政治・経済

頂門の一針

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頂門の一針 いい37号  08・03・27(木)「夕刊」

2008/03/27

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     渡部亮次郎のメイル・マガジン 頂門の一針 1137号
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         平成20(2008)年3月27日(木)「夕刊」


                                 青春とは悲惨である。:平井修一

                             上海近郊にムスリムの聚落:宮崎正弘

                             「大転換の一夜」はあるか:花岡信昭

                         話 の 福 袋
                         反     響
                         身 辺 雑 記


□■■□  ──────────────────────────□■■□
第1137号            発行周期 不定期(原則日曜日発行)
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青春とは悲惨である。
━━━━━━━━━━


        平井 修一

3月16日産経新聞の読書コーナーに「日本人の遺書」という本が紹介され
ていた。その書評を読んでいたら、おや、なつかしや、奥浩平の「青春
の墓標」もとりあげられている。

今さらなにを、という気がしないでもないが、僕は奥浩平とはなにか因
縁があり、かつて我が身の青春を総括するためにこんな一文を書いてい
たのを思い出し、ここに再録したい。

文中の石倉俊一は不肖・平井修一、奥浩平「青春の墓標」は、奥山浩一
「青春の断崖」と言い換えてある。まあ、青春とは悲惨である。

1972〜73年の現認報告書

「全員逮捕!」

拡声器からかん高い声が発せられると、機動隊の指揮車や装甲車の上に
取りつけられた水銀ライトが相模原補給厰のゲート前を一斉に照射した。
目を射るほどの光があたりをさらに明るく照らし、そこだけ闇が切り取
られたようだった。

神奈川県相模原市の米軍相模原補給厰は、ベトナム戦争の後方基地とし
て戦車など米軍戦闘車両の修理を行っていた。毎日のように修理された
戦車がここから厚木基地あるいは横須賀港へ運ばれ、再びベトナム戦争
に投入されるのだった。

この補給厰の役割が報道されるや、「戦車搬出を1日でも阻止すること
がベトナムの人々の命を救うことになる」と、ゲート前に搬出を阻止し
ようとする若者が日を追って増え続け、ここひと月ほど搬出は中断して
いたが、この日は機動隊が実力で排除する期限だった。

午後7時、蒸し暑い梅雨の合間だった。ゲートから南へ伸びた道が国道
16号線にぶつかるまでのおよそ100メートル、その間は坐り込む若者で埋
め尽くされていた。両側にはいくつかのセクトのテントが張られていた
が、新左翼各派の組織を誇示するような大量動員はなく、ヘルメット姿
は数えるほどの少なさだった。

泥沼のような内ゲバの報復合戦、さらにこの年の2月末に起きた連合赤
軍浅間山荘事件と、それに続くリンチ殺人事件の発覚は、学生やシンパ
の革命運動に対する情熱や関心を急速に薄れさせ、新左翼各派はかつて
のような組織的な大量動員はほとんど不可能になっていた。

その一方で、連合赤軍事件を「トロツキストの暴走」として無関係を装
うことのできた共産党系の民青は、ブルーの鉢巻を締め、かなりの人数
を動員していたが、相も変わらず、「権力の挑発にのるな」とただ自分
たちのテントを守るためにだけそこにいるかのようだった。

以前なら民青を実力で集会場やデモから排除した新左翼各派に、今はそ
の力があるはずもなく、道路に坐り込むのは、ほとんどがノンセクトの
若者だった。

その両側の歩道には、やじ馬や報道陣、私服警官、そして機動隊の完璧
な暴力を前に坐り込みをためらったシンパが立っていた。石倉俊一もそ
の一人だった。

一瞬の静寂が催涙ガスの発射音で破られた。ガスの臭気が、皮膚と目、
鼻を刺激してくるや機動隊の地響きのような戦闘靴とジュラルミンの盾
が地面と人を突く、くぐもった音が前列の方から起こった。

坐り込む若者を殴り蹴り、盾で突き、わしづかみにして排除していった。
若者たちは罵声を浴びせ、何をするか、やめろ、帰れ、と叫び声をあげ
るのが精いっぱいであり、全く無抵抗のまま、次から次へと引きはがさ
れていく。その若者たちを見ながら、石倉は無念と無力さに涙を流しな
がら佇んでいた。

石倉俊一は21歳だった。前年の9月、千葉県三里塚に建設が進められて
いた成田空港をめぐる第2次強制代執行阻止闘争で逮捕され、3か月後
の12月末に保釈されてから丸1年間、石倉は自宅の商売の手伝いをして
過ごしていた。

