政治・経済

頂門の一針

急所をおさえながら長閑(のどか)な気分になれる電子雑誌。扱う物は政治、経済、社会、放送、出版、医療それに時々はお叱りを受けること必定のネタも。

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頂門の一針

2013/07/01

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  わたなべ りやうじらうのメイル・マガジン「頂門の一針」 2994号
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        2013(平成25)年7月1日(月)


    進次郎氏の地元・横須賀市長選で自民敗れる:古澤 襄

                                夏目先生と私:出原 佃

                  日本における共産主義運動史:平井修一

                          勇志国際高校の挑戦:伊勢雅臣

                        ボルシチの無い理由:渡部亮次郎

                     話 の 福 袋
                    反     響
                    身 辺 雑 記


□■■□  ──────────────────────────□■■□
第2993号
                             発行周期 不定期(原則日曜日発行)
             

 
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進次郎氏の地元・横須賀市長選で自民敗れる
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                             古澤 襄

自民党一の人気男・進次郎青年局長が地元の横須賀市長選で敗れ、「全力
で戦ったが負けは負けだ。私の力不足で本当に申し訳ない」と頭を下げた。

進次郎人気が即投票行動に繋がるとはいえない。やはり現職の吉田雄人氏
に挑んだ前副市長の広川聡美氏の力不足。参院選でも進次郎人気を当てに
して上滑りの選挙をしたら横須賀市長選の二の舞になる。

 <横須賀市長選が6月30日、投開票され、自民党の小泉進次郎青年局長
(32)の推す広川聡美氏(61=前副市長)が、現職の吉田雄人氏(37)に
敗れた。吉田氏は再選。政党の支持を受けない吉田氏が09年の市長選で当
選以来、4年間続いた小泉王国VS吉田市政の「ねじれ」は解消されず、
進次郎氏には大きな痛手だ。

選対本部長を務めた進次郎氏は「全力で戦ったが負けは負け。私の力不足
です」と繰り返し、頭を下げた。市を二分した仁義なき戦い。「大将を勝
たせるには汚れ役が必要だ。私は汚れ役も引き受ける」と、なりふり構わ
なかった。

 前回は、父小泉純一郎元首相が推した候補が、当時33歳の吉田氏に敗
北。父のリベンジ戦でもあった。国会がある日以外は地元に張り付いた
が、届かなかった。「勝って当たり前」といわれる王国での敗北。「青年
局長の面目もつぶれる」(党関係者)と厳しい声もある。「こういうこと
を経験するのも、政治の道なんですかね」と話した。

地方で続く、首長選の自民党の連敗記録も止められなかった。先月23日
の東京都議選は全勝したが、党幹部は地方で勝てない現状に危機感を募ら
せる。進次郎氏は気持ちを切り替え、4日公示の参院選で再び「選挙の
顔」として、秋田県から「被災地、離島、過疎」をテーマに全国を回る。
(日刊スポーツ)
2013.07.01 Monday name : kajikablog



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夏目先生と私
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  出原 佃

明治三十六年九月、私は愛知一中を出て一高に入學した。その頃の高等學
校や大學は、九月から第一學期、一月から第二學期、四月から第三學期、
六月末に學年試驗があって、夏休みはユックリ休めた。

一高で私は運よく夏目先生に英語を教へて貰った。學期のはじめからでな
く、中途からであった。英國から歸られたのが中途だったのだらう。

教科書はテキストブック・オブ・ヂオロヂーで、先生は一語が出ると、そ
れにサフィクス、プレフィクスをつけて教へられる。一度に澤山の言葉が
覺えられるのである。例へば

「マリンは海だね、サブマリンは何だね、オイ出原君」

そのころ、私は禪を始めて、無言の行をして居た。さればといって、夏目
先生に、無言の行をする譯にも行かず、立って兵隊口調で返事をした。
「知らんです」

サブマリンは海の下で僭水艇、アルトラマリンは海よりも濃い青、それ
で、一度に澤山の語彙が出來る。とてもよい方法である。

發音もやかましかった。「オアシスでなく、オエーシスだよ」今でも覺え
て居る。

何度聞かれても「知らんです」の應答に、先生はついに怒ってしまはれた。

「おい、君は變な男だね、知らんことをさも偉いことに思って居るね。俺
も長い間リードルの先生をして居るが、君見た樣な男ははじめてだ。知ら
なきゃ、知りません、ともっとしをらしく返事をしたらどうだね。マー、
イゝわ、君に博士號を授けよう。──『ドクトル・シランデス』有り難く頂
戴せよ。よいか」

「ハイ、有難うございます」とお受けした。

ギリシャの學者達に澤山ある。ソクラテス、アリストテレス等のSに韻を
ふんだのである。今もホントに有り難く思って居る。

私は二部甲の十三組でした。二部甲は、工科へ進む組です。その組に周家
彦君が居た。その周君も、當てられたがグズグズして、返事がハッキリと
しない。

「オイ、もっとテキパキ返事をせよ」

と怒鳴られた。

「周君は、支那人です」 と注意したら

「ホウさうか」

と頭を掻いて居られた。その周君は、出世の早い男で、大正三年には、袁
世凱總統の事業部次長をして居て、北京で會った。

二年の時は教はらなかったが、三年の時にまた教はった。その時の教科書
は、コナンドイルのアドベンチュア・オブ・シャーロックホルムス、その
書き出しが、サッカレーの何とかいふことばではじまったことを覺えて居
る。先生の造られた博士第一號、愛弟子の私を見られて、

「オイ出原君、まだ息をして居るかね。もう君は息をして居ない、と思っ
て居た」
「ハイ、私は息を續けて居ります、どうぞお手軟かにお願ひします」

「それがよいね」

「オイ、君、君は愛知だったね」

「ハイ、愛知です」

「大島與吉といふ男を知っとるかね」

「ハイ、私の先輩です」

「大島は二錢銅貨一つを持って名古屋を出發したさうな。小石川の何處か
の素人下宿の二階に居た。冬のある日のこと、彼は素裸になって、自分の
着物を砧を打つ樣に、槌で叩いて居た。宿の主人が、大島さん、何をやっ
て居るんですか、と尋ねたら、シラミが澤山居て、一つ一つ取るのは面倒
だから、一緒に潰して居る、と。面白い奴だね」

「ハイ、面白いですね」

私が愛知といふことをどうして知って居られたのか、不思議である。何年
かたって、その大島さんに、どうして夏目先生と知合ひですか、と聞いた
ら、俺は夏目の弟と友達で、よく夏目の家に行った。その弟の奴が、酒で
も飮むと、鄰の家の梯子を借りて來て、庇にかけて直接二階へでも上ると
思ったら、敷居にかけて家に這入りやがるんだ。敷居が高くてまたがれ
ん、といふ。

私は一高を出て大學へ行ってから、小石川竹早町の愛知社に入り、寮生活
を續けた。その頃文部省は推薦で先生に博士號を贈った。先生は、文部省
に博士號を貰ひに行かないと新聞に出た。文部省は困って居った。書留
か、内容證明かでお歳暮の樣に屆けたらうか。私は博士號を屁とも思はぬ
その夏目先生からヂカに戴いたから、ホントに立派なものと思った。

その頃西園寺總理大臣が、春陽會の文士達を招待した。わが夏目先生はハ
ガキで斷られた。句に曰く

時鳥厠半ばに出かねたり 漱石

その頃聞いた話、文科で先生が講義をして居られると、一人の學生がいつ
も懷手をして聞いて居る。先生は、その懷手の學生は、禮儀を知らぬ男
だ、と思って居られた。その頃の學生は、皆和服に袴で、懷手には都合が
よい。

