政治・経済

頂門の一針

急所をおさえながら長閑(のどか)な気分になれる電子雑誌。扱う物は政治、経済、社会、放送、出版、医療それに時々はお叱りを受けること必定のネタも。

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頂門の一針2936号  2013・4・22(月)

2013/04/22

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  わたなべ りやうじらうのメイル・マガジン「頂門の一針」 2936号
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        2013(平成25)年4月22日(月)



                           米国に馴染めなかったとは?:前田正晶

                   このままでは確実に短期政権に終わる:杉浦正章

                         カリブ海の旧英連邦の島嶼国家:宮崎正弘

                                         ココダの約束:伊勢雅臣

                                 金田一京助と見坊豪紀:平井修一
 
                         話 の 福 袋
                         反     響
                         身 辺 雑 記


□■■□  ──────────────────────────□■■□
第2936号
                              発行周期 不定期(原則日曜日発行)
             
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米国に馴染めなかったとは?
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        前田 正晶

ボストンのテロリスト兄弟・ツァルナエフの叔父という人が「彼らはア
メリカに馴染めなかった」と言っていた。「馴染めなかった」という理
由だけでテロ行為に走るとは思えないが、ここではテロ行為の背景に何
か他のものがあったのかを探るのではなく、「外国に馴染めないとは?」
を考えてみたい。

私は1970年以降アメリカを含めて、 20ヶ国ほどを歩いてきた。しかし、
「馴染む」という点では50回以上往復したアメリカには最も親しみを感
じているし、最小限の違和感と緊張感で旅行できる。言語・風俗・思考体
系・食事・治安の状態等にも馴れた。初めて出張した時には「これほど
素晴らしい国なのだから、永住しても良いか」とすら感動した。

しかし、今では永住の気などない。外国旅行の経験は貴重なもので、そ
こで得た最大の収穫は「自分の国ほど優れていて、良い国はない」と心
底理解し、誇りを持ち、有り難いという意識を持てた」に尽きる。これ
だけは自国に止まっていては絶対に解らないし、認識できることではな
い。

私は在職中には1年の中の60%は、アメリカに出張しているか来日した会
社の上司や同僚のアメリカ人と過ごしていた。それほど馴染んでいたの
だが、アメリカには何度行っても、あるいは1月近くも滞在しても、「こ
こは異国である、自分は彼らとは異なる存在である」という感覚から抜
け出たことはなかったし、それが当たり前だと認識していた。

だが、10年近く経った後では、アメリカの人たちとは、深刻も何もこれ
という悩みもなく、又何かの諍いを起こしたこともなく(と思っている
だけかも知れないが)、彼らの文化も自分なりに理解して、その理解に
基づいてつきあうことが出来ていた。

それ以前は、今にして思えば上部だけの親しさと、彼らとファーストネー
ムで呼び合って対等につきあえることだけを喜んでいて、ともすれば日
本人の誇りから離れていたのではないかとすら考えてしまう。

換言すれば、必ずしもアメリカに深く馴染んでいた訳でも何でもない、
お客様気分を味わっていただけかも知れなかったのだ。その頃では白人
連盟?の壁も見えなければ、宗教の違いの難しさまでは意識出来ていな
かった。

そう考えてくれば、ツァルナエフ兄弟は自分の国を離れて何カ国目かで
アメリカに来てわずか10年だそうで、しかも伝えられているところでは
イスラム教徒だというではないか。

馴染めていなかったのがそれほど不思議ではない。自分では「宗教の違
いは意識できなかった」とは言ったばかりだが、9.11後のアメリカでの
ムスリム(Moslem)が置かれた立場くらいは見当がつく。

私は兄弟の写真をテレビで見て、一目で見慣れたアメリカ人の顔ではな
いと解った。要するに、アメリカ人に成りきれていない状態だったのだ
ろう。

彼らは市民権(だったか)とグリーンカードを取っているそうだが、だ
からと言って外国の言語・風俗・習慣・思考体系を理解・認識して同化し
て暮らせるようになるには時間が足りなかったのではないか。

ないしは、アメリカに対して「異国という感覚」から離れきれなかった
のではないのか。外国に馴れるとか馴染むということは、そんなに簡単
でも容易でもないと言いたい。

もしも,馴染めなかったことをその異国のせいだとしたのだったならば、
彼らの責任であり、身勝手で何かが違っていたと思わざるを得ない。自
国の言語・風俗・習慣を異国にいても堅持することは必要だろうし、そう
出来ていれば良いのかも知れない。だが、彼らの年齢と外国住まいの経
験では、他国の文化を消化しきれなかったのは寧ろ当然だっただろう。

もしも「馴染めなかった」だけがテロの理由であれば、余りに短絡的す
ぎる。そこには何か他の原因か理由があったのではないかと疑いたくな
る。

外国に住むということは、それほど難しいことなのだろうが、私は未経
験なので想像するだけに止まっている。だが、肝心なことは「日本人で
あることの誇り」と「他国の文化の理解への努力」だと思う。

因みに、YM氏は8年間の大学教員生活以前からアメリカの会社勤務の経験
があるし、SM氏はアメリカの大学時代からビジネスマン暮らしを含めて
30年以上もアメリカに住んでいる。そこまで馴染んでいてもアメリカに
対する不満など聞いたことはない。だが、言わないだけで、苦労があっ
たことは察したつく。



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このままでは確実に短期政権に終わる
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           杉浦 正章

秘書官は土日に安倍の日程を入れるな
 
首相・安倍晋三は長期戦権どころではない。確実に倒れる。それも政局
でなく、病気で倒れる。13年という最長不倒距離の官邸詰め記者だった
筆者が言うのだから間違いない。

なぜなら安倍は毎週のように土日を返上の強行スケジュールが続いてい
るのだ。このぺースでは1年と持たないだろう。補佐になれていない秘
書官がどんどん日程を詰め込みすぎているのが最大の原因だろう。

官邸は何をやってるんだと言いたい。悪いことは言わない。長期政権を
目指すなら、スケジュールを半減すべきだ。

日々の首相動静は、政治を予測するための宝庫だ。誰々が首相に会えば
「ははーん、あの話しだな」と第六感で分かる。やはり動物的嗅覚の鋭
い元官房長官・野中広務も筆者と同様に現在の首相日程の“異様さ”に
気付いていた。

野中は221日のテレビで「首相日程のメニューが多すぎる。体が続くかと
心配だ。一生懸命やっているのは立派だと思う。しかしこのままではあ
る時突然体を壊す」と心配していた。

たしかに凄まじいスケジュールである。どうも土日の安倍の露出度が多
すぎると思って3月16日の土曜日から4月21日まで1か月余りの日程を
つぶさに調べた。

週日はいうまでもなく分刻みの日程だ。国会審議も身動き取れないまま
の激しい質疑が連日だ。ここまではどの首相も同様だが、問題は土日だ。
11日間の土日のうち休日は3日だけだった。1か月あまりで休養が3日。

土日は3月16日自民党大会、17日防衛大学卒業式、24日福島視察、 30日
モンゴル訪問、31日モンゴルから夜帰宅、4月6日盛岡視察、14日硫黄
島戦没者追悼式、小笠原視察、20日桜を見る会、山口参院選応援、 21日
山口遊説といった具合だ。土日の空きに週日に消化できない日程をどん
どん埋め込んでいるのだ。

これをみて、「あっ、森田一と同じだな」と思った。大平正芳の娘婿で
首席秘書官の森田が、大平の土日の日程をどんどん埋めていたのだ。あ
まりのきつさに大平も疲れ切った表情をしていた。

筆者が各社キャップ懇談会で大平に「お疲れではないですか」と聞くと、
「そうなんだ足の下の方から疲れがわーっと全身に上がってくる」と述
べたものだ。後から分かったことだが大平は心臓の持病があり、ニトロ
グリセリンを常用していた。

その大平に娘婿が日程を詰め込んだのだからどうしようもない。そうこ
うするうちに80年5月30日総選挙の第一声を新宿で上げたが、異常にそ
の声がかん高かった。筆者は仲間の記者らに「ぶっ倒れるぞ」と予言し
たがその通りになった。心筋梗塞である。選挙の途中で急逝したが、弔
い合戦で圧勝した。

安倍は首相・小渕恵三のまねをして福島県郡山市の農園でカブの束を高
々と持ち上げて「カブが上がります」とパフォーマンスしてみせた。一
瞬悪い予感がよぎった。

小渕もやはり休日返上の日程処理を迫られ、公邸に戻ってもおびただし
い書類、書籍、新聞の切り抜きに目を通し、徹夜でビデオの録画を見る
のが普通だった。

人気のブッチホンを一般人やテレビ局にまでかけて、職務に専念した。
しかし小沢一郎の裏切りにあって自由党との連立が決裂、翌日に脳梗塞
を発症して、帰らぬ人となった。

まさに2度あることは3度あるのだ。休日返上型首相2人とそっくりな
政治日程。おまけに安倍は第1次政権では1年でノイローゼ的な症状と
なり、持病の大腸炎の悪化で退陣を余儀なくされているのである。

なぜこんな日程ができるかといえば、安倍がアベノミクスの成功と環太
平洋経済連携協定(TPP)など主要政策で順調な滑り出しを見せ、本
人自身も高揚しているのだろう。日程にクレームをつける者もいないの
だろう。

秘書官らは官庁のエリートだが、首相をどう守るかについては全くの素
人。次々に出てくる来訪予定や、訪問日程に待ったをかけることなく、
どんどん組み込んでしまっているに違いない。

秘書官は複数だが首相は1人だ。まったく首相の健康に目が行っていな
い。本来なら官房長官・菅義偉が気付くべきところだ。

これでは、みんなの党の渡辺喜美が言ったように「3年の長期政権」な
どまず不可能だ。長期政権の首相は佐藤栄作も休日は鎌倉の前田別邸で
過ごすか、ゴルフだ。

いまの安倍はまるで戦時下の首相のような日程をこなしている。順風な
時は精神的にも高揚感があるが、政治は山あり谷ありだ。谷の時にがっ
くりくる。

しかし安倍は好むと好まざるとにかかわらず、日本の長期低迷の内政、
経済、外交を離脱させるためには不可欠の“人材”なのであり、途中で
倒れることは許されない。

官邸は週日はともかく土日に日程を入れない習慣を作るべきだ。そうで
なければ、またまた安倍の病気発の政局という嫌な季節が到来してしま
う。
        (政治評論家) <2013年04月22日>



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カリブ海の旧英連邦の島嶼国家
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
    平成25年(2013)4月22日(月曜日)
   通巻第3928号   
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セントクリストファー・ネービスとか、アンティグア・バーブーダとか
  カリブ海の旧英連邦の島嶼国家の名前を聞いたことがありますか?
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いま中国の富裕層の間では、この二つの国家の名前(実際に舌を噛みそ
うだ)、誰もが知っている。知らないのはアメリカ人とか、日本人くら
いかも。

何が問題なのか?