鬱々とした思いを抱いたまま、時折デモや集会に一人で参加することも
あったが、相模原補給廠の戦車搬出阻止闘争を最後に行かなくなった。

これまでのようなやり方を繰り返すことの無力感、結局は武装闘争とい
えるほどの武器もないままに連合赤軍のように権力に牙を向け抹消され
るしかないのかという絶望感、革命に代わる価値観を発見できないため
の不安感、自信喪失。

その一方で、権力に対する憎悪感は募るばかりだった。その年の暮れに
なっても石倉は三里塚の中央派拠点であり、彼が半年あまりを過ごした
現地闘争本部(現闘)へ戻る決意もできず、といって革命運動からきっ
ぱりと手を引くだけの価値観を創ることもできずにぐずぐずしていた。

暮れも大晦日に近い頃、石倉は三里塚の現闘本部でともに活動していた
大森研一が、三里塚裁判闘争の事務局を設けるため、東京虎ノ門の救援
対策社に来ていることを知った。この裁判には石倉も被告になっており、
すでにそのひと月前、11月の第1回公判を皮切りに千葉地方裁判所で月
1回のペースで始まっていた。

裁判はかつての石倉の行為と現在を結びつける絆であり、かつての行為
を現実だと想起させるたったひつとの証拠だった。石倉はその裁判の中
でかつてを再現することで中途半端な状態から抜け出せるのではないか
と、事務局の大森に連絡をとった。

石倉俊一が初めて救援対策社を訪れたのは年明けの1973年正月の4日で
ある。木造モルタル2階建ての雑居ビルの扉をノックをすると、内から
戸を抑え警戒するように「どなたですか」というこえが返ってきた。

「先ほど電話した石倉です」

おい、石倉さんていう人、誰か電話を受けたか、という声にいくつかの
答えが返ってくる。いや、知らないなあといった声が聞き取れる。扉の
男はいんぎんに、

「どういう関係の方でしょうか」

石倉は雑居ビルの入口ではっきり言うのもためらわれたが、

「三里塚裁判の被告です」

と告げると、男は「おい、大森君、君の関係だ」と大森に取り次いだ。
大森はその名前に心当たりはなかった。

「え、俺かい、おかしいなあ」

とい言いながら大森は扉の男と入れ替わり、再び聞いた。

「いつの裁判の関係でしょうか」

その声は石倉には懐かしかった。

「大森さん、矢吹です」

「ああ、矢吹君か」

「矢吹」とは石倉が三里塚の現闘で使用していた名前だった。ドアチェー
ンがはずされ、扉が勢いよく開いた。

「やあ、ごめん、ごめん。イシクラなんていうから分からなかったよ。
最初から矢吹って言ってくれればよかったのに」

大森は石倉の肩を両手で強く掴んだ。ロシア人の男同士の抱擁に似てい
た。大森は懐かしそうに石倉をじっと見据え、石倉は「どうも久し振り
です」と笑顔を返した。

多くの同志たちのその後の消息や対立セクトの動向、そして裁判の予定
などを大森はエネルギッシュに語った。大森は被告団事務局の仕事をぜ
ひ手伝ってくれと石倉を誘った。

その日から石倉俊一はその事務所に通い始め、自らを含めた三里塚裁判
の被告に対する連絡事務や、勾留中の同志に対する接見や差し入れ、さ
らにデモや集会の際に対立セクトの襲撃に備える情報活動「レポ」など
を行った。といっても、石倉が東急東横線都立大学前にあるナカハラと
いう建築金物店に就職するまでのわずか2カ月ほどでしかなかった。

ナカハラという店は、救援対策社の幹部、三保伸介の紹介によるものだ
った。石倉はその頃貯金が底をつき、仕事を探さなければならなかった。

三保は、「清掃局の仕事はどうか。朝が早いが、その分早く切り上げら
れ、夕方から活動ができる」と説明した。大森も「だいたい3時半には
仕事が終わるから、その後に被告団の事務局を手伝ってくれればいいよ」
と賛成した。

石倉は清掃局の仕事に決めかけていたが、数日すると三保はナカハラに
勤めてはどうか、と勧めてきた。「ナカハラは僕の友達がやっている店
でね、そこに君が勤めているといろいろ彼と連絡が取りやすく都合がよ
いので、そうしてくれ」という。

石倉はどこに勤めるかについて大して興味はなかったので、そうします
と答えた。

石倉は3月からナカハラに勤め始めた。家族企業で、三保の友人である
中原俊宏が店を仕切っていたが、一線を引いたとはいえ頑固な父親があ
れこれ指示し、口うるさい母親も手伝い、妹は経理を担当していた。

