政治・経済

頂門の一針

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頂門の一針4994 号  2019・3・25(月)

2019/03/25

                                 
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わたなべ りやう じらう のメイ ル・マガジン「頂門の一針」4994号
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        2019(平成31)年  3月25日(月)



       元号(和暦)は遺産、西暦は実務に:馬場伯明

         歴史の見方にももっと多様性を:阿比留瑠比

              「きりたんぽ」怖い:渡部亮次郎                   
                       
                      話 の 福 袋
                        反     響
                      身 辺 雑 記

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元号(和暦)は遺産、西暦は実務に
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           馬場 伯明


2019.3.23(土)朝日新聞の「声」欄で、金融コンサルタントの山添昌之 さんという人(愛知県73歳)が「国が西暦使用を中心とすると方針をはっ きり打ち出すべき、決断するタイミングだと思う」と書いていた。

その中で《「双子(25)パパ(88)い〜や(18)」と披露していた。(つ まり)「昭和には25、平成には88、新元号には18を加算すると西暦の下2 けたになる》と。平成24年ならば24+88=112だから、2012年となる。この 語呂合わせはユニークで覚えやすい。

《これを披露すると(自分が主催する)セミナ−でも好評だ。早見表が不 要で脳トレにもなると自賛したいところだが、やっぱり不便である》と嘆 いている。

「元号が変わるのを機に、日常生活では原則として西暦を使用すると政府 が定めてはどうか(2019.3.14朝日新聞“オピニオン”)」という提言に私 も基本的に賛成である。現在、国などの役所は元号を使用し、一方、企業 などではほぼ西暦となっている。元号と西暦が混在すると、間隔年数など が特にわかりにくく、いつも相互の読み替えが必要となる。

今月半ばに、文部科学省所管のある機構への平成31.3.31締め切りの申請 書を作成したが、機構はさすがに後ろめたいのか、その公募要領には、平 成31・32・32・・・年のすぐ下の欄に2019・2020・2021・・・とのカッコ 書きを指示する記入(例)があった。

そこで、みなさんに質問したい。次を1分以内で答えられますか?

Q1(質問):私の家族の誕生年の一部を例示する。祖父:明治16年、 父:1911年、母:大正8年、私:昭和19年、子供:1978年、孫:2015年。 各人の元号(和暦)または西暦はそれぞれ何年ですか?

Q1(質問)の回答の前に、先日新宿でいっしょに飲んだ数人に訊いてみた が、すらすらと明確に答えたのは1人だけだった。「う〜〜ん、1911年 か?明治かな、大正かな?」とか、「明治のことを説明するのに西暦表示 はいらんだろう」と苦し紛れの反問もあった。要するに、わかりにくいと いうことである。

私は(役所等へ提出する)文書などの表記や間の年数などを間違いなく把 握するために、自分なりに「変換方法」を決めている。先人の知恵を拝借 した部分もある。先の山添昌之さんの「双子(25)パパ(88)い〜や (18)」と基本は同じだ。

Q1(質問)のA1(回答)を記す。祖父から順に、1883年、明治44年、1919 年、1944年、昭和53年、平成27年だ。次に解説をする。

日本の暦は和暦と言われ元号・年号が使用されている。広辞苑には「年号 (元号)とは『年につける称号』ある。・・日本では645年に『大化』と 号したのが最初」と説明されている。年号でも、代始め(天皇の即位)か ら数えるのが元号である(「元号法」「皇室典範」「登極令」)。

元号(和暦)と西暦を変換するには次の数字で計算するとよい。この数字 は、明治(M)67、大正(T)11、昭和(S)25、平成(H)88、新元号 (?)18である。元号(和暦)から西暦への変換はこの数字を足す (+)。西暦から元号(和暦)への変換はこの数字を差し引く(-)。

じつは、この数字は改元された前の年(!)の1867年、1911年、1925年、 1988年、2018年の下2桁(!)の数字である。ということは、明治(元 年〜45:1868〜1912)、大正(元年〜15:1912〜1926)、昭和(元 年〜64:1926〜1989)、平成(元年〜31:1989〜:2019)、新元号(元 年〜:2019〜)の始期〜終期を知っておくことと同じである。

私の家族、祖父:明治16年、父:1911年、母:大正8年、私:昭和19年、 子供1978年、孫:2015年の例に上の式を当てはめてみる。

祖父 M16年+67=83・・・1883年
父  1911-67=1844年・・M44年(下2桁)
母  T8年+11=19・・・ 1919年
私  S19年+25=44・・・1944年
子供 1978年-25=53・・・S53年
孫  2015年-88=1927・・H27年(下2桁)
新元号 2022年-18・・・(?)4年(下2桁)

新しい元号はどう決まるのであろうか? 発表まで1週間である。元号が 変わるのを機に、日常生活はもとより国などの公共的な業務や一般企業活 動においても、原則として西暦を使用すると政府が定めてほしい。

そこで、仮に、新元号が「せいれき(聖暦・成歴・・西暦?)」になった としたら、奇天烈というか、変な感じとなるが、それを機に、元号と西暦 との使い分けが明確になっていくだろうと思われる。でも、ま・・「せい れき」はないか(笑)。