セントクリストファー・ネービスはコロンブスが発見したカリブ海の島
で、その「面積」は西表島くらいしかなく、人口は僅か5万4千人。これ
を国家と呼ぶには無理があるが、旧英連邦とアメリカのリアルポリティッ
クスの結果、生み出された。

産業もなければ、ましな学校もなく、バナナとサトウキビで暮らしてき
た。

突然変異的な投資が起きた。

政府のすすめる産業プロジェクトに40万ドルを投資すると「パスポート
が買える」。

この旅券はEUと大英連邦の諸国へ行くときはヴィザなしで通用する。
万能の効果、中国人富裕層の人気の的となった。

あるいは25万ドルを政府に寄付すれば市民権が得られる。

近隣のカリブ海島嶼国家で、おなじくコロンブスが発見したアンティグ
ア・バーブーダは種子島くらいの面積に9万人が暮らしている。

セントクリストファー・ネービスの「成功」を横目にして同じ措置を中
国人の富裕層に売り込もうとしている。これらいずれもが、旧英連邦の
香港で代理店をかまえて売り込むのである。

いま両国への申請は1万名に近いと言われる。

米国への移住は近年たいそう難しくなり、EB−5ヴィザは50万ドルの
投資、最低10名のアメリカ人の雇用だが、とくにアジア人への審査が難
しくなっているという。
 
カナダは80万カナダドルの5年間貸与による移民優遇措置を廃止した。

英国は100万ポンドの投資で市民権を付与しているが、付帯条件は5年の
裡、4分の3以上を英国に住まなければいけない。

これまで中国人の移住先として人気の高かった豪は500万豪ドル(5億円
強)の投資で永住権が取得できるが、4年間に160日以上を住まう必要が
あり、多忙人間にはクリアできない付帯条件だから、「馬鹿馬鹿しくて
やってられない」という。実際に元国家副主席の曾慶紅の息子、習近平
の実弟など、この条件をクリアするために豪に住んでいる。

中国人にとっての穴場はキプロスだった。

30万ユーロの不動産を買えば三年間のヴィザが与えられるのだ。

キプロスはEU、ユーロ加盟国だから、全欧を旅行できるというメリッ
トにめをつけたのである。

これに倣おうとポルトガルは法整備を準備しているという。しかしそん
なことをやっていると全欧は貪欲なイナゴの大群に浸食されるゾ!

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 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 893】      
――「かくも広い土地をよくもこう万遍なく開墾したものだ」(長谷川
の下)

「哈爾賓直行」(長谷川如是閑 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46
年)


 ▽
さらに進んで長谷川は、彼の眼に映じた現地の日本人の振舞いに疑問を
呈している。満蒙が「支那の土地」であるのか否かの議論は一先ず措く
として、長谷川の説くところを読み進めてみたい。

「日本人は、支那の土地で事業をしていても、殆ど自分達が支那の中で
生活しているのだということは全く忘れて――寧ろ初めからそんな風に
考えないで――日本が支那に延長したかの如く考えて、鉄道関係の人達
でも、鉄道に沿うて、元来細長い日本の更に細長く延長した日本国の延
長地域に閉じ籠もって、その左右の支那及支那人を、まるで外国及外交
人のように見ているらしいという。

・・・苟も支那の土地で、支那人のために、又支那人を得意先として事
業を営んでいるというならば、たとい用事はかくとも、駅の人々位は、
その駅と同名の都会にもう少し親密になっていてもよさそうなものだと
私は思いました」と、現地社会に溶け込もうとしない日本人の生活ぶり
に苦言を呈している。かくて、

「『外国に日本を作る』という古代的の侵略的態度を日本人は満州でだ
けは好き勝手に振舞っていることが出来ると思っていると、近い将来に
飛んだ目に逢わねばなりません。

「(日本人は)もっと社会的な態度をもって進出しなければなりません。

「その土地に自分の生活を打ち立てようとする人々は、何よりも先ずそ
の土地に関心をもたなければなりますまい。満州で生活している日本人
には全くそういう関心が欠けているように思われます。

「支那大陸に於ける人間社会に貢献する事業であるならば、全体的に支
那という土地及び支那人という人間に最も深い関心をもたねばなります
まい」

――このように綴った後に、「これでは、とても、漢民族の満蒙進出と
競争の出来る筈はありません」と結論づけている。

恰も現在の海外における日本人社会を髣髴とさせるような長谷川の“忠
言”だ。確かに長谷川は大室幹夫のいう「シナ化sinicization」という
現象を的確に捉えていた。

だが、漢民族の性向に対する考察を怠っている。日本人に「郷に入らば
郷に従え」と忠言したいのだろうが、漢民族は「郷に入っても郷に従わ
ない」、いや「郷に入ったら郷を従わせる」のだ。

だから始末に困る。加えて「一年百万にも上る」ほどの圧倒的な人の洪
水があればこそ、「満州一帯に、中央支那の文明を拡大させて行きつつ
あ」るわけであり、日本人が「漢民族の満蒙進出と競争の出来る筈は」
ないことに、長谷川は一向に気づいていない。

ハルピン探索を案内した満鉄経営の学校を卒業したばかりの少年にロン
ドンやニューヨークなどの生活状態や生活費や旅費などを質問されると、
長谷川は「私は此の少年の話ぶりや質問ぶりが同じ年頃の日本人のそれ
に比べて、比較にならないほど大きなスケールを持っていることを感じ」、

「支那人のこの大きいスケールを日本の尺度で計るのが、すべての間違
いの基です。今この大きい満州を経営していると考えている日本人は、
恐らく支那の此の一少年にも笑われるでしょう」し、

「秦始皇帝だの成吉思汗だのという大きい実物を沢山にもっていても、
少しもそんなものを尊敬しない支那の大衆は」、日本人的な大スケール
構想など「鼻であしらいましょう」と、「日本の尺度で計る」ことの危
険性を指摘する。

「支那人と日本人との太刀打ちに於いては」、「いつもタジタジたるを
脱れない所以」を指摘し、日本の満蒙経営の問題点を説く長谷川だが、
やはり日本人だった。最後にピシャリと、「文字通りの太刀打ち――即
ち戦争――ならば日本人はビクともしない」。
《QED》
  ◎
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もう一本
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

【知道中国 894】     
  ――「支那人の矛盾に対する無頓着が現れている」(安倍の上)
「瞥見の支那」他(安倍能成 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)


 ▽
夏目漱石の弟子、岩波書店創業者の岩波茂雄の親友、大正リベラルな岩
波文化人サロンの中核であって、第一高等学校校長、貴族院勅撰議員、
文部大臣、学習院院長などを歴任。戦後は雑誌『心』などに拠って自由
主義的保守主義の立場に立った安倍能成(明治16=1883年〜昭和41=
1966年)が済南を訪れたのは、昭和3(1928)年3月16日。済南事件勃発
の1ヵ月半ほど前のことだった。

「前々から支那を見たいと願っていた」安倍は、北京在住の友人の「自
分が居る内に一度支那を見に来ないか」との誘いを受け、天津経由で北
京へ。10日ほど友人宅で世話になった後、20日程を掛けて天津、済南、
青島を回っている。

済南到着翌日の3月17日、「?介石の南軍が既に四十里向うの徐州まで来
て居るということである。済南の物情騒然という程でもないが」、思い
切って遠出の予定を中止し、市内を一瞥しただけで、「私はかくして誰
をも尋ねず、誰にも会わず、其日十二時の汽車で青島に向かっ」た。

「併し在留の邦人は割合に落着いて居た」。だが「この旅から帰って落
着くと間もなく、北京は益々不安になり済南には悲しむべき流血の惨事
が突発し、張作霖は非命に倒れた」のである。

済南事件が5月3日で、張作霖爆死が6月4日。どうやら安倍は緊張極まり
ない時期に、中国に滞在していたことになる。さて、これを僥倖という
べきだろうか。

なぜ「東三省の専制君主たる張作霖は、のこのことその安全な巣を出て
北京へやって来た」のか。これでは殺されるために、わざわざ北京まで
出張ったようなものではないか。

東三省、つまり満州の「専制君主」のままでいればよかったものを――
こう問を発した安倍は、「(天下)一に定まらん」という孟子の説を引
いて、「支那はああいう大国であり、南と北とは地勢からも人情からも
言語からも著しく異なって居る」が、中国全体を「一」にすることは
「所謂軍閥的政治家でも所謂民衆的政治家でもその最後の標的であるら
しい。支那程の大国でも分立では落着かず、何か知らぬが一にならずに
は居られぬ必然性があるらしい」と感じたという。

