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雲上マガジン 増刊号

発行日:3/10

 ----■ □ 1000字企画「雲上の庭園」   第2回募集 投稿作品掲載 □ ■----

 01┠》 洪水の前夜
 02┠》 幻の書物
 03┠》 ある夜の東京タワー
 04┠》 忘却
 05┠》 インタビュー
 06┠》 さようなら ムーンレイカーたち、さようなら
 07┠》 悲鳴
 08┠》 鯨と漁師
 09┠》 騙し愛、殺し愛
 10┠》 蓬莱飯店
 11┠》 石の物語
 12┠》 夜の月を見ている
 13┠》 虚偽家族
 14┠》 窓
 15┠》 ツンデレコーダー
 16┠》 赤い棺
 17┠》 恋はいつも幻のように
 18┠》 巡回使の告白
 19┠》 夢子26才、好きな工具はニッパーです☆
 20┠》 手を拾う
 21┠》 時
 22┠》 言城ノ虜

     ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆■
   ◇◆
 ◇◆◆  01┠》 洪水の前夜

   新聞か何かで読んだ話である。ある時、夫が失踪して、二十年ほ
  ど経ってから不意に舞い戻ってきたという事件があった。夫は二十
  年の間、妻のいる家とほんのひとつ通りを隔てた町に住んでいたの
  だという。夫が失踪しなければならないような理由はなかった。
  
   道の途中で名前を呼ばれた。振り返ると、こんなところにいたん
  ですか、と手を引かれて、通りから路地に導かれる。長い髪の女で、
  解けた髪が踊る背を見ながら従いていくと噎せるような甘いにおい
  に包まれて、蹌踉ける足どりになった。路地と路地が行き交い折り
  重なって古い建物が建て込んだ界隈のどん詰まりの奥にあるアパー
  トの二階の隅の部屋だった。急に日が落ちたように暗くなった。戸
  を開けると板の間の中央に湯船があって、女はまず男に湯を勧めた。
  湯船に浸かるとちょうどよい温度になっていて、皮膚からじんわり
  と疲れが解けていき、眠いような心地がひろがる。ほどなくして女
  に上がるよう促されされるがままに背中を流され、隈なく身体を拭
  かれると、湯気を立てる肌に真新しい浴衣の袖を通して畳の間に通
  される。六畳ほどの室の中央には卓袱台があって、食事の用意が
  すっかり整っており、女は男を席に着かせ、いましがた炊きあがっ
  たばかりと思しい白飯を茶碗に装って手前に置く。膳にはたくあん
  と塩鮭とだし巻が所定の位置に並び、男は箸を取って黙々とだが旺
  盛に食べた。女がビールの栓を抜き、コップを持たせ酌をする。キ
  リキリに冷えたビールを喉奥に流し込むと意識が急に冴えて、君も、
  と瓶を取って女にも勧めた。女ははんなりと笑んで、小首を傾げ
  コップを差し出す。この女には会ったことがない、今夜はじめて
  会った女だと思い、頤をあげて飲み干す白い喉を見ながら、これか
  ら膳を片付けて蒲団を敷きこの女を抱くのだなと思っている。砂を
  撒くような音が屋根に壁に響き、意識を逸らすと引き戻すように、
  雨ですよ、と女がいう。これで当分何処にも行けそうにありません
  ね、きっと洪水になるわ、と歌うようにいう。このままここで暮ら
  すのかと思い、男は最初に女に呼び止められた名前が自分のもので
  はなかったことに気づく。



           ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆■
         ◇◆
       ◇◆◆  02┠》 幻の書物
      
         扉を換えろと言っておいたのに、相変わらず鉄扉の表面には汚ら
        しい赤錆が浮いている。ハンカチを取り出して、やはり赤錆びたラ
        イオン型のノッカーをつかむ。ザリン、とはっきりしない音で、
        ノッカーの環が鉄扉を打つ。
        「開いてるよ」
         なかから番人が、けだるそうに答える。扉が、建物の内部に向
        かって開く。視線を落とすと、開けてくれたのは兎の顔をしたメイ
        ドだと分かった。身長1メートルに満たない小さな使用人は、また
        眉間のしわを増やしたようだ。紅一色の眼が、白い毛皮の中できら
        きらと輝いている。どんなに疲れて不機嫌でも、いつもあざやかに
        紅いので感心する。
         それにひきかえ、番人ときたら、生煮えの魚みたいな眼をしてい
        る。俺がトランクにおさめて運んでくる書物の、価値がどうであろ
        うと変わらない。少しは嘆いてみせろ、怒ってみせろ。今回持って
        きたのは、美しい英語に訳されたパーレヴィー朝の恋愛詩、もちろ
        ん最後の一冊だ。これが現世からなくなるのか、もったいないね、
        ぐらい言ってみせろ。俺が生まれるずっと前から、この館で書物に
        囲まれているんだろう。
        「ドアなら、お前さんに言われてすぐ換えてやったよ。本の瘴気で
        錆びちまうのさ」
         持ってきた詩集を、番人に渡す。番人は慣れた手つきでページを
        めくる。
        「どれどれ……『生と死の別名たる久遠の花嫁、それよりもなお、
        君はわが身とともにあり』、か。まあ、なくなってもどうってこた
        ないさ」
         黙って睨みつける俺にむかって、番人は眉をハの字にして笑う。
        「平均して、一日に百十三冊の本が現世から消えている。この館に
        それを持ってくる下級天使は、お前さんだけじゃない。現世から書
        物が消える、少しも大した事じゃないんだ。納得できないのは、お
        前さんと……ここに眠る、もう現世にはない書物、だな」
         番人の座ったソファの後ろに、天井まで届く書架がならぶ。羊皮
        紙に書かれた、自然崇拝の教典。戦後の東京で売られたカストリ雑
        誌。革命前のモスクワで一冊残らず焼かれた本。その他もろもろ。
        こういった書架をおさめた部屋が、館には幾千、幾万とある。俺の
        背後で、錆びた重い扉が閉まる。三日で錆びたと言うのか、書物の
        発する瘴気で。



     ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆■
   ◇◆
 ◇◆◆  03┠》 ある夜の東京タワー

