政治・経済

頂門の一針

急所をおさえながら長閑(のどか)な気分になれる電子雑誌。扱う物は政治、経済、社会、放送、出版、医療それに時々はお叱りを受けること必定のネタも。

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頂門の一針4955 号  2019・2・14(木)

2019/02/14

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わたなべ りや うじらう のメイ ル・マガジン「頂門の一針」4955号
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        2019(平成31)年  2月14日(木)



         夥しい労働者に賃金が支払われず:宮崎正弘

               憲政の神様の落選:渡部亮次郎

        脆くも崩れ去りかねない日露外交:櫻井よしこ                           
                                
                      話 の 福 袋
                        反     響
                      身 辺 雑 記



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夥しい労働者に賃金が支払われず
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成31年(2019年)2月8日(金曜日)弐
         通巻第5987号  
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夥しい労働者に賃金が支払われず、座り込み抗議行動が多発
  ビル労働者「家族の医療費も払えず、ビルから飛び降りてやる」
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どうやら予測通りである。

春節(旧正月)に中国の鉄道、飛行機、長距離バス、そしてハイウェイは 未曾有の人混みで大混乱に陥ったが、例年より早い休暇入り。そして 「ゆっくり休養を取れ、連絡するまで上京しなくてもよい」と言われ、給 与不払い、当座の旅費だけ支給された。

春節があけて、かれらが職場にもどると、工場は閉鎖されているだろう。 中国ではよくある手口だ(日本に観光にきている中国人はよほど恵まれた 階層である)。昨年の企業倒産は500万社とも言う。

ビルの建設現場。3ヶ月給与不払いというケースが多く、労働者は作業を やめている。工期はベタ遅れ、クレーンは停まり、作業場では残った労働 者のシット・インが続く。

トラックの運転手はウーバーにも職を脅かされ、本社前をトラックがぐる ぐる廻っての抗議活動。配送の下請けは賃金を受け取るまで「配達はしな い」と抗議の声を挙げている。

製造工場ではラインが停まり、座り込み抗議。おおよそ給与不払いが原因 であり、経営者は雲隠れ、ビルの屋上から飛び降りてやると抗議する労働 者も現れた。悲痛な叫びは、「もう食事代もない」。「故郷の妻子の医療 費がはらえない」。

こうした風景が中国全土、あちらこちらで見られる。旧正月のお祝いどこ ろではない。解雇された従業員は鴻海精密工業の10万人が象徴するよう に、潜在失業者を含めると、おそらく数千万人単位ではないか。
        
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1855回】           
――「社稷既に亡んで、帝陵空しく存す」――大町(1)
大町桂月『遊支雜筆』(大阪屋號書店 大正8年)

                 ▽

高知生まれの大町桂月(明治2=1869年〜大正14=1925年)は、明治13年 に上京し杉浦重剛の称好塾に学んだ後、東京帝大国文科へ。

「明治會叢誌」「帝國文學」などに拠って評論・美文・新体詩などを発表 し、大学派・赤門派の重鎮として活動。明治33年に博文館に招かれ『太 陽』『文藝倶樂部』『中學世界』などに文芸時評・評論・評伝・紀行文な どを発表する。文章を修行することで人間の錬磨を主張し、明治・大正期 の知識青年に大きな影響を与えた。

「序」で「朝鮮は今や皇國也。南滿洲の地は、近く日清戰爭に、日露戰爭 に、我が同胞の鮮血を流したる處にして、現に我が同胞の活躍せる處也」 と記す。「今や皇國」となった朝鮮、「我が同胞の鮮血を流したる處にし て、現に我が同胞の活躍せる」ところの南満洲を、大町は「四箇月の日 子」を掛けて歩いた。

南満洲の旅は「初は大連を根據地として、後は奉天を根據地として、南は 旅順、北は哈爾濱、東は吉林、西は鄭家屯の間を跋渉すること幾んど2箇 月」。それは「大正七年將に暮れむとす」る頃であった。

