文学

雲上マガジン

総合創作団体・雲上回廊が送るメール文芸マガジン。

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雲上マガジン vol_209

2009/04/16

……………………………………… も く じ …………………………………………

 【1】 前書
 【2】 読み切り小説「水族館」
 【3】 連載小説「10.19 -October Nineteen-」    第四回
 【4】 連載小説「私と彼女と、それと首」      第九回
 【5】 編集後記

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◆ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆
 【1】 前書
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 こんばんは、はるかです。
 今回はのトップバッターは久々の投稿作! 才式羊宣さんの「水族館」です。
 姫椿ひめ子さん・佐多椋さんによる連載小説も掲載いたしますよ。
 どうぞごゆっくりお楽しみください。

◆ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆
 【2】 水族館
                                    著/才式羊宣
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 扉を開けばそこは水族館。
 魚たちのほの暗い視線、静けさの中に響く、きみの笑い声。

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 あなたと水族館にいった。
 町の広場の真ん中にある水族館の錆びついた扉を叩くと、扉は音もなく開いた。がらん
どうのように広いスペース。打ちっ放しのコンクリート。高い天井は、はるか頭上にある。
窓もなく灯りもない。でも、壁全体が、ほのかに光っていているように見えた。よく見る
と壁が光っているわけではなかった。水槽が壁一面に埋め込まれており、それがほのかに
光っているのだった。
 見回してみると、床にも箱形の3メートル四方くらいの大きな水槽が、いくつも無造作
におかれていた。中には光っているものもある。
 壁の水槽と床に置かれた水槽の光。それらが融合して部屋の中は、不思議な光に満ちて
いた。
 あなたは、最初に白くて細長い魚を見つけた。それは布みたいに薄っぺらで、ただひら
ひらしているだけだった。
「きっと生きていないんだわ」
 あなたは残念そうに言った。
 部屋の右端の床におかれた水槽には、緑色の丸いものがいくつもいた。浮かびもせず、
沈みもせず、水中を浮遊している。進むでもなく、止まるでもなく、ただゆらゆらとして
いた。
「これはあたしの友達だわ。だって目が変だもの」
 あなたはそう言って、緑の丸いもののひとつをさした。緑色の真ん中に、目のようなも
のがついていた。落ち着きなく黒目が左右に動いている。
「でも、なにも見えていないの。だって、昨日あたしが目をつぶしたんだもの」
 あなたはそう言うと、身振りで手振りで、目をつついた話をしてくれた。そして楽しそ
うに笑った。
 僕は、そんな話は聞きたくなかったので、耳をふさいで奥の方の壁の水槽を見た。1メ
ートルくらいの人形のようなものが、水槽の底にしずんでいた。しわだらけで、くすんだ
茶色の醜いもの。
「それはあんたの妹よ」
 あなたはそう言うと、妹の骨と血を抜いて、乾かした話をはじめた。グロテスクなくら
いとてもくわしく話した。
「人間って、ほんとうはすごい小さくて軽いものなの。みんな、無駄な骨とか血を抜いち
ゃえばいいのに」
 僕はなんだか、気持ちが落ち込んできたので、その場を離れて明るい光のある水槽を見
た。
 床に置かれたその水槽は、まぶしいくらいに光っていた。まぶしくて中がよく見えない。
「おまえはなにもしなかった」
 水槽の中から、大きな黒い魚があらわれて僕を責めたてた。
「やるべきことをやらなかった」
 黒い魚は普通の魚の形をしていた。目はまっくろだ。黒目しかない。身体と目の境目が
わからないくらいだ。
「また逃げるつもりか。いい気なもんだな」
 僕が水槽を離れようとすると、魚が甲高い声で叫んだ。
「あら、こいつはあたしの友達だわ」
 あなたは、そう言うと黒い魚と話しはじめた。ふたりで誰かの悪口を言っているみたい
だ。ときどき、大きな声で笑っている。
 僕は、自分が笑われているような気がして、だんだん耐えられなくなってきた。
 あなたを残して水族館から出ようとすると、突然うしろから銛のようなもので刺された。
僕の背中を貫通して、胸から銛の先端が飛び出していた。声がでない。
「銛をさしたまま水槽にいれるんだ。そうしないと、また逃げちゃうからね」
 あなたは、そう言うと軽々と僕の身体を持ち上げて、水槽のひとつに放り込んだ。僕の
身体を貫いた銛が水槽の底に刺さって、身動きできなくなった。
「そこで好きなだけ、ひとりごとを言うといいさ」
 あなたはそういって水槽に汚い字で「いい気になってるひとりよがりの自分大好き人間、
または純粋な魂」と書いた。さらに僕の悪口をいろいろ書いて、楽しそうに笑った。