ついに先生のカンシャク玉が破裂した。

「オイ、君、講義を聞くのに懷手で聞くとは、無禮ぢゃないか」と、叱っ
た。學生達が、

「先生、彼は手がないです」

「ウウン、手が無いッ。オイ、俺は、ない知惠を絞って講義して居るん
だ。君も、無い手を出せ」禪の問答その儘。

私は、明治四十二年大學を出て滿鐵に入社した。

そして大連に勤務した。その時の滿鐵の總裁は中村是公で、先生の無二の
友達である。その是公の招きで、私と同じ頃滿州に行かれた。滿韓ところ
どころに
「是公の奴が大連の電車のレールを一本棒にせやがった」

その大連電鐵の經營を私がしたのも、誠に因縁深いもの。

漱石先生が「門」か何かの小説に、宗助の名前で鎌倉の圓覺寺に參禪され
る所がある。 その時の典座が釋宗演の養子の釋宗話である。

その宗話老師は、根岸に兩忘庵を造って禪の指導をして居られ、私も其處
に行った。無言の行はそれから。そして「知らんです」の因縁。

參禪された頃知合ひになられた二人の雲水さんは、東京へ來ると、先生を
訪問され、先生も喜んで御馳走された。ご逝去の時そのお二人が、色々世
話をされたとの話。猫に出て來る多々羅三平こと、俣野義郎君も滿鐵で同
じ釜の飯を食った。そして時々先生の話を聞いた。

ある年新京の一高會で、一高時代の自慢話のコンクールをやった。私が一
番終りに、私は一高一年の時に天下の夏目先生から博士號第一號を貰った
詳細を發表したら、遂に優等賞を貰った。

愛知一中の四年先輩に中川芳太郎氏が居る。中學二年で、どんな英語の本
でも讀めたといふ話、先生が東大で講義をされた時の英文科二年。全集に
收めてある夏目先生の文學論は、その中川芳太郎氏が筆記したものだとの
話。虞美人草の誰かゞ、その中川芳太郎氏。

東大から離れて八高の英語の先生、一高で私の一年下に高柳賢三君が居
る。これは私と逆に、夏目先生に質問許りする。先生もウンザリするほ
ど。ある時、高柳君に

「君は俺に質問するが、俺の月給を調べたことがあるか、俺は君の質問に
答へなきゃならぬ程の月給を貰っては居ないよ」

その高柳賢三先生と倫敦の東洋館といふ旅館で同宿して居た。大正十三
年、英國ではもうラヂオ放送をして居た。高柳先生は、勞働黨の黨首マク
ドナルドが、グラスゴーで演説して居るのを、ラヂオで聞いて居た。

その先生相手に英語の無用論をしたら「その通りである。然し、日本人は
自惚れが多過ぎる。英語でもやって、その高慢心を打ち碎かなければなら
ぬ」との話。なるほどと、その軍門に下った。

後で、同僚の山田潤二君にその話をしたら、高柳は、一高で一年落第して
まで、夏目先生の講義を聞いた程の夏目先生の直傳、日本では英語專門家
以上の英語の名人達人、わが夏目先生の作品である。終戰處理に大した役
割をした。

工科系の學生の教科書に、科學系の教科書を使はれたことも、先生の卓見
である。科學のことは、數學でも、物理でも、化學でも解って居る。それ
を英語で讀んでも解る。又英語の自信がつく。

私は晩年教育に轉向して、新京工大の世話をした時に、英語の先生に、科
學書を教科書にすることを頼んだ。そしたら、英語の先生達は、科學に弱
い人が多い。科學用語を知らない。逆に私が科學用語の指導をした。

夏目先生は科學に弱くないので、科學書を教科書に使はれた。かういろい
ろ書いて見ると、夏目先生とは因縁が多い。先生在世中に先生の面會日に
でも出て、もっと接觸したかった。滿州に居て、遂にそれが果たせなかっ
た。ご逝去になってしまった。

そして、それから50年、半世紀、今ごろお逢ひしたいと言ったとて出來ぬ
相談、こんなことを書いて見て先生を偲びたい。

(名城大學講師・東大・工・明42)


(學士會會報No.691(昭和41年4月)號所載。電子アーカイブより假名字
母制限及び漢字制限を無視して入力。執筆者の肩書は名城大學講師。たま
たま内田百間をはじめて讀んだところであった。

百間が漱石門下であることも知らなかった。百間の『贋作吾輩は猫であ
る』(昭和二十四年)の第十一話は蘭哉君からの手紙のこと。「共産黨ら
しく新假名遣ひである。」とある。

高橋義孝は百間がかたくなに歴史的假名遣を守ったことについて作家とし
ての彼の奧深いものとつながった欲求であってただの保守的ペダンテリー
ではなかっただらうといふ意味のことを書いてゐるけれど、つまりは、さ
う斷はらなければならなかったほどに大方の知識人は新假名遣を合理的だ
とみたのではなかったか。

いや、さうではなく、出版者や編集者の新假名遣でといふ要求に抵抗する
ほど深く考へたりはしてなかったといふだけのことかもしれない。


孫の教材、「杉の木山」が「すぎの木山」となってゐた。教育が國語の感
覺をつぶすためになされてゐるわけだ。共産黨の人間でも變だと思ふので
はあるまいか。kmns)



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日本における共産主義運動史
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        平井 修一

2013年現在、共産主義(社会主義)は思想としても経済政策としても消滅
した。かすかに残っている共産主義国はキューバと北朝鮮だが、瀕死の病
人が呼吸しているだけのようで、事実上死んでいる。今、共産主義の信者
はゼロで、いるのはせいぜい国家というシステムを嫌う「共産主義的人
間」くらいである。

共産主義はマルクスが諸派雑派の論をまとめあげて19世紀半ばに創った。
実に巧みに創ったのだが、核は「計画経済」で、資本主義市場経済を凌ぐ
理論と自他ともに認めていた。ところが現実に計画経済を実行してみると
全然うまく機能しないのである。

トロツキーはレーニンが率いたロシア革命(1917年)で赤軍の大将を務め
ていたが、スターリンに粛清され殺された。彼が革命から15年後の1932年
10月にソ連の計画経済についてこう書いている。

<『プラウダ』は、年間生産量が250トンから140トンに減少したスターリ
ングラードのトラクター工場の状態を次のように特徴づけている。「機械
設備は、基本的な恒常的技術管理がなされていないためにはなはだしく劣
化している」「欠陥製品が35%にまでのぼっている」「工場の機械全体がほ
こりまみれである」「現場では、翌日のことがまったく考えられていな
い」「手作業的方法が連続的な流れ作業の生産よりも優位を占めている」。

ウラル地方の冶金工場は燃料輸送のための独自の馬車輸送隊を持ってい
た。この年の2月に、保有する馬の頭数は2万7000頭であった。この頭数は
7月には1万4000頭に、9月には4000頭に減った。理由はまぐさの不足である。

計画化が正しくなされない場合、あるいは実施過程における計画の調整が
正しくなされない場合、恐慌が発展し、克服しがたい困難を作り出す可能
性がある>

トロツキーの懸念は適中した。小麦の播種面積から始まってシャツのボタ
ンに至るまで、誤りのない完璧な経済計画を国家レベルで策定するなど、
スパコンを使ったところで人間業では不可能なのだ。

