文学

雲上マガジン

総合創作団体・雲上回廊が送るメール文芸マガジン。

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雲上マガジン vol_137

2007/05/15

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    メールマガジン『雲上』 〜読者へつなぐ〜         第137号
         毎月、05日、15日、25日配信         2007/5/15
                     http://magazine.kairou.com/unjyou/

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 ……………………………………… も く じ …………………………………………

 【1】 前書
 【2】 連載小説「夢盗奴」                 最終回
 【3】 連載超短編「赤井都超短編集」      第24回
 【4】 編集後記


◆ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆
 【1】 前書
 ──────────────────────────────────────

 今号で五ヶ月にわたった連載、「夢盗奴」が完結します。そして、次号では重大発表が
あるとかないとか……。
                                     後略。

◆ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆
 【2】 連載小説「夢盗奴」                 最終回
                 著/宮本淳世
 ──────────────────────────────────────

 俗世の縁と怨が絡まりあうこの長編は、あなたの一部をいやおうなく書き換えてゆくで
しょう。五ヶ月に及ぶ長期連載、漆黒にして衝撃の完結篇。

 ……………………………………………連載小説……………………………………………

                                  (第六章)

 どれほどの時間に耐えただろう。じりじりと、歯噛みしながら待った。待つことしか出
来ない自分の非力は如何ともしがたく、それを呪ったところで、何の解決にもならないこ
とは分かりきっていた。だからじっとその時間に耐えたのだ。
 そして、その時はやってきた。勝が部屋に入ってくるのが分かった。闇の彼方のドアが
開かれ、そこに浮かび上がった影は、暗い予感を含み、ただそれに耐えろという前触れの
ように感じた。だから篠田はじっと待った。勝の声を。
「父さん。ご免。今日で、お別れだ」
 ある程度は覚悟していたつもりだったが、胸が締め付けられ息ができないほどで、喘ぐ
ように言った。
『勝、それはどういう訳だ。いったい何があったと言うんだ』
長い沈黙があった。心が張り裂けんばかりに膨張し波打った。勝がぽつりと言った。
「俺は、母さんを殺してしまった。自分の母親を殺してしまったんだ」
衝撃が篠田の体を走った。微かに光が射し始めていた薄闇の世界が再びどす黒い暗闇に戻
ってゆくようだ。その時、どこからともなく、うめき声が響いたのだ。
『なんということだ。前世では洋子が勝を殺し、今生では勝が洋子を殺した』
その声に驚いて、篠田は見えもしないのにきょろきょろと辺りを窺った。しかし、この声
の主の気配はない。勝が話し始めた。篠田は突然何処からともなく聞こえてきた声に動揺
しながらも、勝の声に耳を傾けた。
「親父、信じられないことだけど、俺は親父の子供じゃなかった。俺は信じたくなかった。
でもそれはどうしようもない事実なんだ」
頭が混乱していた。いったいお前は何を言っているんだ。お前は俺の子供だ。それは間違
いのない事実なんだ。そんなことあり得ない。
「違うんだ、親父。ふと疑問を抱いてDNA検査をした。そして真実を知った。だから、
今日、問い詰めた。そしたらお袋はこう言ったんだ。勝は、あの有名な山口さんの子供な
の、だから演劇の世界での貴方の将来は約束されているのよって言ったんだ」
篠田は叫んだ。
『馬鹿なことを、なんて馬鹿なことを』
「そうだ、まったく馬鹿げている。だから、俺はお袋に言ってやった。俺はそんな薄汚い
コネクションを利用して世にでようなんて思ってもいない、と。お袋は俺を見くびってい
た。だから俺はあんたとは違うと言ってやったんだ」
『たとえ、洋子がそんなことを言ったとしても、どんなに洋子が卑劣な人間であったとし
ても、殺すなんて。お前の人生、これからどうなる。そのことを考えたのか』
「勿論考えたさ。でも、俺は親父を愛していた。だから、だから、思わず、首を絞めた。
お袋は、戸惑いと驚愕の目で俺を見た。俺は親父の顔を思い浮かべた。だから、だからこ
そ、指先に力を込め続けたんだ」
 勝のむせび泣く声が響く。狂おしいほどの無念さが胸を掻きむし毟り、煮えたぎるよう
な憎悪が心に渦巻いた。この時、篠田は例の声を再び聞いた。
『卑劣な女、洋子! 勝を殺しておきながら、少しも反省しようとしない女』
篠田の心が何故かこの声に反応し、打ち震えている。前世の記憶がじわじわと脳裏に浮か
び上がり、勝が殺された時の悲しみが甦ったのだ。心がその言葉に共鳴する。そして、ま
たしてもあの声だ。
『そして今度は、勝に有名人の血を引いていると自慢する女。息子は苦しみながらも、俺
の愛情に応えようとした。あの女に怒りの鉄槌を振り下ろしたのだ』
この言葉は、まさに篠田の今の悲しみと怒り炸裂させるに十分すぎるほどの起爆剤となっ
て、篠田の脳に働きかけた。篠田の声が響き渡った。
『思い知ったか、洋子、お前は殺されて当たり前だったんだ。勝は、こんなにも苦しんだ。
その代償としての死は、お前自身が引き寄せたんだ。全てお前のせいなんだ』
篠田のその怒鳴り声はまさしく、何処からともなく聞こえていたあの声そのものだったの
だ。前世の恨みを含むこの怒気に篠田は何の疑念も抱かない。怒り心頭に発し、ただその
爆発に身を委ねているだけだ。
 こうして憤怒が頂点に達したとき、篠田は、めくるめくような恍惚に満たされ、波のよ
うに打ち寄せるエクスタシーを味わっていた。背徳のエクスタシー、殺して恨みを晴らし
た時に上げる勝利の雄叫びだったのだ。……一瞬置いて、ふーとため息をつく。
 恍惚の時はいつも瞬時に終わってしまう。くだらないジョークで皆と馬鹿笑いした後に
訪れる静寂と虚しさに似て、このエクスタシーは長続きしないのが不満だが、或いはそれ
もやむを得ないのかもしれない。何故なら、これは全て夢の中の出来事なのだから。