 やがて、たくさんの人が水族館にやってきて僕を見た。
 みんなは白い目で僕を見た。
 ある日、ひとりの子供が僕を正面から見て、カッコいいと言った。すると、一緒にいた
母親が、子供を抱きかかえて僕の水槽から離れた。
「見ちゃいけません。見ると病気がうつるのよ」
 母親がそう言うと、子供は不思議そうな顔をした。
「なんの病気なの」
 子供がたずねた。母親は声をひそめて子供にささやいた。
「あれが詩人よ。ああなってしまうと、もう人間には戻れないの」
「ずっと死なないの?」
「ええ、誰よりも長生きして、誰よりも苦しい思いをしなければならないの」
「かわいそうだね」
 子供はそういって、またたきをした。
 僕は、母親と子供が少しかわいそうになった。子供は感染した。

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 この作品に対するご意見・ご感想は編集部まで:info@kairou.com

◆ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆
 【3】 10.19 -October Nineteen-        第四回
                             著/姫椿ひめ子
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 ロリコンの「ぼく」はある日美しい幼女に恋をした。彼女は「ぼく」を支配し、「ぼく」
は彼女に服従する。それが二人の約束。けれどもある日、彼女の態度に変化が生じて……。
 姫椿ひめ子が贈る、エロティック・ロリータ・ストーリー。