家計だって計画通りにはいかない。突然に冷蔵庫が壊れたりして出費は増
える、旦那の給料がカットされたりして収入は減ったりする。想定外だら
けなのだ。神の手か市場にゆだねるしかない。

ソ連では共産党の指示通りにしないと殺されるか収容所送りになるから、
ノルマ通りかそれ以上生産したことにし、費用は少なく報告する。それを
現場で確認することは不可能だから、嘘の数字がまかり通り、現実にはボ
タンやまぐさどころか食料もない、資材不足で9割できていた工場もまっ
たく稼働しないという目茶目茶なことになり、1990年代にソ連も東欧も中
共も共産主義を放棄し、資本主義市場経済へ舵を切った。

共産主義は実際に試してみて「全然使えない」と分かるまでに80年ほども
かかり、1億人ほどが殺されているから、マルクスはとんでもないものを
創って世界中の善男善女を惑わしたのである。

過去の遺物となったのに「日本における共産主義運動史」を振り返るの
は、分かりやすく簡潔な略史がないからで、自分のためにも、また、読者
の参考なればと以下まとめてみた――

日本では明治維新から30年たった1897年、最初の労働組合が結成され、
1900年に治安警察法が制定されて労働運動の弾圧も始まった。1904年には
『共産党宣言』が初めて邦訳され、1923年の関東大震災の年には日本共産
党が創立されたが、1925年の治安維持法により1945年までは非合法組織
だった。

1945年の敗戦で日本はアメリカ軍(GHQ)の占領下に入り、GHQの民主化政
策の一つが労働組合の育成であったこともあり、戦時中に投獄されていた
り活動を沈静化させていた共産主義者や社会主義者、無産運動家、労働運
動家が活動を再開、労働運動は活発化し、激しいストライキが頻発し、暴
力行為が伴うこともしばしばあった。

この中で再建された日本共産党は、戦時中に帝国主義戦争に対して闘った
ということから巨大な権威を持ち得、日本共産党の指導のもとに労働運動
は急速に拡大した。

戦後初期の労働運動は共産主義革命を目指すほどに高揚していったが、
1947年には2.1ゼネストがGHQ命令で頓挫、また同年に始まった冷戦の下で
GHQが反共を明確にし、1949年までに10万人の党員と30人以上の国会議員
を擁した日本共産党はレッドパージにより勢力を弱めた。

このGHQの政策転換で右派系・中道系の組合の地位が強まり、また日本共
産党の影響が強かった左派系の組合では共産党を排除しようとする産別民
主化同盟(民同)が力を得ていった。

1950年、民同と右派、中道勢力が合同して日本労働組合総評議会(総評)
を結成、その下に多くの組合が集結した。総評は中道・労使協調的な方向
で設立されたはずだったが、朝鮮戦争や51年9月8日にサンフランシスコ平
和条約が調印されたことに伴う日米安全保障条約をめぐって労働運動を活
発化させ、総評は左派色を強めていった。

1952年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効、GHQの日本支配が終わ
る。日本の経済も拡大を見せるが、産業全般にわたる合理化も進められ
る。その中で左派系組合の運動が先鋭化し、炭労や電産などによる大規模
ストが頻発するが、これらの多くが失敗に終わった。

1955年頃からの神武景気などで国民生活も戦前並に回復し、「もはや戦後
ではない」とまで言われるようになった。労働運動も生活条件闘争に加
え、労働環境の改善、権利闘争も多く行われるようになる。

戦後に発足した日本社会党は議会で多数派を占めることによる共産主義を
目指し、1950年代に躍進した。1955年11月には保守合同で自由民主党が結
成され、両党を合わせて「55年体制」とも呼ばれるようになった。

革命を志向する労働運動は1959年の三井三池争議と60年に最高潮を迎えた
安保闘争で盛り上がったが、日本共産党と対立する社会党は主導権を総評
から移して全精力を傾けた。三池争議は、総労働対総資本の闘いと言われ
た激しい争議の末に組合側が敗北、また安保闘争も激しい反対運動にもか
かわらず日米安全保障条約の成立が強行されたことから、絶対反対から政
策転換闘争、条件闘争へという方向転換が労働運動にもたらされた。高度
経済成長に伴う生活水準の向上もこの流れを後押しした。

この間に日本共産党は「直面する日本革命は社会主義革命ではなく、日本
の失われた主権を奪回するための民族民主革命」としたが、これに反発す
る学生を中心に共産主義者同盟や革命的共産主義者同盟など「反日共・反
スターリン主義」を標榜して共産主義革命を目指す「新左翼」が支持を集
めるようになり、60年安保闘争では社共に代わって新左翼やそれをとりま
く市民グループ、学者、知識人の運動が主導権を握っていった。

1960年代中盤以降は新左翼が全共闘運動を起こして暴力的な反政府運動、
革命運動を展開したが、経済成長により豊かになった国民の支持を得られ
ないばかりか、70年代初頭には閉塞状況のなかで連合赤軍によるあさま山
荘事件、日本赤軍によるイスラエルのロッド空港乱射事件、ハイジャック
事件、さらには中核派対革マル派に代表される内ゲバ事件などで反発を受
け、急速に影響力を失っていった。

そして1990年代のソ連崩壊、冷戦終結により日本における共産主義運動は
事実上終わった。

共産主義者の多くは社会の現実に合わせて変質していき、共産党は共産主
義を捨て、社会党は事実上消滅、共産主義運動を職業としていた党員など
は現在でも労働組合専従者、社会民主主義者、市民運動家、文化人などと
称して細々と生存してはいるが、間もなく絶滅しそうである。(2013/06/30)



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 勇志国際高校の挑戦
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     伊勢 雅臣

他者との絆の中で、利他心を学んだ子供達は、不登校や引きこもりから立
ち直っていった。

■1.「スクーリングで何かあったのでしょうか」

熊本県の離島の町、御所浦町の通信制高校・勇志国際高等学校の野田将晴
(まさはる)校長に、ある生徒の母親から電話がかかってきた。「スクー
リングで何かあったのでしょうか」。

その生徒、黒木太一は、勇志国際高校の開設とともに、最初に入学してき
た114名のひとりであった。小学校4年から不登校になって家に引きもっ
ていた。人の顔をまともに見ることができす、人とのコミュニケーション
がとれない。友達もいない。週2回、心療内科に通い、薬をたくさん飲ま
されていた。

しかし、スクーリングから帰って、通院するたびに、先生は頭を傾げなが
ら、薬を減らしていく。ついに「明日からもう来なくていい。薬も飲まな
くていい」と言われたという。

野田校長がスクーリングの経過を話すと、母親は電話の向こうで声をあげ
て泣きながら、「何年間も治療を受けて、薬をいくら飲んでも改善する気
配もなかったあの子が、完全に治ったんです」と、何度も何度もお礼言った。

黒木はさらに2年生、3年生と進級するに従い、著しい成長を見せた。勇
志高校で多くの不登校の生徒が立ち直っているというので、NHKがドキュ
メント番組を作りたいと申し入れてきた時、野田校長は黒木を紹介した。
黒木はこう言った。

「校長先生、昔の僕と同じように苦しんでいる人がまだ沢山いらっしゃる
と思います。そういう人たちに今の自分を見てもらうことでお役に立てる
なら、喜んで取材を受けます」。[1,p43]


■2.千名以上の生徒の70〜80%が不登校経験者

勇志国際高校は平成17(2005)年に「教育特区」として認定された御所浦町
で広域通信制高等学校としてスタートした。開校当時の生徒数114名が、
7年後には1千名を超えるほど入学希望者が押し寄せた。