 ふと、我に返ると部屋は静寂が支配していた。急激に萎んでゆく興奮。篠田は勝の気配
を探った。人の気配はある。しかし、それは勝のそれではない。そうだ、勝の話はもう既
に終わったのだ。
 篠田は舌打ちし、薄目を開けて、その狂った婆さんの姿を見上げた。また来やがった。
ふんと鼻をならし睨みつけた。老婆は椅子に腰掛けて話し始める。
「翔ちゃん。この前は、何処まで話したっけ。そうそう、先月は、翔ちゃんが洋子さんと
結婚する前までだったね。そう、洋子さんは、本当に心の優しい人だった」
『うるさい、俺の世界の邪魔をするな。死ね、糞ババア、貴様の顔など見たくない』
 篠田がいくら叫ぼうが、わめ喚こうが、篠田の母親は喋りつつける。そう、篠田は最初
からそれが誰なのか分かっていた。それはまさに篠田の母親だった。
「翔ちゃんは、結婚式は帝国ホテルじゃなきゃ厭だって、暴れた。どんなに謝っても許し
てくれなかった。翔ちゃんの暴力にはなっれっこになっていたけど、あの時は死ぬかと思
った。髪をつかまれ家中引きずりまわされたんだから」
『そんなことしてない。俺はそんな男じゃない』
「それに、大学の演劇部の寄付は、ほとほと参ったわ。城嶋や上野には負けたくないって、
怒鳴った。お金がないと言うと土地を売れってすごんだ。思い出がいっぱいの土地を手放
すのは、本当に辛かったわ。でも翔ちゃんの暴力には逆らえなかったもの」
『貴様など、知らない。お前の顔なんか見たこともない』
篠田はいつもそうしてきたように怒鳴り喚き続けた。しかし、母親は容赦しなかった。
「勝が自動車事故で死んだのは私も辛かった。翔ちゃんは、車を運転していた洋子さんを
責め続けた。洋子さんが勝を殺したも同然だって。でも洋子さんは居眠り運転するほど疲
れきっていた。翔ちゃんが、家にお金を入れないから、一日中働きずめだった」
『嘘だ、嘘を言うんじゃない』
「とにかく、翔ちゃんは、何でも責任を人に押し付けて、人を恨んで、糞味噌にやっつけ
ていれば満足だった」
『クソお袋が、死ね、死んでしまえ』
「言われなくとも死んでいるわ、つい昨日のことよ。翔ちゃん。あなたと同じ世界に一歩
足を踏みいれたの」
『嘘だ。嘘をつくな。俺は死んではいない。俺はここにこうして生きている。このベッド
を見ろ。この体を見ろ』
「違うわ。翔ちゃん、よく見て。その子はまだ子供よ。貴方は今何歳だと思っているの。
翔ちゃんが死んだのは45歳の時よ」
『俺が死んだって、嘘を言うのもいい加減にしろ。俺は、脳溢血で倒れ、そして全ての感
覚を失った。しかし、意識だけははっきりとして、ここに寝ているんだ』
母親は思わず吹き出し、可笑しそうに声を上げて笑った。
「それって、洋子さんに復讐するために夜毎紡ぎ出された作り話の一つにすぎないわ。こ
の子は良く夢を見る体質だから、今晩は二回も夢を作り出した。でも、今回の設定は正に
今の翔ちゃんとそっくり。身動き出来ないで、そこに縛り付けられている」
『止めてくれ、作り話なんかじゃない。俺はこうして生きているんだ』
「いいえ、よく見なさい。この子は翔ちゃんじゃないの。翔ちゃんは死んだのよ。舞さん
と一緒に車で事故にあった。舞さんは救急車の中で、翔ちゃんはこのベッドの上で死んだ
の。そこに留まっているってことは、よっぽど死にたくなかったのね」
そう言うと、母親は、ベッドの斜め上の天井に視線を向けた。その瞬間、篠田の意識はベ
ッドに横たわる少年の体からすーっと離れ、母親と面と向き合うことになった。荒い息を
はきながら、母親を睨みつけている。母親が語りかけた。
