政治・経済

頂門の一針

急所をおさえながら長閑(のどか)な気分になれる電子雑誌。扱う物は政治、経済、社会、放送、出版、医療それに時々はお叱りを受けること必定のネタも。

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頂門の一針  451号

2006/06/03

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      渡部亮次郎のメイル・マガジン 頂門の一針  第451号
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              平成18(2006)年06月03日(土)

 
                         小畑実が小畑なわけ:渡部亮次郎
                                 趙紫陽書簡:大紀元日本
                              真の理解者は誰か:寺田嘉信
                           産経抄18(2006)年5月28日[日] 
                       話 の 雑 嚢
                         反    響
                       身 辺 雑 記


□■■□  ─────────────────────────── □■
第451号            発行周期 不定期(原則日曜日発行)
           御意見・御感想はchomon_ryojiro@yahoo.co.jp

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小畑実が小畑なわけ
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          渡部亮次郎

戦前から甘く囁くような歌い方で大人気だった歌手小畑実(1923-1979)。
死後もファンクラブは解散せず、命日(4月24日)には必ず鎌倉の霊園で
偲ぶ会が開かれ、全国からファンが集まる。私のところにもCD8枚163
曲の全集がある。
 
朝鮮半島の平壌出身だったが、当時は自ら朝鮮人の出自を明かす事は歌
手にとって致命的だったため、秋田出身と公表していた。在日社会など
では出自は広く知られていたが、多くの日本人には死ぬまで秋田出身と
され、訃報にも韓国籍であった事実は一切、伏せられている。

14歳で来日し、苦学して昭和16年に日本高等音楽学院を卒業、江口夜詩
の門下となる。下宿先の大家の姓である小畑を貰い、出身地は東海林太
郎と同じ秋田という事にして、同年にデビューした。

秋田県人として一言いうと、小畑というのは秋田県北部に多い姓で、そ
の昔、小畑勇二郎という知事がいた。しかし秋田県内で小畑実の幼い頃
を知る人はいなかったので、小畑を秋田県人と信じる人は少なかった。

小畑が東京で姓を貰った下宿先の大家を継母に持った男性が赤色リンチ
殺人被害者の小畑達夫その人である。事件は日本共産党の宮本顕治らが
起こした

宮本 顕治(みやもと けんじ、1908年10月17日 - )は、山口県光市上島
田出身の日本の文芸評論家、政治家、元参議院議員。日本共産党の元中
央委員会議長で、2000年11月からは名誉役員。

松山高等学校に入学、1929年8月芥川龍之介を論じた「「敗北」の文学」
で雑誌『改造』の懸賞論文に当選し、文壇にデビュー。1931年3月、東京
帝国大学経済学部卒業。

1931年5月、日本共産党に入党し、日本プロレタリア作家同盟に加盟。 
その後、党の中央アジテーション・プロパガンダ部員に就任。 1932年2
月、作家・中條百合子と結婚。 1933年1月、中央アジ・プロ部長に就任。 
4月、中央委員候補になり、5月、野呂栄太郎の最高指導者就任に伴い中
央委員に昇格。

1933(昭和8)年12月、治安維持法とスパイリンチ事件(殺害されたの
が小畑達夫)で逮捕され、1934年12月、市ヶ谷刑務所未決監に移監。 
1940年に公判が始まり、1944年12月5日、東京地裁で無期懲役の判決。 

1945年5月、大審院で上告棄却。 6月網走刑務所に収監。1945(昭和20)
年10月4日、連合国軍最高司令官総司令部の「政治的市民的及び宗教的自
由に対する制限の撤廃に関する覚書」(人権指令)による一切の政治犯
・思想犯の即時釈放の指令に基づき釈放。 1947年5月29日付で日本政府
から復権証明書が交付された。

1955年3月、中央指導部員に就任。 7月、六全協第1回中央委員会総会で
中央機関紙編集委員に任命。 8月、常任幹部会で責任者に就任。
1958年8月、第7回大会1中総で、書記長に選出された。この国際派の勝利
により、党史の上では、主導権を握り続けた。

