文学

GREEN's Whisper

徒然なるままに書かれる晶の日常。
ここだけに綴られる小さな詩。
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GREEN Whisper vol.37

2005/12/31

GREEN Whisper Vol.37

「ファジーノ・ハウス」




冬。
曇天。
大晦日。
私は会社をクビになった。






―― GREEN 更新 ――――
     12/31

・Kamisama no tabacco 「3」
・飾り詩「63」「64」
・限定TOP「緑涼」「証」「例えば理由をあげるとするなら」


――――――――――――――







私の勤める撮影会社は年末年始に忙しくなる。特にクリスマスから三が日までは目の回るような忙しさだ。
去年は12月から会社に泊まりこみ、家には一週間に一度だけ洗濯をしに帰った。
25歳一人暮らし。勝気で男勝り、くわえて彼氏いない暦二年の私は、会社にいいように使われたのだった。
連日連勤の徹夜で肌は荒れるわ生理は不順になるわ風邪をひくわでも休めないわで、正月明けの私は見るも無残な体をしていた。
昨年の二の舞はゴメンだ。
そう思い、今年の秋に私は引越しをした。
会社から電車で二駅の、小さな街のアパートへ。
アパートといっても1LDKの部屋は築半年とかなり広く綺麗だった。
周りにはスーパーやコンビニや本屋があって何かと便利だが、駅からは少し遠い。
歩いて25分。
運動にはいい距離かもしれないが、会社に行くには都合が悪く、朝の貴重な時間を歩きに費やすのは勿体ないと、
私は引っ越してから自転車を買った。4万5千円の、ルシアン・ブランドである。
お店で見た時、それは一目ぼれというより確信に近い感情だった。
買わなければ。
気付けばレジでカードを切っている自分がいた。
これからにわか繁忙期に入るし、その前の自分へのご褒美だと言い訳をしながら。

ともかく私はこの街にきた。
どちらかといえば田舎よりの、小さな街へ。

そしてそれは突然だった。
何の兆候も無かったし、噂一つ流れてこなかった。
「お前、クビだから」
出社して上司に一番に言われた言葉がコレだった。
「はあ?」
上司に対して出す声ではなかったが、私は眉を跳ね上げてから笑った。
「今日からまた忙しくなるというのに、朝から何の冗談ですか?」
言いながら私は、自分のデスクに荷物を置き、近く開催されるフォトコンテスト用の書類を纏めた。
「今日は西沢製鋼さんのパンフの打ち合わせがありますんで、昼までは外にいますよ」
「岬」
「午後は芹沢を追ってタワーの撮影に行きます。それから今年は、夕方の神宮参りには後藤連れて行きますんで……」
「岬」
卓上カレンダーと自分の時計を見比べていると、上司は机の上で手を組んで私をじっと見ていた。
「……なんですか?」
「お前、今日でクビだから」
「…………は?」
「だから西沢製鋼には俺が行く」
「ぶ、ちょう、が?」
「俺が行く。元は俺の顧客だ。それに大晦日の撮影も無しだ」
「ど、どうして……」
「お前は荷物を纏めろ。家に持ち帰っているものは後で宅配で送れ。着払いなんてケチな真似はするなよ?」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
私はどんどん進む話についていけず、慌てて両手を突き出してストップをかけた。
「何だ?」
「何だ、じゃないですよ!どうしてクビなんですか!? 理由を説明してください!」
理由も分からず「はい、そうですか」で終わるレベルの話ではない。
本当に本当は、タチの悪い冗談だと思わずにはいられない私に、上司は顎に手をあてて「ふぅむ」と唸ってから、
「この会社は、3月をもって倒産する」
感情の読めないいつもの鉄仮面で、彼はさらりとそう言ったのだった。