「そろそろ目を覚ます時よ。翔ちゃんは、この病室に来る人来るの夢の中に入り込んで、
人の夢を横取りして自分の思いを遂げてきた。物語を紡ぎ出し、洋子さんや山口先輩に対
する恨み辛みを何度も何度も晴らしてきた。空しいと思わないの」
『空しくなんてない。俺は勝を本当に愛していた。その責任を洋子に取らせなければ俺は
浮かばれない。死んでも死に切れなかった。だから……だから……』
「確かに、翔ちゃんは、勝の葬式のとき声を上げて泣いていたわ。そして勝のことで洋子
さんを責め続けた。でも、翔ちゃんが、洋子さんを責め続けたのは、何もそれが理由では
ないわ。お母さんは知っているのよ」
『いったい、何を知っているというんだ。変な言いがかりはよしてくれ。俺は純粋に勝の
ことで洋子を憎んだだけだ』
「翔ちゃんが、残った300坪のうち200坪を売って事業を起こした時、雇った事務員
が片桐舞さん。翔ちゃんが入社2年で辞めてしまった会社の部下。その舞さんの洋子さん
に対する嫌がらせはその時から始まっていたのよ」
『……』
「そして追い討ちをかけるように勝が亡くなった。翔ちゃんは、これを機に一気に離婚へ
追い込もうとした。だから洋子さんが最も傷つく言葉を吐き続けた」
『……』
「洋子さんが離婚届に判を押さなかったのは、舞さんの存在があったからよ。嫌がらせを
続ける舞さんを心底恨んでいた。だから洋子さんも意地になってたみたい」
『舞とは愛し合っていた。あいつも焦っていたんだ。俺と結婚したかったんだ』
「焦ったから、あんなことまでしたの、二人して」
ぎょっとして母親を見た。まさかそこまで知っているとは思わなかった。篠田の視線は揺
れ動いた。
「洋子さんは、バックミラーで貴方たち二人の顔をみているの」
母親は視線を合わせようとしない息子を睨みつけた。
「洋子さんは昼の仕事の後、夜、お弁当屋さんに勤めていた。貴方たちは、夜、帰宅する
洋子さんのミニバイクに後から車を追突させた。幸い洋子さんはかすり傷で済んだけど、
でも、洋子さんは、その時、貴方たち二人の顔をバックミラーで見ているのよ」
じりじりとした焦りが、篠田の心を追い詰めてゆく。
『あいつが、悪いんだ。なかなか離婚届に判を押さなかったあいつが悪いんだ』
それは篠田にとって自明の理なのだ。あまりにも洋子は頑なになりすぎていた。
「翔ちゃんの会社はとっくの昔に破綻していた。舞さんとの生活にはお金が必要だった。
だから洋子さんに死亡保険を掛けたのね」
まさかそこまで知っていようとは。焦りは胸を圧迫して息も出来ない。逃げ道はなくなっ
ていた。思わず叫んでいた。
『それもこれも、お前が悪いんだ。お前は実印を隠して100坪の土地を売ろうとしなか
った。お前が、意地を張らなければ、俺だって、そこまで思いつめはしなかった』
母親は優しくその言葉を受け止めた。
「はいはい、悪うございました。翔ちゃんが、そこまで思いつめていたとは気付きもしな
かったわ。それより、翔ちゃん、そろそろ自分が死んだことを認めなさい」
『ああ、そうだ。俺は死んだ。あのクソ女にあの土地を残して死んだと思うと、悔しくて、
悔しく死に切れなかった』
「それは違うわ。洋子さんは貴方のお葬式が済むと、家を出たの。厭な思い出ばかりのあ
の家から逃れたかったんだと思う。葬式は盛大にあげたわ。懐かしい顔ぶれが揃った。上
野さん、城嶋さん、そうそう山口さんも来た。山口さん覚えている」
『忘れるわけがないだろう。あいつにどれだけ金をせびられたと思っているんだ。あいつ
は俺にとって疫病神だった』
「そんなことないわよ、確かに二度ばかり用立てたけど、返してもらったもの。役者では
