と変わり
ません。

浄土真宗などキリスト教の翻案とする説もあるくらいですし、江戸時代に
できた檀家制度はキリスト教の教区制度の焼き直しとも言われます。イス
ラムからは偶像崇拝と言われるカトリックですが、カトリックが運営する
学校の生徒は靖国神社にはきちんと頭を下げる。

今回のノートルダム大聖堂の火災は、公教育・公的機関から宗教を排除
し、キリスト教信仰を失いイスラムの流入になすすべもないフランスの転
機になるのかもしれません。(PB生、千葉)


(宮崎正弘のコメント)そういえば、信長の時代、キリスト教会は「南蛮
寺」でしたね。ノートルダム大聖堂火災を金閣寺焼失と連想させたコラム
が産経新聞に出ていましたが、あの金閣寺放火の衝撃より、フランス人に
とって今回はもっと宗教的に深い悲しみがあるでしょう。
第一報に触れたとき、小生はテロかと思いましたし。

 ♪
(読者の声3)貴誌前号拙稿への「(宮崎正弘のコメント)懐かしい名前
がでましたね。サイデンステッカーさん。湯島、上野など下町がお好き
で、上野公園を散歩中に転んで、そのまま伏せりました」
(引用止め)。
 サイデンステッカー氏の二部作『東京下町 山の手』(LOW CITY, HIGH
CITY)、『立ち上がる東京』(TOKYO  RISING)は、私の愛読書で、何度
も読み返しています。

源氏物語を全訳された氏だけに、外国人とは思えない日本語力を駆使した
優れた近代東京史です。堅苦しい史書ではなく、読み物風の叙述です。特
に前編には、氏の東京下町に対する愛が横溢しているように感じます。
(椿本祐弘)

  ♪
(読者の声4)イタリアにひきつづきスイスが中国と「BRI覚え書き」
に署名するという報道があります。ギリシアも中国主導の「16プラス1」
に駆けつけ、「17プラス1」となりました。
中国のEU主要国各個撃破作戦、なかなか巧妙に効果を挙げているのでは
有りませんか?(IS生、杉並区)


(宮崎正弘のコメント)BRIは「BELT ROAD INITIATIVE メモランダ
ム」です。つまりメモ程度であって国際法的な拘束力は殆ど有りません。
 G7の合意は中国の国家資本主義的な動きならびに安全保障に直結する
次世代技術の脅威、ハッカー対策。そして世界経済安定維持のための政策
協調におかれますから、「BRI覚え書き」などは枝葉の問題と捉えてい
ます。
スイスは欧州諸国の中で一番先に中共を承認した国であり、しかも永世中
立国ですから、その国柄を誇示するために中国との関係も強めておこうか
という程度で、とくに死活的なプロジェクトは何もありません。

マウリー首相は来週北京で開催される「一帯一路国際フォーラム」に出席
後、27日に公式訪問として習近平と会談し、その儀式の象徴として、
BRI覚え書き調印という運びになりそうです。



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「青い山脈」の頃
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  渡部 亮次郎

恥かしい話を書く。多分生まれて初めて観た劇映画が「青い山脈」であ
り、昭和26(1951)年の早春、新制中学を卒業寸前の15歳、教師引率で、町
の映画館で観た。

もちろん白黒。公開されて既に2年経っていたらしいが、それは今になっ
て調べて分かった事。町と言いながらド田舎だったのである。

昭和の御世。15歳まで映画も観られなかったとは万事、貧しかった。
もっとも戦争中は見ようにも映画が製作されてなかったらしい。

映画「青い山脈」(あおいさんみゃく)は石坂洋次郎原作の日本映画。
1949年・1957年・1963年・1975年・1988年の5回製作されたが最も名高い
のは1949年の今井正監督作品である。私の観たのがこれだ。

主題歌の『青い山脈』は日本映画界に於いて名曲中の名曲ともいえる作品
で、過去の映画を紹介する番組などでは定番ソングともなている。2007年
10月24日のラヂオ深夜便で久しぶりに聴いたので映画の事を思い出したの
である。