生徒の70〜80%が不登校経験者、あとは素行不良など元気が良すぎて、は
み出してきた生徒たちで、全体の8割ほどは他の高校からの転入学などで
ある[1,p121]。また、いろいろな事情で高校を卒業できなかった社会人生
徒もいる。

生徒の学力レベルは千差万別なので、生徒一人ひとりに応じたカリキュラ
ムを作成し、教師が指導計画を作って対応する。勉強はインターネットを
使って自宅で行うが、不登校、引きこもりなど、一人ひとりの状況も違う
ので、教師がテレビ電話システムを利用して、生徒と1対1のコミュニ
ケーションを図る。

年に1回5日間の集中型スクーリングを行う。1回に40人から70人が集ま
り、宿泊は地元にある12軒の民宿だ。6畳の部屋に4人が雑魚寝する。

ここで生徒たちは自分だけが不登校で悩んでいるのではない、と知り、同
室の生徒間で友情が芽生える。教師も、年に1回しかない直接のコミュニ
ケーションの機会に、一人ひとりの生徒と真剣に向き合う。

こうして生徒一人ひとりへの個別対応ができるというのが、通信制高校の
特長であり、野田校長はこれを「生徒本位」という方針で貫いている。


■3.不登校の子供たちは「心の居場所」をなくしている

多くの不登校の子供たちを受け入れて、野田校長はこう語る。

「不登校の子供達は、不登校になった原因やきっかけは様々である。しか
し一様に昔元気に通学していた頃に戻りたいと、痛切に思っている。しか
しどうしても学校にいけないのだ。

不登校している自分が嫌で嫌で、自己嫌悪に陥っている。

学校に行けたとしても、長い間登校していないから、先生はじめクラスの
皆が不登校だと認識している。

自宅でも、家族みんなが不登校である自分を、愚痴を言いながらも仕方な
く受け入れている。

周りの皆が、不登校であるという一番厭な自分を認識していることがつら
くてたまらないのだ。

その結果、彼らは「心の居場所」をなくしている。学校はもとより家庭す
らも心が安心できる居場所ではなくなっているのだ」。[1,p130]

「生徒本位」に一人ひとりの子供たちを見ているからこそ、「心の居場
所」をなくした不登校の子供たちの心を、ここまで理解できるのだろう。


■4.「校長先生、山がきれいですね」

不登校の原因が「心の居場所」をなくしている事だとすれば、いかに彼ら
にそういう居場所を持たせるか、ということになる。

黒木太一が勇気を出して、スクーリングにやってきた時、野田校長は暴れ
ん坊で退学処分になって勇志高校に移ってきた今田良一と同じ部屋とし
た。今田が面談で、「俺、いっぱい悪いことをしてきたけど、弱い者いじ
めだけは絶対していないよ」と言ったことを覚えていたからだ。

同室となった今田は黒木のことを何かと気をかけて、面倒を見てやった。
それが黒木には嬉しくてたまらなかった。

また家に引きこもっていたのとは正反対で、スクーリングでは朝7時に起
床させられ、8時半から夜8時まで授業の連続。孤独に苦しむ日々が、仲
間たちと一緒の充実感ある日々に変わった。

スクーリングの最中、黒木がぽつんと一人で立っていた。野田校長は後ろ
から肩を叩いて「太一、どうした」と声をかけた。彼は振り向いて「校長
先生、山がきれいですね」と言った。その顔が輝いていた。目はしっかり
校長の目を見ている。黒木の心境に大きな変化があったな、と野田校長は
感じた。

スクーリングから帰った黒木は、冒頭で述べたように、急速な立ち直りを
見せたのである。


■5.「勇志高校の先生になりたい」

その黒木は友達となった今田良一がまた警察沙汰を起こさないかと心配で
ならなかった。その心配は、彼らが3年生になった時に、現実となった。

弟分のガールフレンドが他校の高校生にレイプされるという事件が起こ
り、今田はそのレイプ犯を呼び出し、問い詰めた。相手が「それがどうし
た」と開き直ったので、今田はそいつの横っ面を思いっきり平手でひっぱ
たいた。

ひっぱたかれたレイプ犯の少年は、家に帰って、自分のやったことは棚に
上げて母親に訴えたので、母親は「また、あの札付きの良一め」と警察に
訴え出た。

野田校長は今田を呼び出して、事情を聞いた。彼の話を聞くと、校長は感
動して思わず今田を抱きしめ、「お前は男の中の男だ。俺が見込んだだけ
のことはある。お前のことは俺が守ってやるから心配するな」と言って、
腕に力を込めた。

「先生、苦しいから離してくれ」と言った時の今田の顔の輝きを野田校長
は忘れることができない。

翌朝、今田はそれまでの金髪を黒髪に戻して、「校長先生、俺大学に行こ
うと思います。今から間に合いますか」と聞く。「大丈夫、間に合うぞ。
ところで大学に行って何になるんだ」と聞くと、「勇志高校の先生になり
たい」と言う。野田校長はまた感動した。

それから今田は人が変わったように勉強を始めた。今は23歳となり、結婚
してもうすぐ長女が誕生する。勇志高校の先生になるという夢は果たせな
かったが、物腰や話しぶりが穏やかになり、明るさと落ち着きも備わっ
た。そして言う。「校長先生、僕は勇志に行かなかったら100%やくざに
なっていました」


■6.利他心の発達が、他者との絆をもたらす

黒木を立ち直らせたのは今田との友情であり、また今田を立ち直らせたの
は、野田校長の「お前は男の中の男だ」という一言だった。人との絆の中
で、子供たちは「心の居所」を見つけ、立ち直っていく。

しかし人との絆を作るためには、人は他者への思いやりを持たなければな
らない。利己心だけの人間には、他者との心の絆を持てない。

幼児は自分のことしか考えられない自己中心の時期を経て、やがて他者へ
の思いやりを学び、他者のために尽くそうという「利他心」を育ててい
く。子供から大人への成長とは、利他心の発達に他ならない。

不登校・引きこもり系も、ヤンチャ系も、自己中心的な幼児の段階に留
まっていて、利他心が発達していないという点で、共通している。なぜ、
彼らは利他心の発達障害に陥ったのか。野田校長はその原因を、戦後の人
権教育にあるとする。

「利他心がまだ充分に育っていない子供達に「権利」という訳の分からな
い抽象概念を教えたらどうなるか。

本能のままに、わがままに、自己中心的であることが権利であり、それが
正義だと思ってしまう」。[1,p95]


そんな思い違いをした自己中心的な子供達ばかり集まったクラスは、弱肉
強食のジャングルである。弱い子は孤立して不登校になり、強い子は暴力
で他者を従えようとする。黒木太一や今田良一は、こういうクラスの中
で、成長を阻まれた犠牲者であった。


■7.「教育者は聖職者である」

「教師は労働者である」とは、日教組の「教師の倫理綱領」での規定であ
る。教師は教育という「労働」を売って、その対価として、給料を受け
とっていると捉える。マルクス主義の「労働者」であるから、今まで資本
家階級に搾取され、自身の権利を階級闘争で勝ち取らなければならないと
いう恨みが籠もっている。

そこにあるのは利己心のみで、目の前の一人の子供と向き合い、どうやっ
てその子を育てようか、という教師としての利他心は存在しない。

「教師は労働者である」という捉え方を排して、野田校長は「教育者は聖
職者である」と断言する。聖職者とは、自らの任務に使命感を持ち、それ
を自身の利益よりも優先する人々だ。それは利他心の発露そのものであ
る。自衛官、警官、消防士は言うに及ばず、どんな職業でも、この姿勢さ
え持っていれば聖職者なのだ。

