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知られざる艇王・彦坂郁雄

2005/01/16

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 公営競技はどこへ行く 2005 1・16 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

競艇といえば、この選手を抜いては語れない。彦坂郁雄。

しかしながら、彦坂のことはほとんど語られていない。1988年9月、整備違反が発覚し、引退を余儀なくされなくなってからその消息さえも知られていない。

だが、彦坂こそ、競艇界「不世出」のスーパースターである。

今の選手には型がない。型がないから勝ち続けることができない。ひいては客から信頼されなくなる。競艇はここ2年で20%も売上げが減った。しかも20%はどれだけかというと何と2000億円。物凄い数字が毎年減っている。

しかし競艇は以前、とても手に届かぬ位置にいた競輪を「まさかの大逆転」で追い抜いた。そしてその競艇の日の出の勢いを支えたのが彦坂である。

1962年の平和島・全日本選手権。その年の尼崎周年を優勝し、日の出の勢いの彦坂はデビュー2年11ヶ月・20歳ながら優出。しかも1マークでトップに立ち、優勝かと思われた。しかし2マークで逆転されるや結局4着に。しかし、この一戦により、彦坂はその後、競艇界を代表する選手に誰もがなるだろうと思った。

その通り、彦坂はその後とてつもない大選手へと上り詰めていく。

神様・倉田栄一、「長瀬オッズ」とさえ言われ倉田を追い落とした長瀬忠義に陰りが見えはじめ、替わって「先生」と称された岡本義則の黄金時代が到来しつつあった競艇界において、まだ20代の彦坂が1969年の冬季、ついに岡本を抑えて勝率トップに。その勝率は当時最高の8.80。だが、彦坂を凌ぐ「天才」レーサーがその後登場する。

北原友次。彦坂がダービー初優出を決めた2年後の平和島ダービーで何と長瀬・倉田の2強を撃破して優勝してしまった。24歳だった。彦坂よりも年は上だったが、倉田や長瀬や岡本は自分の手で撃破すると決め込んでいた彦坂にとって、北原は絶対に倒さねばならない相手となった。

1969年の福岡・全国地区対抗で彦坂は北原に敗れ2着。北原は2度目の4大特別競走(今のSG)優勝。一方、彦坂はまだSG無冠であった。

しかし、「絶対に北原を倒してタイトルを奪う」と誓った彦坂は翌70年の常滑・全国地区対抗で北原を下し、悲願のSG優勝を果した。ここから、彦坂と北原がこれまでの「旧勢力」を一掃して完全に競艇界の主役となった。だがこの2人、お互い口も聞かぬ仲だったらしい。普通、お互いが頂点に立てば「いいライバル関係」となるはずだが、2人にはそうした概念は全くなく、あくまでも「敵同士」という関係を貫いた。

彦坂は今なお、数々の大記録を持っているが、1970年に何と6場所連続優勝という記録を成し遂げている。後に野中和夫と小林一生が達成しているが、最初に達成した彦坂が達成したときは驚きに包まれたという。

72年、彦坂は福岡・MB記念で2度目のSG優勝を成し遂げ、また71年には史上初の勝率9点超え(9.06)を達成する。ちなみにこの当時、今で言うSG2点増しやG?1点増しがなかった時代であったから、空前の大記録だったことが分かる。その後もSGは74年の鳳凰賞(現在の総理大臣杯)を制す。

だが宿敵・北原も負けてはいない。73年に2度目のダービー、75年には笹川賞とMB記念を優勝した。各種記録では完全に北原を圧倒し続ける彦坂だが、肝心要のSGともなれば北原はものの見事に蘇ってくる。まさに天才レーサーの面目躍如といえよう。

だが、その後、北原をも凌ぐ物凄いレーサーが登場する。野中和夫。

デビューは25歳と遅く、脱サラの身であったが、1974年の第一回笹川賞、MB記念、全日本選手権と何と未だ誰もやったことがないSG3連覇を達成。一躍「モンスター」の異名をとるようになる。

野中はどんなコースに回ろうとも常に1マーク先マイを身上とした走りを見せ、それは競艇界の当時の画期的な戦法でもあった。一方、できるだけ内寄りのコースを進入時に取ろうというセオリーに嵌っていた感のある彦坂や北原は次第に野中に追い落とされそうになっていった。

北原は野中出現後、めっきり周年などのG?で優勝する機会が減っていった。彦坂もそれに飲み込まれつつあった。しかし、彦坂は矛先を北原から今度は年の若い野中に変えて野中と真っ向勝負を挑んでいった。

78年の笹川賞、野中は不在だったが、彦坂は野中の「ホーム」である敵地・住之江で立山一馬、長嶺豊の大阪勢を撃破して4年ぶりのSG優勝を果す。そして、野中の得意なる戦法であった絞り捲りをも「マスター」し、真っ向から「モンスター」斬りへと邁進していった。いつしか、競艇界は東の「艇王」彦坂と、西の「モンスター」野中に勢力が二分していった様相があった。

そして彦坂と野中もまた、お互い口も聞かぬ仲であった。しかし野中には「シンパ」は多かったが、彦坂には少なく、彦坂は「孤高の艇王」とさえ言われるようになる。ひいてはそのことが後に彦坂が競艇界を去る羽目になるきっかけともなるんだが。