1970年7月、第11回大会1中総で中央委員会幹部会委員長に選出。

1974年6月26日、民社党の春日一幸委員長は『毎日新聞』の参議院選挙取
材で、再びスパイ査問事件を取り上げ、宮本はスパイをリンチで殺した
と主張。選挙の共産党批判に使った。

共産党は「スパイは特異体質により死亡したもの」と抗議した。1975年
12月10日発売の『文藝春秋』1976年1月号で、立花隆もまた、スパイはリ
ンチで殺されたと主張した。

1975年、春日はこれを国会で取り上げ、再び両党の争いとなった。1月30
日、民社党の塚本三郎の質問に対し、稻葉修法相はリンチ殺人を認めた。

『文藝春秋』はさらに3月号で、鬼頭史郎判事補により違法コピーされた
「刑執行停止上申書」と「診断書」を掲載した。 自民党は民社党と共同
でリンチ殺人事件を追及した。

また、1970年には、自宅の電話回線が創価学会の幹部数名により盗聴さ
れるという事件の被害にあった。この事件は、のちに、裁判により、創
価学会側の敗訴が確定している(創価学会側の敗訴が確定したのは、
1988年、東京高等裁判所での控訴審の判決後、創価学会が上告を取り下
げたことによる)。

1977年7月、参議院選挙で初当選し、1989年まで務める。 1982年7月-8月、
第16回大会1中総で中央委員会議長に選出。 1997年9月、第21回大会で欠
席のまま引退し、名誉議長に退いた。2000年11月、第22回大会で名誉役
員。

現在の日本共産党幹部会委員長志位和夫は宮本家の家庭教師だった。そ
の教え子は現在北海道大学大学院教授で民主党のイデオローグ宮本太郎。 
引退劇の詳細については、離党した筆坂秀世が著書で明らかにしている。 
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

横道に大幅にそれてしまった。昭和18年にビクターに移籍し、「婦系図
の歌」(現在は「湯島の白梅」)「勘太郎月夜唄」が戦時下ながらヒッ
ト。勘太郎はやくざで戦時下なら御法度なのだが、明治維新の協力者で
もあったいう触れ込みで、吹き込みが許可された経緯がある。

ところがこの勘太郎、稲垣浩という「無法松の一生」などで知られる映
画監督の愛称「イナカン」から作詞家の佐伯孝夫らが創作したもので、
実在の人物ではない。それなのに信州で勘太郎の墓発見などというガセ
ネタが流れたことがある。

戦後はテイチクからキングに入り、「長崎のザボン売り」「星影の小径」
などヒットを連発。長崎にザボン売りがいたわけじゃなく、作詞の石本
美由起が想像して作詞。それを江口夜詩が作曲してピアノの上に置いた
ら、弟子の小畑が「これ下さい」となって歌ったところ大ヒット。

また横道にそれるが江口夜詩。(えぐち よし、本名江口 源吾、1903年
(明治36年)7月1日 -1978年(昭和53年)12月8日)は、昭和期の作曲家。
長男は同じく作曲家の江口浩司(「下町の太陽」などの作曲者)

岐阜県上石津町(現・大垣市)出身。16歳の時、海軍軍楽隊に応募し、
第1期軍楽補習生として横須賀海兵団に入団。海軍軍楽隊専属の作曲家
としての将来を嘱望された。

海軍省委託生として、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に6年間通学
してチェロ等の音楽を学び、1925年(大正14年)、処女作『千代田城を
仰ぎて』を完成させる。

{渡部註:海軍としては将来の軍楽隊指揮者と期待して東京音楽学校(現
在の東京芸術大学)に6年間通学させていたのに、江口は勝手に辞めてし
まった。妻を亡くしたことと無縁ではあるまい}

また、1928年(昭和3年)には昭和天皇即位大典演奏会で吹奏楽大序曲
『挙国の歓喜』を発表した。

1931年(昭和6年)に海軍を退役し(実際は裏切って)、翌年、亡妻(よ
し子)をしのんで作曲した『忘られぬ花』が大ヒット。これを期にそれ
までクラシック作曲家を嘱望されていた江口は流行歌の作曲家の道を歩
むことになる。

その後『十九の春』、『秋の銀座』、『月月火水木金金』、『長崎のザ
ボン売り』、『憧れのハワイ航路』、『赤いランプの終列車』、『瓢箪
ブギ』など数々のヒット曲を生み出した。