西條八十(やそ)作詞、服部良一作曲の名曲。映画を見たことが無い人でも
歌だけは歌える人が多い。また映画ではラブレターで「戀(恋)しい戀し
い」というところを「變(変)しい變しい」と誤記してしまうエピソード
は大いに笑わせた。

長編小説『青い山脈』は1947年に「朝日新聞」に連載。

東北の港町を舞台に、高校生の男女交際をめぐる騒動をさわやかに描いた
青春小説。また、民主主義を啓発させることにも貢献した。

私は新憲法は中学生ながらに全文を読んだが、民主主義の実際については
「青い山脈」に教えられた。

1949年に原節子主演で映画化され、大ヒットとなった。その3ヶ月前に発
表された同名の主題歌も非常に高い人気を得た。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石坂洋次郎(いしざか ようじろう 1900年1月25日―1986年10月7日)は、
小説家。青森県弘前市代官町生まれ。戸籍の上では7月25日生まれになっ
ているが、実際は1月25日生まれ。

弘前市立朝陽小学校、青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校
の前身)に学び、慶應義塾大学国文科を卒業。1925年に青森県立弘前高等
女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務。

翌1926年から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学
校)に勤務。1929年から1938年まで秋田県立横手中学校(現在の秋田県立
横手高等学校)に勤務し教職員生活を終える。

『海を見に行く』で注目され、『三田文学』に掲載した『若い人』で三田
文学賞を受賞。しかし、右翼団体の圧力をうけ、教員を辞職。戦時中は陸
軍報道班員として、フィリピンに派遣された。

戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、
「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となる。数多くの映画化、ド
ラマ化作品がある。

他に、『麦死なず』『陽のあたる坂道』『石中先生行状記』『光る海』など。

「青い山脈」では作者は青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中
央高等学校)の教師であった。当時疎開中の女子学生達から聞いた学校生
活をこの小説の題材にしたと思われる(「東奥日報」2005年8月15日新聞
記事による)。

この記事は間違っている。現在の青森県立弘前中央高等学校の教師であっ
たのは1925年(大正14年)であって「当時疎開中の女子学生達」とは何の
ためにどこから疎開してきたのか。東奥日報の我田引水もいい加減にしろ。

閑話休題。1949年版映画のスタッフ。監督:今井正、脚本:今井正、井手
俊郎、音楽:服部良一。作曲を電車の中で、数字で作曲していたら、折か
らの闇物資を売買する闇商人に間違えられた、という作り話のようなエピ
ソ−ドがある。

主なキャスト 島崎先生(女学校の教師):原節子、沼田校医:龍崎一郎
、金谷六助(旧制高校生):池部良、寺沢新子(女学生):杉葉子、 ガン
ちゃん(旧制高校生):伊豆肇、 笹井和子(女学生):若山セツ子、梅太
郎(芸者):木暮実千代だった。

2007年、『映画俳優 池部良』が出版される。2007年2月、東京池袋の新
文芸座のトークショーにて、その本の編集者から「青い山脈の時に31歳で
したが…」と池部が質問され、

実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を
渋々受けたことや原節子先輩からガリガリに痩せていたため「豆モヤシ」
という迷惑なあだ名をつけられたり、原節子の尻をデカイと本人の目の前
で口を滑らせたために 張り手を食らいそうになったりといったエピソー
ドを話している。

「ウィキペディア」による誕生日は1918年2月11日(建国記念の日)89歳
 血液型B型となっているが、池袋の新文芸座のトークショーでの「実は
1916年生まれ」だとすると92歳(2008年6月現在)になってしまう。映画俳
優協会の理事長としてご活躍中ということで不問にしよう。

この作品は藤本プロと東宝の共同作品となっている。著作権の保護期間が
終了したと考えられることから現在激安DVDが発売中(但し監督没後38年以
内なので発売差し止めを求められる可能性あり)。出典: フリー百科事典
『ウィキペディア(Wikipedia)』

この映画を観た当時は大東亜戦争の敗戦から未だ6年。人口数千人の町に
よく劇場があったものだが、小中学生の映画鑑賞は禁じられていたし、カ
ネも持っていなかったから観たいとも考えなかった。

出来て間もない中学校では野球に夢中。3年になったら主将に指名され
た。投手で4番打者。校舎の中では生徒会長でもあったから忙しかった。
家では教科書を広げる事はなかった。