挫折したようだけど、実業家としては立派に成功された。そうそう、お葬式の時に仰って
いたけど、山口さんの奥さん、翔ちゃんが山口さんに紹介したんですって? 」
『ああ、そうだ。散々遊んで飽きたから、女に縁のない山口先輩にくれてやった』
篠田は悔しさで顔を歪めた。るり子と新宿でデートしていた時、山口先輩と偶然出会って
しまった。るり子は山口の文学座の研修生という肩書きにころっと参ってしまったのだ。
二人が付き合いだしたと知った時、どれほど山口を憎んだことか。
 二人を付け回し、行く先々で嫌がらせをした。ところが、あの日、二人がホテルに消え
た後、るり子の名前と電話番号、そして「誰とでも寝ます」とい文字を大書きした紙を塀
に貼ろうとしていた、その時、ホテルの入り口から二人がぬっと現れたのだ。軽蔑しきっ
た二人の視線は、篠田のプライドをずたずたにした。
「翔ちゃん、ようやく思い出したようね、なにもかも。良い子ね。昔を思い出して、良い
子だった昔を。父さんが早くに亡くなったから、母さんは貴方を甘やかし過ぎた。だから
翔ちゃんは、こんな子に育ってしまった。悪いのはみんなわたしなの」
篠田は、老母の顔を盗み見た。暴力に怯える弱弱しい母親の姿はそこにはない。どこか毅
然として自信に溢れている。
「翔ちゃんが舞さんと一緒に事故で死んだ後、洋子さんも家を出た。とうとう私は一人ぽ
っちになった。でも、そうなって初めて分かったの」
篠田の目に涙が滲んだ。そうだ、舞も死んだ。お袋の実印を盗み出し、金を手に入れよう
とした矢先だった。かわいそうな舞、そして俺。しかし、今は、この地獄から抜け出せる
チャンスかもしれない。篠田には独り善がりとしか思えない母親の言葉は続く。
「結局、全ては自分に返ってくるってこと。甘やかしたツケも、翔ちゃんの暴力に屈した
ことも」
母親は遠くを見るような目をして微笑んだ。
「もし、翔ちゃんをしっかり躾け、我慢するということを教えていたら、翔ちゃんは家庭
内暴力に走ることもなかった。それが出来たら、どんなに良かったか。でも、今となって
は後の祭りね。全ては私の犯した過ちなの。それがすべて私に返ってきただけ」
 母親の言葉は左の耳から右の耳に抜けていった。それより、篠田は、今、重大な局面に
立たされていることを意識していた。どのくらいここに縛り付けられていたのか見当もつ
かないが、お袋の老けようから見て、10年以上経っているような気がする。
 じめじめした暗黒の世界、人の夢の中でしか生きられない人生、ここから抜け出さなけ
ればならない。藁にもすがる思いで、母親に話しかけた。その声は上ずった。
「母さん、俺はどうしたらいいの。俺はずっとここで動かずにいた。誘う奴がいたけど無
視して追い返した。だから、俺はここしか知らないんだ」
「心配いらないの。私が連れてってあげるから。昨日、私、死んだって言ったでしょう。
そしたら、迎えに来た父さんが、翔ちゃんも連れてこいって、ここを教えてくれたわ。だ
から心配しないで。さあ、涙を拭いて」
篠田は母親にしがみついた。その胸に頬を押し付け、子供のように甘えた。
「僕もあっちに行けるの。僕も一緒に連れてってくれるの。お父さんのところへ」
「お父さんと一緒という訳にはいかないの、私たちは」
「何故、何故父さんと一緒じゃないの」
「だって、翔ちゃんは罪を犯したのよ」
「もしかして、僕は地獄にゆくの」
「馬鹿ね、翔ちゃんが、今まで居た所が地獄じゃない。地獄は常に人間が作るものなの。
翔ちゃんの地獄はまだいい方よ。お父さんが言うにはもっと凄い地獄があるんですって」