特に教育者は利他心を持って子供の成長を導き、また子供たちからその利
他心を真似される存在でなければならない。黒田太一や今田良一を利他心
のある立派な大人に成長させたのは、野田校長をはじめとする勇志高校の
先生たちの利他心にほかならなかった。


■8.「日本人の利他心のルーツは天皇陛下の生き方そのものにある」

生徒の利他心を育てるために、勇志高校では教師全員による総合学習で、
皇室を取り上げる。今上陛下のご巡幸[a]や大震災の被災者たちへのお見
舞い[b]を調べて、陛下の国民への想いを語る。

若い教師たちにとっても初めての経験だが、校長の「授業の準備をする中
で感じた『感動』を生徒と共有すれば良い」という言葉に後押しされて取
り組む。国語科担当の三浦大樹教諭は、次のような感想を寄せている。

「私自身、事前学習で天皇陛下のことを知るにつれて、日本人の利他心の
ルーツは天皇陛下の生き方そのものにあるということを改めて実感しまし
た。・・・

総合学習で天皇陛下について教師全員が授業をするという当校の方針は、
まず私たち教師が、事前の勉強をする中で天皇陛下の徳の高さに感動し、
日本の国柄への認識を深めることができて、教育者としての使命感を一段
と高めることができました」。[1,p194]

教師が自分の感動を語れば、それはすぐ生徒の心に響く。ある生徒は、こ
んな感想文を記している。


<」天皇陛下は、常に国民の事を考え、自分を犠牲にして国民を助けよう
とするのはとても凄いことだと思いました。だから、われわれ国民も天皇
陛下を尊敬しているのだと思いました。自分も天皇陛下のように、人の為
にはるようなことをこれからしていきたいと思いました>。[1,p192]

国家統合の中心に、皇室という利他心の源泉を戴いているところに、我が
国の国柄がある。戦後教育は、皇室の事を教えることを禁じ、それによっ
て子供達が利他心を学び、立派な大人に成長する機会を奪ったのである。
これ以上の「人権侵害」があるだろうか。

そういう「戦後」に対して、野田校長は「震災後」を説く。戦後の「共同
体からの個人の解放」に対して、震災後の生き方は「共同体への積極参加
と貢献」だ。利己心から利他心への転換である。

戦後教育で孤立し、不登校などで苦しんでいた子供たちは、共同体の中で
「心の居場所」を得て、利他心を発達させ、立派な大人として成長してい
く。それは本人や家族の幸福のみならず、郷土や社会、国家にも貢献す
る。それを導く教育者こそ聖職者である。


■リンク■

a. JOG(581) 国民の幸を願われ20年

両陛下は180回のご巡幸で全都道府県514市町村を訪問され、770万人の奉
迎を受けられた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogdb_h21/jog581.html

b. JOG(785) 花子とお祖父ちゃんの対話 〜 建国の理想
天皇を中心にして被災者と救援者、国民全体が心を通わせる姿は建国の理
想を現している。
http://blog.jog-net.jp/201302/article_2.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 野田将晴『教育者は、聖職者である。』★★★、高木書房、H24
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4884710924/japanontheg01-22/



━━━━━━━━━
ボルシチの無い理由
━━━━━━━━━

 
   渡部 亮次郎

ロシア料理ではボルシチが美味しいといわれているので、その昔モスクワ
を訪れた際に捜したが、高級レストランには無かった。あれは家庭料理だ
からである。

ボルシチは赤蕪を主とし、肉、野菜を多くしたロシア風スープ。夏の短い
ロシアでは野菜は勿論、野菜屑までも有効に食べてしまおうと考えて出来
たスープなのである。高級レストランで出すわけが無い。まして訪問時期
が真冬とあっては、益々出るわけがない。

このとき泊まったのはモスクワ市内にあるクレムリンの第1号迎賓館。朝
からトマトと胡瓜が山のように出た。真冬のロシアでトマトと胡瓜、なぜ
だ。雪の中で石油を燃やして育てた野菜。歓迎のしるしなのだ。

そうかと思うとフランス人は食用カタツムリつまりエスカルゴが大好き
だ。エスカルゴと言う名のレストランがパリにはあった。注文したら一皿
に12個も盛ってきた。東京では6個なのに。そういえば北京には北京ダッ
ク専門レストランがあった。

潰したニンニク片にまぶしただけのカタツムリ。食通には上等な味とされ
ていて、精力材として食べる人もいるようだ。

昔、九州のどこかでは、温泉の排水を利用し、南米のアルゼンチンから輸
入したエスカルゴを養殖して成功したという話を聞いたことがある。温水
が効いた。池にキャベツの葉などを投げてやると猛然と食いつく。その大
音たるや、とてもカタツムリの立てる音とは思えなかったそうだ。なるほ
ど精力材かもしれない。

アジアの精力材はニンニクだが、ニューヨークでは断然牡蠣(かき)だ。
今夜、オイスター・バーでどうですか、というのが口説き文句になってい
るほど。マンハッタンの中央駅の地下に大仕掛けの牡蠣専門レストランが
あり、いつでも満席だ。

広いアメリカ。東西南北、年中、どこかの海で牡蠣はとれる。日本
のように「R」の付く月以外は食べてはいけないなんてことはない。
わが郷里秋田の海岸では8月半ばに天然牡蠣をとるが。

ニューヨークのオイスター・バーは不景気を知らない。この駅の鉄道創業
者が大の牡蠣好きだったことから、牡蠣専門レストランを地下に開業させ
たのだという。



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話 の 福 袋
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 ◎日本の不幸は近隣にーーー

反日教育をしている時点で、「敵国」認定するのが普通のまともな国である。

野中、鳩山、金丸など、いったいどこの国の人間か。

高岡氏より転送

【韓国の真実】
史実を知らず、漢字を読めなくなってしまった韓国人の哀れ 
2013.06.30

ソウルの日本大使館前に設置された少女ブロンズ像。韓国は日本の左翼勢
力がでっちあげた“従軍慰安婦”を狡猾に利用している(共同)

韓国には「女性家族省」という官庁がある。そのホームページに、いわゆ
る“従軍慰安婦”の特集写真が載ったことがある。

見ると、ポスター写真があった。そこには「募集」という漢字がくっきり
と映し出されている。

「強制だ、強制だ」とわめきながらの尻割れだ。爆笑しつつ、漢字を読め
なくなった国民を哀れに思った。

もう1つ、忘れられない写真は、慰安婦と「買った日本兵」のツーショッ
トだ。

その“日本兵”の頭髪にはウエーブがある。きっと、戦後になって進駐した
米兵の中の東洋系兵士なのだろう。

日本兵は全員、丸坊主だったという事実すら、この国の壮年層は知らない
のだ。ファンタジー歴史しか習っていない国民の哀れなことよ。

これらの話は、経済評論家の三橋貴明氏との共著「韓国人がタブーとする
韓国経済の真実」(PHP)に書いたから、問題の写真は削除されている
だろう。

しかし、今からでも遅くない。日本語でいい。「中央日報 連行された女
性」で検索してみることだ。

終戦の前日のビルマで米軍の尋問を受けている朝鮮人慰安婦の写真が載っ
ている(6月10日付)。

丸顔で小太り、小ざっぱりしたワンピース姿。それは誰がどう見たって、
強制連行され長年にわたり性奴隷の生活を強いられた女性ではない。

実は「従軍慰安婦」という用語は、日本の左翼が創作した。「性奴隷」と
いう言葉も日本の左翼弁護士が、国連の関係機関に売り込んでから表に登
場してきた。

日本に対して「慰安婦への謝罪と賠償」を求める韓国の運動とは、反日日
本人に先導かつ扇動されてきたのだ。

日本の左翼は、マルクス主義の惨敗(ソ連・東欧ブロックの崩壊)を見る
や、運動エネルギーを、原発、沖縄、韓国などに置き換えた。

そうした意味で、慰安婦問題とは、日本国内での「理念戦争」だ。

同時に、それは国際情報心理戦でもある。韓国が国際舞台で、慰安婦なら
ぬ「性奴隷ファンタジー」を猛烈な勢いで広めているからだ。韓国内の、
俗に「反日」と言われる動きを冷静に見れば、1つの図式が浮上する。