   明け方、尿意を感じて目が覚めた。ベッドから這い出そうとする
  が、何かが足首を固定していて動けない。強い力ではないけれど絡
  め取られていて、もぞもぞと体をよじってみても一向に抜けられる
  気配がない。
   上半身を起こして見ると、足首の上に高さ一メートル程の東京タ
  ワーが生えていた。いや本当はよく分からなかったけど、真っ赤な
  鉄骨の塔が立っていたから東京タワーだと思った。タワーは私の足
  首に絡むように着工されていて、私の足をベッドに固定していた。
   3日程前に『東京タワー』という小説を読んだから、こんなこと
  になったのだろうか。本物の東京タワーを見たことがないから読み
  ながらあれこれ想像したのだ。その思いが実体化してしまったのか?
   混乱して私の思考は少々意味不明だった。しかしふと「布団はど
  うなっているのだろう」と現実的な不安が頭に浮かんだ。私はおそ
  るおそる手を伸ばし東京タワーの基礎部分を指先でまさぐった。
   すると驚いたことに東京タワーがぐにゃりと折れ曲がった。そう
  して勢いよく真上に飛び上がり空中で鉄骨をくねくねと折り曲げた
  かと思うと、傘の骨のように開いて布団の上に着地した。
  「やめてくれや! こそばいやろがっ」
   タワーは関西弁でまくし立てた。
  「なにこれ。東京タワーって生きてたの?」
   私が呟くとタワーは鉄骨をわしゃわしゃと脚のように動かしこち
  らへ向いた。
  「ねーちゃん、何寝ぼけとんねん、わしはセイタカアカガニっちゅ
  うもんや。鉄骨と一緒にせんといてんかぁ」
  「カニ、ですか?」
  「せや。仕事に行く途中でちょっと休んどったら、こしょこしょさ
  れたからえらいびっくりしたがな」
  「それは……、すみませんでした」
  「あ、そない謝らんでもええんや。起こしてもろて良かったわ。ほ
  な急ぐしもう行くな」
   タワーはかなりの素早さで窓に近づくと器用に窓を開け、外に
  ポーンと身を投げた。
  「どうせ間違われるんやったら通天閣が良かったわあーーー」
   落下しながら叫ぶ声がこだまのように響いて聞こえた。
   布団に触れてみたが、何故か穴は開いていなかった。ただ少し
  湿った感触がして私は忘れていた尿意を思い出した。



           ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆■
         ◇◆
       ◇◆◆  04┠》 忘却
      
         少女を終えようとしている少女が、ぽつねんと佇んでいる。うら
        びれたアパートの一室。光源は、切れかかった蛍光灯。その明滅す
        る光が、彼女の頬についた青あざを、より凄惨なものに見せている。
         彼女は、二人を結びつけ、そして二人を別れさせることになった
        部屋を見回した。
         布張りを切り裂かれ、中身の飛び出たソファーがある。そこで、
        二人はいつとも知れずじゃれあっていた。
         ひっくり返され、背面の一部を砕かれたテレビがある。その画面
        には、二人を涙させた名画が映っていた。
         壁に、直径五センチほどの抉られた跡がある。そのすぐ上には、
        フックがついていて、彼女が描いた彼の肖像画が掛けられていた。
         荒れ果てた部屋とは違い、数時間前の彼の態度は、穏やかなもの
        だった。たぶん、彼女が夜のうちに去っていくことを、予期してい
        たのだろう。
        「忘れないよ」
         そうつぶやくと彼女は、蛍光灯を消し、玄関のドアを開けて、外
        に出た。門灯の明かりがしばらく差し込んでいたが、ドアを閉める
        悲しげな金属音と共に消えた。部屋には闇が満たされた。
        
         そこで私は画像を止めた。手元には、小さな段ボール箱と、その
        中身であったCCDがある。CCDには彼の書付がセロテープで貼
        り付けられていた。書き殴ったという形容がそのまま当てはまる、
        荒々しい文面は、次のようなものだった。
        〈自分で仕掛けたカメラぐらい忘れんな。ばか。痴女〉
         ごもっともで。



     ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆■
   ◇◆
 ◇◆◆  05┠》 インタビュー

   新作のモデルはって……面と向かって訊いてきたのは、あなたが
  初めてですよ。男の記者さんが多いですから、私に会うと「おかわ
  いそうに」って顔をするのよ。こんな冴えないオバサンが若い女に
  モテるわけがない、あのキラキラしい恋愛小説は、寂しい女の妄想
  かって安心するようですよ。「こんないいことが現実に起こるわけ
  がない」って断言する人もいて、あれは思わず笑ってしまうわね。
  「ええ、そう思っている人には、奇跡は絶対起こりませんから、ど
  うぞ安心してくださいな」ってね。愛されたいって飢えた顔で物色
  してる人や、かたくなに心を閉ざしてる人に、恋人ができるわけが
  ないのに。ほんとに簡単なことなのよ——全身全霊でひとりの人を
  愛すれば、振り向いてもらえるの。難しい相手でも、時間をかけれ
  ば報われます。
   小説より現実の方が、いいことがたくさんありますよ。それこそ
  書ききれないぐらい。皆さんが妄想と思っている部分、つまり幸せ
  なエピソードは、私小説に近いのよ。いえ、モテるわけじゃありま
  せんよ。ええ、最初の人とお別れしたあとも、独り身じゃありませ
  んでしたけど、しばらくひとりの人とつきあって、また別の人とつ
  きあうのは、普通のことでしょう?
   はぐらかしてやしませんよ。熱心に読んでくださるのは嬉しいで
  すけど、フィクションのモデル探しに何の意味が? 隠された恋人、
  なんて、妙なところへさらさないでくださいね。写真を撮ったり実
  名を出されては困ります。年齢差のことは……まあ、犯罪的という
  んでしょうが、未成年ではないし、問題はないはずですよ。成人し
  た者同士が合意の上でやっていることです。ああ、電話が。ちょっ
  と失礼。——ごめんなさいね、ことりちゃん、まだ記者の人が。終
  わったら電話するわ。あとでね——ごめんなさい、なんの話だった
  かしら。あら、そんなに顔を赤くして、どうなさったの?
   あらあら、まあまあ。 
   冗談でしょう、恋人になりたいなんて。
   本気でおっしゃってるの。そうですか。
   なら、頑張ってみてくださいな。
   さっきもいったとおり、たとえ恋人がいたとしても、あなたが全
  身全霊で愛すれば、報われる日がくるかもしれませんよ、ふふ。
   じゃあ、今日はこれで。



           ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆■
         ◇◆
       ◇◆◆  06┠》 さようなら ムーンレイカーたち、さようなら
      