 …………………………………… 4.Rainy Blue …………………………………………

 ぎこちない空気が流れる中、楓が「服、着替えてくる」と言って去っていった。
 僕は一人取り残された。逡巡の後、とりあえずシャワーを浴びようと思った。体が汗と
体液でべとべとだった。
 浴室に入ってシャワーを浴びる。頭から熱い湯をかぶると、思考がさえるような気がし
てくる。でも考えはなかなかまとまらない。
 楓に振り回されてばかりだ。元々の発端は僕が楓の入浴をのぞこうとしたからいけない
のだけれども。
 ――違った。下着でマスかいてたんじゃないか。楓の下着を鼻に押しつけて、匂いをか
ぎながら己をしごいていた。
 現場を押さえられた僕は、贖罪として楓の言うことを有無を言わさず全部聞くことにな
ったのだった。おもちゃにされても当然だ。
 浴室を出て体を拭き、服を着替えた。
 廊下に出ると、楓が居た。
 チェックのブラウスとフリルのついたホットパンツを着ていた。裸足だった。
「話がしたいの」
 それだけ言ってきびすを返し、てくてくと階段を上がってゆく。僕も後に続く。キズひ
とつ無い白く長い足が視界に入る。視線をおろしてゆくと、形の良い指先が目にとまった。
どうしてこんなに華奢な作りをしているのか、時々疑問に思うときが思う。
 不埒な考えが頭をよぎってる間に、楓の部屋の前だった。
 一瞬躊躇したが、難なく楓は僕を迎え入れた。
 実は楓の部屋に入るのはこれが初めてだった。
 楓が家にきてから、中を一度も見たことがない。
 もちろん楓以外の女の子の部屋というものも僕は知らない。
 ブラウンとベージュの部屋。
 想像の中の女の子はもっとカラフルでガーリィな内装だったと思うが、意外に色味が落
ち着いた感じの部屋だった。
 でもベッドがオレンジとワインレッドのストライプだったり、枕元にテディベア(前に
誕生日にあげたものだ)が置いてあったりするのは女の子かな、とか思った。
「座って」
 言われて、僕は絨毯の敷かれた床に座る。
 で、その正面に正座する楓。
 自然と相対する形になった。
 ……え、なんで正座?
 ていうか何で対面<トイメン>なの?
 僕は考える。
 これはそう、あれだ、エロ本が見つかってお母さんに怒られるの図だ。
 僕の予感は大抵的中する。
 楓がもったいぶって背後から取り出したのは三葉の写真だった。
 見覚えのある写真だった。どれも、同じ女性が写っている。笑っていたり、すまし顔だ
ったり、公園だったりどこかの店だったり海辺だったり。
「この写真、なんなの?」
「ぼくの持ち物」
「そんなのわかってる」
 そうだろう、わかっているだろう。偶然手に入るモノではない。故意でなくては無理だ。
たとえば、僕の引き出しの中から取るとかしなければ。
「そんなのわかってる。この写真に写ってるのは、誰なのかってことなの」
 楓の語気がすこしだけ荒かった。気が立っているようだった。
「ねぇ、どこの誰?」
「学校の、友達」
「ただの友達?」
「うんまぁ」
「嘘だ」
「ど、どうして?」
「『ただの』友達なわけ、ない」
「ど、どうしてさ」
「『ただの友達』の写真をご大層に机の中に持ってるわけ無いじゃない」
 口調がとてもとげとげしい。
 非難されている。写真を持っていたことを。
「私に、なにも言って無いじゃない」
 非難されている。楓がまったくあずかり知らなかったことを。
 むしろそちらが、大きいような気がした。気のせいだろうか。
「本当の事言ってよ」
「え、いや……駄目だよ」
「なに、駄目って。言ってったら言って」
「や、その……」
 口ごもっていると、おもむろに写真を破り捨てる。
「あっ」
 制止も間に合わないくらい俊敏に、まっぷたつに、八つ裂きに、ちぎってちぎって百二
十八分割まではいかずとも、原型がわからぬくらい細切れにされてしまう。修復が不可能
なのは傍目にも明らかだ。 
 立ち上がり、忌むべきモノをたたきつけるようにゴミ箱に投げこんだ。
「どうせ、どうせ片思いとかなんでしょ、わかってるんだから、そんなの。ヒロカズに彼
女とか作れるわけないもの。だ、だいたい、こんな写真とか持ってたりして、バっカみた
い。そんなんだから童貞なんだよ、ヒロカズは。むしろキモいんですけど。超キモい。マ
ジダッサい」
 カチンときた。
「いや、彼女だよ」
「え?」
 僕は楓を遮って言う。楓の表情が、驚きに変わる。
「付き合ってるんだ、その子と」
「ば、バッカじゃないの? そんな嘘、信じると思う?」
「本当だって。結構仲良いんだよね。メール見る?」
「嘘! そんなメールなかったもの!」
「あるってば。見せようか?」
「う、嘘だ。だって――だって、そんなこと今まで一度も――」
「言ってなかったからね」
「な、なんで言ってくれなかったの?」
 みるみる顔が紅潮してゆき狼狽する楓。僕は答える。
「言う必要が無かったからね」
「だって――だって、私の言うこと聞くって言ったじゃない!」
「それとこれとは別じゃないかな。少なくとも、彼女が居るかとかどうか聞かれたことは
なかったと思うけど」
「う、うるさいうるさい! 口答えしないで!」
「いや、言わせて貰うよ。だいたいその写真は僕の引き出しに入ってたものだろう? い
つ盗んだ?」
「盗――違う! これは――」
「少なくとも手が届く範囲に置いたことはないよ、僕は。勝手に部屋に入って物色して、
おまけにその写真を破くなんて」
「あっ」楓がしまった、という顔をする。「違――これは、その……じゃなくて、写真は
本当に――引き出しじゃなくてベッドの近くに――!」
「嘘までつくのか。――良いタイミングだ。悪いけど、今までみたいなのは今日で終わり
にしよう。全部終わりだ。僕ももういい加減うんざりしてたところなんだ、いくらなんで
も」
「なっ――! そんなこと――そんなこと許さない! 絶対許さない! 駄目! 絶対駄
目!」
「そんなのどうでもいいよ。僕が勝手にやめるだけだ」
 僕は立ち上がり、楓に背を向けて扉へ向かう。
「あっ、だ、駄目なんだから! 駄目ったら駄目! ――そうだ、お風呂のぞいた事お義
母さんに言いつける! それでもいいの?」
 ノブにかけた手が止まる。
「そ、そう。言いつけてやる、言いつけてやるんだから。それがいやなら――」
「いいよ、別に」
 僕は振り返らずに言う。
「え……」
 消え入るような、楓の声。
「母さんに言いたいなら言えばいい。その代わり、僕も楓にちぎられた写真のことを言お
う」
「あ……」
「今からちょっと出かけてくる。今日は外で夕食を取るから、母さんにいらないって言っ
ておいて。そのまま、どっか友達のところ泊まってくる」
 楓は答えない。
 ノブをたおして扉をくぐる。
「それじゃあね」
 パタン、と軽い音がして、扉が閉まる。
 僕は振り返らない。
 階段を下りて、廊下を折れて、玄関。
 僕は靴を履いて、ジャケットを羽織って外へ出る。
 雨が降っていた。さっきまで降っていなかったのに。
 僕は傘を差す。
 門扉の外で、僕は道を選ぶ。右と左。
 右を見る。さっき、楓と一緒に帰ってきた道。
 振り返り、僕は左の道を進むことにした。
 秋の雨は冷たかった。ジャケットのポケットに空いてる手を突っ込んだ。
 首をすくめて、僕は家を後にした。 