国民党、共産党、軍閥、加えてコミンテルンなどの内外政治勢力が「天
下を一」にしようと画策を続け、互いに裏切り裏切られながら戦乱は止
まず、社会は不安定なままだ。

だが街頭に出てみると「如何にも都会として北京の色彩の濃厚であり」、
人々が忍苦な生活を我慢しているようにも思えない。「けれどもこの辺
の大道商人は、決してアンステーブな平和がいつ破れて兵乱と掠奪が始
まるか知れぬということを忘れない」と見た。

だから、「生きる為にはこういう(兵乱や掠奪から身を守る)技術にも
熟達せねばならない支那の民衆は実に同情に価するが、併し踏みにじら
れても轍の下にしかれても直ぐ、その後から後から芽を出す雑草のよう
に、この不安と混乱との中に平気で――少なくとも平気らしく――生き
てゆく支那人の生活力も亦、驚異に値するといわねばならない」とし、

さらに、このように「生きてゆく支那人の生活力」に驚嘆しながらも、
安倍は「真に人を殺すを嗜まざる、真に民衆を愛する力強い政治家が出
たならば、恐らくは天下は一になるであろう。少なくともかかる政治家
によって天下の一にせられんことは、支那民衆の痛切なる希望だという
ことは確かであろう」と思い至るのであった。

こんな気持を抱きながら、安倍は北京の街を、そして歴代王朝の遺し
た豪壮な建築を「瞥見」し、「日本人よりも一層複雑であ」る彼らの振
る舞いに考察を加えていく。
《QED》


(宮崎正弘のコメント)驚きましたね。 安倍能成大先生! じつは小生
の高校の卒業式に記念講演に来ています。亡くなる2年前でした。ぼぞ
ぼそと何を喋っているのか分からず、小生儀、途中で退席した記憶がま
ざまざと蘇りました。

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 読者の声 どくしゃのこえ READERS‘ OPINIONS 
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(読者の声1)通巻第3926号のJJセブン様の「金が下落を始めていま
す。」について、今回の金の下落が尋常ではありません。

では、金が大きく下落する原因は何なんでしょうか。変ですね。グリー
ンスパンでしたか、「金は坑道のカナリア」とか言っています。異変を
告げる警鐘です。

実在する金の100倍以上も発行されたペーパーゴールドの金ETFやありも
しないニューヨークの金先物が売り浴びせられて、金価格が操作されて
の大幅な下落です。勿論、今回も中国が安値で掻っ攫っている噂が海外
で聞かれます。

売った方は、現物の手当てが大変なようです。

ちなみにジョージ・ソロスやジム・ロジャーズが買っているのは、ペー
パーゴールドで、決して彼らは金現物を買いません(内緒で買っている
かも知れませんが)。。

金の現物は極く僅かしかありませんので、彼らが買えば、影響力が大き
いので金価格が大暴騰し、何の裏付けも無い現在の米ドルがチラシにな
ってしまいます。

今回の下落操作は、日本国債の金利上昇、暴落、即ち世界のキャッシュ
カードである円の終末 イコール米ドルの下落の先延ばしかと思われま
す。
わが国でもハイパーインフレおよびキプロス同様昭和21年の預金封鎖、
没収がまもなく始まるはずです。(YK生)


(宮崎正弘のコメント)おっかないシナリオですね。



  ♪
(読者の声2)貴誌通巻第3927号(読者の声4)で「R生、ベトナム」
氏が書かれた論考を教務深く読ませていただきました。同じことを論じ
るにしてもここまで表現が異なり、結論が異なるとはと驚きました。

ヨーロッパにおける主権論は、Bodinを受けHobbsが作りあげました。そ
の契機となり、またモデルとなったのは絶対王政化の君主と君主がもつ
権利、権能、体験です。

そして彼らがその理論構築に援用したのが古代ローマの法学者ウルビア
ヌスの論議です。

ただし、古代ローマの皇帝は元老院、民衆、政敵からの掣肘をうけてい
たので、実際には主権者たる絶対権力者は存在せず、単なる観念上の存
在にすぎませんでした。また、これを自然主義者・自由主義者の観点か
らルソーが論じました。これが「プープル主権」(英語で言えば、
popular sovereignty)論の嚆矢です。

これとは別に、主権を人の持つ属性ではなく、国家がもつ属性としたの
が、「ナシオン主権」(英語で言えば、national sovereignty)論です。

しかし主権者たる絶対王政下の君主の持つ権能を解析し、君主のいない
政体に投影したのが前者であり、絶対王政化では国家と一体であった君
主の国家の面に投影・純化したのが後者です。

これらの議論はあくまでも現実に存在する主権者あるいは存在した主権
者である絶対王政下の君主から抽出あるいは投影した概念であり議論で
す。私が、「主権には非常に明確な意味が政治学上あります」と書いた
意図です。

どの論もモデルとしているのは絶対王政下の君主だからです。

絶対王政下では単なる虚構、君主の主権の投影であったこれらの主権概
念あるいはモデルが、フランス革命後の君主がいないかいても既に絶対
王政下の君主がもっていた権能を持たない君主しかいない社会でその有
効性を試されました。

これが「フランス革命が起き主権者であるフランス国王がいなくなった
後だれが主権者であるかという議論がヨーロッパでなされ、地道な議論
と実際の政治状況の研究を多くの政治学者がおこない150年経って出た結
論が
 
 1.議会制民主主義と国民主権は共存しない。つまり、議会制民主主
義社会には主権者はいない。

 2.議会制民主主義社会において唯一存在する主権は、外交における
国家主権である。

です」という私の概観です。この結論に至るまでの過程を末弘教授は見
事に論じられているので、詳しくはそちらをご覧ください。

「嘘の効用」上下二巻で冨山房から文庫本で廉価に手に入ります。ただ
し、活字が小さいので事前に虫眼鏡を買われることをお勧めします。

日本は国民主権ではありません。「国体の本義」が主張するように天皇
が主権者でもありません。主権者という他の者の権利を蹂躙する存在を
持たないのが、天孫降臨以来の日本の国柄です。

日本の歴史上唯一絶対権力者たる主権者が存在したのが戦後の占領期で
す。連合国最高司令官が主権者でした。ただし、あの時期には日本に国
家が存在しませんでした。また、外在物が主権者だったのです。
 
もうひとつ、「私は『内閣に法案提出権は当然ある』という見解です。
そもそも国務大臣の半数以上は議員の資格を有しているのでその資格で
法案を提出可能ですし、専門的な行政を行い、専門技術的な情報が入り
やすい内閣に法案提出権があるのは当然かと思います」と書かれました
が、これは内閣の法案提出権と内閣の構成員が個人として・議員として
持っている法案提出権を混同しています。

こういう基本的なところの区別をしっかりつける必要があります。「あ
る点」と「その『ある点』のみを含む集合」の違い同様です。全く違い
ます。また、「元首の意思は法律としての効力を有する」(Quod
principi placuit、legis habet vigorem)と書かれましたが、ラテン語
では文頭を大文字にしません。

以上の議論をしてソニー創業者の井深大氏が言われた言葉を思い出しま
した。氏の著書の「学歴無用論」が大ベストセラーになった後のことで
す。
 
ソニーの入社試験を受ける学生の中に、ソニーは学歴無用論の会社なの
で私は成績は悪いが構わないでしょうというものが多くいて困っている。
学歴は無用だが、学力は重要である。

「法曹界にいるまともな方々」といえば、加太邦憲氏、筧素彦氏、清水
澄氏等々。。。みなさん霊界で日本を憂えていられます。(當田晋也)



  ♪
(読者の声3)「第9回 家村中佐の兵法講座 −楠流兵法と武士道精
神」のご案内です。

今から約680年前、後醍醐天皇の討幕挙兵にいちはやく出陣した大楠公・
楠木正成は、その天才的な兵法(戦略・戦術・戦法)で鎌倉幕府を滅亡
に追い込みました。

幼少から『孫子』と『闘戦経』の二大兵法書を表裏で学び、智恵と仁愛
と勇気の三徳を兼ね備え、湊川において自らの命を惜しまず義に殉じた

大楠公の生き様こそが、日本人の武士道精神の模範でもあります。

本講座では、「万世の明鏡」ともいうべき大楠公の遺訓を後世に伝える
ために記された楠流兵法書を現代口語訳し、さまざまな逸話などを交え
つつ、初歩から分かりやすく解説いたします。

       記

演 題:  第二回『「楠正成一巻之書」を読む』
日 時:  4月27日(土)13:00開演(15:30終了予定)
場 所:  靖国会館2階 田安の間(東西線、半蔵門線、都営新宿線:
九段下駅)
講 師:  家村和幸(日本兵法研究会会長・元2等陸佐)
参加費:  1,000円 (会員は500円、高校生以下無料)
お申込:配布資料準備のため、つとめて事前申込みをお願いします。
 info@heiho-ken.sakura.ne.jp  
FAX 03-3389-6278  ( 件名「兵法講座」にて、ご連絡ください)

今後の予定(平成25年 日時未定)
     6月 第三回(第10回) 大楠公訓話(原文講読)
     8月 第四回(第11回) 南木武経
     10月 第五回(第12回) 太平記秘伝理尽鈔(前段)
     12月 第六回(第13回) 太平記秘伝理尽鈔(後段)
        (日本兵法研究会)