「ちっくしょう……」
夜までかかって荷物を纏めた終えた私は、大晦日の忙しさで誰もいない会社から、誰に見送られる事も無く退社した。
両手いっぱいに、大荷物。泊り込みが多かった為、私物をたくさん持ち込んでいたのだ。
特にかさばっているのが、背中に背負った、この枕。
どうにも袋に入らず、しかし宅急便を利用させてくれなかった為(着払いにすると言っているのに!)、捨てる事の出来ない愛用枕は、今は私の背中におんぶされていた。
ひどく滑稽な姿になったものだ。
ブラックのパンツスーツに、ブラックのロングコート。
ショートヘアで長身の私は、自分で言うのもなんだがモデルもかくやというルックスをしているのだが(事実、モデルのバイトをしていた事があった)……
背中には、パープルの枕。
ああ、情けない……。
しかし今の私は、情けなさよりも職を失った事のショックで、恥も何も感じることは無かった。
(夜だし、暗いし、大晦日だしね)
人間、極度に疲れるとどうでもよくなってしまうものである。
それでもまっすぐに家に帰る気にはなれず、荷物を抱え枕をおぶったまま、私はアパートから少し離れた大きな公園にきていた。
外周が三キロという、かなり広い公園である。休日には時折散歩にきており、新しい街の中ではコンビニに次いで身近な場所だった。
自販機で缶コーヒーを買い、すっかり裸になった銀杏の木の下のベンチに座った。
背中の枕が邪魔で、浅座りになってしまうのだけれど。
コーヒーが半分ほど減ったところで、同僚から電話がきた。彼は大晦日の今日、都内のアミューズメントパークで撮影補助を(営業マンなのに)しているはずだった。
今はひと段落した休憩中なのだそうだ。私は彼から、部長に詳しく聞けなかった倒産の経緯を聞く事が出来た。
うちの会社はかなり前からやばかったらしい。そういえば去年からずいぶん辞めていく人間が多かったが、もともと入れ替わりの激しいところだったので、私は気にも止めていなかったのだ。
それにしたって前々から言ってくれればいいものを。
立て直しをかけたプロジェクトが失敗したのだそうだ。私と―彼もそうだが―違う部署の話であったので知らなかったのだが、社長の入れ込みようと落ち込みようは相当だったとか。
資金繰りに悪戦苦闘したもののどうにも首が回らなくなり、倒産の運びと相成った、のだそうだ。
「それにしてもまさか、大晦日にクビにされるなんてね〜」
―岬、お前は恵まれてんだぜ?
同僚は言った。
―まだこの話を知らない奴が大勢いる。しかも来月からは、給料の支払いが滞るらしいんだ。
「お給料が?」
―ああ。だけど今月付けで辞めれば、もちろんクビって扱いだから退職金は出ないが、ギリで給料の支払いはされるんだ。だからお前、大晦日の今日にクビになったんだぜ。
「そう……なの?」
私は嫌がらせなのだと疑っていなかったのだが……
―鉄仮面の最大の感謝の印ってとこだろうな。お前、よく働いたから。
「そうなんだ……」
あの部長が私にそんな気遣いをしてくれたなんて。
にわかには信じられない話だったが、今、暗い公園で缶コーヒーを惨めに飲んでいる自分がここにいる。
―とにかくお疲れ様だったな。クビになっちまったが、当面暮らしていける金はあるんだろ?
「否応無しに貯金させられていたからね」
忙しくて使う暇が無かったのだ。
「でも、こんな事なら引越ししなきゃ良かったよ」
私が溜め息交じりにそう言うと、同僚は電話の奥で低く笑った。
―確かにそうだな。でもお前、逆に考えるならこれ以上ないくらい、新たなスタートが切れるじゃねぇか。
「新たなスタート?」
―あと少しで年が変わる。家も仕事も変わって、スッキリするだろ?
お気楽な事を言ってくれるじゃないか。