 …………………………………………… 続く ……………………………………………

 次回は第212号(5月15日発行)に掲載されます。
 このコーナーに対するご意見・ご感想は編集部まで:info@kairou.com

◆ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆
 【4】 私と彼女と、それと首             第九回
                                    著/佐多椋
 ──────────────────────────────────────

依存症(2)・・・-----------------------------------------------------------------

 急に笑い出したくなった。抑えきれず、かすれたような声が唇の隙間から漏れる。膝が
ふるえる。我慢できなくなり、崩れ落ちるようにしゃがんでいた。私はほんとうに、すべ
てを了解したのだ。考えてみればいくらなんでも、冷凍庫のなかだなんて、最初から、そ
うはじめからふざけた話だった。かんたんな話だ、私はこの瞬間を待ち望んでいたのだ。
かがんだ身体に充ちる、この奇妙な達成感のようなものがその証明だ。しかしなんのため
に? たとえば私は、自分が殺人者であることを示して、楓より上位に立ちたかったのだ
ろうか? まさか。あるいは、ただたんに首を見せ付けたかっただけだったのだろうか。
楓を、自分が迷い込んだ迷路に放り込ませたかったのだろうか。あるいは、楓といっしょ
に迷路を彷徨いたかったのか。
 しばらく考えたが答えは出なかった。私はある程度落ち着くと、チェーンで妨害される
まで扉を開き、その隙間から、楓、と声を滑り込ませた。おそらく、この声は楓のもとに
届いたはずだ。何度か呼びかけを続けたが、反応はなかった。それでも待ち続けた。私の
いる場所はそこにしかないのだから。
 しばらく待っていると、小さく階段を降りる音が聞こえた。それから途絶えがちに、廊
下を歩く足音。躊躇っているのだ、楓は。殺人者となった私と対面することに。いや、そ
れは間違っている。ずっと前から、私は殺人者であり続けていた。ただ楓がそれを知った、
ただそれだけに過ぎない。
 そんなことをぼんやり考えていると、扉が開いた。チェーンの隙間の向こう側に楓の瞳
が覗いていた。
「……樹?」
 掠れた声が耳に届く。私はうなずいた。それ以外に出来ることなど何もなかった。まさ
か、違います、ひとごろしですと応えるわけにもいかない。すると扉が閉まる。あれ、間
違えたのかな、もう私は樹ではないのだろうかと思っているとすぐにチェーンが解除され
る音が響き、ふたたび扉が開いた。楓がいた。ふたまわりほども小さくなったように見え
た。夜の雪のなかにうずくまっている子猫のようだ、と季節外れな比喩を思いついた。実
際、まだ夕方というには早く、ぎらぎらした光が差し込んできているにもかかわらず、楓
の身体は吹雪のなかにいるかのようにふるえていた。
「入って」
 切羽詰った声色で楓が云う。私は何か心配するような台詞を云おうと思ったが、そうす
る間もなく楓に腕をつかまれ、玄関に引きずり込まれた。思わず転びそうになり、なんと
かバランスを取る。その際に少しおどけたような仕草をとってみたが、楓の表情がさらに
険しくなる一方だったので、機嫌を取ろうという考えは棄てた。背後で扉が閉まる音がし
た。背中に楓の荒い息遣いを感じる。時々唾液を呑み込む音がした。
「い……いつ、き、ど、どういう、こと――」
 呼気の合間に声がする。凍らせたかのように冷たい声色。私はなんだか哀しくなってい
くのを止めることができない。いま、自分のなかにあるものを後悔と呼ぶのだろうか。決
して後悔したことがないわけではないはずのなのに、今はもう、それがどんな形をしてい
たのか思い出すことができない。
「見たんなら、わかると思うけど」
「ふざけないで! いったいどういうつもり、あうあ、あんな、あんなことを……!」
 楓は私の前に回りこみ、廊下の突き当たり、キッチンのほうを指差した。冷蔵庫の前、
フローリングの床に、あの首が転がっていた。思わず、あ、と声をあげてしまう。早く戻
さなければ、腐ってしまう、爛れてしまう、すべてが台無しになってしまう……。身体が
そちらに向かいかけるが、なんとか抑える。まず優先させるべきは楓だ。首はそれからで
も遅くはない――はずだ。
「い、いつき、何、なに……?」
 首を睨みつけている私に向かって楓が、囁くように訊いた。怯えたような上目遣い。私
の服を掴んでいる手は、小刻みにふるえている。私のことを罵り、怒りを引き出したうえ
で暴力に溺れる楓の姿はそこにはなかった。場違いにも私は、彼女のことをかわいいと思