「でも、お母さんは、罪を犯した訳じゃないんでしょう。何でお父さんの所に行けないの」
母親は一瞬たじろいだが、気を取り直し答えた。
「だって、翔ちゃんだけじゃ寂しいでしょう。だから私は翔ちゃんと一緒に行くことにし
たの。そうよ、もう一度、やり直す時がくるまで、一緒よ、心配しないで」
この言葉を聞いて、篠田は赤子のように母親に甘えて抱きついた。篠田はほっと安堵のた
め息をつき、胸を撫で下ろした。
 この時、母親は、あのことだけは、息子に漏らすまいと心に決めた。もし知られれば、
あの世へ行ったとしてもそこが地獄と化すのは目に見えている。この世で地獄を味わった
のだから、せめてあの世では心安らかに暮らしたい。
 翔ちゃんには悪いけど、私は洋子さんにあの家を残すことにした。弁護士の先生に相談
して遺言書を書いたのだ。あの百坪の土地と家は洋子さんが相続することになる。それこ
そ、洋子さんは吃驚すると思うけど、私はずっとそうしようと思ってきた。
 洋子さんは私のことを大事に思い、尽くしてもくれた。翔ちゃんが死んで、家を出ると
言い出した時はちょっと寂しかったけど、納得するしかなかった。翔ちゃんの思い出の残
る家にはいられなかったのだ。何故なら、翔ちゃんを殺したのは洋子さんだからだ。
 あの頃の洋子さんは本当に強固な意志と強靭な心を持っていた。ほんの数年前、追突さ
れて殺されかけた直後の、あの憔悴しきった気弱な女と同じ人とはとても思えなかった。
実は、洋子さんは追突事故直後、離婚を決意していた。その決意を翻させたのは私だ。
 だって、本当に、洋子さんがあの家に来てからというもの、何もかもが変わったのだ。
翔ちゃんの暴力は洋子さんに向かった。私を庇ったからだ。それでも洋子さんは、言うべ
きことをはっきりと言って、翔ちゃんを諌め続けた。
 だから、あの時は本当に必死だった。離婚を思い止めさせなければならないと思った。
そして、とうとう私の本心を伝える決心をした。そう、こう言って引き止めたのだ。「二
人で何とかしましょう」って。そしたら洋子さんはきょとんとして聞いた。
「二人で何とかするって、どういう意味、お母さん、それってどういうことなの」
私は何も答えなかった。言わずもがなのことだと思ったから。私はじっと洋子さんの目を
見ていただけ。私は何も指示なんかしていない。洋子さんは殺される前に殺す。私は何も
かも失う前に死んでもらいたい。これよ。
 そして洋子さんが動き出した。深夜、パソコンに向かうことが多くなった。恐らくイン
ターネットとかいうやつで、何かを調べていたのだ。息子の車に何か細工するつもりみた
い。私はぞくぞくという興奮を味わった。そして心から声援をおくったものだ。
 だから翔ちゃんが実印を持ち出したと分かって、すぐさま洋子さんに知らせた。何とか
して欲しいと懇願すると、洋子さんは、すぐに出かけた。二人の愛の巣に行ったのだ。私
はいらいらしながら待った。いても立ってもいられなかった。洋子さんが帰ってきたのは
夜中過ぎだ。疲れきっていた。私はかまわず聞いた。
「上手くいったの。ねえ、上手くいった? 」
洋子さんは深いため息をついて答えた。
「明日にならなければ、それは分からないわ。ブレーキがきかなくなって事故は必ず起き
る。でもその事故で彼が死ぬとは限らないの。それは運命よ。彼が死ぬか、それとも生き
るか。つまり、私たちが勝つかそれとも負けるか、それを知っているのは神様だけ」
 それでは困るの、だから私は必死で食い下がった。
「ねえ、もし生きていたらどうなるの。この家はどうなっちゃうの、ねえ、何とかして、