従業員は石倉と吉岡修の2人である。工務店など安定した得意先がいく
つもあり、小規模経営ながら精いっぱいに繁盛していた。石倉は店員兼
配達である。

後に石倉は中原俊宏から打ち明けられたが、彼は新宿騒乱事件の被告で
あり、石倉と同様、保釈中の身だった。中央派のシンパであり、三保個
人へ定期的にカンパをしているのみならず、大きな闘争のたびに自家用
車を提供し、かつ商売で扱うヘルメットを惜し気もなくカンパするとい
う、中央派にとっても大切なシンパであった。

その恩返しのため自分は安価な労働力としてナカハラに紹介されたので
はないかと石倉が思うほどであった。

中原も心のどこかで鬱々とした思いを持っていたのだろう、長男として
家の仕事を継いでせわしなく働いていたが、それにのめり込むことがで
きず、これは俺のやるべきことではない、といった思いがうかがわれた。

仕事は仕事として事務的に処理していたが、午後6時の閉店以降は仕事
をきっぱりと忘れ、ジャズ鑑賞など趣味の世界に没頭することでかろう
じて精神のバランスを保っているような印象だった。

ある日、配達中のトラックの中で中原が急に、

「石倉君、横浜市立大学だったよね、『青春の断崖』、読んだ?」
と聞いた。石倉が「読んだ」と答えると、
「あの中に出てくる上原京子って、僕の姉だよ」と言った。

「青春の断崖」は奥山浩一の遺稿集である。彼は石倉と同じ横浜市立大
学生で、中央派(中核派)に加盟していたが、6年前に自殺した。奥山
浩一が心を寄せた女性が上原京子だった。「青春の断崖」の中で、上原
京子は中央派と対立する解放派(革マル派)のシンパとして描かれてい
た。

しばらくしてから石倉は、たまたま子供を連れてナカハラに里帰りして
いる「上原京子」をちらと見た。知的で美しいが、ちょっと寂しげな女
性だった。

石倉は「奥山浩一が彼女の心をとらえていたら、あるいは上原京子が浩
一の愛にこたえていたら、浩一は死を選ばなかったろう」と、思っても
仕方がないことや、「彼女はどんな気持ちで暮らしているのだろう」な
どと考えたりした。

中原によると、ばりばりの社会党員であった父親は、京子の考えや行動
をことあるごとにたしなめ、言葉で説得できないと、ついには大きな算
盤で彼女の頭を殴り、駒がばらばらと床に散ったこともあったという。
石倉はナカハラに勤めたことに何か縁があったような気がした。

姉も弟も、そして石倉も、何かを押えこむことによって、かろうじて生
きているような感じだった。

同僚の吉岡修は、石倉より1歳若い20歳だったが、ほとんど老成したよ
うな印象で、もの静かで、いつも腹の調子がおかしいという痩せた青年
だった。

吉岡は中学3年の時に同級生と伊豆大島に駆け落ちし、睡眠薬で心中自
殺を図った。その後は睡眠薬やシンナーなどを常用して昼間からふらふ
らしている生活が続き、両親が精神病院に強制入院させ、そこで1年を
暮らしたという。早熟な青年であり、既に年上の女性と結婚していた。

吉岡は「夭折」という言葉にロマンを覚え、しばしばそれを口にしたが、
確かに20歳にしては人のあまりしない経験をし過ぎており、やり残して
いるのは夭折ばかりと、老人が達観したように生きていた。

仕事は生活のために最低限し、それ以外は読書とパイプ煙草、詩作に集
中し、詩の中に自分の世界、現実があると言い、詩人との交遊も広かっ
た。

石倉が吉岡修に初めて会ったのは、ナカハラに勤めはじめた2日目だっ
た。前日、吉岡は病気で休んでいた。その日、定刻の9時を10分ほど過
ぎた頃、吉岡は急ぎ足で店に入ってくると、奥の事務室の壁にオーバー
をかけ、バッグをロッカーの上に置くと、石倉に一言挨拶することもな
く、さっさと客の応対を始めた。

工務店などの客が立て込む朝のひと時が一段落しても、吉岡はカウンタ
ーの椅子に坐ったままで、中原俊宏が紹介するまで石倉を全く無視し続
けていた。

石倉の吉岡に対する第一印象が良いはずもなく、「俗物的で、世間じみ、
良識ぶった、斜に構えたいやらしい奴。こんな奴と一緒にやっていくの
か」と石倉はうんざりした。吉岡は確かに石倉にとっては初めてのタイ
プの青年だった。

マルクス主義から離れはじめていたとはいえ、石倉はまだこれといった
それに代わる価値観もなく、相変わらずマルクス主義の尾を引いていた
が、彼の考え方と、精神世界に価値を見いだす吉岡とは合うはずもなく、
石倉は1カ月ほど事あるごとに吉岡と対立した。