悪態をつこうとしたとこで、私ははっと気がついた。
「先輩はこれからどうするの? 給料の支払いが滞るのに、大丈夫なの? やっていける?」
私の心配をよそに、彼は今度は大きな声で笑った。それから怖いほど真剣な声で言った。
―俺は春まで……倒産するまでこの会社にいるよ。
「でも……」
―決めたんだ。俺にも今月まででって話は来たんだが断った。俺は、この会社の崩壊を見届けたい。
見届ける義務がある、と言っているように聞こえて、私はしばし黙した。
彼は長い間あの会社で働いてきていたから、私には計り知れない、たくさんの思いや未練があるのだろう。
―俺は大丈夫だ。心配するな。
「……誰も先輩の心配なんてしてないよ」
私は鼻をずずっと鳴らしてから、
「先輩の可愛い彼女が大変そうだなって、考えたのよ」
―言うじゃねぇか。
彼は再び大きな声で笑った。
―とにかくお前は、今まで働き詰めだったんだ。いい機会だから、少し休んでいろよ。
「休む?」
―年明け早々に仕事を捜し歩くのも無粋ってなもんだろ。じっとしてるのが性に合わないのは分かるが、松の内ぐらい、ごろごろするんだな。
「……言われなくてもそのつもりよ」
―時間だ。じゃあな。また飲みにいこうぜ、岬。
「先輩も、元気で」
通話を終えた私は、コーヒーを一気に飲み干して盛大なため息をついた。
今の同僚との会話の中で、気付いた事があったのだ。
一つは、いじけた私が鉄仮面にちゃんと挨拶をしていなかったという事。
二つ目は、彼には前もって退社の話がきていたという事。
やはり私は、会社にとって“それだけ”の存在だったという事なのだろうか。
信頼されず、最後の最後まで隠し通され、今日でいらないと断ち切られ……
私の場合、仕事の引継ぎに関して問題はない。どんなトラブルがあっても大丈夫なように、私は仕事別にファイルを作っていた。
お得意先の名刺から仕事の進行状況まで、全てをファイリングして保管していたのだ。私以外の人間が見ても、内容が分かり進められるようになっている。
なので私が今日、誰にも仕事の引継ぎをせずにあっさり退社してきたのには、こういう理由があった。
鉄仮面……部長も、私のファイルについては知っている。
だからといって、大晦日の今日、通達しなくてもいいじゃないか?
たとえクビが免れなかったとしても、一月……ううん、一週間。三日でも前に言ってくれればよかったのに。
「ちくしょう」
私はまた悪態をついた。大晦日の公園に人はいない。時折見かける、ウォーキングに精を出すおばちゃん軍団も、今日ばかりは姿が見えない。
ああ、あの会社で頑張ってきた三年間は、一体なんだったんだろう……
なんだか再びむかむかとした感情が膨れ上がってきて、今度は「ちっくしょ〜〜う!!」と腹の底から大きな声を出した。
「あらあら。美人さんなのに、なんて口の悪い事」
その声は近くから―というか、私のすぐ左隣から聞こえた。
「大晦日に、最後のストレス発散ていうところかしら?」
「…………っ!」
驚いた私は、飛び退るようにベンチから立ち上がって左を見た。
そこには、五十に手が届くか届かぬか、という年齢のおばさんが座っていた。
「こんばんは」
おばさんは私と目が合うと、うふふと笑いながら挨拶をしてきた。
ちょっと、かなり、怖いんだけど……
それでも私は、精一杯自制心を保ちながらも震えた声で「こんばんは」と返した。
「なんて綺麗な空なんでしょう」
わたしの挨拶に頷いてから、おばさんは空を見上げて言った。
―綺麗な空?
確か今日は、一日ずっと曇りだったはず……
しかしおばさんはにこにこと夜空を眺めている。
私はいぶかしみながら同じように空を見上げた。
空は―