━━━━━━
ココダの約束
━━━━━━

 
      伊勢雅臣

戦友の骨を拾う約束を25年かけて果たした男

「もしお前たちがここで死ぬようなことがあっても、俺たちが必ずその
骨を拾って、日本にいる家族に届けてやるからな」

■1.米軍の「すべての兵士を故郷に帰す」約束

安倍晋三首相は4月14日、大東亜戦争の激戦地・硫黄島(東京都小笠原
村)を訪れ、戦死した日本兵の遺骨収容作業の現場を視察した。記者団
に「官邸がリーダーシップをとり遺骨帰還事業を着実に進めたい」と述
べ、政府による帰還作業の加速を表明した。

硫黄島での戦没者約2万2千人のうち、まだ半数の遺骨が収容されずに
いる。この実情をアメリカ政府の遺骨収容と比べると対照的だ。

米軍は硫黄島で約5千人の死者を出したが、そのうちのただ一人だけま
だ遺骨が見つかっていないので、2007(平成19)年に多人数の調査隊を派
遣した。

米軍は「すべての兵士を故郷に帰す」という約束を果たすために、戦死
・行方不明になった兵士の捜索や遺体回収を行う専門組織を持っている。
そこでは約4百人の専門スタッフが年間50億円の予算を使って活動して
いる。

戦没者の遺骨が故郷に帰るときは、「ナショナル・ヒーロー」として盛
大な歓迎セレモニーが行われ、地元メディアが大々的に報道する事が慣
わしになっている。[a]

国のために戦死した兵士が、母国から見捨てられるとしたら、誰が自分
の国を守るために命を掛けるだろうか。そしてそのような国家不信が広
がったら、国のために尽くそうとする気風は失われ、国家は自分勝手な
人間たちの集合となってしまう。それは国家自滅の道である。

しかるに我が国は、いまだに海外での戦没者だけでも115万余柱の遺骨を
野ざらしにしている。経済的繁栄を追い求めて、国家のために戦死した
英霊の遺骨の収容をなおざりにしてきた所に、我が国の戦後思潮の異常
さが現れている。

そうした戦後の思潮を真っ向から否定して、ニューギニアで戦友の遺骨
収容に25年もかけた人がいる。本稿では、その人の生き方を辿ること
で、遺骨収容の問題を考えてみたい。


■2.ハペル氏の驚き

オーストラリアのジャーナリスト、チャールズ・ハペル氏が、ニューギ
ニア島東南端の半島を南北に横切るココダ街道を歩いている時、日本語
の文字が刻まれた石碑に出くわした。

現地人のポーターが説明してくれた。「これを建てた人はですね。元日
本兵で、戦争が終わってから仲間の遺骨を探しにニューギニアに戻って
きたんですよ。この国に20年以上住んでいました。」

この話を聞いて、「文字通り、よろめいた」とハペル氏は記している。
その人物は戦時中、所属する小隊が全滅して、ただ一人の生存者となり、
その後も激戦地を転々として、何度も死線をさまよいながらも、不思議
と生き抜いた。

戦後40年を経て、繁栄を謳歌していた日本に家族と財産を残して単身ニ
ューギニアに戻り、かつて戦友たちと交わした「死んだら必ず遺骨を拾
いに来る」との「約束」を果たすために、25年間も遺骨を収容し続けて
きた、というのである。

この時、ハペル氏は、その凄まじい人生を本にまとめようと決心した。
その後、2年がかりの詳細な調査と、本人へのインタビューの結果、一
冊の本がまとまった。『ココダの約束』[1]である。こうした機縁で、そ
の人、西村幸吉氏の人生の記録が残された。


■3.小隊56名中、戦死55名

西村が独力で建てた石碑は、最大の激戦地の一つ、エフォギ村にある。
激戦は昭和17(1942)年9月8日に起こった。西村が属する総兵力1万の
日本軍は、ニューギニアの英植民地の中心都市であるポートモレスビー
を目指していた。劣勢のオーストラリア軍は退却しつつ、要所で日本軍
を迎え撃つ戦法をとっていた。

日本軍が上陸した北部海岸から南岸のポートモレスビーに行く道程の3
分の2の距離にエフォギ村はあった。日本軍の志気は高く、皆がポート
モレスビーを必ず占領するのだ、という決意にあふれていた。

エフォギ村で、西村の小隊は、待ち構えるオーストラリア軍の背後から
奇襲攻撃した。敵も死に物狂いの反撃を見せた。機関銃の銃弾がシャワ
ーのように降り注ぐ。西村の塹壕の左側では久保一等兵が肩と腰を撃た
れ、助けを求めて、うめいていた。

その久保を助けようと西村が塹壕を出た所で、一人のオーストラリア兵
が突進してきて、短機関銃の銃撃を浴びせかけた。弾丸が3発、彼の肩
を貫いたが、走り去ろうとする敵兵を捕まえて、格闘の末、銃剣で倒し
た。

その敵兵は、体は大きいが、あどけない顔つきで10代の若者に見えた。
「どうして俺は、何の恨みもないこんな子供と戦っているのだ?」とい
う思いが一瞬、よぎった。

その間にも、塹壕から身を乗り出した西村をかばおうと、親友の板原が
とっさに立ち上がり、敵陣に向けて発砲した。しかし、逆に腰を打ち抜
かれ、一瞬にして死んだ。

こんな激戦が朝から晩まで続き、結局、上陸した際には56名いた西村
の小隊は、負傷した彼を除く全員が戦死した。この戦いで、オーストラ
リア軍も148名もの死者を出した。


■4.「この約束は必ず守る」

日本軍はポートモレスビーまであと一日の地点まで進攻したが、総兵力
1万の半数を失い、補給もつきた状況では、さらにポートモレスビーに
構築された敵陣地を攻略できる可能性はなかった。

9月25日に撤退命令が出された。これほどの犠牲を出して、ここまで来
て、むざむざと、もと来た道を戻るのか、と将兵たちは無念に思った。

その頃、西村はまだ右肩と腕は動かせなかったが、歩けるほどには回復
し、他の小隊に加わっていた。歩けない傷病兵たちは担架で運ばれたが、
それは疲労困憊した戦友にさらなる重荷を負わせることであった。「ど
うか、ここに置いていってくれ。死なせてくれ」と彼らは懇願した。

饑餓やマラリアと闘い、オーストラリア軍の追撃をかわしながら、日本
軍は撤退を続けた。招集された頃に、73キロだった西村の体重は30キ
ロに落ち込んでいた。

最後には自力で歩けない兵士は置いていく、という決定が下された。西
村は残される兵士らに向かって、少しでも希望を残そうと、「自分たち
はこれから敵陣に潜入して食料を分捕ってくるのだ」と説明した。そし
て、こう約束した。


「もしお前たちがここで死ぬようなことがあっても、俺たちが必ずその
骨を拾って、日本にいる家族に届けてやるからな」。[1,p106]


西村は、戦場に取り残される戦友たちの光景を目に焼き付けながら、
「必ずこの約束は守る」と自らに誓った。

残留組の約2百人の負傷兵たちは、残された機関銃で10日間も戦い続け、
最後に全員、戦死または自決した。彼らが敵を引きつけている間に、撤
退組は無事に脱出できたのである。


■5.37年後、再び、ニューギニアに立つ

西村が再びニーギニアの地に立ったのは、それから37年後、1979(昭和54)
年のことだった。かつてのカーキ色の戦闘服と小銃にかわって、Tシャ
ツにショベルといういでたちだった。

ニューギニアを撤退してから、西村は台湾へ向かう輸送船が敵潜水艦に
撃沈されて波間を漂ったり、ビルマ戦線では160人の中隊が入れ替わりの
補充者も含めて365人も戦死したりという中で、負傷や重病に冒され
ながらも、その度に不思議な偶然で生き残れた。西村の約束を待つ英霊
たちが彼を護っていたのかもしれない。

敗戦後、帰国した西村は機械工作の会社を興して成功した。いつか戦友
の骨を拾いに行く、という条件で結婚し、4人の子供も得た。

しかし、その間にも、戦友の遺族を訪ねると、戦死した息子が帰ってき
たように大喜びしてくれて、遺族の思いに触れた。西村自身も長男を交
通事故で亡くし、子を失った親の悲しみを味わった。

そんな中で、経済復興にうつつを抜かし、戦没者のことを忘れたかのよ
うな政府と国民の姿勢に、日増しに苛立ちが募っていった。

 昭和54(1979)年のある晩、59歳になっていた西村は妻と子供たちを集
め、「これからニューギニアに渡って、何年かかるかわからないが、戦
友の遺骨を拾う」と話した。妻と2人の息子は反対したが、西村は「遺
骨収容は結婚の条件だったはずだ。今となって厭だというなら、離縁す
る」と言った。

それでも彼らは「そんな馬鹿げた計画のために」と納得しないので、結
局、西村は会社とほとんどの財産を渡して、縁を切った。娘の幸子だけ
が父を理解して家に残った。

西村は生活を切り詰め、軍人恩給とわずかな土地を売った代金だけで旅
費を工面し、戦友たちの待つニューギニアにやってきたのだった。


■6.「私はニューギニアで弟を亡くしております」

西村は現地で車両整備工場と自動車学校を設立し、若者たちを育てなが
ら、彼らの協力も得て、遺骨収容を進めた。

かつての戦場は深いジャングルに戻っていたので、記憶を頼りに位置を
確認し、道を開き、草を刈り、地雷探知機で金属片を探して、反応があ
ると手で土を掘り起こす。そういう作業を20年以上も続けた。

多くの遺骨は身元が分からなかったため、西村の小屋で大切に保管し、
帰国の都度、遺灰にして持ち帰っては、部隊の出身地である高知県の護
国神社などに収めた。金属の認識票など、身元の分かるものが見つかる
と、遺族の許に送り届けた。