満洲に火山はないが温泉はある。「温泉宿は日本人が創めたる也。滿洲人 の在る處に風呂なし。日本人の在る處には、必ず風呂あり。風呂より温泉 の方が遥かに氣持よし」。そこで「(満鉄)本線の熊岳城、湯崗子、安奉 線の五龍背」の「3温泉は滿洲にある日本人に取りての極樂浄土」という ことになる。

3温泉の1つである五龍背に宿を取る。「ペチカは室を煖め、靂泉は身を 煖む。冬枯の滿洲に陽春の心地して、余はこゝに四宿しぬ。而して新年を 迎へぬ」。

明くる大正8年は西暦で1919年・・・ということは、今からちょうど100年 前に当たる。

その後の日本の針路に大きな影響を与えることになる国際的な出来事とし ては、パリの講和会議(1月)、朝鮮における三・一独立運動(3月)、反 伝統を掲げる一方で近代中国における最初の本格的反日運動となった五・ 四運動(5月)、ヴェルサイユ講和条約締結(6月)、シベリア撤兵開始 (9月)――日本も国際政治の主要プレーヤーとして歩みだす。

「大連より北四百三十五哩八分、長春に至りて、滿鐵の線路盡く。而して 東清鐵道始まる。長春は南滿洲の裏門にして、兼ねて北滿洲の表門也」。 その長春の八千代館で昼食。やがて日本人芸者が「一人あらはれ、二人あ らはれ、三人あらはれ、遂に四人となる。最も年老いたる藝者、聲美にし て追分を歌ふに、滿洲の野に在る心地せざりき」。まあ、それはそれは天 下泰平でゴザリマスなァ。

長春の街を馬車で散策する。「支那人の乞兒のとぼとぼ歩くを見て」、案 内役の某氏は「あれはまだ死なず」と。続けて、「乞兒は長春の名物也。 北滿洲にある支那の乞兒、鐵道にて追還されて、長春に來り、長春にても 追はるれど、動かず。長春は乞兒の溜場所となりて、凍死する者の年々數 百人の多きに達する也」と。

「長春より哈爾濱まで、225哩」をロシアの東清鉄道に揺られる。

途中の某駅を過ぎた頃、南への追放を免れたと思われる「支那人の乞兒來 る。兩足なし。兩手に木枕の如き木片を持ちて、兩手と兩膝にて歩く。年 は四十ばかりに見ゆるが、頭をさぐるでもなく、語を發せず、にこにこと 樂觀的の顔付きを爲す。食ひ殘したるもの一切を與ふれば、受けて默つて 立ち去れり」。汽車が某駅に着くと、「その乞兒の汽車を下りてブラット ホームを這ひゆくを見たりき」。

 どうやら大町の満洲は、日本式の温泉と「年は40ばかりに見ゆる」と ころの「にこにこと樂觀的の顔付きを爲」した乞食との出会いから始まっ たということなのか。

     
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 読者の声 ☆どくしゃのこえ ★READERS‘ OPINIONS
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(読者の声1)三島研究会から公開講座のお知らせです。2月はヴルピッ タ・ロマノ先生が講演を行われます。内容以下の通りです。
            
           記

日時 平成31年2月25日(月)18時半より(18時開場)
会場 アルカディア市ヶ谷(私学会館)
   JR/地下鉄市ヶ谷下車2分
講師 ヴルピッタ・ロマノ氏(作家、京都産業大名誉教授)
演題 三島由紀夫に思いを寄せて〜現状を考える

(講師略歴)昭和14年(1939年)ローマ市生れ。1961年ローマ大法学 専攻卒。     東大留学を経てイタリア外務省入省、EU駐日代表部 次席代表など歴任。京都産業大名誉教授。主な著書に「不敗の条件〜保田 與重郎と世界の思潮」「ムッソリーニ〜イタリア人の物語」(何れも中央 公論社)などがある。
会費 会員・学生1千円(一般2千円)
         (三島由紀夫研究会事務局)

     
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憲政の神様の落選
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   渡部 亮次郎