中学校も間もなく卒業という春、秋田は3月と言っても当時は雪の降る日
があった。ゴム長靴にアメリカ軍払い下げのオーバーを着て寒さに耐えな
がらの映画鑑賞。

生まれて初めて観る映画だったはずだが、あらすじも画面も、未だに思い
出せるところをみると興奮はしていなかったようだ。後年、父親を映画に
誘ったら「暗くて厭だ」との感想。

明るくとも見える映画といえるテレビがド田舎にも普及したのは「青い山
脈」を見てから10年以上経っていた。ましてあの頃、テレビ会社(NHK)に入
社(記者)するとは夢にも思わぬことだった。

恥かしくて退屈な思い出話。御退屈様。2007・10・25執筆


       
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福澤諭吉論に見る、皇室と国民の関係
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           櫻井よしこ

「福澤諭吉論に見る、皇室と国民の関係」

約150年前、日本人は列強諸国の脅威の前で、潰されず呑みこまれず、祖
国の未来を確固たるものにしようと必死の想いで努力した。徳川幕府の統
治から転じて天皇の権威の下に皆が結集して、明治維新という大変化を乗
り切った。おかげで日本は大半のアジア諸国とは異なり、辛うじて独立独
歩で前進できた。

国の形が大転換したとき、先人たちはどんな発想で国家、民族の一体性を
守り通したのか。現在、1945年から続いてきた戦後体制が大変革中なのは
否定しようのない現実だ。わが国も、何かしら根本的な変化は避けられな
いと、多くの人が感じている。

今上陛下のご退位が近づき、皇太子殿下のご即位が近づいている。新天皇
と皇室はどうあるのがよいのか。私たち国民はどのように新天皇皇后両陛
下を支え、向き合うのがよいのか。先人たちは、明治維新で突然、立憲君
主として国を統治する立場に立たれた天皇にどのように向き合ったのか。
皇室の在り方も含めて何を理想としたのか。

明治15(1882)年5月に、福澤諭吉が上梓した『帝室論』が多くを教えて
くれる。冒頭で福澤は「帝室は政治社外のものなり」と説いている。

政治と皇室を結びつけてはならないということだが、これは現代の日本人
にとっては当然の心得だ。現行の日本国憲法は、第四条で書いている。
「天皇は、(中略)国政に関する権能を有しない」と。

これは日本を占領した米軍が、出来得るならば皇室も消滅させたいとの悪
意ある思いから定めた憲法だ。日本国民が絶大な信頼を寄せていた皇室の
力を殺ぎたいとの思惑がそこにはあったと考えてよい。

だが、福澤の説く「皇室は政治にかかわってはならない」という意味は全
く異なる。明治の人々は天皇及び皇室を敬うが故に、政治と皇室は別のも
のと考えたのだ。皇室は政治の外にあったからこそ、「我が日本国におい
ては、古来今に至るまで真実の乱臣賊子なし」だったのである。

大岡裁きに人気が集まる

福澤は、少なくとも鎌倉時代以降、日本人は「北条や足利のような反乱分
子と見られるもの」でさえ、皇室に敵対しなかった、彼らは皇室に奉ずる
方法について争ったにすぎないという。その世俗の争いを、皇室は「父母
が子供の喧嘩の騒々しさを叱るような」姿勢で見ていたのであって、その
種の争いを「憎むのではない。唯これを制止するものであり、騒ぎがおさ
まればもはや問題視はしない」のだと説いている。

政治とかかわらない皇室は、「万機を統(す)ぶる」存在であり、「万機に
当たる」存在ではないとの指摘には深い意味があるだろう。

政治や政党を、「自由改進」や「保守守旧」を自称して論争するが、結局
「政権の受授を争って自らが権力を執ろうとする者にすぎない」と手厳し
く批判する。政治は世の中の多岐にわたる事柄に携わるが、皇室はそうで
はない。にもかかわらず、そうした事象のすべてが、自ずと皇室の下で治
まっていくという見方を福澤は取っている。