ある海岸では、4つの金歯のある頭蓋骨を収容した。こんな特徴のある
遺骨なら遺族が見つかるかも知れない。戦史によれば、その海岸では広
島県福山市の出身者が大部分を占める歩兵第41連隊が最後の戦いをした
場所だった。

西村は遺骨と共に帰国し、連隊の戦友会から、その海岸で戦死した70名
の名簿と遺族の住所を入手した。それから車で2ヶ月近く遺族を一軒一
軒訪れて、心当たりはないか聞いて回った。遺族の中には、西村にすがっ
て、行方不明のままの身内の遺骨を捜し出してほしい、と懇願する人々
もあった。

68番目の家を訪れた時、年長の男性が出てきて、「私はニューギニアで
弟を亡くしております。弟には金歯が4つ、あります」と語った。胸に
せりあがる気持ちを抑えつつ、西村は急いで車の中から頭蓋骨を持ち出
した。

男性はその頭蓋骨を受けとり、両手で抱きしめるようにかかえた。そし
て長い間、じっと見つめていた。長くしまいこんでいた弟の記憶を呼び
覚ましているようだった。やがて男性の目に涙が溢れ、喘(あえ)ぐよ
うなすすり泣きと、哀しいうめき声が漏れてきた。


■7.「忠実なる英霊のために」

このココダ街道とその周辺で、オーストラリア軍と米軍は3095人の戦死
者を出した。それらの英霊のために、かつての激戦地にオーストラリア
政府はいくつもの記念碑を建てている。

またポートモレスビーの近くにはボマナ国立墓地がある。自国のために
戦って散った兵士を決して忘れはしない、というオーストラリア国民の
決意が窺える。

一方、日本側は1万3千人も犠牲となったにもかかわらず、日本政府の
建てた記念碑は、わずかしかなかった。戦後まもなく建てられた記念碑
は、日本政府が維持費を出さないので、地主は西村に援助を頼んできた。

西村は維持費と土地税のために、私費で毎年1万円を出すことを同意し
た。他にも日本政府が管理費を出さない記念碑が5つあり、荒れ果てた
状態にある。西村はやるべき事をやらない日本政府の姿勢に憤りを感じ
た。

自分の戦友たちが次々と倒れたエフォギ村の激戦地で、西村は独力で高
さ1.7メートルの記念碑を建てた。戦友たちは、故郷から何千キロも
離れたこの場所で、名前さえ忘れ去られようとしている。どう考えても
おかしい。

西村は戦友たちの故郷の高知県から40センチほどの丸い薄茶色の美しい
石を持ってきて、台座の上に据えた。そして、敵味方、現地人の別なく、
すべての戦没者を称えるために、「忠実なる英霊のために」とだけ刻ん
だ。これがチャールズ・ハペル氏を「よろめかせた」石碑である。


■8.果たされた約束、果たされてない約束

2005(平成17)年、85歳の西村は、病に倒れた。厳しい熱帯の気候の中で、
25年間も遺骨収容という重労働を続けていたので、さしもの頑健な体に
も限界が来ていた。

1週間の入院で2度の輸血をして小康を得た西村は、帰国して、娘の幸
子との暮らしを始めた。相変わらず、戦没者を忘れ去っている現代日本
の思潮には強く反発しながらも、自分としては、戦友たちとの約束を精
一杯果たした、という心の穏やかさを得ていた。

西村は見事に約束を果たしたが、日本の国民と政府は、戦没者たちとの
約束を見捨てたままである。

安倍首相は硫黄島で、遺骨の前で土下座をして、手を合わせた。国を護
るために自らの命を捧げた将兵に対し、首相が国民を代表して手を合わ
たことは、戦没者に背を向けてきた「戦後レジーム」からの脱却の一歩
である。

我が国が「すべての兵士を故郷に帰す」という決意を取り戻した時、再
び、国民の中に国家のために尽くそうという気風が甦り、国全体の元気
も回復するであろう。



■リンク■

a. JOG(661 アルピニスト野口健が聞いた声
 洞窟の中の夥しい戦没者の遺骨が、野口さんに語りかけた。
http://bit.ly/11fRhsC

b. JOG(153) 海ゆかば〜慰霊が開く思いやりの心

 慰霊とは、死者のなした自己犠牲という最高の思いやりを生者が受け
止め、継承する儀式である。 
http://bit.ly/Z9sfOs

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. チャールズ・ハペル『ココダの約束 遺骨収容に生涯をかけた男』★
★、 武田ランダムハウスジャパン 、H21
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4270005181/japanontheg01-22/



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金田一京助と見坊豪紀
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      平井 修一

「金田一」と聞いて、辞書を思い浮かべるのは60代以上、横溝正史の推
理小説を思い出すのは40〜50代、漫画「金田一少年の事件簿」を思い起こ
すのは20〜30代だろう。以下は辞書の話である。

金田一京助は1882年(明治15年)5月5日 - 1971年(昭和46年)11月14日。
言語学者、民俗学者である。アイヌ語の研究で有名で、彼の成し遂げた
研究は「金田一学」と総称されているそうだが、それは小生には初耳だっ
た。小生が知っているのは辞書の編者であり、石川啄木の親友としての
金田一だった。

啄木は詩人であり、生活破綻者で、金田一に寄生した。金田一はよほど
のお人好しだったのだろう、返る当てもない金を啄木に“貸した”。金
が返って来るなどと金田一は全く思っていないし、啄木も返す気持ちな
んてさらさらないから、親友以上の親友だったのだろう。

<金田一の名を広く一般家庭にまで広めたのが『明解国語辞典』(三省
堂書店、1943年)だが、「金田一京助 編」と表紙に書かれたこの辞書に
金田一本人はほとんど関与していない。同辞書は当時まだ東京帝国大学
大学院に在学中の見坊豪紀(けんぼうひでとし)がほぼ独力で編纂した
ものである。

しかし院生の名で辞書を出すわけにもゆかず、三省堂に見坊を紹介して
くれた金田一の名を借りることにした。京助の長男でやはり言語学者の
金田一春彦によると、「金田一京助 編」と銘打った辞書は多いが、「お
人好しゆえあちこちに名前を貸しただけ」のことで、実際には辞書は一
冊も手がけていないという>(ウィキ)

『明解国語辞典』は日本で最初の現代語中心の小型国語辞典で、金田一
の東京大学での教え子である見坊がほぼ独力で編纂し、山田忠雄が補助、
またアクセントに関しては金田一春彦が協力した。こうした経緯から
『明解国語辞典』は“明快に”見坊の業績である。

金田一春彦によれば「(金田一京助は)一行も書きません。辞典の原稿
は向きませんよ」という。ただし、見坊によれば、後に金田一京助は
「じつは、私も校正刷りを最後の一行まで見たが全然手を入れる必要が
なかった」と語ったという。

見坊は1914年11月20日 - 1992年10月21日。日本語学者・辞書編纂者で、
東京都出身(本籍は岩手県盛岡市)。1936年、東京帝国大学文学部国文
科に入学、22歳で上京する。1939年、同大学卒業。

大学院在学中の1939年、金田一京助の紹介で『明解国語辞典』の編纂に
関わる。ほぼ見坊の独力により編纂され、「金田一京助編」の文句を冠
して1943年に刊行されたというわけだ。

小生の手元にあるのは『明解国語辞典』の改訂版で、1952年発行、「金
田一京助監修」とある。金田一による「改訂版の序」は淡々と書かれて
おり、そう言われてみれば現場の生々しい匂いがしない。やはり名前だ
け貸したのだろう。そういうケースは珍しくはなかったろうし、今でも
それは続いているのだろう。

見坊は国語研究所在任中の1962年から1981年まで、雑誌「言語生活」
(筑摩書房)にコラム「ことばのくずかご」を連載した。その後1984年
に協力者とともに「新ことばのくずかご」として再開、雑誌廃刊の1988
年まで継続、のち雑誌「ちくま」に移った。

「ことばのくずかご」は、同誌の中でも人気のページとなった。「なま
の資料に語らせる現代日本語の実態」と副題にある通り、見坊自身の現
代語用例収集の一端を紹介するコラムであり、特に、辞書には入りそう
もない、放っておけば捨てられる運命の言葉や言葉に関する事例を取り
上げ、原文の文章をそのまま引用して示すところに特徴があった。流行
語や言い間違いの事例などが多く含まれ、おのずと言葉のユーモラスな
実例集になっていた。

1968年、国語研究所を退職。以後、現代日本語の用例採集と辞書編集に
専念。作業は体調を崩した1992年2月まで続けられ、採集カードは実に約
145万枚に達したという。

見坊の単行本には、『ことばの海をゆく』『辞書をつくる―現代の日本
語―』『辞書と日本語』『ことばのくずかご』『現代日本語用例全集』
などがある。

『明解国語辞典』によれば「監修」とは「編修の監督」とある。「金田
一」は当時はブランドだったのであり、金田一はまあ「名誉監督」とい
ったところだったろう。蛇足ながら近年では怪しい健康本に「医学博士
○○監修」などというのが多いが、単なる名義貸しのケースもあるから
注意したほうがよさそうだ。



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話 の 福 袋
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 ◎中国四川地震の死者約160人に、李首相が被災地入り

[雅安(中国) 20日 ロイター] 中国南西部の四川省雅安市芦山
県で20日朝に発生した地震は、当局によると、死者が少なくとも157人、
負傷者も5700人以上に上っている。

マグニチュード(M)6.6の地震は同日午前8時過ぎに発生。被災地
は2008年に約7万人が死亡した大地震の震源にも近い。死者の多くは芦
山県に集中しており、現地は水や電気が遮断された状態だという。