         もう単なる白髪低頭の老人である彼はいつかは国賓とされたこと
        もあったのだろうが、今はもう大通りに面した小切手の為改築の赦
        されない小屋に住み、追憶の日々を過ごしている。「ソ連共産主義
        の魔の手から世界がアメリカの手によって救われて」からというも
        の、コスモポリタン国家であるアメリカの他に国家は無く、現在、
        世界は核や隕石から国民を護るためにシェルターの内側に世界を
        覆ったということになったのである。すべての証拠は失われた。彼
        の記憶を除いて。彼はこの世界で月を踏みしめた最後の人間だった。
         世界から忘れられた男に絶望以外に何があろう?
         だがある日彼に幸福のノックが響いた。彼が戸を開けると、そこ
        には十ばかりの少年が手に一輪の花を捧げ持っていた。「奉仕作業
        なんです。ある年齢以上のお年寄りにはお花を」
         いつの間にか彼らは友人になってしまっていた。親睦を深め続け、
        ある日彼はその子を一つの部屋に案内した。
         部屋は全面、無数の天文学的ポートレートや古新聞のスクラップ
        で埋め尽くされていた。「あれは昔の」と彼は言った。「僕なんだ」
        ポスターの中では三角屋根の形をした小屋から地面に伸びるタラッ
        プを降りて行く希望に満ちた姿の青年が笑顔で手を振っている。僕
        は月に行った。それは事実だ。
        「ありえませんね」その少年は鼻から一息吐くと、「天・地という
        考えは特殊中世カトリックの持ち出したある種の幻想であり、その
        理念が人間という存在に展開を齎したことになっていましたがそれ
        はもはや彼方、人間存在のさらなる包括的な発展、民主主義への唯
        一、一なる全の元に回復されるのです、お分かりでしょう!」
         最後の一撃。
         彼の前にはもう誰もいなかった。薄暗い破壊された夢の残滓が散
        らばる部屋の真ん中で、いつの間にかどうやら彼は自らテレビをつ
        けたようだった。白と灰と黒の残影が壁のポートレートに淫らに散
        らばる。あらゆるメディアから遠ざかっていた彼には気づきようが
        なかった——そう、彼が生きている今、今日その日が1969年7月20日
        であり、果たしてそれがどんな意味を持ちえるかということにも。
        
         白光の地に降り立つ一人の人間を今画面は捉え続けている。



     ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆■
   ◇◆
 ◇◆◆  07┠》 悲鳴

   ある年、新入社員が入社したばかりの頃だった。社内で火災警報
  の誤報が四日連続で起こった。警報のベルの音が、少し歪んで、ま
  るでけたたましい悲鳴のようだったので、これは火災報知器が壊れ
  たのだろうということで、二日目に全てを点検。異常が見つけられ
  ず、結局四日目にすべて交換することになった。消防署も交換に来
  た技術者も、こんなおかしな壊れ方は初めてだと首を傾げていたが、
  以来、悲鳴のような警報ベルは鳴らなくなった。
   新入社員も半年すれば、大分慣れてくる。私の部署に配属された
  Kという女子社員と、昼休みに世間話をしているうちに、火災警報
  の話になった。すると、いつも快活な彼女の表情がみるみる暗くな
  る。一体、何かあったのだろうか。理由を聞いても、なかなか口を
  開こうとしない。
  「たぶん、わたしのせいなんです」
   ようやく口を開いたと思ったらそんなことを言う。さらに粘り強
  く聞いてみると、思い切ったように話し始めた。
  「小学校に入学してから、毎日のように、あの悲鳴みたいな警報ベ
  ルが通っている学校で鳴り響きました。でも、鳴らない日もあって、
  だんだん、鳴らない日に私があることをしているのに気がついたん
  です」
  「あること?」
  「悲鳴をあげることです」
   つまずいて小さく「きゃ」と悲鳴をあげた日や、消しゴムを落と
  して「あっ」と声をあげた日には、あの警報の音が鳴らなかったの
  だそうだ。以来、毎日何かしら小さな悲鳴をあげているのだという。
   その話を聞いた翌日、悲鳴をあげないように言ってみたところ、
  やはり悲鳴のような音で警報ベルが鳴り響いた。
   数年後に、彼女は寿退職した。
   彼女が会社を去ってから、四日連続で火災報知器が鳴る。あの悲
  鳴のような。やはり原因不明で、火災報知器の交換が行われること
  になった。
   まさか、会社を辞めた彼女に毎日悲鳴をあげてくれと頼むわけに
  もいかず試しに彼女の真似をして、ボールペンを机から落として
  「あっ」とやってみた。
   以来、警報の誤報が起こる事はなく、私は毎日机からボールペン
  や書類やクリップなどをわざと落としては、声を上げている。
   家に帰っても、彼女にこの話はしない。



           ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆■
         ◇◆
       ◇◆◆  08┠》 鯨と漁師
      
        「これが同じ人類とは信じ難い」と私は砂浜に打ち上げられた漂流
        物を見上げた。それはクジラのように巨大な細胞塊だった。中には
        多数の人間が入っている、複数の文明を形成できる程度の人数が
        入っているはずだ。
         霧の向こう側のような判別しがたい大昔、西暦という暦法の使用
        された時代の末期、人類は種の変容を迫られたという。どんな状況
        だったのか考古学者でない私にはわからない。わかっているのは当
        時の人類の一派が生物学的に人類を捨てたということ。自らの身体
        を神懸かり的に強力なマシンに変えて、その中で生態系を演算した。
        仮想世界を作ってその中を生活の場と定めたということだ。
         人類とその文明社会を内包した細胞塊は鯨のように世界中の海を
        対流している。砂浜などに打ち上げられたら速やかに海へ戻すのが
        望ましい。戻すための作業員を呼んだあと私は細胞塊にアクセスを
        開始する。中身と渡りをつけるのには旨みがある。
         細胞塊の中は私たちからすれば、仮想世界だ。物理世界と違う環
        境が構築されている。例えば、時間の流れが何千倍にも加速されて
        いるなど。特殊な世界では特殊な知識・技術が生み出される。それ
        らを持ち出すのが私の仕事だった。とはいえ細胞塊は協力的とはい
        えない。物理世界の存在を忘れてしまっていることすらある。さら
        にこちらとあちらの差違は物理的身体に依存する私には強烈だ。ア
        クセスすると内部の暴力的異世界情緒に私の精神はブレイクダウン
        しそうになる。対して私は価値ソフトを起動、暴れ狂う世界と自分
        のあいだにフィルターを作る。フィルターは真っ先に有害な情報を
        シャットアウト、同時に無害化を実行、1分と経たないうちに私は
        見当識の失調から回復する。
         世界が多重に見える。身体のある物理世界の視覚と細胞塊の中に
        ある複数の世界の視覚が重なっている。30分後に再起動の設定を
        して身体の感覚を切断、細胞塊の世界に没入する。夜空の星のよう
        に世界が無数に展開するけれども、目移りはしない。価値ソフトが
        意思疎通の可能性の高い世界を序列化する。私は序列の第一番から
        順にアクセスする。
        