日本の国会議事堂に行けば、正面玄関ホールに尾崎行雄の胸像に会える。 また振り向けば、道路を挟んだ向かい側に尾崎行雄記念館(憲政記念館)が ある。あまりに昔の人だからか、会館は利用者が少なく、赤字だとの噂だ。

政治記者になれば当然、尾崎の胸像に面会し「憲政の神様」を改めて学ぶ 事になるが、尾崎の政界引退が、吉田茂の「バカヤロー解散」による落選 だったとは知らなかった。4月19日。今から55年前、1953年(昭和28年)である。

尾崎行雄おざき ゆきお、安政5年(戸籍上は翌6年の旧暦11月 20日)11月20 日(1858年12月24日) - 1954年(昭和29年)10月6日)は、日本の政治家。

当時の三重県2区(宇治山田市、松阪市など)で定員4人のところ、前回より 8000票も減り27,021票、6位で落選した。赫々たる憲政の実績は次第に忘 れ去られていたのである。95歳では無理だった。

号は咢堂(がくどう。最初学堂。愕堂を経て咢堂)。相模国津久井県又野 村(現・神奈川県相模原市津久井町又野)生まれ。称号は衆議院名誉議 員、東京都名誉都民。「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。

11歳まで又野村で過ごした後、官吏となった父・行正に従い、1868年(明 治元年)に東京・番町の平田塾にて学び、一家も1871年(明治4年)に高 崎に引越し、地元の英学校にて英語を学ぶ。そこで初めて「学校」に入った。

その後、1872年(明治5年)に度会県山田(現・三重県宇治山田)に居を 移す。行雄も宮崎文庫英学校に入学した。1874年(明治7年)に弟と共に 上京し慶應義塾童児局に入学する。

しかし塾長の福沢諭吉に反抗して退学、1876年(明治9年)に工学寮(のち 帝国大学工部大学、現・東京大学工学部)に再入学する。

1882年(明治15年)大隈重信の立憲改進党の創立に参加、1890年(明治23 年)第1回総選挙で三重県選挙区より出馬し当選、以後63年間に及ぶ連続 25回当選という記録をつくる。

その後、進歩党・憲政党に属した。この間第2次松方内閣において外務大 臣に就任した大隈の推挙で外務参事官に就任するが、大隈と首相の松方正 義が対立するとともに辞任した。

1898年(明治31年)第1次大隈内閣において40歳の若さで文部大臣に就任 するも、所謂共和演説事件で文相を辞任し、その後任を巡って憲政党は分 裂、大隈内閣も総辞職した。

その後、憲政本党に属していたが、伊藤博文の立憲政友会結成に呼応して 憲政本党を離脱して政友会入りするも、その後伊藤とも対立して離党、そ の後猶興会などを経て政友会に復党とめまぐるしく所属政党を変遷する。

1903年(明治36年)から1912年(明治45年)まで東京市長、1914年(大正 3年)の憲政擁護運動では立憲政友会を代表して質問を行い、桂太郎首相 を糾弾する演説を行って大正政変のきっかけとなった。

だが、政変後に自党の利益を優先しようとする政友会の方針に反発して
政友会を離党し、以後中正会・憲政会・革新倶楽部と移る。第2次大隈内 閣では司法大臣となる。

当初は対外硬派として知られたタカ派であったが、第1次世界大戦後の ヨーロッパ視察で戦争の悲惨さを見聞して以後は、一貫した軍縮論者と なった。

また、ポピュリズム化を危惧して普通選挙の早期施行には消極的であった が、大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動に参加。同時に、次第 に活発化していた婦人参政権運動を支持し、新婦人協会による治安警察法 改正運動などを支援した。

また軍縮推進運動、治安維持法反対運動など一貫して軍国化に抵抗する姿 勢を示したが、政界では次第に孤立していった。1942年(昭和17年)の第 21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)には非推薦出馬で当選。