現実問題として日本では争い事はどのように解決されるのか。大岡越前守
の大岡裁きに人気が集まるように、必ずしも厳格な法による解決が善い解
決ではなかった。たとえば江戸市中の火事場で鳶の組同士が喧嘩する。す
ると公の裁きのかわりに親分が仲裁し、喧嘩の当事者が坊主頭になって和
解する。なぜ坊主頭になるのか。実際に寺に入らずとも、寺に入り、俗世
と別れるという覚悟を、示すためだろう、と福澤は見る。

だが、西洋の合理性を重視した福澤は日本における宗教の力は評価しない。

「我が日本の宗教の功徳は人々の営みにまでは浸透していない。宗教はた
だわずかに、寺院の中の説教にとどまっている。宗教の力のみで、国民に
倫理や徳を浸透させ維持することができないのは明らかだ」

福澤は宗教の力は評価しないが、社会の潤滑油としての宗教の機能は大い
に認めている。たとえば、として次のような事例を挙げている。古く歴史
を遡れば敗軍の将が高野山に登り、国事犯の罪人が尼寺に入り、あるい
は、藩法に背いた家来に止むを得ず切腹を命ずるようなとき、君家菩提寺
の老僧が仲裁に入ったり、罪人を寺に引き取ったりしておさめてきた。

宗教は法以外の力、法以外の存在として、社会の安寧を維持するのに役
立ったということなのだ。社会を暮らし易いものとするための力として評
価しているのだ。

それでも前述したように、宗教は寺院の中の説教にすぎず国民に倫理や道
徳を行き渡らせる役割は担えていないと強調して、「帝室に依頼するの要
用なることますます明らかなり」というのだ。

敬愛の情

政治も宗教も社会問題の解決や摩擦解消の力にはなり得ない。それは皇室
にしか果たせない役割だと結論づけるが、そんなオールマイティーな力
は、皇室のどこから生まれてくるのか。皇室の「統べる力」の源泉は何か。

福澤は「一国の帝王は一家の父母の如し」と説く。良家の父母は子供に
「このようにしなさい」と諭すが、「このようにしなければ鞭で打つぞ」
とは言わない。言わないだけでなく実際に手に鞭を持つことはしない。よ
き両親は慎むのである。

日本の皇室と国民の関係も同じである。そこが政治と国民の関係との違い
だとして、ざっと以下のように説いている。

国会は立法する。法を守ればよし、破れば罰せられる。懲らしめることは
善きことを勧めることではない。罰することは誉め奨励することではな
い。規範規律で縛り上げて社会の秩序を整えるのでは、国民は「畳のない
部屋に坐らされ空気のない地球に住まわされる」ようなものだ。これでは
道理道理と詰め寄られて、窒塞することもある。

それを救って、国中にあたたかい空気を通し、人心を落ち着かせ、国民に
安寧をもたらし得るのは、ただ皇室のみだ。

明治維新の荒波の中、皇室が国家の根本を担い、人々をまとめた。日本は
立派に危機を乗り切った。皇室の力は和らぎをもたらす力であり、緩和力
だ。如何なる政党にも党派にも#与#くみ#せず、公正な視点で一段と高い
所から全体を見渡す。穏やかに春のようなあたたかさで国全体を包み込
む。そのような姿勢から皇室の力は生まれたと福澤は説いている。

先人たちのこのような感じ方は、次代の皇室、ひいては新天皇皇后両陛下
とどのように向き合うかについて、自ずと私たち国民への大いなる導きと
なるのではないか。敬愛の情をもってお守りする心を、私たち国民が抱く
ことの重要性を強調したい。
『週刊新潮』 2019年4月18日号日本ルネッサンス 第848回


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紫式部と蕪村の「和紙」
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    毛馬 一三


書き出しは、大阪俳人与謝蕪村のことからだ。蕪村(幼名:寅)は、生誕
地大阪毛馬村で幼少の頃、母親から手ほどきをうけて高価な「和紙」を
使って「絵」を描いて、幼少時期を楽しんでいたからだ。

寅は、庄屋の子供だったから、高価な「和紙」を父から自在に貰って、絵
描きに思いのままに使ったらしい。

その幼少の頃の絵心と嗜みが、苦難を乗り越えて江戸に下り、巴人と遭遇
してから本格的な俳人となったのも、この幼少の頃「和紙」に挑んだ「絵
心」とが結び付いたらしい。