         墜落する感覚があるけれども幻想とわかっているから動揺はしな
        い。複数の世界とすれ違いながら目的の世界へと急降下、五感に感
        じるものすべて幻想だが、世界は広いと私は思い、その瞬間、つま
        先が見知らぬ世界に触れるのを感じた。



     ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆■
   ◇◆
 ◇◆◆  09┠》 騙し愛、殺し愛

   雨に濡れる交差点をみつめ、俊夫が足をとめた。もう一年も経っ
  たんですね。事故にあったの、ここでなんでしょう?
   去年、まだ俊夫との同棲を始める前だった。私は轢き逃げされ、
  意識不明のまま病院へ運ばれた。目覚めたとき、傍らの男が誰なの
  かわからなかった。けれどそれは一時的なもので、医師が駆けつけ
  てきた頃には職場の後輩、俊夫だと思いだしていた。嘘は、それか
  ら始まった。あえて私は記憶喪失のふりを続けた。
   かつて、私は外資系の企業に勤めていた。連日の深夜業務、過度
  なストレス。私はそれに耐えたし、耐えたことを誇りに思っていた。
  間違っていたのは、それを他人にも求めたことだ。私の初めての部
  下、金井宮子はマンションの七階から身を投げた。
   誰も私を責めなかった。けれど、私が私を責めることは、誰にも
  とめられなかった。会社を辞め、新しい街で、私は他人との関わり
  を避けた一生を送るつもりだった。
   けれど、記憶喪失という言い訳は、裏目にでた。差し伸べられる
  手から逃げようとすると、俊夫は嘘をついた。自分達は恋人だった
  のだと。だからこうするのが当然なのだと。その優しさは、茨の棘
  だった。幸せにまどろもうとするたび私の胸を刺したのは、金井宮
  子の遺書にあった婚約者への言葉だった。
   雨ににじむ、信号の赤いランプをみつめる。エンジン音、白いセ
  ダン、運転席の男。
  「思いだしたんですね」俊夫が、薄く笑った。
  「僕は、宮子の婚約者でした。初めから、復讐が目的で同じ職場に
  勤めたんです。通勤経路を調べて、車で襲った。でも、あなたは助
  かった。それからは、恐怖の毎日でした。いつ記憶を取り戻し、警
  察に告げられるかわからない。僕は、宮子のためなら捕まってもい
  いと思っていた。それなのに、いざとなると恐ろしくてたまらな
  かった。あなたをもう一度殺すことさえできなかった。そうやって
  等身大の自分を思い知って、初めてわかったんです。人の生き死に
  と向きあうあなたの苦しみを、やっと理解したんです」
   どうか、僕を殺してください。それが駄目なら、僕にあなたを殺
  させてください。もう、こんな嘘だらけの生き方は嫌なんです。
   冷たい雨の中、顔を歪ませ崩れ落ちる俊夫を、私は無言でみつめ
  た。二人の間に許される嘘は、もはやなにひとつ無かった。



           ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆■
         ◇◆
       ◇◆◆  10┠》 蓬莱飯店
      
         呑み屋で意気投合した男に連れられ、僕はある店に足を運んだ。
        彼の話によるとその店は会員制で、酔狂な好事家の間でしか知られ
        ていないと云う。「蓬莱飯店」と恭しく書かれた看板はすっかりく
        すんでいる。ギシギシと気怠げに客を招く扉を開けると、狭く暗い
        店内が現れた。確かに隠れ家的な雰囲気ではある。彼に促され店の
        奥に入ると、異国情緒溢れる香辛料の匂いが、鼻腔を突き刺す。白
        亜だったと思しき卓は、淡い琥珀の層を纏いてらてらと輝いている。
        すっかり草臥れているその光景を目にして、初めて会った男の酔言
        にのこのこと付き合った己に閉口する。
         彼は厨房で仕込みをしているらしい調理師と親しげに話しながら
        席に着く。私も彼に従う。この店にはお品書きなどはなく、出され
        た品を順に食べていくそうだ。彼の話に耳を傾けていると、早速一
        品目の料理が運ばれてきた。何かの卵だろうか。鶉の卵ほどの大き
        さで鈍色に輝いている。「小悪魔の卵」だと彼は説明する。いきな
        り悪魔という突拍子もない言葉を耳にして、私は反応に困った。し
        かし、そういう趣向の店なのかもしれない。前の店で飲んだくれた
        勢いで、一口齧りついてみる。口中にまず広がるのは仄かな苦味。
        そして後を追うように、どろりとした深い甘みが官能的に舌を刺激
        する。その途端私の中に一つの映像が映し出された。狭く暗い場所
        にいる。周りは壁で囲まれていて、向こう側は暖かそうな橙に灯っ
        ている。時々何かの鳴き声が断続的に聞こえる。その度に心が満た
        される。もうすぐそこに私も加わるのだと思うと、愉悦で叫びたい
        衝動に駆られるのだ。
         気が付けば私は誰に請われるでもなく、ひとりでに語りだしてい
        た。隣で彼は満足そうに微笑を浮かべている。間髪いれずに運ばれ
        てきた品は「上海人魚の刺身」だと云う。人魚という言葉に気負っ
        たが、それでも私は箸を休めることができなかった。魚にしてはや
        けにねとつく肉だが、噛み締める度に味が滲んで姿形を変えていく。
        高層建築物が聳え立つ大都市と腐敗した海との間で紡がれていく逢
        瀬の物語を私は泣きながら語っていた。
         続々と運ばれる料理に私は無心に喰らいついた。生息帯が破壊さ
        れ新天地を求めた草花の話、自らの予言で飼い主の娘を人柱にされ
        た人面牛の話……。舌の上で綴られる物語はどれも奇妙に捩れてい
        た。だが私はすっかりそれらの料理に魅せられている。長い夜の中、
        私は物語を奏でる一つの楽器となっていた。



     ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆■
   ◇◆
 ◇◆◆  11┠》 石の物語

   たとえば闇の残る夜明け前。きみは川べりの道など歩きながら、
  足元に転がっていた黒い石をふと拾い上げてみる。手のひらに乗る
  くらいの小さな石だ。上流から散々削られながら流れてきたのだろ
  う、丸くてすべすべしている。足を止めて手の上の鉱物を凝視する
  と、いままで気が付かなかった河の流れるさざめきが聞こえてくる
  はずだ。石からは明け方の寒さと違う冷たさくらいは伝わってきた
  だろう。
   さらに。
   きみに僅かでも才能があるのなら違うなにかを感じ取れるかもし
  れない。
   そう、そのちっぽけな石でさえきみの想像を超えた長い年月を経
  て生成されたものだ。そして、いや、だからこそというべきか、す
  べての石は物語を内在している。
   はるか昔、人がまだ文字を持たぬ頃、われらの祖先はその物語を
  掘り出そうと表面に絵を描き、あるいは石に埋もれている形を浮か
  び上がらせるように石を削った。その企みの多くは圧倒的に苦い敗
  北だったのだが。
   しかしその当時から現在に至るまで石の内に在る豊潤な物語を感
  じ取れる人は僅かながらいる。彫刻家の中でも天賦の才を持った一
  握りの人々だ。もっともそんな彼らをもってしてもできることは些
  細なこと。人の、いや生命体の僅かな歴史など、圧倒的に凌駕する
  果てしない物語の前ではほんの一瞬を切り取ることしかできやしな
  い。
   しかるにきみもぼくもその一瞬を切り取るという、それだけの才
  能も持ち合わせていない。だから手のひらの石をぎゅっと握り締め
  幽かに、そうほんの幽かにでもその物語を感じようとすることしか
  できない。
  