生涯にわたる作曲数は4000曲を超え、古賀政男とは終生ライバル関係に
あった。

1963年(昭和38年)、パーキンソン病に冒され、長い間の闘病生活を余
儀なくされながら、1978年(昭和53年)12月8日死去。享年75。

主な作品

忘れられぬ花(1932年) 
十九の春(1933年) 
秋の銀座(1933年) 
?希望の首途(かどであ)(1934年) 
急げ幌馬車(1934年) 
夕日は落ちて(1935年) 
憧れのハワイ航路(1948年) 
長崎のザボン売り(1948年) 
赤いランプの終列車(1952年) 

(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

ところで小畑は故郷で起きた朝鮮戦争(昭和25年)を嘆き「涙のチャン
グ」を発表(丘 灯至夫作詞、古賀政男作曲)したが、出自はばれなかっ
た。逆に作曲の古賀が少年の頃、朝鮮半島で育ったことから、長いこと、
在日韓国、朝鮮人から「希望の星」とはやされた、とご本人が語ったこ
とがある。

小畑はその後はコロムビアを経て26年にビクターに復帰。27年より3年
間、雑誌「平凡」で人気1位となるなど岡晴夫に次ぐ人気の地位を不動
のものにした。

岡晴夫の「憧れのハワイ航路」(作曲が江口)は元々、小畑の吹き込み
予定曲だったという話もある。

時の韓国大統領の李承晩とは昵懇で、献金を欠かさなかったという話も
ある。昭和32(1957)年にNHK紅白で「高原の駅よ、さようなら」を歌い引
退表明。この曲のレコードのピアノ伴奏は、作曲者の佐々木俊一(福島
県出身)が酔いにまかせて鍵盤を叩いたもの。

その後、昭和35年に正式に引退する。事業家としてラスベガスでホテル
経営に乗り出し、在日社会の関連で紡績会社の重役などにも就任、東京
・六本木でレストラン経営などもするが、44年に復帰し、「勘太郎いつ
帰る」「星のない渚」などを歌った。

51年からは「歌の行商人」として妻と日本中の街頭で自曲を歌ってレコ
ードを売り歩くという活動をしていた。54年4/24午後4時40分、千葉
県野田市の紫カントリーすみれコースで、ゴルフの最中に倒れ、同市内
の荒川外科病院に運ばれたが午後5時10分、急性心不全で死去。

当日は午前10時に1人でコースを訪れ、初対面の男性3人とまわってい
た。1ラウンドハーフの16番ロングホールのセカンドショットで倒れ、
キャディが駆けつけた時には意識不明だった。

このゴルフ場には月に5、6回来ていたという。住まいは港区六本木5
丁目のマンションだった。大変な愛妻家でもあり、年を取っても人前で
も新婚当初と変わらぬ様子を見せたという。 令夫人は健在で、今年の命
日の集まりにも元気な姿を見せた。
  
昭和17年   婦系図の歌(藤原亮子と) 
昭和18年   勘太郎月夜唄(藤原亮子と) 
昭和23年   長崎のザボン売り 
        小判鮫の唄 
昭和24年   アメリカ通いの白い船 
昭和25年   涙のチャング(朝鮮半島の打楽器)
昭和25年   星影の小径 
昭和26年   高原の駅よ、さようなら

(以上、「流行歌と歴史のサイト」

http://www.geocities.jp/showahistory/index.html

「誰か昭和を想わざる」を大幅に引用したが、執筆者の欄には猫の顔が
あるだけで、不明である)2006.06.02



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趙紫陽書簡
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【大紀元日本6月2日】六四天安門事件17周年を当たり、香港太平洋世紀
出版社が6月3日、故中国元総理趙紫陽を記念する新書「紫陽千古-趙紫陽
記念文集」を出版する予定。

本書は80通あまりの文章、数百通の詩などを収録、特に、趙紫陽が1997
年10月13日中共中央政治局宛の手紙を初めて発表。手紙の中、趙紫陽が
中共政治局に、六四事件の名誉回復と自分に対する軟禁を取り下げるよ
う嘆願した。