1943年(昭和18年)、翼賛選挙批判を行った演説中に引用した川柳「売家 と唐様で書く3代目」が昭和天皇の治世を揶揄するものであるとされ不敬 罪で起訴される(一審で有罪、1944年(昭和19年)大審院で無罪確定)。

公判通知を受けた尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕く」と言い、号を学堂 から愕堂に変えた(後に心身の衰えを感じて”愕”のりっしんべんを取り咢 堂とした)。

戦後の国会でも活躍して民主主義の復活と世界平和の確立のために尽力す るが、1953年のバカヤロー解散による総選挙(第26回衆議院議員総選挙  1953年4月19日)で落選して、政界を引退した。名誉議員の称号を贈られる。

1950年には英語国語化論を提唱したこともある。

1954年(昭和29年)10月6日、直腸ガンによる栄養障害と老衰のため死去。
享年96。墓所は鎌倉の円覚寺。

永年在職議員表彰第1号、衆議院名誉議員(50年以上の議員在職者。衆院 の正面玄関に胸像を建立)第1号、東京都名誉都民第1号。

相模原市津久井町と伊勢市に、それぞれ尾崎咢堂記念館がある。伊勢神宮 に隣接する合格神社に神として祀られている。また、国会前庭の敷地内に ある憲政記念館は尾崎の功績を称えて建設されたものである。

東京市長在任中にアメリカ合衆国へソメイヨシノ2000本を贈り、ポトマッ ク川に植樹された。だがこれらのソメイヨシノは虫害によって焼却されて しまい、後に3100本の桜が新たに植樹されている。

難民を助ける会創立者の相馬雪香は、英国育ちの妻テオドラとの間に生ま れた三女。

「牧野伸顕日記」昭和6年(1931年)2月17日条によると、内大臣牧野伸顕 (大久保利通の息子)が尾崎と会ったときにその口から

「我々は青年時代に薩長政府を悪み英国流の議会政治に如くものはなしと 思込、多年奮闘し来りたるが、事志と違ひ今日の現状に直面して慙愧
に堪へず抔、薩長政府は国家を念頭に置き働きたるが、今日は議会抔に国 家を思ふもの一人もなし」

という言葉を聞いて深刻に受け止めた事を書き記している。この時期の尾 崎の失意の心情を伺わせる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 2008・04・17


        
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脆くも崩れ去りかねない日露外交
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          櫻井よしこ

「脆くも崩れ去りかねない日露外交 河井発言は軽率のそしりを免れない」

この一言で元々脆い日露交渉が積木崩しのようになっていくかもしれな い。そう感じたのが自民党総裁外交特別補佐、河井克行氏の発言だ。

氏は1月8日、米ワシントンの政策研究機関で「中国に対抗するため」日露 平和条約が必要で、同条約締結に米国の理解を求める旨、語ったという。

安倍晋三首相は、米国の対中包囲とでもいうべき厳しい外交の前で、日中 関係の改善を目指している。従って安倍氏の外交戦略目標が河井氏の言う 中国封じ込めにあるかどうかはわからない。仮にそうだとしても、戦略と は黙って遂行するのが常道だろう。世界の政治の中心地で、安倍氏の特別 補佐が講演すれば、発言は首相の考えを示すものとして瞬時に世界を駆け 巡る。ロシアと中国の怒りは如何程か。河井発言は軽率のそしりを免れない。

まず、ロシア外務省のザハロワ情報局長がロシア国営テレビの番組で、 「対露交渉で日本はなぜ米国の支持を求めるのか、理解できない」と反 発。14日には日露外相会談後の単独記者会見で、ラブロフ外相がこう語った。

「今日何が起きたか、語っておく必要があると思い(記者会見を開い た)」、平和条約締結に関して両国の立場は「正反対」だ、「南クリール 諸島の主権は第二次世界大戦の結果としてロシアにあることを日本が全面 的に認めることが前提だ」。

ラブロフ氏は従来の厳しい主張を繰り返しただけでなく、「(北方領土を 含む)クリール諸島の主権問題は議論の対象ではない。これはロシアの領 土だ」とまで言い出した。領土交渉には応じないという意味だ。氏はこの 点を河野太郎外相に言い渡したという。