曇っていた。

やっぱりね。私は今だ空を見続けるおばさんに視線を戻した。
オレンジの街灯に染まってはいたが、ふくよかな体系を包むのは真白なコート。
首にはあたたかそうな毛糸のマフラー。多分これは赤色。
ロングスカートの膝の上にのる手には手袋をし、足元はショートブーツなのだろう。
全体的にセンスのある、上品な格好をしていた。
ただ、顔を飾る眼鏡は丸かった。
(イマドキ、丸眼鏡……)
くるくるとパーマをかけた髪に丸い顔。そして丸眼鏡という組み合わせがなんだかほほえましく感じ、警戒心剥き出しだった私の表情が和らいだ。
「まぁ、お座りなさい」
そんな私に気付いたのか、おばさんもにっこりと笑って私に手招きをした。
私は素直にそれに従い、おばさんの隣に腰をおろした。
「大晦日に『ちくしょう』だなんて、なんて物騒なんでしょうねぇ」
「い、いや、それはその……」
笑顔のままそう言われて、私は引き腰のまま言葉にならぬ声を発した。
物騒だなんていわれても、こればかりは仕方ないだろう。大晦日に無職になってしまったのだから。
「あと少しで新しい年が来るのよ? そんな気持ちでいたら、一年のスタートが台無しになってしまうわ」
そうだろうか。
私にはそうは思えなかった。
「新しいって言っても、所詮はいつもと同じ朝がくるだけじゃないですか」
ついそんな事を言ってしまい、初対面の人にいきなり棘のある事を言ってしまったと瞬時に後悔した。
私は自分の性格のきつさをよく知っている。何気ない言葉でも、相手を不快にしてしまう事が多々あった。
言った時は気付かないが、あとあとになって思い出し、なんて馬鹿な事をしてしまったのだろうと悔やむのがいつものパターンだ。
友人はこんな私の性格を知って、言い過ぎた時はその場で糾してくれる。お陰で随分ましになったものの、時折は、今のように失敗してしまうのだ。
しかし、
「うふふふふ」
おばさんは少女のように笑っただけだった。
やっぱ、ちょっと怖いかも。
もしかしたら認知症の人なのか? 夜の徘徊って、多いらしいし……
いや。大晦日の今日なら、電波系の人なのかもしれない。
なにかっていうとイベント時に多くなる電波人。
神の声が聞こえるだの宇宙からの電波を受信しただの、自分の脳内設定で世間を量ろうとする輩がなぜか増える。
しかも悪意が無い分、扱いに困る。
こういう手合いは相手をせずに早々に立ち去るべきだろう。
ああ、でも、認知症の方だったら、寒空の下に放ってはおけないし……
誰か人を呼んできた方がいいのではないかと、結局私ってお人よしなんだなぁ、と呆れていると、おばさんは丸い目を輝かせながらこう言った。
「あなたに、幸せになる呪文を教えてあげましょう」
あぁ、電波人さんだったか。
「幸せになれるとっておきの言葉よ。大晦日に『ちくしょう』と呟いているあなたには、ぜひとも唱えて欲しい呪文だわ」
おばさんの、なんて瞳が輝いている事だろう?
逃げ出したい衝動にかられていたが、足元やベンチの上に置いた荷物を持ち直している間に捕まりそうだった。
足、速そうだな……。
逃げ出す算段を考えている私に、おばさんは相手がそんな事を考えていると気付くわけも無く、とうとうと語りだしていた。
「15年前になるかしら。私は主人とイタリアの南部を旅行していたの。二人とも旅行が好きで、お金を溜めてはしょっちゅう海外旅行に行っていたわ」
なんとも豪勢な出だしだな。
私は本日二度目の諦め気分で、そわそわした腰を落ち着けた。
どうにでもなれ、な心境だった。
「どちらかといえば世界遺産だの遺跡だのといったものより、土地に密着した人々の生活を垣間見れる旅が好きだったから、その時も目的は無く、ただ車を走らせていたの。
運転は主人と交代で、道無き道をとにかく走り回ったわ」
その時を思い出しているのだろう、おばさんは楽しそうに笑った。
「そんな事をしていたものだから、やっぱり最後には地図に頼るのね。でも闇雲に走り回ったから、自分たちがどこにいるのかも見当がつかない。
車をとめて困ったなぁ、と周りを良く見渡してみたら、小さな標識を見つけたの。
木々の間に隠れて、見落とすのが当たり前のような、小さくて古い看板。それには地図にも載っていないような村の名前が書いてあった。
私と主人は、とにかくその村に向かったわ。ゴーストタウンではないことを祈りながらね」
悪路を走り、何度も脱輪しそうになりながら、二人は谷にすっぽりとはまるように存在する町にたどり着いた。