一方、年号(元号)は大化の改新(645年)から始まり、これまで247を数 え、世界で唯一長期的に1370年以上使用され、現在(2019年)に連なる。 日本の元号はまさに世界に冠たる歴史的文化遺産である。

日本の神社仏閣の正式表記が西暦表示になっては身も蓋もない。また、歴 史小説や時代小説や映画作品などが西暦表示や台詞などになっては日本の 貴重で大切なものが滅びてしまうのと同じだ。

西暦は実務的に割り切って適切に使用することが大事である。日本国と国 民は、元号を単なる時代遅れの「記号」に埋没させるのではなく、必要に 応じ、単独または西暦と併記するなどして、大切に守り続けていくことが 肝要である。

日本国民の心が落ち着く晴れやかな元号が発表されることを願い、静かに それを待つことにしよう。(2019.3.23 千葉市在住) 


       
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歴史の見方にももっと多様性を
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        阿比留 瑠比

レーリンク判事の日記の抜粋

日本を一方的に断罪した極東国際軍事裁判(東京裁判)をめぐっては、 インドのパール判事が被告全員を無罪とする意見書を提出したことがよく 知られるが、オランダのレーリンク判事も広田弘毅元首相や東郷茂徳元外 相ら5人を無罪だと主張している。

そのレーリンク氏が、日本滞在中に書いた日記や書簡の内容が明らかに なったという三井美奈記者の記事が、15日付産経朝刊に掲載されてい た。詳細は元記事を参照してもらいたいが、こんなことを日記に記してい るという。

東京裁判「文官無罪」の葛藤 レーリンク判事の日記、詳細初めて明らかに

「日本の歴史や国際法の研究を進め、多数派の意見だからといって絞首 刑を宣告すべきではないという考えに至った」

いまだに東京裁判を単純かつ安易に正当化するような一部新聞や野党議 員に、爪のあかを煎じて飲ませたいところである。ともあれ、日本滞在中 のレーリンク氏と交流があり、その日本観に影響を与えたのが児童文学 『ビルマの竪琴』の作者であるドイツ文学者、竹山道雄氏だった。

竹山氏の著書『昭和の精神史』の中で、竹山氏がレーリンク氏に、昭和 23年11月に出された東京裁判の判決の非合理性を訴える場面がある。 レーリンク氏はこう答えている。

「いまは人々が感情的になっているが、やがて冷静にかえったら、より 正しく判断することができるようになるだろう」

これは、次のパール氏の言葉と基本的に認識が通じている。

「時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には(中略)過去の賞罰の多くにそ のところを変えることを要求するだろう」

竹山氏の著書『ヨーロッパの旅』によると、それから8年後の31年、オ ランダの自宅を訪ねてきた竹山氏に、レーリンク氏はこう明言した。

「あの判決はあやまりだった。もしあの裁判がいま行われれば、あのよ うには考えられないだろう。俘(ふ)虜(りょ)虐待などの通常の戦争犯 罪は別として、政策の結果として起こったことに対しては、ああいう結論 にならなかっただろう。おおむねインド人のパールのように考えただろう」

また、自分たち判事団は偏った情報しか持っていなかったと振り返り、 このように反省している。

「連合国側には共産主義の脅威ということは念頭になかった。(中略) 外部からの挑戦−それへの反応ということについて、はなはだしい見落と しがあった。その後まもなく中国が赤化したのを見て、そうだったのか、 それほどまでにも脅威が迫っていたのかとおどろき、この点はまったく考 え直されるようになった」

「あのときの判事たちは法律家ではあっても、国際関係に通じている 人々ではなかった」

興味深いのは、レーリンク氏が東条英機元首相を有罪と判断したもの の、同時に高く評価していたことである。特に、キーナン首席検事に対 し、東条氏が大東亜戦争は自衛戦争であることや、天皇陛下には責任がな いことを堂々と論理的に主張した場面には瞠(どう)目(もく)し、舌を 巻いてほめていたという。竹山氏によると、日本滞在中、何度もこうつぶ やいていた。

 「Outstanding man!(傑出した男だ)」

毎年、お盆の時期にはテレビも新聞も先の大戦特集を組むが、東京裁判 史観の延長線上にあるものが目立つ。もっと歴史の見方にも多様性がある べきだろう。(論説委員兼政治部編集委員)
産経ニュース【阿比留瑠比の極言御免】



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「きりたんぽ」怖い
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     渡部亮次郎

今やご存知のように秋田料理「きりたんぽ」は殆ど「全国区」になった が、味は全く落ちてしまった。地元秋田では、空港や主要駅で
「土産」として通年販売する都合上、潰した飯の中に「防腐剤」を入れ始 めたので、「コメの秋田」の美味しさは全く無くなった。

同じ秋田県でも、山形や宮城県に隣接する県南では、きりたんぽは食べな い。あれは県北のもの。昔は南部藩だった鹿角郡が発祥の地。
あの辺に暮らした熊の狩猟師「またぎ」が作り出したもの、といわれてい る。だが、私は秋田県人の癖に、県北に住むようになるまで全く知らな かった。