「火炎瓶を投げたりゲバ棒を振り回したりしているのは、本来下半身に
向かうべき血が頭に昇った奴等だ」と吉岡は最後に決めつけた。

「君と話しているとまったく腹が立つ」と石倉が言うと、吉岡も「僕も
まったく腹が立つ」と負けずに言い返した。石倉が思想的に不安定な状
態にあったため、石倉は次第に吉岡や中原に影響されていく。 


吉岡はパイプを愛用していた。吉岡が詩集を自費出版する際に石倉が埼
玉県の印刷所まで車で取りに行ってやったこともあって、2人はやがて
気の置けない友達になったが、ある日、吉岡は「僕が一番気に入ってい
たパイプだけど、この前のお礼に」といって使い込んだパイプを石倉に
贈った。

店の客が途絶えると2人は椅子に坐り、パイプをふかした。吉岡はパイ
プの話、パイプ煙草の話、いろいろな喫煙具の話など、うんちくを石倉
に披露した。

「アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』に面白い話が出ているよ。海
泡石っていう石でできたミアシャム・パイプは最初は真っ白なんだけれ
ど、これを1年くらい吸っていると琥珀色になるんだね。

手垢がつくと跡に残るから、パイプに包帯をして吸うわけで、そろそろ
色がついたかなと時折、そろそろと包帯を解いて色を楽しむわけだけれ
ど、ある時、1カ月で琥珀色にしてやろうと、ミアシャムパイプをもっ
て男が部屋にこもった。朝から晩まで吸い続けたんだね。

その後、1カ月ほどしても彼が部屋から出てこないのでみんなが部屋の
ドアを壊して入ってみると、彼は死んでいた。なんと体中すっかり琥珀
色になっていた。そばにあったパイプの包帯を取ってみると、なんとこ
ちらは真っ白のままだった」

石倉は吉岡にならってパイプを愛用するようになった。

やがて哲学や文学の話も多くなってきた。吉岡は石倉がこれまで接した
ことのない本を数多く読んでおり、話題が豊富だった。

「荘子を読んだことがあるかい。この中で『胡蝶の夢』というのがあっ
て、『昔、荘周夢に胡蝶となる。翔々然として胡蝶なり。俄然として覚
むれば即ち荘たり。知らず、周の夢に胡蝶となるか、胡蝶の夢に周たる
かを』というのがある。

荘子が夢で蝶になったのか、蝶が夢を見て荘子になったのか、そのどち
らなのか分からないという話なんだけれど、物ごとにはいろいろな見方
があり、とらわれることなく自由の境地に遊ぶことが人間の心の持ちよ
うとして大切だということだよ」


一方、中原はジャズレコードのコレクターとして結構知られていたよう
で、ジャズ歌手がわざわざ彼のところにレコードを聞きに来ることもあ
った。新しいレコードが出ると近所のレコード屋がすぐに持参し、その
ほとんどを中原は購入していた。

「金を使う時、これならレコードが何枚買えるか、とついつい換算しちゃ
うね。もう、惰性で集めているようなものだけれど」
と中原は苦笑した。石倉がジャズにちょっと興味があるのを知ると、コ
ルトレーンの最後の来日公演の模様や、彼が事故死した時に殉死したファ
ンの話など、うれしそうに話してくれるのだった。

「石倉君、クリフォード・ブラウンていうトランペッター、知っている?
 知らない? いいなあ、君は。

これからジャズをいっぱい楽しめるんだから。僕はもう惰性というか、
重荷というか、ジャケットを1回も開いていないレコードもたまってき
ちゃって。

長田弘の詩に『クリストファー詩編』というのがあってね、クリフォー
ド・ブラウンのことを詠んでいる。『ああ、ぼくは、死んだクリフォー
ド・ブラウンのことを実に懐かしく想いだす』っていう書き出しでね」

吉岡がその話を引き取って、

「うん、最後がいいね。『夭折こそはすべての若い芸術家を駆りたてる、
もっとも純粋な夢、ぼくたちの夢のなかの夢であるもの』。夭折ってい
うのはいいね。短すぎる彼の晩年、なんていう言葉は美しいけれど、長
い晩年なんていただけない。長生きするものじゃないよ」

石倉にとって初めての、もうひとつの世界が開かれていくようだった。
石倉の混乱的な思考に吉岡や中原が違う価値観、世界観の種、あるいは
パンドラの箱のように悩みの種を植えつけたようだ。

それと並行して石倉は虎ノ門の救援対策社に次第に足遠くなり、唯一裁
判を残して「革命」とマルキシズムから徐々に離れていった。

様々な価値観があることは分かりはじめたが、自分のそれは何か。石倉
は分からない。仕事は慣れるにしたがって単調になってきた。午前9時
ぎりぎりに出勤し、11時55分に昼食に出かけ、近くの店でスパゲティか
ピラフか蕎麦を食べ、喫茶店でコーヒーを飲み、あるいはそこでトース
トサンドを食べ、12時50分になると東急線ガード下のアーケードにある
本屋で新刊をざらっと立ち読みをする。