ねえ、何とかしてちょうだい。お願いよ」
洋子さんは自信たっぷりに微笑んだ。そして静かに答えたわ。
「大丈夫、お母さん。何とかする。次の手も考えてあるの。もし、今日のことが駄目だっ
たら、兎に角、早めに事を進めないと」
「そうよ、急がないと、あの子が残っている100坪の土地も売ってしまう。そうなった
らこの家を追い出されてしまうわ。だから、今度こそ、確実に……」
洋子さんはにこりとして聞いた。
「貴方の息子の息を止めろと言いたいの? 」
私は自分の言おうとした言葉に戦慄したが、割り切るしかない。そして強張った顔でぎこ
ちなく微笑んだ。洋子さんには笑ったようには見えなかっただろう。言いたいことは分か
っているのに、洋子さんも意地悪だ。そしてやぶれかぶれで言ってやったんだ。
「そうよ、そう言いたかったのよ。貴方だって同じ思いでしょう。この土地を売ったお金
だって、いつか使い切ってしまう。そしてら、あの時みたいに、また貴方が狙われる。だ
から、そうなる前に、今度こそ、確実に翔ちゃんの息の根を止めるのよ」
洋子さんはゆっくりと首を縦に振った。そして、きっとなって居間の窓から真っ暗な庭先
を睨んでいた。窓ガラスに洋子さんの顔が映し出された。その顔が奇妙に歪んだ。笑って
いるように見えた。
 私はあの時の洋子さんの顔が頭から離れない。ぞっとしたのを覚えている。でも、その
顔は翔ちゃんも見ているはずよ。そうあの時よ。あの時の顔にそっくり。翔ちゃんの作り
話、勝が洋子さん達に誘拐されて死んじゃう話よ。翔ちゃんは洋子さんに聞いたわ。
「お前は知っていたんじゃないか。勝の病気のことも、薬のことも知っていたんじゃない
のか」って。洋子さんは、顔を奇妙に歪めて笑った。そして答えた。「ええ、知っていた
わ。だから薬を捨てたのよ」ってね。あの時の歪んだ顔がそれよ。復讐心は人の心を鬼に
変えるの。
 翔ちゃんは復讐に凝り固まって、洋子さんを酷薄な人間として夢の中で思い描いた。で
も、私の必死の思いは洋子さんの心の深層に眠っていたそんな一面を引き出したのよ。人
間はどんな人間にもなれる。置かれた状況によってどうにでも変わるの。
 結局、翔ちゃんは酔っ払った挙句、首都高の壁に激突してくれた。病院で息を引き取っ
た時、私たちは抱き合って泣いた。それまでの緊張が一挙に氷解した安堵感、日常的な暴
力から逃れられたという開放感が二人を包んでいた。何とも言えない瞬間だった。
 もっとも、私達の涙に誘われて、もらい泣きしている看護婦さんたちには、思わず二人
して苦笑いしてしまった。確かに嫁姑が抱き合って号泣しているのを見たら、誰だって涙
腺は緩んでしまうものね、まったく笑ってしまったわ。
 さてと、世迷言はこれくらいにして、そろそろあの世に向かおうかね。時間も限られて
いることだし。どっこいしょと。だけど、洋子さん、幸せそうだったな。最後の別れだか
ら会いに行ってきたけど、彼女、再婚して子供まで出来て。ふふふ……。
 この時、「ぎゃっ」という息子の悲鳴を聞いた。母親は慌てて胸に抱いた息子を見た。
しかしその輪郭が失われつつある。その中心に必死の形相で自分を見つめる息子の顔があ
った。その顔さえ曖昧模糊と消えかけている。母親が叫んだ。
「翔ちゃん、翔ちゃん、どうしたの。ねえ、何処に行くの。何処にも行かないで、お願い」
すっと胸の感覚が消えた。母親は悲鳴をあげて立ち上がった。辺りをきょろきょろ見回し、
そして駆け出した。あちこちをさ迷いながら必死で時間の限り探し回ったが、息子をあの
世に連れて行くことは出来なかったのである。