李明博政権末期から、朴槿恵政権の成立過程にかけて、慰安婦、竹島(独
島)、日本海(東海)呼称、歴史教科書などさまざまな運動が「何でもい
いから、日本を国際的に貶める運動」に再編されたことだ。

この運動を主導する団体VANK(バンク)は形の上では民間だが、実は
多額の国家資金が注ぎ込まれている。

国家として、日本国と日本人の名誉を貶める運動を進めているのだから
「韓国とは敵国」と見なすほかない。

 ■室谷克実(むろたに・かつみ) 1949年、東京都生まれ。慶応大学法
学部卒。時事通信入社、政治部記者、ソウル特派員、「時事解説」編集
長、外交知識普及会常務理事などを経て、評論活動に。主な著書に「韓国
人の経済学」(ダイヤモンド社)、「日韓がタブーにする半島の歴史」
(新潮新書)、「悪韓論」(同)などがある。

 (情報収録:中山)



 ◎知らなかった台湾 :大橋 武郎
                       
昨年7月に「台湾民政府」と言う団体の招きにより6日間の台湾訪問をしま
した。

現役時代には日米関係に携わる機会は数多くありましたが、台湾とは殆ど
縁が無かった私にとっては初めての台湾訪問でしたので、台湾について今
迄知らなかった事を沢山知る事ができ、きわめて有意義な訪問でした。

今回の訪問において台湾民政府の説明を通じて知り得た台湾に関する事項
の骨子を簡単に次のようにまとめてみました。

 1 台湾は第2次大戦後の米国による占領が未だに続いている世界で唯一
の場所

台湾に対する米国の占領は大東亜戦争終結後から始まり、法的には現在に
至るも米国占領は継続されていると言う極めて特殊な状態です。即ち、昭
和20 年(1945年)に大東亜戦争での我が国の敗戦直後において米国による
台湾の占領が始まり、その後毛沢東に負けた蒋介石の中国国民党軍が台湾
に逃げ込んで来た昭和24年(1949年)から第2次大戦の戦勝国の1国(と言う
事になってはいますが、これは間違いで、実際は我が国は国民党軍には負
けてはいません。

しかし、この件についてはこの場では論じません)としての中華民国(中国
国民党)が米国に代わって台湾を占領し、その状態は現在も続いていると
言う事です。何処においても永久占領と言う事態はないので、早く米国に
よる占領状態は集結すべきであるとの事です。

 2 台湾には2種類の人達が居ます

したがって、大陸から台湾に逃げ込んで来た中国国民党は戦勝国として大
東亜戦争の敵国民であった台湾住民に対してあらゆる乱暴狼藉を働き、台
湾の人達は2.28事件に象徴されるような苛斂誅求を大陸から逃れて来た国
民党から受け続けて現在に至っているとの事です。

そのような状況であるために台湾には元々台湾に住んでいた人達と大陸か
ら台湾に逃げ込んで来た人達との2種類の人達が居り、前者を英語で
は"People of Taiwan"と言い、現在台湾に住んでいる人全てを表
す"People on Taiwan"とは区別しなければならないのですが、殆どの外国
人はこの事については正しく理解していません。現在台湾の人口は約
2,300万人ですが、その中の4分の3が元々台湾に住んでいる"People of
Taiwan"との事です。

 3 台湾の人達は無国籍

昭和47年(1972年)の米中国交正常化により中華人民共和国が中国を代表す
る事になって以来中華民国と言う国は消滅してしまいました。このため、
現在台湾に住む人達は無国籍の状態です。

さらに、昭和27年(1952年)に発効したサンシスコ講和条約において我が国
は台湾及び膨湖島に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄しました
が、その帰属先は未定であるために我が国は台湾及び膨湖島に対して潜在
主権を未だに保有している事になるようです
。 
このような状態を「属日米占」といって、要するに日本に属しているが、
現在は米国に占領されている状態である、と言う事です。

このような状況から、現在台湾に所在している中華民国と言う政府は「台
北に亡命している中国の政権」と言う事になり、アジア大会やオリンピッ
ク等の国際競技に出場する台湾の団体は「チャイニーズ台北」と呼ばれる
のはこの所以との事です。

第2次大戦中に英国のロンドンに亡命していた自由フランス政権が"French
London"と呼称していたのもこれと同じです。

 4 米国はこの事実を認めている

このような事実、即ち、米国の台湾に対する占領が終了せずに継続されて
いる事、台湾住民は無国籍である事、日本が台湾の潜在主権を持っている
事等について台湾民政府は平成18年(2006年)に米国連邦法廷で米国政府を
告訴した結果、平成21年(2009年)に米国連邦高裁は「台湾には国際的に承
認された政府がないために台湾人は無国籍であり、未だに政治煉獄の中で
生活している」との判決を下し、米國政府はこの判決に対して上告せずに
これを認めたために現在はこの事態正常化を目的として台湾民政府は米国
政府と緊密な連絡を保っています。

 5 皇室が結ぶ日台の絆

一昨年3月の東日本大震災の事態に際して台湾は直ちに200億円を越す義捐
金を我が国に送って呉れましたが中共政府に気兼ねしている我が国政府は
正式な謝意を台湾に表する事なく、この震災の慰霊祭における献花は中共
政府代表が行いました。

この事を御心配された天皇皇后両陛下は、昨年4月19日に東京の赤坂離宮
で開かれた「春の園遊会」に馮寄台駐日台北経済文化代表をお招きになら
れて台湾からの多額の義捐金に対して日本からの深甚なる謝意を表され、
この事が台湾に伝えられて台湾の人達は喜びました。

台湾代表が皇室主催の園遊会に招かれたのは昭和47年の台湾との断交以来
初めての事でした。日本と台湾の絆を繋ぐ皇室の存在は誠に重要です。

台湾民政府の代表者達によれば、この義捐金の大半は日本が大好きな、
元々から台湾に住んでいる人達("People of Taiwan")からものであり、日
本人が一般的に思っている台湾の人達("People on Taiwan")からのもので
はない、日本の人達はこの区別を良くわかって欲しい、との事です。

本年3月に行われました東日本大震災の2回忌の慰霊祭に於いて安倍政権
は中国代表として台湾代表の方に献花をして戴きました。中共政府はこれ
に抗議してこの慰霊祭に代表を送らなかった事は皆様の御記憶に新しい事
と思います。

 6  台湾との交流は大変重要です

以上のような状況で台湾の人達は日本統治の時代を高く評価していて
「我々は未だに日本人である」と思っている人達が多数居ます。昭和47年
に日中国交正常化の際に我が国が一方的に台湾と断交した訳ですが、それ
にも拘わらず、台湾の人達は大の親日家が多く、台湾を旅行した事がある
我が国民の殆どの人達が現地台湾の人達の我々に対する温かい態度に感激
して「また台湾に行きたい」と思うようになっています。