「北方領土」の表現も受け入れないとの発言が、このあとに続いた。

1956年の日ソ共同宣言に基づいて交渉するという安倍・プーチン合意が生 きているのなら、平和条約と北方領土問題は切り離せない。にも拘わら ず、島の主権問題は話し合いの議題から除くというのでは交渉は行き詰ま りではないか。日本側はロシアに好き放題言われてしまっている。

ラブロフ氏はその後、現在進行中の経済協力は「全くロシアの心に響かな い(very unimpressive)」、日本はもっと投資できる はずだとし、さらに深刻なことを要求した。

「国連でのロシア提案に関する日本の投票行動は日露両首脳が達成を望む 信頼関係を、全く反映していない」

北朝鮮への制裁をはじめ、ロシアや中国と日本が立場を同じくするのは難 しい。日本の外交基軸は価値観を同じくする米国との協調にある。それを 念頭に国連で日本はもっとロシア寄りになれとラブロフ氏は要求している のだ。

河井氏は日本の戦略としての中露分断を語ったが、ロシアはそのような日 本への怒りの表現として日米分断を声高く主張していると見てよいだろう。

ラブロフ氏は間違いも堂々と語る。

「1956年の日ソ共同宣言が署名されたとき、日米安全保障条約は存在しな かった。条約が60年に署名されると、日本は日ソ共同宣言から距離を置き 始めた」

「(日米同盟が中露に)安保上のリスクを投げかけている」とも非難した。

滅茶苦茶だ。米軍の占領が終わりに近づいた1951年、日本はサンフランシ スコ講和条約に調印し、52年に発効した。独立したが非武装国の日本に、 米軍駐留の継続を定めた安保条約が、そのとき同時に成立した。60年は安 保改定の年にすぎない。

ロシアの間違いや不条理な主張を百も承知で安倍首相はウラジーミル・ プーチン大統領と会談を重ねてきたはずだ。その内容については知るべく もないが、安倍首相が何らかの前向きな反応をプーチン氏から得ていると 仮定しても、河井発言で交渉はさらに難しくなると懸念するものだ。
『週刊ダイヤモンド』 2019年2月9日号
 新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1266 


      
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重 要 情 報
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 ◎池江璃花子さんの白血病報道に思う(オリンピックより優先すべき事 は?):前田正晶

池江さんのTwitterによる告知以来、各テレビ局はこの件と、直ぐ後から 出てきた大坂なおみのサーシャ・バイン・コーチとの契約解消(なのだろ うか)の件で持ちきりである。大坂なおみのコーチの問題と違って池江さ んに関する報道の場合は個人の深刻な病気に関する問題なので、何か奥歯 に物が挟まったような「何が言いたいのか」が判然としない点が多いなと 思って聞いている。私も微妙な点が多いので彼らと雖も悩んでいるのだろ うとは察している。

その中でも、私は産経新聞が「元競泳選手で、都内の病院に勤務する血液 内科医(48)は「白血病の種類にもよるが、一般的に(治るまでに)最短 でも7〜9ヶ月はかかる。治療中は絶対に運動ができないため、筋力も著し く低下する」と指摘。世界最高レベルの技術を持つ池江にとって五輪に向 けて一層の筋力アップが課題だっただけに影響は甚大だ」と書いていた。 私はオリンピック云々は兎も角、治療期間と筋力の低下を医師の口を借り てでも率直に指摘した点で価値があると言いたいのだ。

要するに私は、彼らマスコミが「難病に罹った気の毒な未だ18歳の未成年 の少女をつかまえて、オリンピックがどうのこうのとばかり言うのは、人 の道に外れているのではないかとの感さえするので、それでは失礼ではな いか」と指摘したいのだ。この点を本日偶々診て頂いた掛かりつけのクリ ニックのS医師にご意見を伺ったところ「何はさておいても、患者さんを 治すことを最優先すべきだろう」とオリンピックのことばかりを採り上げ ることに疑問を呈しておられた。