   でも。
   でも、もしそれができれば。
  
   あたりに散らばる大小さまざまな石が、さらには土や水さえも饒
  舌にそれぞれの物語を語り出すのを想像するのは易しい。
   明け方の川べりは静寂から転じてひどく騒々しく思えてくるはず
  だ。
   そうだろ?



           ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆■
         ◇◆
       ◇◆◆  12┠》 夜の月を見ている
      
         家に帰ると彼女がなにも映っていないテレビを見ていた。薄気味
        悪いので「なにしてんの?」と聞いてみた。
         すると、彼女は勝ち誇ったような顔で、ふふんと鼻で笑った。
        「あなたには、わからないのね。かわいそうな人」
         なんだか、えらくカチンきた。
         彼女に対抗して電子レンジを見ることにした。
         電子レンジを見ながら、時折、彼女の方を見てくすくすと笑って
        やった。
         それを見た彼女は、負けたと思ったらしく、今度は、換気扇をみ
        はじめた。そして、うひひひひ、と笑い出した。
         ここまで来たら負けるわけにはいかない。掃除機の吸い口をのぞ
        きこんで、うはははは、と笑った。
         僕らは、いろんなものを見て、いろんな笑い方を試した。ふたり
        して、お腹を抱えて笑い続けた。
         最後に、見るものがなくなったので、窓の外の月を見上げて、ふ
        たりで手をつないで寝た。



     ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆■
   ◇◆
 ◇◆◆  13┠》 虚偽家族

   これはとある一家の話。父母とその息子が一人。中流の核家族だ
  けれど幸せな家庭の話。
   今夜も揃って夕飯。
  「母さん、今日一日何もなかったか?」
   父は母に笑顔で尋ね、母も笑顔で頷く。
  「いつも通りでしたよ。隆文は?」
  「同じ。授業とサークルに出た。親父は?」
  「いつも通りだ。勤めて、帰宅さ」
   そう父も言うが、内心思っていた。それに嘘はないが、勤勉なビ
  ジネスマンのそれかと問われれば、それは違うなと。
   今日一日、父はいつも通りダメ社員だった。猥褻行為が発覚し、
  上司から叱責されていたのだ。この不景気だ。近々リストラになる
  のではないかと怯える。そんな毎日だ。
   しかし、それでも若い娘の尻は魅惑的だと思ってしまう。妻や息
  子は真面目なのに、自分だけそんなダメ人間。絶対バレてはダメだ。
  父はそう思い偽った。
  「平和なのはいいですね」
   母もそう言った。それに嘘はない。家族で夕食を囲み、楽しむ。
  崩したいとは思っていない。が、それだけでは退屈だった。
   だから今日もマンションの主婦連中と遊びに繰り出していた。日
  中営業しているホストクラブに行って、豪遊。これが最高だった。
  若い男に肩を抱かれるのも、そんな男と寝る事を妄想するのも楽し
  いと。
   それは貞淑な妻としてはありえない姿。真面目な夫や息子には絶
  対見せられない。皆キッチリしているのに、私だけダメ女だという
  のはバレてはダメ。母はそう思い、偽った。
  「これからも平和がいいよな」
   両親共に真面目だが、自分はそう出来ない。
   今日もいつも通り大学には行ったが、授業には出ていない。今日
  は仲間と一緒に女を仲間の家に連れ込んで乱交パーティーだった。
  一応違法ではないが、背徳的行為に違いない。
   両親は真面目なのに、自分は淫奔。知られてはならない。息子は
  そう思い、偽った。
  「わははは」
  「うふふふ」
  「えへへへ」
   嘘と隠し事だらけの団欒は、今日もまたいつも通り笑顔で始まり、
  いつも通り笑顔で終わった。
   これはとある一家の話。父母とその息子が一人。中流の核家族だ
  けれど幸せな家庭の話。
   今夜も揃って夕飯。
  「母さん、今日一日何もなかったか?」



           ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆■
         ◇◆
       ◇◆◆  14┠》 窓
      
         特に用も無くゲーム屋をぶらついていたら嫌な奴に会った。
        「お、奇遇だな」
         無視して通り過ぎようとしたが、珍しくも話しかけてきやがった。
        「よう、お前もゲームなんかやるんだな」
         仕方なく相手をする。
        「いや、ゲームはやらないさ。まあ、あれを見ろよ」
         そういって試遊機のTVを指差した。
        「ホラーのデモムービーか。なるほど、いかにもお前が好きそうだ」
        「まあ待て、それがな、普通こういう物を作るときはお祓いすんだ
        よ。だが、このメーカーはしなかった。プロデューサー含む数人が
        行方不明になり、そのまま体裁だけ整えて出来上がった代物は、人
        の魂を吸う恐怖のゲームとなったのさ。見ろよ、画面の右下」
         まさか、と見ると明らかに不自然な位置に二人の人影が映ってい
        た。
        「ははは、驚いたか。嘘だよ。ありゃ俺らの姿が反射してるだけだ」
         なんだ、正面から狭い窓ごしに見れば、確かに俺が横を向いて談
        笑してるじゃないか。



     ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆■
   ◇◆
 ◇◆◆  15┠》 ツンデレコーダー