1989年5月、中国の大学生が官僚腐敗の処罰や、政治改革の促進な
どを求めるため、北京を中心に全国で民主運動を起した。6月4日、こ
の民主運動が中共政権に武装弾圧され、数万人とも言われる大学生や市
民が装甲車に踏み潰され、銃で乱射され、殺害された。

これは世界を震撼させる「天安門大虐殺」である。弾圧直前に、当時在
位していた趙紫陽・元総理は、大学生に対し、「民主と法制の軌道に沿
って、問題を解決する」と明言し、!)小平(故・当時の総書記)は大学
生への武装弾圧を命令したことを強く反対した。

そのため、趙紫陽氏がその後すべての地位と身分が剥奪され、2005
年1月17日に逝去するまでに、約16年間中共に軟禁されていた。

 この書簡の全文は以下のとおり。

皆さんへ:

私は9月12日、党の「十五大」に書簡を届け、「六・四事件」(編集
者注:1989年の「天安門民主運動」)を新たに評価するよう提案し
た。あなた方も恐らくこの書簡を読んだ。

手紙を投函した後、私には訪問客を接待することや、外出することなど
が禁止され、自由が完全に制限され、半軟禁状態から軟禁状態になった。

このよう厳重な違法行為について、私は書簡で「中央弁公庁」に問題の
解決を求めたが、今日まで、私への軟禁が依然継続している。そのため
私は直接あなたたちに問題提起するしかない。

私は1人の共産党員として、ある問題について、党の代表大会に意見を
提出するのは、党員の権利を正当行使しているだけで、このことが党の
法則にも明確に定められている。

私の提案が正しいであろう、間違いであろう、党の代表大会での審議を
許可するであろう、許可しないであろう、私は党の法則を違反していな
いし、国家の法律をも違反しない。

しかしこの私に対し、軟禁を実行するのは、公民としての人身自由を剥
奪することにあたり、国家の法律を違反した人として扱っている。私は
いったいどの法律を違反し、どの司法部門がどのような法律審理を経て、
軟禁の実施を決めたのか、それを知りたい。

このように不明白に随意で1人の人間を軟禁し、1人の公民の権利を剥
奪するのは、社会主義法律制度への乱暴な踏み躙りではないか。

 (中略)

1989年6月以来、私は違法軟禁、半軟禁、軟禁されるのがすでに8
年が経った。これから先、このような自由が剥奪され日々はどれだけ続
くのかも知らない。

私のような80歳近くになる老人にとって、心身健康が大きな打撃を受
けているのは言うまでもない。わが党と党中央部のイメージも著しく損
害されている。人々も私の身で発生しているこれらの事情を、党の「十
五大」で宣言した「法律を基づいて治国する」との原則と照らし合わせ、
その上でこれらの重大原則の信憑性を自己判断するはず。

我が子孫が将来いまの時期における党の歴史を評価するときに、異なる
意見を抱く党員が長期に軟禁され、公民権利が剥奪されることを輝かし
い一ページと認識しないはず。

私のこの手紙を通して、総書記や、常任委員会の同志たちの重視と関心
を引き起こすことを期待している。中央内部で発生しているこのような
恣意的な法律違反が一刻も早く制止されることを願っている。

私への軟禁が早急に解除され、人身自由の回復を望んでいる。このよう
な孤独で寂しい、鬱憤が蓄積する状況の中で、余生を過ごさせないでく
ださい。

 趙紫陽より

 1997年10月13日

附:趙紫陽・元総理による、「党の十五大」主席団および党代表者全員
宛の手紙

「十五大」主席団および党代表者全員へ:

今回開催する「十五大」は我が党にとって20世紀最後の代表大会であ
る。後2年もすれば、21世紀に突入する。このような肝心な時期に、
私は心から大会の成功を祈っている。

私は大会に「六・四事件」を新たに評価することを提案したい、審議す
ることを願っている。

世界を震撼させた「六・四事件」が発生してからすでに8年が経過した。
現在振り返ってみると、二つの問題について、事実に基づいて真実を求
める態度で回答すべきだ。

一、この学生運動は例え過激で、間違っていた、叱責される点があった
としても、「反革命暴動」と定論するのは、根拠が欠けている。「反革
命暴動」でないため、武装弾圧の手段で解決してはならない。