慌てて店に戻ると1時を5分ほど過ぎており、中原の母親から「12時前
から昼休みをとらしているのだからちゃんと1時には戻ってもらわない
と困るわよ」という嫌みの一言をもらう。午前と午後の2回、軽トラッ
クで配達に出かけ、それ以外は店員として働く毎日である。

ある日、石倉は近所の工務店に配達に出かけた。注文した品物を届ける
トラック運転手は、工務店にとって横柄に構えてよい相手であり、時に
は視線を上げることもなく無言のまま指で荷物の置き場所を指示される
ことも少なくなかった。

その日、経理の中年女性は品物をどこに置けとも言わないし指示もしな
い、納品書を差し出しても受け取らない、そのまま立っていると、うる
さそうに書類入れを数回指さすだけで、石倉がその引き出しのどこに入
れてよいか分からずにいると、

「何突っ立っているのよ、2番目の引き出し。まったくぼさっとしてい
るのだから」露骨に軽蔑する目を向けて石倉を怒鳴りつけた。

石倉はショックだった。これは独立した人間が独立した人間に対する対
応ではなく、まったく人格を無視していると思った。

「このクソばばあ」
と、石倉は心できたなく罵り、車に戻ったが、不快感は納まらなかった。
「こんな人間がこの世にいるのだ……」

石倉は車を発進する気力も失せ、ハンドルに手を載せたまま考えた。
「俺はこんな奴のために革命を目指していたのか……」

「……人間を解放するなどということが、このババアを解放することだ
と?」
「冗談じゃない。こんな奴とは口をききたくもないし、見るのもいやだ。
勝手に地獄に落ちるがいい。死ね、馬鹿野郎」

憎悪を向き出しにし、激情のままに罵ってみたが、しばらくすると石倉
の心は消沈して来た。

「愛すべき人間、救われるべき人は、俺の助けや革命などを全く必要と
せずに、心豊かに静かに生きている。その一方で救われる価値のない奴
等がばっこし、俺を不快にさせる……世の中は俺を必要とせず、社会に
俺の居場所はなく、この世界に俺の生きる意味もなく、生きている実感
もこの現実世界の中にはない……」

石倉はぐったりした。

こんな、石倉にとっての強烈な「事件」もあって、ナカハラに勤めはじ
めてからわずか3か月後の6月には、なんの展望もない仕事が苦痛にな
ってきた。昼間はぼーっと過ぎ、店を出た午後5時からようやく自分の
ようやく自分の時間、自分の世界が始まるようであった。

朝陽の代わりに西陽を受け、小鳥のさえずりの代わりに街の喧騒を耳に
しながら、石倉は8時間の労働による倦怠感と疲労を抱きながら、街を
ぶらつくでもなく自分の部屋に戻り、ベッドに体を横たえるのだった。

やがて暗くなると60ワットの電球を灯し、本を開き、読みはじめる。そ
の本以外のすべてがスクリーンに幕が引かれるように静かに消えてしま
うようで、夜更けになるにつれて別の世界が唯一、現実と化してくるよ
うだった。

石倉はその中で初めて胸いっぱいに呼吸でき、目覚めた気分になり、生
きた心地がするのだった。しかし、それも長続きはしない。読書に疲れ、
部屋を見回せば陰気くさいだけであり、再び気が滅入ってくるのだった。

憂鬱な毎日をさらに憂鬱にさせるのが裁判だった。石倉は毎月1回は裁
判のために千葉に行かなければならなかった。今の彼の生活や宙ぶらり
んな思考の中に、三里塚での戦いは遠い過去のようで、実際に自分がか
かわったことを現実として思い起こさせるのは裁判以外になかった。

石倉は三里塚に、あるいはそこで暮らした自分にノスタルジアを感じる
時はある。4000メートル滑走路の中に気高いまでに弧塁を屹立させる天
浪団結小屋、笑うと白い歯と片隅の金歯をのぞかせる岩山地区の農民た
ち、甘い出がらしの麦茶、歩哨の夜明けに飲む甘いインスタントコーヒ
ー……。郷愁こそ覚えるが、裁判は容赦なく石倉を刑事事件の被告とし
て形而下的な現実世界に引き戻すようだった。

裁判は石倉の過去を裁き、刑を下す退屈な儀式だった。100日間の未決勾
留は実刑そのものであり、それで片はついたはずであり、その上にまた
裁判に出頭することは虚しく思えた。