「全員で200人もいないような、小さな小さな村だったわ。学校も教会もお役所もみんな小さいの。
えてしてああいう村というのは他所から来た人に警戒心が強いものだけれど、その村は違ったわ」
―道に迷った?
―よくあの道をこんな車で通ったな!
―疲れたでしょう。ほら、ホットジンジャーをお飲み。
―パイを焼いていたのよ。食べるでしょう?
―宿に泊まるより、うちへ来なよ!
―うちでもいいぞ!フラムの家は小さいから体が痛くなるぞ!!
―お前のところに泊まったら、奥方のイビキで客人があの世にいっちまわぁ!
「本当に、こっちが心配になるくらい、いい人ばかり。その夜は村をあげての大宴会よ。日本人観光客というのが珍しかったみたい」
人々は村の中心に集まって、盛大に二人を歓迎した。女達は今夜の夕飯を、男達は自家製の果実酒を、子供達は隠しておいたお菓子を持ち寄って。
贅沢なものは無かったが、心をつくした、それは最高のもてなしだった。
「お返しに、私たちは村人を前に歌ったわ。主人がバイオリンを弾いて、私がそれにあわせて歌ったの」
「バイオリン?」
私はそこではじめて、おばさんの話に声を挟んだ。
「ええ。私と主人は、音楽学校で出会ったのよ」
おばさんの頬がほんのりと赤く染まった気がした。
「有名ではなかったけれど、半年に一度は二人でリサイタルを開いていたわ。自分たちで曲も作っていた。だから、その村の歓迎に私たちは、音楽でそれを返したの」
感謝の気持ちをたくさんこめて、愛の歌を、何曲も。
異国の言葉の全てを伝える事は出来ないけれど、二人の気持ちは村人達にしっかりと届いた。
曲が終わると、全員が立ち上がって二人を囲んだ。
幸福な瞬間だった。
「その時だったわ。あの、とても不思議な言葉を聞いたのは」
「不思議な言葉?」
おばさんは私を優しく見つめながら言った。
「ファジーノ……」
え?
「ファジーノ・ファジャード・ファジーィタ・ファジャァンド・ファジァーナ」
「ふぁ?ファジャ……?」
いきなり飛び出してきた異国の言葉に戸惑っていると、おばさんはまた「うふふ」と笑った。
「村人達は口々にそんな事を言っていたわ。私と主人を囲んで、みんなみんな、そう言い合っていた」
―ファジーノ!
―ファジーノ!!
―ファジャード・ファジーィタ!
―ファジァーナ!!
二人も、いきなり何が始まったのだろうかと困惑していたが、どうやら感謝の言葉を述べているらしい。
戸惑う二人に、村人達は笑いながら説明してくれた。
―この村にだけ伝わる言葉なんだ。
―嬉しい時、楽しい時、誰かに感謝を捧げたい時、神に祈る時。
―私たちはこの言葉を言う。
―俺たちはこの呪文を唱える。
―ありがとう。
―神よ、先祖よ、精霊よ。
―ありがとう。
―おめでとう。
―ありがとう。
そういう気持ちを全部こめて、言葉を口にするのだ。
正しい発音なんてない。正しい使い方なんてない。
それは言葉を口にするだけ。好きなように使うだけ。
―ファジーノ!
―ファジャード!!
朝起きた時。一日を始められる事に感謝を捧げる。
―おはよう、ファジーノ。
ご飯が食べられる幸福に。
―いただきます、ファジァーナ。
仕事が出来る幸福に。
―お疲れさま、ファジャード。
学ぶ事が出来る幸福。愛すべきものがいる幸福。無事に一日を終える事が出来た幸福に。
―今日もありがとう、ファジーノ!
すべてのものに感謝をこめて、村人達は言葉を口にするのだ。
―ファジーノ!
―ファジャード!!
「今日は昨日の続きで、明日は今日の続き……」
おばさんの言葉に、私ははっと背筋を伸ばした。
「日が沈んで夜が来て、太陽が昇って朝が来る。否応無くやってくる、何気ない毎日の中だからこそ、私たちは感謝を忘れてはいけないの。
どんなに悲しくて苦しくても、私たちは一人では生きていけないのだから。
悲しい事や悔しい事は、口に吐いて捨ててもいいわ。溜め込むのは苦しみを増やすだけ。
でも、そうしたら今度は、それ以上に感謝の言葉を述べなさい。
何に対してでもいいわ。家族でも友人でも、食べ物や木や花やこうして座るベンチでも。なんでもいいの。そうして一日をしっかりと生きなさい。
『毎日』は連綿と続く『瞬間』で造られていく。でもね、反対に言えば、毎日は小さな『瞬間』で区切る事が出来るのよ。決して、同じ毎日などはありはしない」
毎日は、同じじゃない……
昨日の私と今日の私は違う?
そう、確かに違う。
昨日は仕事があった。今日は無職になった。だから、
「毎日、生まれ変わる……」