当時の武装弾圧で 事態を迅速に収拾できたが、国民であろう、軍隊であ
ろう、党および政府であろう、我が国家であろう、当時の決断と行動に
多大な代価を払った。

その消極的な影響はいまだに党と民衆の関係や、台湾との両岸関係およ
びわが国の対外関係に存在する。

この事件の影響で、「十三大」から遂行し始めた政治改革が途中で挫折
してしまい、政治体制改革が著しく遅れ、その結果、わが国の経済分野
での改革開放が多大な成果を実ったと同時に、様々な社会問題が迅速に
発生、蔓延し、社会の対立が日々深まり、党内外の官僚腐敗が処罰して
も制止できなく、ますますエスカレートになるとの深刻な情況に陥って
いる。

 二、当時の学生運動に対し、流血を避け、もっと良い方法で事態を沈静
化させることができるのではないか。当初、私は「民主と法制の軌道に
沿って、問題を解決する」と提案したのは、このような結果を求めたか
ったからだ。

私は現在でも、このような方式で流血を避け、すくなくとも厳重な流血
衝突を避け、事態を収拾できたと認識している。皆さんが承知のように
当時の学生の多数は、官僚腐敗を処罰し、政治改革の促進を求めていた
共産党を崩壊させ共和国を転覆することをまったく望んでいなかった。

もし我々は学生の行動を反党や、反社会主義と受け止めるのではなく、
彼らの合理的な要求を応じ、対話や協議、意識疎通などの手法を使った
ら、事態の収拾はできたはず。

そうすると、流血衝突がもたらした様々なマイナス影響を避け、執政党、
政府と国民の間に、新しい形の意識疎通と対話のモードが確立でき、政
治体制の改革が促進され、わが国が経済改革において盛んな成果を得る
だけではなく、政治体制改革においても、まったく別の局面を迎えられ
たはず。

「六・四事件」への再評価問題について、いずれは解決しなくてはなら
ない。時間の推移につれ、人々がこの事件を忘れることはない。早い段
階での解決や、主動的な解決、情勢が安定する中での解決はより賢明で
ある。

現在全国の情勢はまだある程度安定している。間違いを反省し、動乱を
敬遠するのは多数の国民の共同認識である。

当初人々の興奮の情?も徐徐に平静を取り戻している。このような状況の
中で、我が党はもし主動的に「六・四事件」への再評価を提起し、こと
を進んでいけば、各方面からの激しい情?の騒乱を排除できるはず。

この歴史の難題を解決する過程において、理性や、寛容、和解な態度で、
細かすぎず、個人の責任の追及にこだわらず、経験と教訓の総括を重視
し、そのような正しい軌道に沿って行動すれば、この歴史の難題を解決
できると同時に、国内情勢の安定化も実現でき、わが国の改革開放に更
なる良い国際環境を開拓できる。

我が党が時機と情勢を推し量って、早急に決断を出すよう願う。

以上の提案を大会審議に提出する。

 趙紫陽

 1997年9月12日

(06/06/02 01:31) 



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真の理解者は誰か
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             寺田嘉信

北朝鮮拉致被害者に対する真の理解者は政治家及び著名人を見て自民党、
民主党及び西村真悟氏を含め靖国神社参拝賛成派であり、その対極にあ
る靖国神社参拝反対派、未だにA級戦犯云々している政治家及び著名人は
拉致被害者に冷たい態度を示している。

どちらが国民のことを考え国益を考えているか一目瞭然である。

朝日新聞(ちょうにち新聞) 読売新聞 毎日新聞の靖国参拝賛成反対
のアンケート調査と称して調査結果を発表している。世論調査は参拝反
対で勢いをつけている様に見えるが調査の根拠はナンセンスであり、世
論調査の正確度は無いと断ぜられる。

靖国神社は明治2年6月創建されて以来の神社であり、現世の世代のも
のではなく、過去のご先祖様のご意思を無視した世論調査等は何の意味
もない。過去の世代は殆ど参拝賛成でしょう。