過去と精神的に継続性がない、あるいは価値観が変わった被告にとって、
裁判はなおさら消耗が激しく、被告席にいる石倉は脱け殻のように感じ
た。公判の前と後にもたれる集会での被告団幹部のアジテーションはど
こか別世界のことのようで、いたたまれない思いがした。

裁判が回数を重ねるにつれ、統一公判から抜け分離公判に移行する被告
が増えていった。様々な事情によることは察せられ、特に九州や北海道
など遠隔地の被告にとって、毎月1泊2日をかけて千葉地方裁判所に通
うことは精神的、物理的に石倉とは比較にならぬ負担である。

石倉も分離公判を選び「反省の念」を示し「情状酌量」を請えば、1カ
月も経たないうちに判決が下り、実刑判決は免れないものの数カ月ほど
の禁固刑、あわよくば執行猶予付きとなり、前科なん犯という烙印は押
されるが一定期間の後にすべては過去のものとして終わるだろう。

なぜ、そうしないのか。石倉の住む川崎から千葉は近かったこともある
が、三里塚とそこにいた自分をきっぱり過去として整理するには郷愁が
あり過ぎたし、何よりもケリをつけるだけの思想、価値観が石倉にはな
かった。

また、分離公判をここで選んだら、彼が黙秘し3カ月間閉じ込められた
ことの意味がなくなり、屈辱的な独房暮らしのすべてが無意味だったこ
とになってしまうと思った。変節した自分だが、せめて被告団の片隅に
いることで三里塚と自分自身の矜持を石倉は保ちたかった。

結局は権力奪取に敗れたのだと石倉は思う。敗者は再び立つことはない。
関係をすべて断ち切り、人間世界の煩わしさから解放され、静かな精神
世界に自分の居場所を求めて後退したい、自分自身の内部に沈潜したい、
自分だけがすべての世界、コミュニケーション手段である言葉をも越え
た境地で一人で生きていきたい、「だからそっとしておいて欲しい」と
願うのだった。

動物が肉体的、精神的に窮地に陥った時、一切の行動を停止し、あたか
も死んだようになるという。

石倉は擬死により外界を遮断するシェルターを造り、その中で自分とは
なにか、存在理由、生きる意味を発見し、自分自身との自己同一、アイ
デンティティを得て心の平穏、バランスを得たいと願った。しかし、そ
れはまた容易な道ではなく、血まみれの壮絶な退却戦のようでもあった。

石倉は孤独だった。気の置けない友人あるいは恋人がいたのなら心は随
分と救われたろう。孤独の中で自分自身と向き合う作業は、心のバラン
スをおかしくさせかねない。

しらふだろうが、アルコールの力を借りようが、いつでも石倉の思考が
到達する結論は「何もかも混沌なのだ」ということだった。あらゆる価
値観がうず巻く中にあって、これというものはひとつもなく、すべてを
受け入れることも、すべてを拒否することもできるという、不安定な思
い。

こんな状態が数カ月も続けば、混沌こそがすべてであり、切れ味のよい
価値観、世界観を見いだそうとすることが馬鹿ばかしく、かつ虚しくな
るほどであった。

混沌の上に超然と自己を確立する、あるいはそんなことにとらわれずに
淡々と生きるには、石倉はまだ幼かった。夢もなく希望もなく、未来も
なく、ただただ混沌だけが確かなように思えるのだった。

こうして若者は人間嫌いになり、やがて口数少なくなり、自分だけの殻、
自分だけの世界に退行していくのだろう。

自己中心的で傍若無人的でありながら被害妄想的で依頼心が強く、自己
蔑視と他者蔑視が交錯し、厭世的でありながら孤独でさびしがり屋で傷
つきやすいという、青春のど真ん中に石倉はいた。

孤独な思考に疲れ果てた石倉は、ある日曜日にハイキングに出かけた。
孤独をいやすためにではなく、居直って孤独を楽しもう、そこに美学を
見いだそうと出かけて行った。日帰りではなく、1泊のコースを選んだ。

月曜日は結果的にナカハラを休むことになり、中原の母親から嫌みを言
われるだろうが、もうどうでもよかった。部屋の隅に埃まみれになって
いたキャラバンシューズを取り出し、家を飛び出した。

午前11時、郊外へ向かう電車は、密集した住宅地を抜け、次第に畑と潅
木の多い武蔵野の奥へと向かっていく。背広姿のような、ちんまりとし
た建て売り住宅の小さな群れが終点の駅まで続いていた。

石倉の前に坐る母子は大きな紙包みを棚から下ろし、母親は2人の幼児
におもちゃのような靴を履かせようと、なだめながら、こまごまと下車
の用意をしている。終点に着いた時、既に時刻は2時になろうとしてい
た。家路に着く人も多い。