昭和33(1958)年6月、NHK秋田放送局大館市駐在通信員になって、大館 市内に下宿し、いろいろな取材を始めた。

大館警察署の取材は早朝4時に起きて行く。勿論、他社は誰も来ていな い。管内の火事、交通事故の一報が沢山入っている。そのなかから適当な ものを、それなりの文章にして、秋田放送局へ電話で送稿。

受けるのは、当直のアナウンサー。大体新人だ。だが、ローカル放送は午 前6時。その前の5時は仙台から東北地方全域向けの放送。そこでアナウン サー殿に頼んで仙台に吹き込んでもらう。

仙台の報道課には記者が泊まっている。デスクが昨夜仕組んでいった ニュースはすべて昨日までのもの。大館発の交通事故や火事は唯一の 「ニュース」だ。かくてNHK仙台発の午前5時の「管内ニュース」は、 毎朝「大館発」だらけ。面白かった。

そのうちに忘年会のシーズンになった。各社の記者は老人ばかり。出世は 止まっているから、官庁や商工会議所にたかって酒を呑むことばかり考え ている。

こちらは「明日」に望みを賭けている身だから、「たかり」は避けたい。 だが、まだ民放記者の駐在の無い時代。宴席からNHKが欠けると目立つ とかで、「そこは付き合い」と引っ張られる。

のだから、終いには「きりたんぽ怖い」になってしまった。あれから50年 以上過ぎたが「きりたんぽ怖い」は治らない。2020・1・5


   
         
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読 者 の 声
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 ◎何となく違和感を覚えた産経の主張:前田正晶

産経新聞が「主張」欄にイチロー君の言葉を称えるような表現で「自分が 熱中できるもの、夢中になれるものを見つけられれば、それに向かってエ ネルギーをそそげるので、そういうものを早く見つけてほしい。(以下 略)」と子供たちへのメッセージを求められて答えたとしていた。確かに 良いことを功成り名遂げた大選手が述べたことは貴重だとは思うが、私に は何となく「何となく」の思いがあるもの確か事だった。

それは、今を去ること50年以上も前になっただろうか、日本の会社時代に 2期上の年齢になる某国立大学出身の秀才と語り合ったことだった。彼の ことはこれまでに何度も採り上げたが、名言や至言が多い人である。当時 は(乃至は今でもかな?)スポーツの世界で大いなる成績を挙げた大監督 などを招聘してその成功物語を財界人が聞く講演会が方々で開かれていた ことを捉えて、お互いの意見を述べ合ったのだった。その際に一致した見 解は「それは本末転倒ではないだろうか」ということだった。

「スポーツという言わば限定された範囲内での成功よりも、国内のみなら ず世界にも進出して実績を挙げられた傑出した経営者の『成功への道』を スポーツの指導者たちが承って勉強するのが本筋ではないのか」という考 え方だった。半世紀も昔のことなので正確な記憶ではないが「経験談を承 るのだったならば、例えば松下幸之助であるとか、井深大とか盛田昭夫の ような方々から監督やコーチ連中が聴衆になるのが適切ではないのか」と いうように語り合ったのだった。

今思い出しても、1964年の東京オリンピックで日紡貝塚の大松監督が女子 のヴァレーボールで優勝されたような猛練習の話は確かに大いなる感動を 呼んだ。だが、「そのある目的を持った猛練習による成功の過程の経験談 を伺って、それをどのように会社の成功(大きな利益を挙げること)とか 部下や後進の指導に応用すれば最善の結果出るのか」というような議論を したような記憶もある。即ち、参考にはなるだろうが経営の指針になるの かという意味だったと記憶する。

私はキリスト教の教えではないが「人は死ぬまで努力し向上しようとし続 けねばならない」とは承知しているが、それを実践し続けるのは余程の覚 悟と強固な意志が必要だと思う。イチロー君があれほどの名選手になった 後でも、常に練習を怠らず心身を鍛えておく努力を怠らなかった事は見習 うべきだとは思う。だが、常人には容易にやり遂げることはできないこと だと危惧する。そういう努力をする姿勢こそがビジネスパーソンたちも模 範とすべきだろうとも思うが、私はそういう見習うべき努力をしておられ たビジネスパーソンたちを数多く見てきた気もするのだ。



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身 辺 雑 記
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25日の東京湾岸は晴れ。

24日夜は家人の次姉の招待で自由が丘の焼き肉店でごちそうになった。

郷里秋田在住の友人が、東京へ出した子供たちが1人も帰ってこない、上 京してみて冬晴れを見て納得したそうだ。これじゃ吹雪の秋田へ帰ってこ ないのは当然だ、と。大げさだと言われそうだが秋田は太陽に”差別”され ている。冬晴れ南向きのベランダで植木に水をやりながらつくづくそう 思った。


                          読者:5587人

                          

                           
                    


     
                    



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創刊日:2004-01-18  
最終発行日:  
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