私は遺族ではありませんが、2002年8月に出張で上京の際、東京在
住の息子(当時24歳)を呼び出し靖国神社に参拝致しました。

翌月SAPIOと言う月間誌を購入。読者からの投稿文を掲載するページがあ
り15歳の少女が靖国神社を参拝したときのことが実に神々しく投稿さ
れておりました。日本も見捨てたもので無いと思い私の参拝時期と前後
していた関係もあり投稿文をファイルしておきました。この少女の靖国
神社に対する素直な参拝感想が靖国神社の全てを表しているように思え
たからです。  

SAPIO  2002.8/21 9/4

靖国神社を訪れて考えたこと  鳴島あい子 東京 15歳 ・高校生

去るうら盆、迎え火の日、私は初めて靖国神社に足を踏みいれた。献灯
の幻想的な光を見つめながら、英霊の方々は今日の日本や有事法制など
をどんな思いで観ているのだろうと思った。

「日本が万一、ミサイルでも撃ち込まれたら、日本人は一気に感情で動
きだしそうな気がする」と評論家の松本健一さんが自著のなかで危惧な
されていた。

国民を守ることこそ使命なのだから、政治家はいつもの曖昧さを捨て武
士の様な気概を持って真剣に取り組んでほしい。

「戦 争」を正面から見据えられる人こそ、真の平和主義者だと思うか
ら。

靖国の遊就館、零戦の正面に展示されている野砲には、無数の弾が貫い
た痕がある。

彼らは「死」とも戦っていたのだと悟った。自国の文化すら守れぬ惰性
な日本人になっても、鬼子のように扱われても、尚私たちを見守ってく
ださっているように感じられた。



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産経抄18(2006)年5月28日[日] 
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 中年男性の愛唱歌に「北帰行」がある。「窓は夜露に濡れて…」と、
どこか孤独感を慰めるようなところがうけるのだろうか。実はこの歌、
戦前に中国・旅順にあった旧制旅順高校の生徒、宇田博さんが作詞・作
曲したものだ。 

 ▼宇田さんは後に東京放送の常務などを務めるが、女性とデートした
ことから、旅順高を退学するハメになる。その時、旅順から実家のあっ
た奉天(現瀋陽)に帰る心境を歌にしたのだという。その宇田さんが十
数年前、高校時代の仲間を誘い旅順を訪ねようとしたことがある。 

 ▼当時から旅順は外国人の立ち入りを禁止していた。しかし宇田さん
らはあの手この手をつくしてもぐり込み、数十年ぶりに母校の跡を訪問
できた。宇田さんは『大連・旅順はいま』(六法出版社)という本の中
で「禁止するから行ってみたくなる」といったことを書いている。 

 ▼日本は日露戦争後に旅順を租借、旅順工科大や旅順高などを設置し
た。それだけに、この街に青春の思い出を残したままの日本人は多い。
だが中国は頑(かたく)なに外国人を拒んできた。軍港があるからとい
う理由だが、戦前の日本に対する反発も大きかったような気がする。 

 ▼その旅順がついに開放されるという。一部を除き外国人の立ち入り
は自由となり、六月には日系企業のための投資環境説明会も開かれる。
このままでは外国企業の進出で潤う隣の大連や、他の都市に大きな差を
つけられるという危機感があったようだ。 

 ▼日本人を拒むよりも、近くの二〇三高地などを訪れる日本人観光客
に、旅順市街地まで足を延ばさせた方が得策だ。そんな計算も生まれた
のかも知れない。水はいずれ低きに就く。そのことは今後の日中問題を
考える上での教訓となっていいはずだ。 



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話 の 雑 嚢
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 1)神奈川県人口、大阪抜き2位

神奈川県の5月1日現在の推計人口が、大阪府を抜いて全国2位になっ
たことが1日、分かった。県の人口は1970年10月に愛知県と北海道を抜
いて5位から3位に上がっており、約36年ぶりに順位を上げた。 

県の推計人口は882万3227人で、大阪府は882万1085人。神奈川が2142人
上回り、東京都に次いで、初めて2位になった。 

県政策課によると県の人口は「戦後を除いてほぼコンスタントに増加」。
転入・転出による「社会増」がけん引しており、最近1年間の増加の60
%以上が「社会増」によるものだった。転出者が転入者を約3000人上回っ
た大阪府とは対照的だ。 