ここからさらに石倉は山奥に向かう単線のディーゼル電車に乗り換えた。
たった2両の赤と黄色の列車は、排気筒が高く突き出してはいたものの
煤によって黒ずみ、もの寂しい印象で、山の中腹をうねって行く軌道の
両側はうっそうとした杉が光を覆い、薄暗い。

終点で降りた時には数人の乗客しかおらず心細かったが、改札を抜ける
とひなびた駅舎の前の広場は梅雨明けの西日に照らされゆらゆらと燃え
立っているようだった。

山麓まで続いているのだろう、まっすぐに伸びた道は陽炎の中で霞んで
いる。石倉はなにかしら心がなごんだ。大きく息を吸い込み、味わうよ
うにそっと吐いた。

登山口から急な昇りが続いた。この時間に登り始める人はなく、彼は下
山者と多くすれ違った。「こんにちは」と声をかけられた時、最初彼は
戸惑った。他人から挨拶されることは初めての経験だった。

この山の中に来てまで世間的な呪縛から逃れられないのか、といささか
厭な思いだったが、やがて挨拶を交わしていくうちに彼は自分から声を
かけはじめ、それを快く思う自分に気づいた。「寂しいならなぜそう素
直に言えないのか、1人でいるよりも2人でいるほうがよいのだ」と石
倉は思った。

夕刻、野宿を覚悟していた石倉の前に山小屋が現れた。ランプの光の下
で体を横たえると、天浪団結小屋の日々、何の疑問もなく一心不乱に斬
壕用の地下トンネルを掘り続けていた日々が思い出され、鼻の奥がつん
としてくるのだった。「来て良かった」石倉は目を閉じた。



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上海近郊にムスリムの聚落
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成20年(2008年)  3月28日(金曜日) 
通巻第2135号   (27日発行)
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 上海の近郊にムスリムの聚落が出現していた
  北京五輪を控え、テロリストの巣窟となる懼れ、なきにしも非ず

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上海郊外に義烏(イーウー)という町がある。世界的に有名な理由はこ
こが偽物工場のメッカだからだ。

観光客もグッチやディオールの偽物を買い込むためにわざわざやってく
る。あれほど著作権侵害を強調してやまないアメリカ人がバスツアーで
一番多いのも矛盾した話。インドやアラブからのバイヤーも多い。

異変は2年ほど前から始まった。

アラブ系ムスリムが次々と中国へやってきて義烏に住み着いたのだ。資
源重視外交を取る中国がアラブ諸国との交流を深化させようと留学生を
大量に受け入れた動きに連動している。

アラブ人ははやくも2千人に達しており数年以内には2万人にふくれあが
る勢いだという(英誌『エコノミスト』、08年2月15日号)。

彼らは半年間有効のビジネスビザで中国に入り、安い繊維製品を買い付
けて中東の物流拠点であるドバイに輸出し、半年経つと香港へ出国して
ビザを更新して義烏に戻ってくる。

中国を出る気配がまったくない。

しかも中国国内のムスリムと連帯して新しいイスラム教のコミュニティ
を形成しつつある。

北京は五輪を控えてイスラム過激派によるテロをもっとも警戒している。

昨秋の中国共産党第17回大会開催中は、北京市内随所に軍と警察に加え
84万人もの「私服」がテロ警戒のために配置された。

また2月14日には新彊ウィグル自治区で軍と過激派の銃撃戦が展開され
新華社によれば「テロリスト十八名を銃殺した」という事件がおきた。

こういう折に上海近辺にムスリムの集落が形成され、イスラム教徒がお
おっぴらな宗教儀式を繰り広げるとなると北京中央の心中は穏やかでは
ないだろう。

そうした中国側の神経質をよそに上海空港には陸続としてアラブからの
「バイヤー」が到着している。やがて大きな問題に発展する可能性が高
い。



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「大転換の一夜」はあるか
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            花岡 信昭

先週の数日間、粉雪の舞うモスクワで過ごした。「日露専門家対話」と
いうシンポジウムに招かれて、日本政治の現状を報告した。

「衆参ねじれ」を背景にした混乱は、向こうの日本研究者にも理解不能
のようで、説明に難儀した。

プーチン大統領が首相になり、「タンデム(2頭立て馬車)政権」とし
て圧倒的な権力を維持することが当然視される国柄だ。日本の政治状況
が不可解に映るのも分かる。

帰国したら民主党からの郵便物が届いていた。党所属国会議員あての
「年度末決戦に向けた取り組みについて」という文書のコピーである。

道路特定財源をめぐる民主党案を野党多数の参院で可決した場合、与党
案否決とみなすかどうかが問題になっている。そのことについての民主
党側の主張を「ご高覧いただきたい」という趣旨の手紙(山岡賢次国対
委員長名だった)がついていた。