さて、本題―。

高貴な「和紙」の事を知った時、ジャンルは違うが、紫式部が思い切り
使って「和紙」を使って「世界最古の長編小説・源氏物語」を書いたこと
を思い出した。

そのキッカケは、福井県越前市の「和紙の里」を訪ねてからである。

越前市新在家町にある「越前和紙の里・紙の文化会館」と隣接する「卯立
の工芸館」、「パピルス館」を回り、越前和紙の歴史を物語る種々の文献
や和紙漉き道具の展示、越前和紙歴史を現す模型や実物パネルなどを見て
廻った。

中でも「パピルス館」での紙漉きを行い、汗を掻きかき約20分かけて自
作の和紙を仕上げたのは、今でもその時の感動が飛び出してくる。

流し漉きといって、漉舟(水槽)に、水・紙料(原料)・ネリ(トロロア
オイ)を入れてよくかき回したあと、漉簀ですくい上げ、両手で上下左右
に巧みに動かしていくと、B5くらいの「和紙」が出来上がる。まさにマ
ジックの世界だ。

ところでこの越前和紙だが、今から約1500年前、越前の岡太川の上流に美
しい姫が現れ、村人に紙の漉き方を伝授したという謂れがある。

山間で田畑に乏しかった集落の村人にとり、紙漉きを伝授されたことで、
村の営みは豊かになり、以後村人はこの姫を「川上御前」と崇め、岡太神
社(大瀧神社)の祭神として祀っている。

<その後大化の改新で、徴税のため全国の戸籍簿が作られることとなり、
戸籍や税を記入するために必要となったのが「和紙」である。そのため
に、越前では大量の紙が漉かれ出したという。

加えて仏教の伝来で写経用として和紙の需要は急増し、紙漉きは越前の地
に根ざした産業として大きな発展を遂げてきている>。

さて長編小説「源氏物語」の作者紫式部は、執筆に取り掛かる6年前の24
歳の時(996年)、「和紙」の里・越前武生に居住することになり、山ほ
どの「和紙」に囲まれて、存分に文筆活動に励んだ。

当時、都では「和紙」への大量の需要があったらしく、宮廷人も物書きも
喉から手が出る程の「和紙」だったが、手には入らなかった。

ではどうして都にいた紫式部が、遥か離れた「和紙」の里越前の武生に移
住してきたのか。それはご当地の国司となった父の藤原為時の“転勤”に関
わりがある。文才だけでなく、商才に長けた為時の実像が浮かび上がる。

<為時は、中級の貴族で、国司の中で実際に任地へ赴く“転勤族”だったそ
うで、996年一旦淡路の国(下国)の国司に任命されるが、当時の権力者・
藤原道長に賄賂の手を使って、転勤先を越前の国(上国)の国守に変更して
もらっている。はっきり言えば為時は、淡路の国(下国)には赴任したくな
かったのだ。何故なのか。

当時、中国や高麗からの貿易船が日本にやってくる場合、海が荒れた時や
海流の関係で、同船団が「越前や若狭」の国を母港とすることが多く、こ
のため海外の貴重な特産品が国司のもとに届けられ、実入りは最高のもの
だったという>。

藤原為時一族は、中級の貴族ながら文才をもって宮中に名をはせ、娘紫式
部自身も為時の薫陶よろしく、幼少の頃から当時の女性より優れた才能で
漢文を読みこなす程の才女だったといわれる。

これも商才に長けたばかりでなく、父親の愛情として、物書きの娘に書き
損じに幾らでも対処できる「和紙」提供の環境を与えたものといわれる。

<この為時の思いは、式部が後に書き始める「源氏物語」の中に、武生で
の生き様が生かされている。恐らく有り余る「和紙」を使い、後の長編小
説「源氏物語」の大筋の筋書きをここで書き綴っていたのではないだろう
か。平安時代の歌集で、紫式部の和歌128 首を集めた「紫式部集」の中
に、武生の地で詠んだ「雪の歌」が4 首ある。

越前武生の地での経験が、紫式部に将来の生き方に影響を与えたことはま
ちがいない。と同時に式部は、国司の父親のお陰で結婚資金をたっぷり貯
め込むことも成し遂げて、約2年の滞在の後、京都に戻り、27歳になった
998年に藤原宣孝と結婚している>。