地震を受けて、李克強首相がヘリで被災地に入り、救援活動への支援を
表明。新華社によると、首相は迅速な救助が必要だと訴え、「党と政府
の強力な指導力の下、皆が一体となって的確に救助を行えば、犠牲者を
最小限に抑え、災害に打ち勝つことができるだろう」と話した。

一方、雅安市の地震当局者は記者団に対し、死者の数がさらに増える可
能性を指摘した。

新華社は、6000人の兵士が救助活動に当たっていると報道。芦山県では
91人ががれきから救出されたという。国営テレビの映像によると、震源
地に最も近い村では、ほぼ全ての低層ビルが崩壊した。

また、国際赤十字・赤新月社連盟によると、国際支援について中国側と
協議しているという。【ロイター】 2013年 04月 21日 09:22 JST 

〔情報収録 − 坂元 誠〕



 ◎太平洋島嶼国の軍支援へ 防衛・外務一体 ネットワーク化

外務・防衛両省の主な安保協力

政府は防衛省の能力構築支援と、外務省の政府開発援助(ODA)によ
る海上保安機能支援を組み合わせた一体的な安全保障支援モデルの構築
を進める方針だ。米国、オーストラリアなどと連携して支援することで、
アジア太平洋地域における米国を中心とした同盟国・友好国のネットワー
ク化も図りたい意向だ。

安全保障支援をめぐっては、外務・防衛両省が昨年から課長級で定期的
に協議を実施。「どの国を優先的に支援するかという戦略認識の共有」
(外務省幹部)を進めている。将来は「外務・防衛両省の支援メニュー
を一体的に示し、シームレス(継ぎ目のない)な援助を行う」(外務省
関係者)ことを目指す。

外務省は戦略的ODAの一環として平成18年にインドネシアの国家警
察本部海上警察局に巡視船3隻を供与、南沙諸島の領有権を中国と争う
フィリピン、ベトナムにも巡視船供与を検討している。ただ、ODAに
よる直接的な軍支援は禁止されており、これを埋める形で昨年度から防
衛省による能力構築支援が始まった。

昨年度はインドネシア軍に気象情報分野、ベトナム軍には潜水艦乗組員
に対する医療技術の分野で支援を実施。フィリピン政府との間でも支援
内容を協議している。

とはいえ、「自衛隊が持つ技術をどう伝えるか、ノウハウは発展途上」
(防衛省関係者)なのが実情。防衛省は対象国を増やすことで、支援メ
ニューの拡充・検討を急ぐ考えだ。(杉本康士)【産経ニュース】 
2013.4.21 08:10  〔情報収録 − 坂元 誠〕



 ◎【雅安地震】安倍晋三首相が援助表明、中国は「現時点では不要」
と返答=中国ネット民からは自国政府批判の声も
【中国・新興国 KINBRICKS NOW】 (@kinbricksnow) 2013年04月21日      

中国を中心とした新興国の情報を日本語でお伝えする海外ニュース&コラ
ムサイトです。時事ネタから社会生活、デジタル、政治ネタ、時には経
済や小ネタなどなど、日本人読者の興味を満たすようコンテンツを充実
させていきます。千葉県船橋市 ・ http://kinbricksnow.com/

*土砂崩れのため道路が寸断、徒歩で移動する救援隊。 

安倍首相が援助の意志があると表明、中国側は現段階で外国の援助は不
必要と主張
財経網、2013年4月20日

日本外務省は先ほど、安倍首相が雅安地震に関して中国政府と中国国民
に慰問と哀悼の意を表明したと発表した。安倍首相は「日本はすでに準
備ができている。中国が望めば、日本は最大限の援助を提供する」と発
言した。中国側は感謝を表明しつつも、「現段階で外国の援助が不必要」
だと回答した。

以下は大手ポータルサイト・網易のコメント欄より。

日本は悪意を持っている。私たちは罠にひっかからない。

四川大地震の時、日本が最初に到着した外国の救援隊だった。大災害で
人を助けようというのは人間の性だろう。先日、日本で地震があった時、
おまえらは大喜びしていただろう。それが自分たちの版になると陰謀論
ばかり。小学校は卒業していますか?

政治は関係ない。日本の善意に感謝する。日本の地震の際、同胞たちが
示した冷淡な態度を恥ずかしく思う。

なぜいらないの?人命を救うためなのに、なんで他国のよりハイレベル
な援助が不必要なの?

日本救援隊のほうがおそらくよりプロフェッショナルだと言わざるを得
ないだろう。メンツが捨てられないだけ。


命の問題じゃないか。少しでも多く救うためだ。地震に関しては日本の
ほうが経験があるだろう。

3000万人の同胞を殺した恨み、宇宙が破滅するまでやつらは敵だ。

薬を飲み忘れちゃダメだよ

なんで不必要なの?人道主義に国境はないでしょ?

そうだよな。びっくりしたよ。断ることで中国の気概を示したなんて言
っているやつがいたけど、病気としか思えない。↑

この犬野郎め。ブタ並の脳みそだな。日本鬼子にそんな親切心があると
でも。やつらが同胞に危害を加えるとなぜわからない。被災者の傷口に
塩を塗り込むな。あの日本の畜生どもは我々の同胞を実権に使うつもり
だ。自分たちの災害救援の経験を積むためでしかない。

OK、OK。日本の援助は受け入れないとしよう。じゃあなんで台湾もダメ
なの?スパイを送り込むからかい?全世界のどこの国の救援隊もダメか
な?

援助は受け入れたほうがいいが、現在、現地の道路は大混雑だというこ
とは理解するべき。あくまで「現段階では」不必要と言っただけ。

日本民主政府に感謝。善意と暖かさを届けてくれた。

人道に国境はない。救援は早ければ早いほどいい。人命と政治、どっち
が優先安打。

唐山大地震を思い出したぜ。あの時も中国に援助はなかった。かわいそ
うな被災者たち。

「3年間の自然災害」(大躍進期の婉曲表現)の時も国際的援助はなかっ
たな。こっちのほうが死者は多いぜ。

「3年間の大飢饉」(大躍進期の婉曲表現)は自然災害じゃないからね。
洗脳の結果。

受け入れるべきだろ。世界大家族の暖かさを体現しているし、国民に対
する博愛教育にもなる。中国人には善意の心がないと言われているじゃ
ないか。毛沢東みたいなクソ野郎の大躍進におけるやり方を真似するこ
とはない。「餓死は大したことではない。信念を失うことが大問題なの
だ」とかいって米国とソ連の援助を拒否、国民を大量に死亡させた。
(執筆者:Chinanews)

〔情報収録 − 坂元 誠〕



━━━━━━━
反     響
━━━━━━━


 1)NHK本日22日朝7:00のニュースで、今週の主な行事予定があり
ましたが、

23日衆議院公職選挙法改正案(区割り法案)衆議院通過、主権回復の日
式典
等数項目の中に、北朝鮮建国81周年記念式典があるのにはびっくりしま
した。

アジア諸国の建国記念日の報道などは、皆無に近いのですがね。
                  (剛)


━━━━━━━
身 辺 雑 記
━━━━━━━


強風が唸りをあげてきた向きの窓を叩いている。今日も春が遠ざかって
いる。

今夜は銀座で大阪会だ。左遷されて過ごした3年間だったが、我ながら
良く働いた。このときの仲間が東京で年に何回か飲んでいる。考えてみ
るとNHKの会は少ない。仲間意識の少ない集団なのかもしれない。NHKを
去ったのが42歳の時。あれから35年も経ったのか。そういえばNHKを視る
ことがなくなった。明らかにサヨクとバカばかりだから。

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か「匿名希望」かを書いて下さい。

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  • 名無しさん2013/04/23

    外国人留学生の厚遇ぶり。 



    例えば、2012年度予算で187億円が計上された「国費留学生」制度。1人あたり修士課程で月額15万2000円、博士課程だと15万3000円が支給される。国立大学なら学費免除、渡航費も日本政府負担だ。 



    このほか、私費留学生に67億円、短期留学生に22億円など、計280億円以上の国民の税金が外国人留学生に使われている。 



    独立行政法人「日本学生支援機構」によると、12年5月1日現在、留学生は13万7756人。国籍別では、中国8万6324人、韓国1万6651人で、両国で全体の約76%を占めている。国費留学生は8588人で、国籍別では、中国1411人、韓国848人、インドネシア609人…と続く。 



    沖縄県・尖閣諸島の強奪を狙う中国や、島根県・竹島を不法占拠する韓国に、ここまで手厚くする必要があるのか。 



    大学学長でもある、みどりの風の谷岡郁子代表は「学費を稼ぐためにアルバイトに明け暮れたり、奨学金の返済に苦しむ日本人学生や若者がいる一方、世界第2位の経済大国となった中国に手厚いのは問題。将来、納税者になってくれる日本人学生に手厚くすべきだ」と指摘している。 

  • 名無しさん2013/04/23

    税金について税務署に聞いても税の種類すべてを知り尽くしてるわけではない事がわかり暫く沈思黙考。地方分権が進めばさらに税は複雑になるし不可侵領域を作る輩が登場するだろう事を千思万考。こういう事をよろず愚考と言う。おはよ&#12316;さ&#12316;ん

  • 名無しさん2013/04/22

    H7N9型の鳥インフルエンザウイルスが、なかなか沈静化しない。

     

    それどころか、ヒトへの感染が相次いでいる中国では、昨日、感染確認が100人を超えた。死者は20人になっている。

     

     

     

    3年くらい前、H5N1型の強毒性鳥インフルエンザヴィールスによるパンデミックの危険性について、多くの専門家が警鐘を鳴らしていた。

     