一昨年12月には約150人、また、昨年12月には200人を越す台湾民政府の人
達が来日され、靖国神社に参拝、日本兵として祖国防衛に殉じられた3万
を超える台湾同胞の英霊を慰霊、顕彰すると共に12月23日には宮中を参
賀、日本国民として天皇陛下のお誕生日を心からお祝いされました。

 7 余談−故宮博物館

台湾訪問が決まった時に台湾民政府から「台北市内を御案内しますが、何
か御希望はありますか?」との事でしたので、「故宮博物館を観て見た
い」との希望を伝え、訪台3日目に故宮博物館を案内されました。

館内でいろいろと説明を受けるうちに案内して呉れている民政府の人達か
ら「これらの展示物は大陸から持って来られた物で、台湾の物ではありま
せん。いずれ大陸からの亡命政権が居なくなったら、これらの展示物は全
て大陸に送り返したいと思います」との言葉を聞いて、彼等の大陸に対す
る気持ちの一端をつくづくと思い知りました。但し,台湾に住む人達にも
いろいろ感じかたがあるので、一括りにはできないのも現実であるようです。

台湾の人達の我が国への熱い思いに応えるためにも我が国と台湾の交流は
大変重要です。

日台間の活発な相互交流が望まれます。

本年3月には台湾民政府からの招待を受けて、20代30代の日本の青年達が
台湾を訪れる「日台・青年交流研修」が行われ、私も交流に参加して日本
から青年達10名を率いて台湾を再度訪問しました。 

今後もこれ等の交流の幅を大きく広げて、将来の日台交流の基礎作りに努
力する事が大切だと信じている次第です。

平成25年6月 

<追記> 現在も台湾においては台湾人と支那人とで明確な差別があるよ
うです。

政府発行の身分証明証の右上に小さな数字がありますが、この数字を見る
と本人が台湾人か支那人かがわかる仕組みになっています。給料も台湾人
と支那人では2〜3倍違うそうですし、毎年約3万人が経済的な理由で自殺
するが、大半は台湾人との事。 

内省人、外省人と言う語は、台湾の人達は使いません。国民党が台湾に逃
げ込んで来た時に、台湾は中国の一部であり、「台湾省」とする事にした
事に基づいています。

また、台湾では「民国〇〇年」と言う記述があります。これは1911年の辛
亥革命による中華民国建国を元年とした年号で、これも国民党の名残です。
 (情報収録:中山)



 ◎新潟・柏崎の方で、現在70代の方が、若い頃、よく不審船が沖合にあ
らわれ、停泊していたのを仲間と一緒に何度も何度も見たので、警察に通
報して警察が捜査していたが 政治家の圧力で中止させられ発表もされな
かった、と証言しています。

拉致にかかわった朝鮮総連のメンバーは、今でも逮捕されず、ゆうゆうと
東京近郊で暮らしている、と、国際キリスト教大学の西岡教授がおしゃっ
ていました。 わかっていても逮捕しないのは、どういう理由があるので
しょう?  

北朝鮮スパイで韓国に逮捕されたシンガンスを 在日朝鮮人だからという
理由で釈放嘆願書を出したのが当時の社会党。 菅直人氏も署名していま
す。 シンガンスは釈放され北朝鮮に帰国して、国の英雄として表彰され
ました。

そういう政治家たちの名前を公表するべきです。
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2011/04/post-39fe-1.html
http://www.tamanegiya.com/katoukouititokitatyousenn1.html


はじめて 拉致をとりあげた政治家    栗原茂男

拉致問題で横田めぐみさんのお父様の横田滋氏が政治家に拉致を訴えたと
ころ、誰も相手にしなかったが、高村さんが最初に外務大臣になった時に
初めて取り上げた、と高村さん自身の口から聞きました。

そして後日、あるパーティに横田滋さん御夫妻がお見えになった際、私は
名刺を差し出して近づき「一つお聞きしたいのですが、高村さんってどん
な人ですか?」と訊きました。すると横田さん、顔を紅潮させて「あ〜の
人が〜、初めて取り上げてくれたんですよ〜!」と人差し指を上下に振り
ながら感激の表情で仰ったのです。

ですから私は高村さんを信用しています。

そして高村さんは「拉致問題解決なくして国交回復なし、国交回復なくし
て経済交流なし、という原則を立てたのだが、それにおかまいなしに義捐
米や義捐金を送って原則を台無しにした政治家が。

 ところがその後「拉致問題を最初に取り上げた」色々な政治家が出てき
て、高村さんは拉致問題では陰に隠れてしまいました。そしていつの間に
か「高村が北朝鮮に米50万トンを贈与してきたんだよ! あいつだけは絶
対に許せない!」と怒って言う人まで出てきています。

 政治家にはそんな人が、結構います。

その拉致問題ですが、親しくさせて頂いている菅沼光弘さん、その方は元
公安調査庁の方でオウム事件の際に陣頭指揮を執ったのですが、野中広務
という政治家の圧力で、捜査を中止させられ、それが原因で菅沼さんは公
安を辞任されました。

その菅沼さんが言うには拉致はデッチ上げなのだそうです。どういう事か
と言いますと、戦後日本から独立した朝鮮から日本人は引き上げてきまし
た。財産を持ち帰るどころではなかった人が多かったと聞きます。


同じ様に朝鮮人も朝鮮に帰るべきでしたが、日本に居残った人も多数いま
した。 帰国を拒否して線路にしがみついて抵抗する人もいたりしました
が、しかし徐々に帰り始めたのです。この、朝鮮総連で帰国事業をやって
いたのが小泉純一郎氏の父親の純也氏。 朝鮮日報日本語版に出ていまし
たが現在は削除されています。

ところが朝鮮戦争が突然始まって帰国事業は中止され、北朝鮮出身者は国
交のない北朝鮮に帰れなくなりました。そこで帰りたい人は密航船で帰国
したり、その後、朝日新聞の肝入りで朝鮮総連が「地上の楽園に帰ろう」
との帰国事業もあり大勢の日本人妻を含む在日朝鮮人が船に乗って帰国し
ました。

しかし「地上の楽園」よりも、やはり日本で暮らしたいと思った人々が再
入国しようとしても北朝鮮政府が帰しませんでした。それでその家族も、
横田めぐみさんなど、北朝鮮に実際に拉致された被害者家族と同じよう
に、「拉致」だと主張して日本政府に交渉させていると言うことです。

最近、人民日報日本支社・支社長の韓 暁清女史と会った際いろ いろ話し
たのですが、彼女も拉致された人の中に、希望して北朝鮮に帰国した人を
人数にいれるのは疑問だと言っていました。彼女は先日飯島勲氏(元小泉
総理秘書官)が北朝鮮へ交渉に行った際に橋渡しをしたと、写真週刊誌に
写真入りですっぱ抜かれた人です。

又私の近所にアメリカのメディカルスクールを出てマッサージ師をしてい
る人がいますが、なぜか彼は朝鮮人に詳しいのです。多分彼はコリアンだ
ろうと思いますが、小船で帰る順番を土井たか子が決めていたと言ってま
した。彼女が同志社大学を卒業する時の名前は「李 高順」であると関西
の有力教授からも聞いています。

 拉致被害者は数百人いるとされていますが、マスコミが騒いでも拉致現
場を取材した記事も映像もほとんど見たことがありませんし、拉致現場を
見たという人の取材をしているものを見たことがありません。
マスコミにも疑問をもちます。 疑問だらけです。