 …………………………………………… おわり ……………………………………………

 この作品に対するご意見・ご感想は編集部まで:info@kairou.com
 引き続き、6月から新作「怨時空」の連載を開始します。お楽しみに!

◆ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆
 【3】 連載超短編「赤井都超短編集」      第24回
                 著/赤井都
 ──────────────────────────────────────

 時に清新、時に残酷。超短編界屈指の言霊遣い、赤井都の作品を集成! 今回は二作品
を掲載します。

 ……………………………………… 「上人の晩飯」 ………………………………………

 九月が始まったばかりの月の明るい晩に、谷川のそばで小鬼たちが遊んでいた。光る川
のせせらぎに合わせて、伸びた草葉を軽く蹴っては、爽やかな夜気の中をくるりと回り、
降りてまた弾み飛びあがる。
 その谷川は、大きな山に挟まれ、けわしい斜面には岩が幾つも転がっていた。どんな土
地であっても、この山と岩で周囲をかこんでしまえば、そこはたちまち貧しくなっただろ
う。この貧しい土地で月光を浴びている屋根は一つ。若い五郎と女房が住んでいる。
 その家めざして驢馬が進んでいた。谷川に沿った細い砂利道がしゃりしゃりと鳴った。
近づいてくる足音を聞いて、小鬼たちはいっせいに不如帰(ホトトギス)の茂みに隠れた。
そこなら、小さな赤い角がのぞいても、不如帰の赤い斑点にまぎれてしまう。
 小鬼たちは首を出して、驢馬の後姿をみまもった。驢馬に乗っているのが偉い上人であ
ることは、白檀と伽羅を混ぜたような、小鬼らにとっては耐えがたい匂いによってすぐそ
れと知れた。
 上人が小さな藁屋根の下に消えてしばらくすると、五郎が川に走ってきた。やなに魚の
一匹でもかかっていないかと、気ぜわしく調べている。
「さっきかけたとこだがね、なんと行き暮れたお上人さんが、うちに泊まってくださるん
じゃん。お上人さんのために、ほんの一匹でもありんよ」
 五郎が祈るようなきもちで網を引くと、みごとに太った大きな一匹のやまめの腹が光っ
た。
「しめた、今夜はついとるじゃん」
 五郎が引っ張る向こうで、網が変なふうに持ちあがったかと思うと、やまめは整った黒
い斑点をひるがえして、川の中を踊るように逃げていった。五郎が口をあんぐりあけて自
由な魚を見送っていると、小さな笑い声がいくつも響いて、小鬼たちが姿を現した。濡れ
た手を袖でぬぐいながらにやにやしている。
「小鬼どもめ、またおまえらか。おまえらに関っとる閑はねえよ。偉いお上人さんが、な
んとうちに泊まってくださるんじゃん」
「それで五郎よ、おまえはだいじなお客に、稗の団子だけ出すんだろ」
「そうならねえように、わしは急いで、やなを見に来たんじゃん」
「でも魚はねえ。なあ五郎よ、おまえんちの食卓に、俺たちの力で、見たこともねえよう
なすごいごちそうを並べてやろうか。おまえの女房も驚くぞ。おまえの婚礼にも出なかっ
たような、大ごちそうだ」
 小鬼の一匹がそう言うと、ほかの小鬼たちがいっせいに大笑いした。
「お断りだがね。おまえらなんかを頼るほど、わしはおちぶれちゃいねえ。おまえらのご
ちそうっていうのは、泥団子に虫の粥に決まっとるじゃんよ」
「なあ五郎よ、そう簡単に、親切な申し出をつっぱねるもんじゃねえぞ。なに、代償は簡
単なことよ」
 そう一匹の小鬼が言うと、ほかの小鬼たちが、いっせいにうなずいた。
「ふん。まあ、聞くだけなら、損はねえはずだな」
 五郎が腕組みすると、小鬼たちは小さな手をぱちぱちと打って、踊りあがった。一匹が
まじめな顔で言った。
「五郎よ、あの坊主に聞いてほしいことがあるんだ。この世が終わる時までに、俺たちも
極楽浄土へ行けるのか、ってな」
 言い終わると、いっせいに小鬼たちは姿を消した。五郎は腕組みをしたまま、家に戻っ
た。
 粗末な戸を開けると、部屋の真中で鍋が湯気をあげ、女房がにこにこしながら、上人に