私が漏らした呟きに、おばさんはちゃんとそれを聞き取って頷いた。
「そうよ。生まれ変わるの。でもね、人間はそんな事を考えて毎日を生きてはいられないもの。
だから、一日、三百六十五日と区切っているんだわ。
一年という時間なら、新しいスタートとして切り替えやすいでしょう?」
―ファジーノ!
―ファジャード!!
幸福を感謝する。
一日を感謝する。
節目に声に出して、確認する。
何気ない事。でも、大切な事。
「さあ、あと5分で年が明けるわ」
「え!」
おばさんに言われて、私はぱくりと携帯電話を開いた。11時55分。確かにあと5分で日付が変わり、新たな年を迎える。
「この公園では毎年、日付が変わると同時にお祭りがはじまるのよ」
「祭り?」
「中央広場で屋台も出るわ」
おばさんは立ち上がりながら続けた。
「すっかり冷えてしまったわね。さあ、広場へ行きましょう」
「え、あの……!」
「そうそう、屋台には商店街のカフェも出ているから、コーヒーを奢らせてね」
歩き出してしまったおばさんに、私は慌てて荷物を抱えて追いついた。
「その店のコーヒーは本当に美味しいのよ。うふふ。オススメはスマトラマンデリンね」
さすがはおばさん。かなりゴーイングマイウェイだ。
(広場に行くのも、コーヒーも、私は何も言っていないのに……)
それでも私は、もう断る事は考えていなかった。
少し歩くとすぐに、音楽と笑い声と歓声が聞こえてきた。
おばさんの話を聞いている時は全く聞こえてこなかったのに、不思議な事である。
徐々に灯りが増えてきた道を並んで歩きながら、おばさんはまた少女のように「うふふ」と笑って、
「長い話に付き合ってくれてありがとう」
と言った。
私は何と言って返したらいいか迷って、
「ファジーノ」
と少し照れながら言った。
おばさんの顔に満面の笑みが広がった。
「あなたがこの町を、たくさん好きになってくれたら嬉しいわ」
「え?」
そういえばおばさんは、広場で祭りがあることを説明していたっけ。
私が今秋に引っ越してきたばかりだと、どうして知っていたのだろう?
「さっきの話の続きだけれど」
広場の入り口に出て、おばさんは歩きながら背の高い私を見上げた。
「主人は5年前に癌で亡くなったの。それから私は一人で旅をしてきたけれど、それも去年で終わりにしたわ。
一人はやっぱり、寂しいものね」
広場の中央にはやぐらが組まれ、やたら上手いバンドが心地良いリズムを奏でていた。
その音に負けず、おばさんの声は私に届いた。
「今まで各地を点綴としてきたけど、私はこの町で生きていくことにしたの。
外せないコンサートがあって秋までヨーロッパにいたけど、これからは姪に手伝ってもらって、新しい仕事も始めるのよ」
「新しい仕事?」
「そう」
おばさんは私の正面に来た。
「挨拶が遅れてしまってごめんなさい。ようこそ、『ファジーノ・ハウス』へ。歓迎するわ、岬蝶子さん」
「あ……!」
広場の中央から、一際大きな歓声が舞い上がった。
ぱんぱんっと火薬の鳴る音もした。
日付が変わったのだ。
そして私は、間抜けな顔になった。
―あけましておめでとう!
―おめでとう、新しい年!
―おめでとう!
―今年もよろしく!
―よろしく!!
口々に言祝ぎあう人々の中で、私はしばしぽかんと口を開けてから、盛大に笑い出していた。
おばさんに言われるまで気付かなかった。
引っ越した私の新しいアパート。
ファジーノ・ハウス。
不動産屋に聞いた管理人の話。
『オペラやってるおばさんだよ。美人だけどおかしな丸眼鏡をかけた、この町じゃ有名な人だ。
ちょっと変わり者だけど、お客さんと気が合うかもな』
そうか。そうだったのか。
ひとしきり笑ってから、私を見上げ続けていたおばさんをぎゅっと抱きしめた。
「あらあらあらあら」
おばさんはそう言って、私を抱きしめ返してくれた。
とてもあたたかかった。
「ファジーノ!」
私は抱きしめる力をこめて、精一杯の感謝を込めてその呪文を唱えた。
新しい年。無職で、何も先の見えないスタート。
だけど私は、これ以上ないくらい、幸せだった。

ファジーノ!ファジャーノ!!

おばさんを胸に抱き、見上げた空はいつの間にか晴れていた。

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創刊日:2003-12-25  
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