こういう資料は参考になるのだが、これまでこの種の説明文書が届けら
れるようなことはなかった。そこに民主党の立場の厳しさが浮かんでく
るようでもある。

時差ぼけでボーっとしているところへ、政界関係者から「政権末期の様
相です」という電話も来た。本当に福田政権は追い込まれているのか。
民主党側が強硬な態度に出ているのは、むしろ、党内に「小沢(一郎代
表)離れ」をはじめとした問題を抱えているためではないのか。

モスクワ訪問は学者、政治家ら十数人のメンバーだったが、その中に、
民主党の前原誠司副代表(元代表)もいた。この重大な時期に国会を離
れていたのは、不毛の攻防戦から距離を起きたかったためではないか。

福田康夫首相はその飄々とした風貌の裏に、意外なまでの頑固さ、した
たかさ、打たれ強さを秘めている。亡父、赳夫元首相の秘書として政治
の裏表をつぶさに見てきた。

結果的にはつぶされたものの、小沢氏との間で大連立構想をまとめると
いう大技もやってのけた。福田、小沢両氏には「しがらみにとらわれず、
土壇場で開き直る」ことができる共通の体質が透けて見える。

政治は一夜にして変わる。両氏はこの状況を大転換させるぎりぎりの局
面を探っていると見る。【産経新聞連載コラム「政論探求」26日付・再
掲】
★★花岡信昭メールマガジン★★547号[2008・3・27]転載



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反     響
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 1)昨夜はある勉強会で関西の有名私学で派遣講師をしておられる方
から「平成生まれの大学生」について伺った。

知らないことばかりで、非常に面白かった。私は「今時の若者は」とい
う表現が嫌いだ。屡々引用する故中内功氏の至言「今や蓄積された知識
と経験がものを言わない時代」であると認識できれば、今時の若者が自
分たちと違うのが当然と心得るべきだから。

昨夜の話も当ににその通りだった。何かと言えば「ものを知らない」、
「礼儀を知らない」、「直ぐ会社を辞める」と大人がしたり顔で非難・
批判する。

講師はそうではないと言われた。彼らは興味の対象が違うのと、携帯電
話とPCの普及が95%を超えている世代であるそうだ。彼らは1986年以降の
生まれであり、その親も1950年代後半の人がいるなどと、我々とは全く
異なる世代であることを知らねばならないと言われた。

長い話を簡単にすれば、教えれば素直に吸収していくのであり、教えら
れていなかっただけである事柄が多いとも言われた。

そんなことがあるのかと、聴衆の高齢者一同が感心したのが「彼らは自
分たちを生徒であると言うし、またレポートなどに書いてくること」だっ
た。「学生」とは知らなかったというのであった。知らないのであれば
「教えることが必要でまた重要である」と聞かされた。

「教えられていなかっただけ」と聞いて思い出したことがあった。それ
は昔の日本の会社時代の同僚が常務に昇進してから、債権の回収不能と
なった販売先に再建役の社長として派遣された苦労話だった。

彼は派遣された何人目かの社長だったそうだ。そして、そうなった会社
の社員のダメ振りに怒り、来る日も来る日も前任者たちのように「お前
等は・・・」と頭ごなしにやっていたそうだ。怒っても怒っても赤字体
質は解消されなかったそうだ。

だが、1年経って彼はある朝ふと気が付いたそう「そうだ、彼ら社員は何
も教えられていなかったのではないか」と。

それからは懸命に基本から教育し直したそうだ。1年経ってみたら何とラ
ップタイムでは黒字決算になっていたそうだ。彼は「前任者たちは何を
やっていたのか」と自分の最初の年をも含めて反省したそうだ。私はこ
れを「一寸良い話」として幾度か披露したものだった。

教訓と言うほどのものでもないが「指導者は部下をただ叱り、非難する
だけでは問題は解消しない。教えることが必要だ」と思ったので。

兎に角有意義な一夜であった。前田正晶 


 
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身 辺 雑 記
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青春とは悲惨である。は筆者の平井さんがおずおずと投稿してきたが魂
の記録として読んだ。60歳目前、初孫も近くできるというお年になって
の回顧録或いは悔恨録。公開は何かのきっかけになるだろう。一挙掲載
の理由である。

「モスクワ訪問は学者、政治家ら十数人のメンバーだったが、その中に、
民主党の前原誠司副代表(元代表)もいた。この重大な時期に国会を離
れていたのは、不毛の攻防戦から距離を起きたかったためではないか」
という花岡さんの指摘は当っている。民主の分裂は早い。


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