午後からテレ朝に出てきていた元西武や読売等の内野手だった鈴木康友は 白血病病に似た病を経験したそうで、語っている間も帽子を脱がなかった のは、抗がん剤による治療を続ければ頭髪がどうなるかという点を問わず 語りしていたのだった。それに加えるに、検査の為に骨髄から注射器で髄 液を採取する時の「何と言って良いか解らない痛さに耐えねばならない苦 しさ」も回顧したが、この話を聞くだけでも池江さんがこれから受けるだ ろう治療の大変さが判ろうというものだ。

私はそれに耐えて、元の健康体に戻してから世界的な水泳選手の筋力に戻 す訓練が如何に大変だろうかに思いを致せば、軽々にオリンピックだのメ ダルだのと言うのは何かのはき違えのように思えてならない。当事者では ない我々に出来ることは「18歳の少女が一日も早くこの大変な病気を治し て第一戦に復帰できるよう励まして上げること」を優先すべきだと思うのだ。


 ◎今度は大坂なおみさんが:前田正晶

12日にはマスコミは池江璃花子さんの白血病の件で持ちきりだったが、そ の最中に今度は大坂なおみさんが Sacha Bajinコーチとの間柄を解消した 旨が報じられ、また一騒動だった。このコーチは大坂さんの精神面(「メ ンタル」何て半端なカタカナ語は使わないよ)の強化に専念し、4大大会 のうちの2大会での連続優勝の最大の貢献者として扱われてきた。その コーチが突如辞めるというのだから、確かに一大事だろうが、報道では 「そこに如何なる理由か背景があったのか」には触れていない。後任も取 り沙汰されていないようだ。

私は折角あの地位までに短期間に上り詰めたまで大坂さんのこれからに とっては、信頼すべき後任のコーチ役の人物は必要であろうと思ってい る。あの彼女のTwitterだけでは全く説明不足で疑問ばかりで、やや不安 感が残る。それよりも私が「これは?」と感じたのは“I will no longer play together with 〜.”とあったところだ。私は“no longer
”では「もうこれ以上は」という極めて冷めた突き放したような言い方だ ろうと思っている。

もっと他に「彼とは契約を解消することで合意した」であるとか「契約を 終えることにした」といった言い方があると思うが、それを言わずにぶっ きらぼうに“nolonger”では「では何か言いたくない事情でもあるのか」と 解釈したくなるのだ。だが、この件は何れ時間が解決するだろうと考える ことにした。

そこで、矢張り英語関連の講釈をしておきたくなった件がある。それは、 先ず何局かで Sacha Bajinを「サーシャ・コーチ」と呼んでいたことだ。 「サーシャ」は少なくともファーストネームであってその後に「さん」を 付けるのは欧米との名前における違いが解っていなくて恥ずかしいのだ。 呼ぶならば、ドイツ式ならば「バイン・コーチ」で、アメリカ式に読めば 「ベイジン」か「バイジン」だろう。確かNHKは「ベイジン」とアメリカ 式を採っていた。

なお、Wikipediaによれば正式なファーストネームは「アレキサンダー」 のようだ。局も新聞社もそれくらい調べて「特派員」も置いているのだろ うから、現地で SachaBajinさんに「貴方の名字は正確には何と読めば良 いのですか」くらいは尋ねれば良いこと。




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身 辺 雑 記
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14日の東京湾岸は曇天。

13日の東京湾岸は予報に反し曇天。散歩のあとメルマガを編集。のち大学 病院で定期検診。胆石の有無を告げられる予定。結果、石出来てなかっ た、一安心。

亡兄は胆嚢が溶けて無くなり、住処を失った石は肝臓に住み着いて困った ものだった。地元新聞社 の常務だった兄は肺炎のため死んだ。享年81。 娘3人を遺した。2番目は大学の英語の教授だ。
                          読 者:5587人
                           


                      

                 









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創刊日:2004-01-18  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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