    今回のH7N9型の鳥インフルエンザウイルスは、それにくらべると、ほとんど危険なタイプではないと思われていたので、あまり心配していなかった。

     

    中国の対応も、以前よりは早いと見られていたからね。

     

    ところが致死率は高いし、なかなか治まる気配がない。

     

    このままでは、サーズのように流行していくかもしれない。

     

     

     

    日本の国立感染症研究所は「人への適応性を高めており、パンデミック=世界的な大流行を起こす可能性は否定できない」とする初めての評価結果をまとめたそうだ。

     

    それによれば、現時点で、人から人への感染は確認されていないものの、人への適応性を高めていることは明らかだとしている。

     

    このウイルスは人間の喉や鼻に感染しやすく変化している可能性があり、症状が現れない鶏や野鳥、豚に広がって人への感染源になっている疑いがあるそうだ。

     

     

     

    さらに、中国保健当局の幹部が、H7N9型の鳥インフルエンザウィルスについて、限定的な形で人から人への感染が可能であると証言したそうだ。

     

    上海の二家族のケースで、人から人へのウィルス感染の可能性が危惧されていたらしい。

     

    また、87歳の最初に認定された患者の1人が治療を受けている間、二人の息子が入院し、上海の保健当局は長男を陽性と認定、次男は父親と同日に死亡した。

     







    この2つの家族のケースに関して、中国防疫センターの保健緊急センター理事フェン・ジジャン氏は、「現在のところ、H7N9型が、人から人への感染が限定された形で可能であることは否定できない」と述べ、中国当局の、人から人への感染に関する初めての容認発言になった。

     













    また、中国在住のワクチン専門家である趙大海氏は、テレビのインタビューで、「 SARSの致死率は11%。今のところH7N9型の方が高く、ウィルスは急速な突然変異を遂げ、伝染力を高める可能性がある。突然、危険な状態で発生する可能性を危惧している」と、中国側からも警戒した発言が出始めている。

     

     

     

    サーズのときは、やはり中国が発生源だった。

     

    2002年11月から2003年7月に制圧宣言が出されるまで、推定値だけど、世界中で8000人以上が感染し、うち800人近くの人が死亡したとされている。

     

    世界的に、旅行する人は激減し、北京では戒厳令が出される噂もあったほどの、恐ろしい感染症だったよね。

     

     

     



    これ以上H7N9型の鳥インフルエンザウイルスが拡がらずに、沈静化するように祈りたい。

     

     

     

  • 名無しさん2013/04/22

    鳥インフルエンザは、じきに別の大陸や国にも上陸して広まるのは時間の問題でしょうしね。

     



     そうなると、どうすればいいのでしょう。。。これは、それぞれが自分の意識を高めてキープし続けておいて、巻き込まれないようにするしかないですね。

     





     春になり、暖かい気温になるにつれて、冬の間眠っていたいろんな病原菌が繁殖している様子です。

     





    (地下鉄に乗るのは気が進まないですが、乗った後はすぐ手を洗って消毒しています。)

     











     4月いっぱいは引き続き、気をつけていましょう。

     









    毎日、気をつけて暮らしています。

     

     

      前後左右360度意識して歩いて移動していますし、気持ち悪い体感があればすぐその場を離れますし、バスを選んで乗ります。

     





      本能を研ぎ澄まして、注意して自分の体感を観察して、未然に災難を避ける感覚を大事にしてくださいね☆ 







  • 名無しさん2013/04/22

    http://www5f.biglobe.ne.jp/~iwojima/index.html祖父の硫黄島戦闘体験記

  • 名無しさん2013/04/22

    所属していた隊の分隊士が語ってくれた。

    分隊士の同期の人が硫黄島に行ったときね、お供え物の一品としてタバコが置かれてあったんだって。

    そのタバコを、その同期の人は失敬してもらっちゃった。まぁ、まだ硫黄島に着隊したばっかで間もないし、軽々しく考えてたんだろうね。 



    その夜、その同期と一緒の部屋で寝ていた隊員は、隣から聞こえる呻き声がうるさくて目をさました。

    案の定、タバコを失敬した同期がうなされてる。

    そいつを起こして何があったか聞いたところ、 「寝ていたら急に胸が重くなって、目を覚ました。そしたらさ、軍服を着た日本兵が『俺のタバコを返せ』って口の中に手を入れてきた」と真っ青な顔で答えたとのこと。

    戦地とは比べ物にならないけど、俺も山にこもって数ヶ月訓練してたから分かる。

    異性の居ない山奥で、自由を剥奪されて体を酷使する毎日。嗜好品は唯一の慰めだね。 



    甘いもの。水分。本や写真。人によってそれぞれ。

    俺は吸わなかったけど、煙草の一服を心の糧にしてた班員も居たよ(´・ω・`) 







    硫黄島の戦い終盤には、西戦車中隊の95式軽戦車、97式中戦車は殆ど破壊されて残っていなかった。

    かく座した、米軍のM1シャーマン戦車の75mm砲を使って、しばしば反撃した事は、生き残った人間の証言からわかっている。 



    それよりも自衛隊スレのオカルトのところにすごい話が載っている。

    硫黄島勤務の自衛官は度々英霊を目撃しているのだが、ある自衛官が「加藤隼戦闘隊」 のビデオを一人で見ていたら、「いいものを見せてくれてありがとう」と言う声が聞こえたそうだ。

    あ〜今、英霊が来られてるんだ、と感じたその人は、テーブルの上に、ビールとタバコを置いて供養したそうだ。

    その後、本土に帰隊した後、宝くじを買ったところ・・・なんと1億円あたった。

    うそみたいな話だけれど、自衛隊の中では有名な本当の話だ。

    その人は、今でも、英霊が引き当ててくれたと信じている。 









    昔彼氏の友達に防衛大学の人がいてその人の話。胡散臭いけど(^^; 

    防衛大生は必ず硫黄島に研修に行くんだって昔、硫黄島に行ってキレイな石を持って帰って部屋に飾ってた人がいたんだって帰って来て一週間後にその人心臓麻痺で死んじゃったの 



    それから防衛大では硫黄島の石を持って帰ってはいけない事にになったんだって 

    すごいのが、彼氏の友達が上司になぜ持って帰ってはいけないか聞いたら上司に 

    「死にたくないなら持って帰るな。」 

    とだけ言われたんだって。 









    B大の3学年には硫黄島研修と言うのがある。

    愛国心を高めるために悲惨な激戦地の戦史を勉強する為にね。

    俺が聞いた話では硫黄島の石を持って帰ってはいけないと言われていたのに。 

    隠して持って帰って来た学生が、帰って来て3日目の朝の点呼の時に出てこなかった。

    週番が調べに行くと心臓麻痺で死んでいたそうだ。で、B大に伝わる怪談はここから始まるだが・・・ 

    その死んだ学生のベットをそのまま使っていたらしい・・・そのベッドで寝ているととにかく金縛りにあう。

    それで、ベッドを替えてくれと指導教官に頼むと教官はやっぱりそうかって顔をしてすぐに変えてくれる。

    と言う噂を話を聞いた。ちなみに、俺は半年で辞めたから本当の理由があると言う話は聞いた事がない。







    元海自で潜水艦勤務経験者の主人が、硫黄島に行ったことがあると話していたので日曜日の朝っぱらから聞いてみました。

    砂持ち帰りダメな理由は、「昔、沢山の方がなくなっているから・・・」と。もっと詳しく聞こうとしたら、すごく嫌がってました。 

    「砂って何色?砂にホネとかまじってるの?」とたずねると、 

    砂はふつうの砂浜の色との事ですが、ホネ以前に「・・・怨霊とか、そういう問題」との事で、すっかり黙り込んじゃいました。

    検疫とか放射能ではなくて、マジにオカルトな理由との事です。 

    ちなみに主人はあまりオカルト信じたくない人間ですが。

    (あんまり聞くと怒り出しそうな感じでした。) 







    元海自の妻です。家事の合間に、おじゃまいたします。

    あれから小一時間問い詰めたら、国家の機関が堂々とオカルト認めるのは立場的に云々・・・ でも、世の中には科学で説明のつかないこともあるっていうのもかなりの隊員が経験しているので、結果的に、「もちかえると、根拠はわからないが、不思議とよくないことが実際に起こる」ので禁止との事です。

    話している主人の顔が真っ青で、こっちの方が怖かったです。どれだけ怖い事なのか、よく伝わったので・・・ 







    私達はついていた。本来は海自の輸送船で帰るはずだったが帰りも飛行機に変更になった。

    滑走路で整列していると○○2尉が「よ〜し!お前等、ポケットの中身を互いに確認しろ・・・ 半長靴は一度脱いで靴底を叩いて砂を落とせ・・・ 昔、嫌いなヤツの雑嚢に小石をこっそり忍ばせたヤツがいたが 絶対にするな。」いつも陽気な○○2尉がそう言った。オイオイ!まじかよ防大出の幹部のセリフかよ・・・

     幹部自衛官の公式の命令として硫黄島の砂を持って帰っちゃいけないのかよ。 





    実体験ですが、数年前の夏無事に定期便も終わり硫黄島から厚木の帰り便大きな荷物もなく便乗者は海保職員1名。

    天候晴れ、風微風。定刻に離陸なのですがいつもより滑走距離が長い、Pも変だナーという顔。

    夏の日差しの機内ほど程よい温度で弁当の後、やることもないので機内でお昼寝。

    しばらくして人のざわめきというかひそひそ声でふと目がさめ機内を見回しても海保さんが寝てる姿しか。

    改めて寝直すと「これで国に帰れる」「友軍機が来てくれて助かった」とはっきり。

    流石に目が覚めて後部貨物室を見回してもなにも。。。。

    海保さんもやや青ざめた顔で「聴きましたか?」と2人そろって前に逃げ込んでPにその事を報告。

    Pが「それで重かったのか、お盆も近いし」と。その後何事もなく厚木に。

    機体点検をしてると耳元ではっきりと「連れて帰っていただき有り難う御座いました!」? 