越前武生の生活は、紫式部にとり「和紙」との出会いを果たして、後の世
界最古の長編小説への道を拓くことに繋げた事は、紛れもない事実であろう。

紫式部の書いた「源氏物語」の原本は現存していない。作者の手元にあっ
た草稿本が、藤原道長の手によって勝手に持ち出され外部に流出するな
ど、「源氏物語」の本文は当初から非常に複雑な伝幡経路を辿っていたと
いう。

確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は、現在のところ一つも見
つかっておらず、この時期の写本を元に作成されたと見られる写本も、非
常に数が限られているという>。
 
この歴史の事実と筆者の推論を抱きながら、「紫式部公園」に回り、千年
前の姿をした高い式部像に対面してきた。

北京五輪の開会式の時、中国の古代4大発明の一つとして「紙」を絵画の
絵巻をCGで描き、国威を高らかに示した。

この紙が7〜800年後に日本に渡り、「和紙」となった。その後、「世界最
古の長編小説を書いた女性が日本にいた」ということは、中国は勿論諸外
国は知らない。

参考:ウィキペディア、: 青表紙証本「夕顔」 宮内庁書陵部蔵 
(加筆再掲) 



           
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重 要 情 報
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 ◎ライトハイザー代表にはビジネスの実務経験が:前田正晶

私は17日終了したTAGの遣り取りは貿易交渉である以上、相手が我が国の
安全を保障してくれている国の代表であろうと何だろうと、正当に主張す
べき事は堂々と対等の立場で主張して行くべきだと固く信じているのだ。
ライトハイザー代表もそういうビジネス感覚にも基づいた姿勢で臨んで来
て欲しいと期待していたのだった。

ライトハイザー氏は確か弁護士だったと記憶するので、念の為に検索を
かけて見ると、ライトハイザー氏(Robert E. Lighthizer)は71歳であ
り、ビジネスの実務経験はないジョージタウン大学では文学専攻だった弁
護士だったと確認できた。もしも、彼が(アメリカ側が)本気で自動車の
数量規制を言い出すのだったならば、それは私が1972年に転出した頃のア
メリカの産業界の一部にはあった「我が国はアメリカの指揮下にあるのだ
から、我が国の言うことを受け入れるのが当然である」という感覚と年齢
的にも同じ物の考え方をしている人物のようだと見た次第だ。

私は以前に「アメリカ側の一員として勤務していた経験から言えること
は、ビジネスの世界では『日本はアメリカの子会社的存在である』と捉え
ているように思わせられた」と述べたことがあった。ライトハイザー代表
はそれほど露骨に所謂(イヤな日本語ですが)「上から目線」的には見下
していなかったとは見えたが、彼の要求を見ているとやや一方的であり、
諸般の事情があって何としても押し切りたいという考え方が露骨に見える
と感じていた。私はそのような一方通行の論議を挑むのはfairではないと
思っている。

もしもライトハイザー氏が代表するアメリカ側が「それを言って失うもの
はない」とでも割り切っているのであれば、それは弁護士的感覚であっ
て、ビジネスパーソンが顧客なり誰なりと交渉する場合の姿勢ではないと
明らかにしているだけだと思うのだ。念の為に申し上げておくと、私はア
メリカの批判をしているのではなく、ライトハイザー代表の交渉の進め方
には俄に支持できない面がある事が残念だなと思っているだけのことなの
だ。輸出を数量規制せよと望みたいのであれば片務契約ではなく、我が国
にも何らかの見返りを用意してから、俗に言う“give and take”の姿勢を
見せるべきだろう。


 ◎堂々と主張すべき事を主張しよう:前田正晶

茂木経済再生担当大臣は今日までの報道では堂々と我が国の主張をライ
トハイザー代表に伝えておられるようで、非常に結構なことであると思っ
て、かなり安堵している。私は何れにせよ「アメリカ側は我が国向けの輸
出を増やすことに一層の努力を傾けるべきであって、数量規制をするとか
関税の賦課を云々するという手法は率直に言って誤りであると思う。まし
てやあれを変えこれを買えとの申し入れも永年対日輸出を担当してきた経
験から見れば、到底支持できる性質ではない」と言いたい。「買え」では
なく「如何にすれば売れるか」を真剣にもう一度研究すべきだ。