そんな彦坂・野中時代を真っ向から「切り裂く」大事件が発生する。野中の艇界追放事件である。

野中が親しい予想屋に情報を教えたことがきっかけとされ、永久追放も辞さない様相であったが、当時の笹川良一全モ連会長はその2年後に野中を「超法規的処置」で復帰させることを容認した。だが、彦坂にとって、野中へのこうした処置はやりきれない思いがあったはずだ。

孤高の彦坂だが、野中と同じ大阪の選手であった常松拓支とはどういうわけかウマが合った。常松は実力がありながらも野中の影に隠れがちでSG優勝経験者なのにあまり目立たない選手であった。そんな常松を「常ちゃん」と慕っていたのが彦坂であり、「もう野中はいなくなった。これから大阪は常ちゃんの時代だよ。お互いが競艇界を引っ張るべく頑張ろう。」と常松を「よきライバル」として讃えあった。

彦坂と常松の壮絶なる戦いが2年ほど続いた。82年の笹川賞、常松は得意のイン逃げで彦坂を制し、2度目のSG優勝を果す。だが2着に敗れた後、彦坂は常松にこう言ったという。「今日は常ちゃんに負けたが、来年は常ちゃんを倒して優勝を頂くよ!」

その通りに実行してしまうところが凄い。翌83年の笹川賞、常松断然人気となった優勝戦で、イン逃げを試みた常松をズブリと3コースから差してしまった。有言実行。そんな芸当ができるのは今考えても彦坂ぐらいしか思いつかない。

その1年前の82年、彦坂は2度目の鳳凰賞を優勝し、また復帰まもない野中と蒲郡のMB記念で対決。主催者希望出場の野中を完膚なきまでに倒して優勝している。また83年はG?でも彦坂は実に8回の優勝と野中の7回を上回った。この年間G?8回の優勝記録は03年に松井繁がタイ記録で並ぶがまだ抜かれていない不滅の大記録である。

数々の大記録を打ち立てる彦坂だが、唯一取っていないタイトルがあった。それはダービー・全日本選手権だった。

62年、SG初優出がダービーの舞台であったがそれ以来ダービーでは優勝はおろか2着もなく、「競艇界の七不思議」とさえ言われたが、ついにそれを払拭するときがやってくる。

85年の福岡ダービー、前場所の下関MB記念で野中に復帰後初のSG優勝を果されてしまった彦坂は、ダービー初制覇というよりも野中を倒したい気持ちで一杯だった。そして野中も優出した一戦で悲願のダービー優勝を果す。デビュー25年目の悲願達成。と同時にこれまた「宿敵」である北原に先に達成されていた「グランドスラム」を成し遂げることとなった。

翌86年、この年から賞金順位12名だけが出場できる「賞金王決定戦」が住之江競艇場で実施されるようになった。これまでの4大特別競走に加えて、新たに「5番目」の特別競走が加わったのである。当然、彦坂もそのメンバーの中におり、優出も果した。人気は当時「無冠の帝王」と呼ばれ、後に「大魔神」と称されるようになる安岐真人が人気となっていたが、3コースからズブリと差し、安岐の悲願を打ち砕き、栄えある第一回の覇者に輝いた。

デビューして常にトップスターという息の長い活躍を見せる彦坂。だがその間、仲良しだった常松が整備違反により引退を余儀なくされた。そして自身もまた、常松同様に身を退かねばならなくなろうとは、思いもよらなかったことであろう。

88年、彦坂は最後のSG優勝となる総理大臣杯を制す。だがその半年後、衝撃の事態が。整備違反により、彦坂に引退勧告のニュースが報じられたのである。

整備違反については常松の他、高峰孝三もほぼ同じ様な頃に犯して競艇界から追放されている。さらにはこの年の6月、次代の競艇界を背負って立つはずであった国光秀雄が他の2選手と共謀してペラを不正使用して「八百長」したことがバレて逮捕、永久追放処分となった。そして、動乱覚めやらぬ競艇界に最も衝撃的なニュースが発生するとは・・・

事の真相はよく分からないが、「間が差した」としか思えない。一方で当時、持ち出しを全てにおいて禁ずる競艇のやり方に選手間から批判が出ていたのも事実。とりわけプロペラの性能が重要視されていく中、オーナーペラではその選手の実力が発揮されないという根強い批判が出ていた。そこで88年5月からプロペラ選手持ち制度が導入された。そのことを逆手に取られたのが国光事件であったが、彦坂に取ってみれば持ちペラ制度となっては逆に自分よりも下の連中が台頭する恐れがあると感じて、ならば整備から自分でこなさないとという思いが生じたのではないか?

ひょっとすると「深読み」をしすぎていたのかもしれない。彦坂は。

勝つためにはあらぬ限りのことを尽くす。彦坂はスーパーピット離れも演じ、豪快なる捲りも放った。まさに何でもできる「オールマイティ」の選手で、「苦しいときの彦坂頼み」と称され、多くのファンを「救ってきた」救いの神でもあった。

今、そんな彦坂のような選手は残念ながら見当たらない。ひいてはそのことが競艇が信じられないほどの不振の原因とはなっていないか、今一度検証してみる必要があると思い、彦坂の足跡を振り返ってみた。

&&&&&&&&&&& では、また次号でお会いしましょう &&&&&&&&&&&

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創刊日:2004-01-07  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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