事ほど左様に国際関係は魑魅魍魎のようです。(注:米国北朝鮮人権調査
委員会では、北朝鮮帰国事業で北朝鮮に渡った日本人妻が帰国したくても
日本に帰国できないでいることは人権侵害だとして、それも人数のうちに
入れている。)
 (情報収録:中山)



 ◎2013年07月01日06:30
「日本が中韓友好を強化する以外の選択肢は絶対に許されない」 前衆院
議長が地政学的に日中韓の友好は不滅だと宣言 拍手

河野洋平元日本衆議院議長が安倍晋三政権の歴史歪曲の動きを強く批判
し、韓国など周辺国との関係改善を促しました。

河野元議長は最近AP通信とのインタビューで日本が地政学的にアジアの一
員であり韓国・中国と関係を強化する他に選択肢がないことを全面的に受
け入れなければならないと明らかにしました。

河野元議長はまた、安倍総理が河野談話と95年の村山談話など過去の歴史
関連責任を認めた談話を修正する試みも「韓国、中国との関係を数十年後
退させる危険がある」と憂慮の声をあげました。

ソース:MBCニュース(韓国語) コウノ"日本、韓・中関係強化他他の選択
肢なくて"
http://imnews.imbc.com/news/2013/world/article/3303539_11211.html
【U1速報】 2013年07月01日06:30

〔情報収録 − 坂元 誠〕

 

━━━━━━━
反     響
━━━━━━━


 1)個人の自由の行き過ぎた国  日本

日本ほど、個人の自由が放任されている国は 世界中、ないと断言できる。

アメリカでさえ、自治体によっては、ゴミ屋敷は、警告しても放置してい
ると 強制的に移動させられ、その家の中のゴミを棄てられる。

家は外観もきれいにしておかなければ犯罪の巣窟になるからという理由も
あるそうだ。 

日本の場合、シナ人が無断で畑を作っても、柵は個人のものだから撤去で
きない、とのこと。

裁判沙汰になるという。こんなおかしな国はない。

自由には必ず代償があるが、日本ではその代償も払いたくない、考えたく
ない、という人間をつくりだす教育をしてきたようだ。
 (情報収録・中山)


 2)首相の警護、前首相の警護、元首相も警護は、そろそろ止めてはど
うか。政党本部の警備も不要にすべきだろう。もともと、その時の風向き
のままに政権の座についただけのことで、引退後なら必要であれば、自ら
のコストで賄うべき事柄だ。適当に警備会社を見付けて頼むべきだ。もち
ろん、言い出しっぺの現役首相は、自ら襟を正すことで、警護不要と宣言
をすることだ。自ら得ている歳費や、党費の上がりから支払うべき。

そういう理由は次のとおり。

 1)粗製濫造で首相数はうなぎ登り、既に賄えるコストの域を脱してい
るから。

 2)税金が上がるときに、民間に任せられないものではないことにま
で、税金を使ってすべき仕事ではない。だから、この際、潔く切り捨てる。

 3)警備や警護の作業が国のコストとなれば警察に任せることによっ
て、民間は電線を伝った電気信号にたよる警備や各種センサーにたよる器
械警備に特化せざるを得ず、これが装置産業となって警備業の起業コスト
を押し上げ、軽微な資本でも可能な警備会社が淘汰されて産業のサースト
ステップが失われる。

これは、ますます失業を増やすことになるし、失業者の吸収場所もなくな
る不都合がでてくる。

 4)既にデジタルデバイドや、ITリテラシー欠如の人は多く、そのよ
うな人であっても仕事にあぶれることのない社会にすべきだから、例えば
警察によって、そのような仕事を取り上げる仕組みには是正が要るから。

 5)警察官にとっても、せっかく警察官試験に合格しても、不用意にい
つまでも同じ仕事ばかりをさせていたのでは才能をスポイルさせることに
なる。それなら、もっと狭い試験範囲の警備人試験(そういうのがあるの
かどうかは知らないが)でもよかったはずだ。有為な人材を活き活きとは
荒課せるために必要なのだ。

 6)仮に、不安なら自らの負担ですべき、重責を担うからには大きな報
酬が動いて見合っているから。

 7)居て欲しくない人の安全まで国費で賄うのは忍びない。不用意な人
には不用意なことで応酬すべきだから。

ついでに言えば、政党交付金330億円もゼロにすることだ。

今月の選挙は、330億円の持って行きようを決めるもの。 「貴方の1票
が明日を作る」なんて、きれい事を言う前に、議員歳費(給与)や立法補
助費なども含めて、議員1にん1億円をはるかに超えるお宝と国会裏には
面積100平方メートルの個人事務所と殆どただ同然の宿舎提供を受けるか
どうかの争奪戦ゲームなのだ。

最低賃金900円の人が入り込むスキもないゼロサム・ゲームの争いと言う
ことだ。だから、せめて、勝ち組には自分のコストは自分で負担してくれ
と言いたいのだ。酒井 富雄)

 

 3)kmnsさん、2992号「反響」での小生投稿の産経抄と南洲翁遺訓の
URLの表記の間違いを2993号の「反響」で訂正していただいてまことに有
難うございました。(品川 阿生居士)



━━━━━━━
身 辺 雑 記 
━━━━━━━

くどいようだが、梅雨なのに東京では雨がさっぱり降らない。散歩を医者
から義務付けられている身としてはありがたいが空梅雨だと真夏の水不足
が心配になる。

洋平がまた余計なことを言っている。親父河野一郎は立派な政治家だった
が2世はだめだの典型が洋平だ。残念でならない。一郎の命日が近づい
た。そういえば七夕の飾りが猿江公園にたてられた。

「あしたは七夕。平塚に遊びに来いよ」が遺言になって河野さんは8日夜
に亡くなった。昭和40年(1965)のこと。48年前か。私は29だった。


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  • 名無しさん2013/07/02

    焦熱地獄のような

    今年の夏は暑くなるそうです。



    4月に夏日があるくらいですから、本当の夏になったらどのくらい暑いか想像するだにげんなりしますね。



    昔、(本州では)夏休みのさなかでも35度くらいまで気温が上がる日は滅多にありませんでしたが、今は連日のように40度を越えます。米国ではなんと50度に達する猛暑がやってきたそうです。想像もつなかい暑さですね。誰がなんといおうと、不気味な速度で地球温暖化が進行しています。



    今年も電力不足が気になるのに、ひときわ暑い夏になる。何重にも苦難が続きます。

  • 名無しさん2013/07/01

    参議院売国議員http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/119.html#id_178ca228

  • 名無しさん2013/07/01

    国益軽視/私益派議員http://senkyomae.com/liberalists.htm

  • 名無しさん2013/07/01



    ヨシナガ氏 ツイッターで原哲夫氏の妻・紀子さんと事実婚を発表 

      

       

       ネットを中心に活動する作家のヨシナガ氏(34)が30日、自身のツイッターとフェイスブックで結婚したことを発表した。相手は「北斗の拳」などで知られる漫画家・原哲夫氏(51)の妻、原紀子さんで「事実婚」であるとしている。



     ヨシナガ氏は「彼女が原哲夫さんの奥さんなので事実婚です。彼女が決意したことを止めるためには結婚する必要があると考え決めました」とツイート。「僕がネットで活動する人間なので、ネットでの発表とさせていただきます」というコメントとともに、挙式と思われる写真を掲載している。  



       

      

    [ 2013年6月30日 12:10 ]