った。私が何も返答できずにいると、楓はひとつ溜息を吐いた。
「云えない、……よね」
 その台詞が引き金になったかのように、その場に崩れ落ちるようにへたり込む。私はキ
ッチンへと向かい、床に落ちている首を拾い上げて冷蔵庫に戻した。首を包んでいる氷に
ひびが入っているのではないかと心配していたが、そんなこともなく安堵した。
「樹、何してるの」
 楓のもとへ戻ると、彼女は突然そう訊いてきた。
「保存、かな」
 少し考えて、もっとも正確だと思われる答えを返した。楓は大げさな溜息を吐いて、
「樹、どこに行っちゃうの?」
 あの夜の奇行のことなどは忘れたのだろうかと私は思った。まあもっとも、起きている
ことのレベルが違いすぎると云われればそれまでなのだが。
「別に、どこにも行ってないよ」
「嘘!」
「嘘じゃないって」
「嘘じゃなかったら、何で、……あ、なんで、あ、……そっか」
 私を見つめたまま、そんなことを呟く。
「樹は、どこにも行かないんだよね?」
 手放したものをふたたび掴もうとしている楓に、私は確信を与える。
「私は、楓と、ずっと、ここにいるよ」
 楓はしばらく、私の向こう側を見ていた。が、
「あ……いやあああああああああ!!」
 突然叫び始めた。予想していなかった反応に私が戸惑う。
「しんぱい、だったんだよ、ていうか、怖、かった、あんなものが、出てきて、樹が、あ
たしの、あたしから、いなくなっちゃうんじゃないかって、いやだった、そんなの、遠く
なんて、行って欲しくなかった。樹、いつき、いつきいい、行かないで、ここにいて、行
くならあたしを連れて行って、あ、そうだ、誰だか知らないけど、あの娘みたいに殺せば
あたしも連れて行けるでしょう? い、いつき、あたしを殺すの? いいよ、それなら、
それならそれでいいから、いいいいいいいつき、あたしを、ここ殺して、首、切って、い
いよ」
 そこまで云って楓は下卑た微笑を浮かべた。整っているはずの個々のパーツが醜く歪ん
でいる。ひひひひ、と呼気があいまいに開いた唇の隙間から漏れていた。何を勘違いして
いるのだろうと私は思う。私はずっと同じ場所にいるのに、楓だけがその周縁を過剰にぐ
るぐると回っている。少しでもその動きを止めれば、とどまっている私の姿が見えるとい
うのに。
 私はどうしようか迷った。楓がひとりで壊れようとしているのはわかっていたが、それ
をはたして止めるべきなのかがわからなかった。冷静なつもりでいたが、実際はそうでな
かったのかもしれない。楓の姿を見ることで、ひとりで私も高揚していたのかもしれない。
楓を殴ろうと、唐突に思った。そんなに殺されたいのなら殺してやろうかとも思った。し
かし次の瞬間にはそうするべきではないと考え直していた。それにはまだ早いのだと。

--------------------------------------------------------------------・・・つづく

 次回は第210号(4月25日発行)に掲載されます。
 このコーナーに対するご意見・ご感想は編集部まで:info@kairou.com

◆ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆
 【5】 編集後記
 ──────────────────────────────────────

 あれよあれよと言う間に、桜も散ってしまいました。同時にようやく暖かい日が続くよ
うになって、いや、薄着で歩き回れるのは良いことですね。
 
 さて、次回は「雲上の庭園」第2回募集の最終フェーズ。
 秋山真琴・言村律広・遥彼方の三名による全投稿作寸評をお送りするはずです。がんば
ります。

 では、また!
 

*公式サイト
http://magazine.kairou.com/unjyou/
*編集部
info@kairou.com

 次回の配信は4月25日を予定しております。

   ……………………………………… 公 募 ………………………………………

 本誌『雲上』では、アイデアと感動に満ちた作品を募集しています。
 
 対象は「文章で表現されるすべての作品」です。
 著作権等の問題が無ければ、既に何らかの形で公開された作品でも構いません。
 編集部では作者との共同作業で作品をより良くするシステムを整えております。
 たくさんのご応募を、お待ちしております。

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創刊日:2003-11-08  
最終発行日:  
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