    こういう話も。YS-11Mはもうよぼよぼの機体であっちを直すとこっちが壊れるというような機体で整備員泣かせですが、

    厚木から向かった機がハイドロ漏れを起こしどうやっても治らない。

    Pと硫黄島管制が戻るか戻らないという話を始めた少し後に漏れがぴたりと止まった。

    この状態ならと言うことで硫黄島に到着。

    エンジン部分を開けて点検をすると当該ハイドロポンプの漏れていた配管箇所に手の跡がくっきりと。

    このときのPは霊の類は信じない人でしたが、それ以来、硫黄島に行くたびに慰霊碑に手を合わせるようになったそうです。 



    YS-11Mの機上整備員です。

    週1の定期便(硫黄〜南鳥)で行くのですが、偶に山の上で手を振ってる人がいるんですよ。

    硫黄の隊員かなと思ってたのですが、先輩、いつもあの山の上で手を振ってくれる人居ますね!あ、お前も見たのか。。。。。下に降りたらローマスにその話してみろ。

    ロードマスターに上記の話をしたらどうも旧軍の霊らしいと。

    日の丸を見て友軍が来たと歓迎してくれてるようだと。

    その翌日に鎮魂碑に手を合わせてから見ることが無くなりました。

     今も、定期便時(厚木→硫黄)は内地から和菓子、水、酒、弁当を1組積んで飛んでいきます。 

    こういう話も。

    有る定期便か硫黄に向かうとき天候悪化で滑走路が見えずもう1度トライしてだめなら帰ると言うときに硫黄の滑走路端に灯りが見え無事にタッチ。

    Pが礼を言いに行くと誰もサーチライトとかを付けてないと。







    昭和天皇の話だが、幽霊島になってた硫黄島に慰霊に訪れたら

    何処からともなく万歳三唱が聞こえてきて、

    以降幽霊がパッタリ出なくなったっていうのは聞いた。



    その時に御読まれになられた俳句。



    精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき(天皇陛下) 



    慰霊地は今安らかに水をたたふ如何ばかり君ら水を欲りけむ(皇后陛下)











    ■硫黄島の高松宮殿下  〈初出・『明日への選択』平成10年2月号〉 



    『高松宮日記』全八巻の完結を前に、『This is 読売』

    一、二月号に連載された高松宮妃殿下と作家の阿川弘之氏の対談の中に、初めて紹介されるエピソードがある。

    昭和四十六年三月、高松宮殿下が硫黄島戦跡をご訪問になった時のことである。









    硫黄島は大東亜戦争末期、米軍七万五千の猛攻を、二万余の日本軍将兵が祖国防衛のため、一ヶ月以上に渡って奮戦し玉砕(全滅)した島である。

    戦後、昭和四十三年まで米国の管理下にあったため、殿下のご訪問当時は、まだ未整理の洞窟があり、遺骨はそのまま散乱していたという。

    殿下が先ずお訪ねになったのは、米軍の火焔放射器でやられ、ブルドーザーで生き埋めにされかけ、苦しみもがきながら脱出を試みた兵隊たちが、折れ重なって死んだ跡地だった。

    「前もっての説明何もなしで洞窟の前へ立たれた殿下は、ハッと息を呑む気配をお見せになり、やがて地べたに正座し、両手をついて首を垂れて、暝想状態に入られた。

    一言もおっしゃらないから、何を念じていらっしゃるのか祈っていらっしゃるのか分からないけれど、随行の者みな、電気に打たれたような気分だったと聞いております。

    大分長い時間そうしていらして、やっと立ち上がられた」





    次にお訪ねになったのは、遺骨の整理が既に済んでいる壕だった。

    とはいえ、拾い尽せなかった骨もあり、至る所に散らばったままの骨片もあった。

    仕方なしに海上自衛隊駐屯部隊の隊員も、ふだんは靴で遺骨を踏んで歩くようになってしまっていたという。 

    「ところが、殿下はためらわれた。そうして、つと靴を脱ぎ靴下も脱ぎ、素足になって、骨片の散らばる洞窟内へ入って行かれた。

    私も知ってますが、硫黄島という名前の通り、あの島の壕の中に地面から硫黄のガスが噴き出しているんです。

    そこを素足で視察した人は、後にも先にも高松宮様お一人だそうです」





  • 名無しさん2013/04/22

    本土に帰る時、かなり厳しくブーツの底を洗わされました。

    硫黄島(当時の読みにならって、いおうとうって読んで欲しい。)の話を体験談含めいくつか知ってますので、書いてきます。

     

    1)聞いた話 

    硫黄島勤務になった自衛官に、霊感が強い人がいました。

    ある夜、その方がむくっ!と起き上がり、フラフラと外へ。

    同室の方が声をかけるも反応無し、まるで夢遊病者のように歩き続け、あるところでばったり!と倒れたそうです。

    意識が回復してから、何があったのか尋ねると、「誰かに呼ばれた気がする……。」と。 その方の霊感ぶりは有名だったこともあり、倒れた場所を掘ったところ、遺骨が見つかったそうです。

    その霊感青年以外にも「呼ばれた」隊員により、何柱かのご遺骨が見つかっています。 









    2)経験談 硫黄島外来宿舎 

    外来宿舎に、金縛りやポルターガイスト等、必ず怪現象が起こる部屋があります。

    私たちが行った時、人数の都合で、自分ともう一人がその部屋に泊まることになりました。

    怖いのが嫌、というより、亡くなってまで苦しんでいるのではと思い、詳しい作法などは知りませんでしたが、きっと喉が乾いただろうな、甘いものが欲しかったかな、お酒が飲みたかった人もいたかな、と、本土から ミニボトルの日本酒、六甲水のペットボトル、飴玉を持っていき、窓の下に盛り塩と一緒に供えて「暫くこのお部屋をお貸しください。もしも、本土に戻られたい御魂がいらっしゃったら、窮屈かと思いますが、この中にお入りください。皆様の故郷にお返しすることはできませんがこの半分を○○県の△川に流します、半分は、こちらに置いていきます。」 

    と、念じました。

    心配されていた、私の部屋では何も起こりませんでした。

    が、夜中、隣の部屋から悲鳴とガターン!という騒音が。聞くと、ベッドを下から蹴られたような感触があり、一瞬浮いたようだったとか。

    明かりをつけると、ベッドの位置が、引きずった跡もなく、思い切りずれていました。それから後、夜は何事もありませんでした……。 









    3) 経験談 硫黄島医務科壕 

    医務科壕という、傷病者を治療するための壕に案内された時のことです。

    入り口にポトスが自生する、一見のほほんとした場所なのですが、硫黄島戦では、足の踏み場もないほどに傷病者が寝かされ、本土からの援助も絶え、満足な治療も受けられず亡くなっていった方が多かったそうです。

    医務科壕は天井が比較的高めでT字型に掘られており、他の塹壕よりも少し開放的な雰囲気がありました。

    (他の塹壕の殆どは地中に掘られており、地熱でサウナ状態です)

    「ここから雨水を取り、ドラム缶に貯めていた」等の説明を受けていた時、足元の方から、苦しいような、熱いような、閉塞的な感覚が伝わってきました。

    「ここ、地下があった、なんてこと、ないですよね?」試しに尋ねてみたところ、説明係の海曹がぎょっとした顔で「地下があったらしいと聞いています。」と。 

    ……下に降りる階段が見つからないのだそうです。今も。

    他の壕では「平成○年○月、調査ここまで」と書かれた紙が貼られていて、その先が落盤している場所などを目にしました。

    遺骨収拾も、まだまだ進まないようです。 



  • 名無しさん2013/04/22

    硫黄島  

      ここはテレビや雑誌では決して紹介されないが、国内屈指の死霊の島である。なぜ紹介されないか。それはおそらく次の2つの理由による。

     !)一般人は上陸が許可されていない。またバラエティ番組の取材も許可が下りない。

     !)第二次世界大戦の犠牲者の遺族に対する配慮。

    この島は言わずと知れた玉砕の島。太平洋戦争末期、40日間の戦いで日米あわせて約5万人の犠牲者を出している。島の地下要塞には火山島灼熱地獄の中で最後までアメリカ軍と戦いを繰り広げた日本兵の数多くの白骨が今なお未回収のまま残っている。言ってみれば幽霊が出てあたりまえ、出ないほうが不思議という環境下にある島である。ここは一般の人は上陸できないが海上・航空自衛隊員、海上保安庁職員だけが駐在している。この島で幽霊を見た経験をもつ隊員・職員は大勢いるらしい。しかも現れる幽霊の数も多く、時には昼夜関係なく出てくるらしい。硫黄島基地では、幽霊対策として毎日慰霊碑の前にもうけてある盃に水を補充する規則となっているとか.....。宿舎でも寝る前には部屋の前に水を準備しておかないと、兵士の霊が水を求めて中へ入ってくるとのことである。海自隊員や海保職員で幽霊に悩まされノイローゼになり帰還させられる人もいるらしい。

     硫黄島が死霊島であることを知ったのは1985年に初めて小笠原(父島)へ行った時のこと。現地の人が話してくれた。かつてこの島へ霊感の強い人が上陸しようとしたら死霊がその人のところに集まったらしく、その人は気が狂ったように自分で自分の顔や頭を殴り始めた。まわりの人があわてて船に連れ戻し、島から逃げて帰ったとのこと。