  「バカバカバカーーーもうアンタなんか知らないんだからっ」
  「ま、まあまあ少し落ち着いて」
   なぜ私はカップルの仲裁などしているのだろう。
  「でもさあ、本当に違うんだって。とにかくそりゃ俺じゃないよ」
  「デートしたのは事実でしょ!」
  「デートって・・・・・・しょうがないだろ、お世話になった人な
  んだから、買い物ぐらいつき合っても。お前も子供じゃないんだか
  ら、俺の気持ちも分かってくれよ」
   うーむ、よくある痴話喧嘩だ・・・・・・
  「あの女には気をつけてって言ったじゃない」
  「気をつけてって言われてもな」
  「年賀状だってあたしにはくれなかったし」
   おいおい論点がずれてきたぞ。
  「何を今更? 確かに出したよ」
  「きてないわよっ!」
  「きてないって? そりゃ郵便局の手違いだ、他のとこと間違えた
  んじゃないか」
  「まあまあ、お互い今日はこの辺で一旦引いて、ね?」
  「そうだな。これ以上は時間の無駄だ。俺達につき合せて悪かった
  な。じゃあな」
  「待ちなさいよぉ、ばかぁ」
   その場で泣き始める友人を置いて、彼氏は振り返らずにいってし
  まった。
  「もーう、いい加減にしてよね」
  「ええ、もうこれで最後よ、最後」
  「はいはい」やれやれだ。
  
   翌日、妙に上機嫌な彼女に呼び出された。
  「ねえねえ、最近のMP3プレイヤーって録音できるの知ってる?」
  「へーえ、それがどうしたの?」
  「うん、これ聞いて、いくわよー、おほん。
  『きてないって?』そうよ、もうずっと。だからゴムつけてって
  いったじゃない。『つけてって言われてもな、しょうがないだろ』
  中に出しといてしょうがないとは何よ。『確かに出したよ、でもさ
  あ』ちゃんと責任とってよね。『他の、お、とこと間違え、て、ん
  じゃないか』認知しなさいよぉ。『とにかくそりゃ、俺の、子供、
  じゃないよ、俺達、これ以上、つき合っても、時間の無駄だ、じゃ
  あな』
   どう、力作! ぶいぶい!」



           ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆■
         ◇◆
       ◇◆◆  16┠》 赤い棺
      
         少女は地下街を歩いている。自分の背丈の半分もある、車輪付き
        の赤いトランクを転がしている。不似合いな大荷物と、少女がまだ
        十歳くらいなのを見て、通りすがりの青年が心配そうに呼び止める。
         呼び止めた後で、青年は急に黙ってしまう。ふだん子どもと関わ
        ることがないので、接し方がわからないのだ。
         この人に決めた。少女は内心でうなずく。
        
         迷子じゃないの。でも不安だから、ついてきて。
         少女はそう言って、地下鉄の改札口をゆびさした。
        
         地下鉄は街の底を横断し、緑の多い地上に出た。山のふもとが終
        点だった。ふたりはそこで降りて、坂道をのぼる。青年は、赤いト
        ランクを見おろして「重くないの」と聞く。少女は「重いけど渡さ
        ない」と答える。青年は、「なにが入ってるんだ」と聞く。少女は、
        「わたしの嘘が入ってる」と答えた。
        
         舗装された坂道から外れて、少女は山道に入っていく。木漏れ日
        の下、少女が転がしていくトランクに、岩がゴツゴツと当たる。
        「こんな所にうちがあるのか」
         少女はふり返って、あきれたように笑う。うちに帰るとは、一言
        も言っていなかった。
         青年は悪い妄想にとらわれる。トランクには、あの少女の屍体が
        入っている。少女を殺してトランクに詰める、変質者の噂を青年は
        知っていた。
         トランクの外側にいるのは、死後も出歩きおしゃべりできる、死
        んだ少女の望む姿だ。内側で揺れている屍体は、少女の本当の姿、
        認めたくない現実だ。だから少女にとっての、「嘘が入っている」
        のだ。
        「ここでわたしは」
         少女が言葉を切り、トランクに手を添える。カチリと音が鳴って、
        赤いプラスチックがひらく。そこには白く濃い霧が揺らいでいた。
         霧はほぐれて宙に舞った。白はそれぞれ蒼になり碧になり、紫に
        なり紅になった。無数の蝶が青年を取り巻き、通り過ぎた。
         頬に極彩色の鱗粉をつけたまま、青年はまばたきする。喋る少女
        も、屍体の少女もそこには無かった。黒布を貼ったトランクの中に
        は、乾いた骨のかけらがひとつきり残されていた。



     ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆■
   ◇◆
 ◇◆◆  17┠》 恋はいつも幻のように

  「また会えるよね」
  「絶対、大人になったら絶対会いに行くから」
   発車ベルが鳴り、ドアが閉まって、少年と少女は隔てられる。ド
  ア越しに少女の両親は頭を下げ、クラスメイトだろう子どもたちが
  「じゃぁね」だの「遊びに行くから」だの、甲高い声で叫ぶ。
   いかにも田舎の三月にありがちな光景に行き当たる自分の運の無
  さというか引きの強さが嫌になる。しかも、雰囲気に気圧されて乗
  り逃しちまうし。ワンマン一両編成は乗降口が一ヵ所しかないんだ
  ぞ! なんのために女先生、アンタはそこにいるんだ? 周りに
  気ぃ遣えよ。次、九十分以上先だぞ。来んの。だからこんな出張ヤ
  だったのに、真っ赤なお鼻の戸田課長め!
   一通りの言い訳と責任転嫁を頭の中で並べてから、もう一度ベン
  チに座り直す。雨風と紫外線に曝されてだいぶガタがきてても、気
  分とは裏腹に麗らかな春の陽射しのおかげで、居心地は悪くない。
   子どもたちがキャッキャッ言いながら改札を出て行く。幼心に浮
  かんだ一時の感傷は、あの少年以外たぶんきっと既に忘れてしまっ
  たろう。少年少女にとって大切なのは「喜」と「楽」で、「怒」は
  喧嘩に負けた途端、虐めの対象となり、「哀」は存在しない。すく
  なくとも、俺にはあの日まで存在しなかった。
   まださっきの少年はホームのおんなじとこに立ってて、女先生が
  そばにいる。未来を信じ、希望を「大人」の二文字に託した少年は、
  これからの人生でゆっくり絶望すんだ。今、せっかく抱き締められ
  た感情が、音も立てずいつの間にか消え去っても気づかない。「成
  長」なんて単語に心を鈍らせて、ある日唐突に、大人になったら絶
  対会いに行くと誓った少女の名前さえ思い出せず苦笑すんだ。俺み
  たく。
   諭されてしまったのか、少年が女先生と歩いて来る。間抜け面で
  物思いに耽っていた俺は、さらに間抜け面を浮かべてみせる。少年
  が睨めつけるので「無理だ。青いの。諦めろと」阿呆面に魂込める。
  悔しかったら、違うってなら、俺に後悔させてみせろ!
   女先生が軽く頭を下げたので、阿呆面のまま応える。少年の目に
  映る自分。女先生が、あの日の少女にダブって見えたのは気のせい
  だ。田舎特有の回顧幻想だ。春風が吹く。まだあと八十分。ビール
  呑みてぇ。



           ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆■
         ◇◆
       ◇◆◆  18┠》 巡回使の告白
      