転入者の増加の理由を、同課は【1】交通の便【2】自然が比較的多く残
っている【3】横浜、川崎などの都市部に加え、海や山などさまざまな魅
力を持つ-などを列挙。その結果、宅地開発や企業誘致が計画的に進み、
さらに人口が増える、という好循環も生まれているようだ。 

神奈川県は、人口のピークを当初、09年(約883万人)と見込んでいたが
15〜20年(約890〜895万人)に上方修正している。同課は「来る人口減
少社会に向け、先を見据えて対策を講じていきたい」と話している。 (
神奈川新聞 2日)


 2)都営住宅“世襲”認めず 都審議会答申

石原慎太郎東京都知事の諮問機関「都住宅政策審議会」(会長・小林重
敬横浜国大大学院教授)は2日、都営住宅の居住権について、親から子
への継承を原則禁止とする答申を提出した。

低家賃で人気の都営住宅に、困窮度の高い人の優先入居を図ることが狙
い。一方、住民の高齢化が進行していることに配慮し、福祉施策の充実
も求めた。

都営住宅は、約170カ所に約26万5000戸が整備されている。家賃は所得や
家族構成によって変わるが、平均で月額約3万9000円。昨年11月の世帯
向け住宅の申込倍率は、43倍の“狭き門”だった。

都営住宅の入居者が死亡したり退去した場合は、その子どもら一親等ま
での同居親族が引き続き居住することが認められている。都によると、
昨年度は3900件の継承があり、うち850件が子どもだったが、答申では、
高齢者や障害者など特殊事情がない限り、原則禁止すべきだとした。

入居資格のさらなる厳格化も盛り込み「資産や非課税所得、一時所得を
考慮したポイント方式」で困窮度を計り、点数の高い順に入居を認める
方法を提案。

単身者で「月収20万円以下」と定めている入居収入基準を引き下げるこ
とや、低所得でも住宅取得が可能な資産を保有している人には、入居を
認めないことを求めた。(東京新聞 2日)


 3)氏子筆頭総代は90歳  10、11日に鳥越神社の例大祭

「千貫みこし」と呼ばれる大きな宮みこしや、ちょうちんの明かりが
あふれる「鳥越の夜祭り」で知られる、台東区の鳥越神社の例大祭が
10、11日両日、行われる。

大祭実行委員長の重責を務めるのは、氏子18ケ町の筆頭総代、君塚嘉一
さん(90)。「早朝の宮出しから夜の宮入まで、宮みこしに1日付い
て歩くつもりだ」と気持ちを高めている。

君塚さんは約30年にわたり、祭りの実行を担う睦(むつみ)会の総代や
氏子総代を務めている。祭りとのかかわりは60年近くにおよび、祭りを
隅々まで知る生き字引だ。

千葉県の生まれ。10代の半ばで浅草に奉公に出て、戦後、裸一貫で自動
車整備工場を興した、自他共に認める苦労人。地元の生まれではない人
が睦会や氏子の総代を務めることはまれで、君塚さんが地元に貢献して
きた証しとも言える。

「下町は祭りがないと始まらない。人には笑われるかもしれないが、祭
りが終わったらすぐに、来年の祭りのことを考えている」と、祭りにか
ける情熱は人一倍だ。

現在も自動車工場の現役社長を務めるなど、気力、体力も充実。「頼ま
れれば、みこしの下に入って担ぐかもしれないね」と笑った。 (同)



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反       響
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(なし)
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身 辺 雑 記
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都合により土曜日号を早々にお届けします。東京は曇天。入梅が近いで
すね。

実は、和歌山県出身の世界的ピアニスト杉谷昭子さんと「アマルコルド
クァルテッド・ベルリン」の演奏会が今夜、上野の東京文化会館で開か
れ、招待された。ハイドン、シューマン、ベートーヴェンの曲。生で、と
いうのは過密都市の数少ない悦楽だ。

サロンオーケストラジャパンの次回公演は7月13日(木)午後2時と7
時。渋谷駅に近いセルリアンタワー東急ホテル1階「教会」生誕250年で
五月蝿い「モーツアルトの名曲集」。チケット(4000円)予約は「ラ・ポ
ール」電話03−3368−2043(非広告)

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創刊日:2004-01-18  
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