一番大きな稗の団子を勧めていた。
 五郎は土間から上がろうともせず、しばらくうろうろしていたが、やがてがばりと上人
の前に膝と手をついて、頭を下げた。
「お上人様、ばかもののばかな問いで、お上人様みたいなお偉いかたをわずらわせるのは、
ばかもののすることだっていうのは、百も承知だがね。一つ、聞いてもいいでしょうか。
あの、谷川の小鬼たちは、そのうちに極楽浄土へ行けるのかっていうことじゃん」
 上人はゆったりと五郎を見た。五郎は、上人の深みのある目にそうして見据えられると、
たまらない心地がして、また頭を下げた。
「主どの、だれに言われて、そんなことを聞く」
「ええ、もちろんあの、小川のほとりに住んどる、しょうもない小鬼どもだがね」
「そんなら、戻って小鬼たちに伝えなさい。自ら、わしのところに聞きに来るように。そ
うしたら、教えてしんぜようとな」
 五郎は上人の後光に酔った心地でふらふらと家を出て、不安なきもちで川の流れに向か
って歩いた。不如帰の茂みよりもずいぶんと手前で、小鬼たちは五郎を待ち構えていた。
「それで、俺たちは極楽で遊べるのかよ、どうなんだよ」
 五郎は小鬼たちに、上人が言ったことを伝えた。小鬼たちは恐れて、きゃっと叫んだな
りいっせいに隠れてしまった。薄の穂一つ揺れなかった。
「おーい。わしらの晩飯、どうしてくれるんじゃよ、小鬼ども」
 五郎が呼びかけても、月光が降り注ぐだけで、葉一枚ちらりとも動かなかった。散り敷
いた露一つ零れなかった。
 五郎は家に戻り、冷めてしまった小さな稗の団子を食べた。満ちたりた上人は早くも眠
りこみ、女房がその細い体に薄いふとんをかけていた。五郎はもそもそとした塊を口に運
びながら、あの流れを踊り逃げていったやまめは、ほんとうに惜しいことをしたと、残念
でならなかった。

 …………………………………………「荒ぶる神」…………………………………………

 鎮守の森が、高速道路の建設で倒された。
 行き場を失った精霊たちは、風に吹かれて消えていった。
 しかしたった一人生き残った精霊は、道路の端に座りこんでいる。木の間にいたときに
は滑らかだった肌は、アスファルトの上ではささくれだった棘だらけになっている。トラ
ックがその前を通ると、積荷が棘にひっかかって落ちる、転がる。急ブレーキを踏んだ車
がガードレールに突っ込む。
 赤ランプで封鎖された道路の橋げたの下で、小さな社跡が、排気ガスと割れたガラスと
 血飛沫を浴びている。

 …………………………………………… つづく ……………………………………………

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 次回は第138号(5月25日配信予定)に掲載予定です。お楽しみに!

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 【5】 編集後記
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 前略。
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 対象は「文章で表現されるすべての作品」です。
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 たくさんのご応募を、お待ちしております。

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   ……………………………………… 奥 付 ………………………………………

       発行日:2007年5月15日
       発行元:雲上回廊
       発行者:秋山真琴
       編集者:キセン
           遥彼方
           言村律広
           恵久地健一
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