         一、すべての女性を対象とすべし
         一、ワルツを踊って無傷なものに限る
         国王陛下と皇太子殿下の御前で、明示された条件を厳守すること
        を誓い、私はガラスの靴の持ち主を求めて国中を巡る巡回使となり
        ました。納税台帳をもとに一軒一軒のドアを叩いて歩くのです。
         ある老婦人は「皇太子殿下と私は道ならぬ恋をしているのです。
        どうしても私と添遂げたい殿下は夫も子供もある私を王妃にしたい
        がためにガラスの靴を考えたのです」と皺に白粉がめり込むほど化
        粧をした顔を私の耳元に近づけて囁きました。
         ある大臣邸の裏庭で一服していると「あの靴が履けた者なら誰の
        娘だろうと妻だろうとかまわん。この家の養女として嫁に出してや
        る。家族の面倒もみてやろう。娘を女を連れてこい!」と怒鳴る大
        臣の声を聞きました。
         ある美貌で知られる令嬢は泣きながら「ほら見て!ぴったりよ!」
        と狂ったようにワルツを踊ってみせましたが、靴を脱いだ令嬢の足
        からはブリリアンカットのガラスビーズで傷ついた小指がぽとりと
        落ちました。
         幾百ものクリスタルガラスのビーズと宝石を繋いで作られた繊細
        な靴は、純潔を守る処女のごとき頑固さで女達の足を拒み、人々の
        虚栄の姿は私の手で報告書に書き綴られ、日々王宮へと送られまし
        た。
         そんな滑稽で虚しい日々の中で私はボロ布で黄金色の髪を覆った
        一人の娘に出会いました。灰で汚れた足がガラスの靴にぴたりと納
        まり、私を相手に無傷で優雅なワルツを踊り終えた娘。彼女に巡り
        会えた驚きと喜びは言葉にできぬものでした。
         粗末なエプロンのポケットからガラスの靴の片割れを取り出した
        娘は、晴れぬ顔で私に語りました。
        「これもまた一夜の夢となるのではないでしょうか。あの夜と同じ
        に幸せの絶頂でこの靴も灰となるのではないでしょうか」
         私は俯く娘に言いました。
        「もし靴が灰となって貴女が皇太子妃になれなかったら、私が妻に
        迎えましょう」
         娘は、その時ようやっと花のような微笑を私に見せてくれたので
        す。
        
         祝典に国が沸く今日、王宮のバルコニーから皇太子と一緒に手を
        振る娘は私の妻となったかもしれない人でした。



     ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆■
   ◇◆
 ◇◆◆  19┠》 夢子26才、好きな工具はニッパーです☆

   あ、起きた? うふ、びっくりしてるね。大丈夫、初めから説明
  してあげる。ハル君、時間移動できるんでしょ? 驚かなくていい
  よ。ハル君だって信じられなかったんだもんね。だって過去にしか
  行けないし、それも目が覚めた時刻にだけ。未来の記憶は夢みたい
  に曖昧で、現実とずれてるときもある。これじゃ、頭のビョーキだ
  と思うよね。ところで昨日の夜、舞さんの部屋に泊まったでしょ?
  うふふ、慌てなくていいよ、もうバレバレなんだから。でかけたの
  は、煙草がきれたから? それで遊びに来た私と、マンションの入
  り口で鉢合わせしちゃった。だから、過去に跳んだんだよね。目が
  覚めて、やっぱり煙草が欲しくなった。裏口からでれば大丈夫だと
  思ったの? エレベーターの扉が開いたら私がいて、びっくりして
  たね。うん、わかるよ。時間移動なら私の行動は同じになるはずだ
  もの。だからね、そこが違うの。ハル君のは超能力じゃないの。い
  い? この世界は多分、ノベルゲームなのよ。しかもバグつき。私
  とハル君だけ、過去のシーンで分岐を選び直す前のシナリオを覚え
  てられるの。時間移動じゃなくて、本当はプレイヤーがセーブシー
  ンに戻ってただけ。うん、やっぱり頭おかしいと思うよね。だから
  ハル君、また逃げたんだね。あれ? どうして私がここにいるか、
  まだわかんない? うん、私は舞さんとハル君が同じマンションだ
  なんて知らなかったし、舞さんの部屋番号は知らないから、部屋に
  入ってくるなんてできないはずだよね。でもほら、よーく思いだし
  て? 昨日の夜、ハル君は誰と呑んだの? 舞さんと私が誘ったとき、
  どっちを選んだの? そうよ、ハル君が泊まったのは私の部屋。こ
  のゲームのプレイヤー、二日前に戻ったのよ。舞さんを選ぶとバッ
  ドエンドになるから、私のほうを先に攻略してみる気になったわけ。
  まだわからない? 私とハル君は選択肢の履歴を記憶してるけど、
  それは一日分だけなの。いままでハル君が未来の記憶と現実がずれ
  てると感じたことがあったのは、こんなふうに全然違う分岐に入っ
  たからだったのよ。え? 瞼? 大丈夫、気にしないで。えっと、こ
  れを読んでる君、いいかな? こっからグロいシーン突入だけど、
  ハル君の瞼は接着剤で閉じてるから、画面は真っ暗でしょ? だか
  らなにも怖いことないよ。瞼を細めて文章は飛ばして、ちゃんと最
  後まで終わらせてね。じゃあハル君、まずは左足の小指からいって
  みよっか♪



           ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆■
         ◇◆
       ◇◆◆  20┠》 手を拾う
      
         出勤途中の道端でなにやら怪しげな棒状のものを見つけた。僕は
        吸い寄せられるようにそれに近づくと、そっと持ち上げた。
         左手のようである。
         肩から肘にかけてのしなやかなラインや、ほっそりとした長い指
        から判断するに、どうやら女性のものらしい。落とし主はさぞかし
        焦っていることだろう。このままではお茶碗を持つ手に困るはずだ。
         そう考えた僕は、携帯電話で会社に電話し、私用で遅刻する旨を
        伝え、右手にビジネスバッグを、左手に左手を持って駅前の交番へ
        と向かった。
         暇そうに茶を啜っていた中年の警察官は、僕が拾った左手を差し
        出すと、眼鏡のブリッジを指で押し上げて「ほほう」と云った。
        「これは、左手ですな」
        「はい。さっき拾いました」
        「落とした方はさぞかしお困りでしょうな。お預かりしましょう」
         その日は、仕事をしながらも、拾った左手のことが頭を離れな
        かった。無事落とし主の元へと戻るといいのだが。
         落ち着かない気持ちのまま仕事を終え、家路についていると、携
        帯電話が鳴った。出てみると先ほどの警察官からだった。
        「左手の落とし主が見つかりましたよ。あなたに一言お礼が言いた
        いということなんですが、今から来られますか」
         僕は「今からすぐ行く」と答え、電話を切るのももどかしく、交
        番へと急いだ。
         そこで僕を待っていたのは例の警察官と、恥ずかしげに目を伏せ
        たひとりの女性だった。彼女のノースリーブのワンピースからは、
        健康的な腕が二本ともしっかりと覗いていた。僕はそれを見て思わ
        ず「ああ」と安堵の声を漏らした。あるべきところにあるべきもの
        がきちんと収まったのだ。
         彼女は僕に近づくと深々と頭を下げた。
        「この度は本当にありがとうございました。……お礼と云ってはな
        んですが」
         彼女が差し出した白い封筒を僕は受け取った。中を除くと、そこ
        にはカブトムシの幼虫のようなものが入っていた。「お礼の一割」
        というやつだろう。さて、どこに飾ろうか。
         僕は貰った封筒をスーツのポケットに入れ、「ところで」と警察
        官に向きなおった。
        「僕の左目、まだ見つかりませんか」



     ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆■
   ◇◆
 ◇◆◆  21┠》 時

  「俺は時を止められる」
   突然の言葉。
  「……去ね」
   突然の言葉には、当然の言葉を。
  
  「俺はまじめに聞いてる! だから、ソフトに答えろよ! 突込め
  よ! 寂しいだろ!」
  「怒鳴るな! 怒るな! 死ね!」
   当然の対応なのに、彼は声にならない声を上げ、両手を拳にして
  立ち上がる。
  
  「まぁ、待て。お前がまじめなのは分かっていた。ただの愛嬌だ。
  ——人間そうかっかしていると早く死ぬぞ」
  
   物事をうやむやにして彼を落ち着ける。そして長い時間をかけて
  ゆっくり彼は語った。この世界はある瞬間の間止まり、その間、自
  分も止まっている、だが、認識できる、と。
  「不確定要素が多すぎるな」
  「うん、でも止まってるんだ」
   彼は大分落ち着いた風で、猫背に地面を見ている。普段の活発な
  彼とは違う雰囲気に、落胆かと思われるような景色が見える。だが、
  今の彼は確かに真面目なのだ。
  「止まってるのか」「止まってるんだ」
   ……………………しばしの沈黙が流れた。
  「つまり。いや、——おそらくなのだが。時、っていうのは止めら
  れるもんじゃないんだ」
  
  「でも——」「まあ、最後まで聞け」
  「………」「おーけい。……時間ってのはそうそう簡単に止められ
  るもんじゃないだろう。なんてったって、この世の全ての行動を進
  行させなくするわけだから。
   よく漫画なんかにある、時間を止める、ってのはそう言う意味で
  は、別モンになるんだよな。あれはだ、時を止めているわけでわけ
  ではなく、————そうだな、全ての物質に『時を認知』させなく
  させたわけだ。」
  「じゃあ——」「そう、こう考えられる。事実、君の世界では、時
  は止まっている。時は止まり、君も動けず、俺も動けず、そしてた
  だ君は『止まって居る』ということだけは分かる、認知できるのだ」
   びしっと指を彼に向けて、止まる。
  
   時間が止まったかのように、感じられる沈黙が流れる。……だが、
  耳には自分の鼓動が聞こえるし、目にはあいもかわらず彼の映像が
  流れる。そして彼が口を開く。
  「なんだかなあ、言いくるめられた感があるんだが」
   苦笑がお互いの顔ににじみ出る。
   ほんと、いいくるめた感があるなあ。



           ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆■
         ◇◆
       ◇◆◆  22┠》 言城ノ虜
      
         堅牢にして荘厳な煉瓦の城を、タロウカードを積み上げたカラフ
        ルなカード・シャトーを、決して割れない青く透き通った金剛石の
        光輝く城をあの絶海の孤島に建てよう。
         男でもなく、女でもなく、言葉だけが住まう城は中までみっしり
        石造りでも構わない。
         迷宮庭園の生け垣をあてどなく逍遙する盲目の老婆の眼差し、暗
        く湿った地下道を疾く駆ける薄汚れた溝鼠達の冷たい足裏、長い長
        い螺旋階段の鋼鉄製の手摺を優美な孤を描き滑り落りる少年の生白
        い踝、そんな風に石と石の狭い間隙を黴臭い空気を震わせて言霊が
        自在に響きめぐるだろう。 意味という枷を外された言の葉は落下
        する羽毛の速度で軽やかに宙を舞い、風にたゆたい、枯れ葉と共に
        積み重なり、蕭々と降る雨に朽ちてゆく。黒い土の上に幾重にも鮮
        やかな色彩を残して。その様子はまるで、純白のシーツに零した漆
        黒のインクの染みや家畜の肌に捺されたひきつれた醜い焼き印だ。
        そして、城壁や床、天井に祈りや怨裟、愛撫や勲章に似た無数の傷
        を刻むだろう。
         言葉は奥津城で眠りながら、柩が開かれる日を、いつか解き放た
        れる時を待っている。
         四角い紙の塊は読まれて初めて反魂する。
         言葉は毒、物語は罠。一読で深々と魂に突き刺さり、眼から脳髄
        に侵入し柔らかい精神を容赦なくジワジワと蝕み犯し、冒し、侵す。
         茨の奥、書架の中、紫檀の机の隅で埃に埋もれて息を潜めてじっ
        と獲物を待ち構える。
         咲き乱れる言の蔓で編まれた絢爛たる花冠、毒の針が潜む剣呑た
        る糸車の錘、細い鉄条網で編まれた華奢な鎖経衣にびっしりついた
        銀色の細く鋭い棘は全て内側を向いている。
         幾千の作家の指を折り、幾万の詩人の舌を抜き、数億の画家の眼
        を潰して荒ぶる言霊から世界を護る為に物語を幽閉する強固な牢獄
        を波頭の砕け散るあの断崖絶壁に建てよう。
         さあ、生まれそこないの不義の言葉達を存分に棄てにおいで。城
        門から零れた言葉は波に呑み込まれて泡になり、水底でふつふつと
        呟き続けるだろう。天守閣から風に乗った言葉は紅砂に混ざり、海
        を渡り人々の上に降り注ぎ、それと知れず驚喜を狂喜を狂気をばら
        蒔いていく。流感のように人に伝染り、支配し、がんじがらめに絡
        めとる。極細のグラスファイバーをなびかせて宙を泳ぐナノマシー
        ンでできた渡り蜘蛛か、はたまた致死の鱗枌を撒き散らす極彩色の
        毒蛾に似て。 所詮は無駄事、我々自身が言城なのだから。


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