ここで、22年半に及んだ対日輸出の経験から回顧談を述べていこう。前
回我が社が会社別対日輸出の金額では第2位だったと述べたが、そこに省
略した記述は「2,000億円の会社が2位だったということは、他の会社は何
をしていたのか」という単純素朴な疑問である。我が社の紙パルプ林産物
は素材であって完成した高度工業製品の部類には入らないのである。即
ち、アメリカが世界に誇っていたはずの自動車をも含めた工業製品のメー
カーたちは素材産業に売り負けていたということではないか。

もう昔のことで何年だったかの記憶もないが、我が社は通産省(当時)
に「アメリカの対日貿易赤字削減に貢献した企業」として、村田敬二郎通
産大臣に表彰されたことがあった。我々第一戦の担当マネージャーたちは
「そんなことか」という程度の受け止め方で、特に感激した訳でもなかっ
た。ところがこのことがアメリカ国内で喧伝されるや、ワシントン州の本
社には各方面から「何故に御社では日本向けにそれほど売り上げが上がる
のか。何か秘訣があったら教えて欲しい」との問い合わせが数多くあった
と本部の上司から聞かされた。

彼はそういう質問に何と答えたのかと言えば「当然やるべき事をやって
来ただけであり、そこには何らの“gimmick”(=計画達成の為の策略、新
機軸、企画、工夫とジーニアス英和にある)はない」と答えたのだそう
だ。我が事業部だけを捉えて言えば「如何に難しいことであっても、日本
市場の要求(ニーズとも言うが)には可能な限りの努力で応えていき、全
社的のスローガンであった“customer satisfaction”を得ようとしていた
のだった。とは言うが、日本市場の要求は常に極めて高度で難しかったの
だが、何とか合わせていく以外に生き残れる手法がなかったのである。

その点は1994年7月にUSTR代表のカーラ・ヒルズ大使が指摘していたよう
に「成果が挙がらなかったのは日本市場の要求が難しかったからだといっ
て撤退していては仕方がない。アメリカ側の労働力の質にも問題がある
が、買わない日本が悪い」というように「買わない方が悪いのだ」と悪態
をついて日本市場から引き上げていった企業があったのも事実である。そ
こを乗り越えて日本市場に確固たる地盤を築いていたアメリカの製造業の
会社は数多くあったのだ。例えばP&Gはアメリカの会社ではないか。

我が社の日本市場に対する基本的な政策というか方針は「日本国内のメー
カーが供給していない製品を市場の需要を補完すべく輸出する」というも
のだった。例を挙げれば、製紙用パルプでは往年は我が国の輸入量の
30〜40%を占めていたが、それは広葉樹(落葉樹)のパルプが主体の日本
市場には十分に供給できていない強度が高い針葉樹を原木とするパルプを
供給していたということであり、ミルクカートン用等の液体容器原紙は我
が国では生産されていないので、その需要を満たすべく輸出していたの
だ。そういう工夫は必要なのである。

私はアメリカ側の一員として対日輸出を担当してきた経験から言うのだ
が、本当に貿易赤字を削減したいのであれば、先ずは「国内の製造業者に
対日輸出の強化に全員一層奮励努力せよ」と号令をかけるのが先であっ
て、自動車の輸出を数量規制せよなどと要求するのは筋が違いはしないか
と非常に残念に思っている。どうしても規制をさせたければ「我々もデト
ロイトを督励して対日輸出に現在以上に努力せよと厳命するから、何とか
譲歩してくれないか」と言うのがfairではないかと言いたくもなる。我々
に出来た「日本市場の要求に合わせること」がデトロイトに出来ないはず
はないと思うのだが、ライトハイザーさん、如何お考えか。私はアメリカ
側の一員だったから言うのだ。




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身 辺 雑 記
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19 日の東京湾岸は快晴、爽快。

18日の東京湾岸は快晴、爽快。ベランダに鉢植えなどがあるが水をやるの
は一週に一度だけ。やり過ぎると根腐れ病を引き起こして枯れる。
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