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成功の条件〜仕事で私生活で生きる新しい成功哲学

いままでの成功哲学はもう古い!21世紀に生きるための新しい物の見方考え方を提案します。占学研究家によるメルマガ。すぐにあなたの生活が変わッて行くはずです。

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成功の条件 新年特別号

2005/01/05

 ************成功の条件 新年特別号**********

仕事で私生活で生きる新しい成功哲学

          by 作家・占学研究家 木村天山



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 日々徒然新年号



 明けましておめでとうございます。

 メールマガジンというものを出して、気づくと新年でした。時間を流れと捕らえる
か、または、私が流れているのか。時間というのは、観念であり、実は実体が無いも
の。

 流れているのは、私であって、他の何物でもないという現実がある。時間というも
のを捕らえる考え方は、伝統であると言える。

 私はエッセイで、伝統という言葉をよく使うが、ある本を読んでいて、伝統という
言葉の意味するところが違う人種もいると知って、驚いた。

 ここで一度、伝統について言う。伝統とは、血統のことであり、精神としては、言
葉の世界のことである。日本人の伝統とは、日本人の血統であり、日本の言葉の世界
を伝統と言う。ところが、伝統と言うと、単に茶道や生け花、能や歌舞伎だと思って
いる人がいる。あれは、芸能であり、伝統芸能と呼ぶが、伝統の面目ではない。

 そして血統に即して言えば、生き方の所作が伝統である。どのように生きるのかと
いう所作を伝統と言う。それを伝承して、民族というものが成り立つ。生き方の所作
とは、礼儀作法である。礼儀作法とは、他者と関わる心得である。

 言葉の世界の伝統とは、端的に言うと、万葉集に代表される。

 言葉の世界の息遣いが伝統である。五七調、七五調という息遣いである。言霊につ
いては、色々と書いているので、省略する。

 そして、驚いたことに、教育界の現場で、とんでもないことが起こっているようで
ある。つまり、自由というものの考え方である。どこから仕入れた思想であろうか、
日本の伝統には無い考え方を取り入れている。

 男女平等というアホなが考え方が、大手を振っている。ジェンダーフリー教育であ
る。 また自由、平等、博愛という、アホな、そして魔界の考え方を、いつから日本
人は仕入れて、その意味も知らず耳触りの良い語感に酔うのであろうか。

 自由、平等、博愛を、あなたは信じますかという、ある宗教団体の布教のような言
葉である。あなたは、カミを信じますかという、アホのような質問である。路上で、
キリスト教の布教をしているのを見る。「永遠の命を得るために、キリストを信じな
さい」と言うスピーカーを通しての言葉が、実に空虚で空しいものであるかを、彼ら
は知らない。それに似ている。信仰というものが、極めて個人的な情緒であることを
知らない。

 単純明解に言う。この世に自由などない。平等などない。博愛もない。あると思う
のは、妄想である。また、そう教えるには、それなりの魂胆がある。魔物の思想であ
る。

 胸に手を当てて考えてみるべきである。この次元に、自由と平等と博愛を求めて生
まれたかということである。事は、根本的な問題である。

 人間は、自分が生まれた理由を知っているのであるが、それを忘れるという芸当が
出来る。無意識に、それをしまい込むのである。

 教育の現場で、この自由が、とんでもない形で教えられている。霊格の低い者が教
育をするということから、間違っているのだが、それは今は言わない。取り急ぎ、自
由ということの意味である。

 平等主義を掲げたのは仏陀であるが、それは魂というものについてである。人間が
皆、平等であるというは、人間の魂が平等であるということである。それ以外は、平
等ではない。自由とは、違いの多さに気づくことである。

 性差を認めないという程の自由と平等とは、誰の思想か。魔物の思想である。

 男女、親子、師弟、友人等々、人間関係は、平等ではない。昔は、駕籠に乗る人、
担ぐ人、そしてその籠を作る人と言った。真っ当な考え方である。駕籠に乗る、駕籠
を担ぐということを演じて生きるのである。

 「人間は平等である」と言う人はアホである。アホはアホであることに気づいてい
ないから、アホである。自由と言うのもしかり。

 徒競走で一等などの順位をつけないというアホは、死んだ方がよい。どこから、そ
の魔界の思想を教えられたのか。それらは心得違いと言うのである。

 親の庇護の元にある子供に自由を教えて、どうする気か。自由とは、その裏にぴっ
たりと責任という覚悟があるものだ。私は言う。本当に自分の人生の責任を、一人で
取れる人がいるのか。例えば、自分で出したゴミにも責任を取ることが出来ないでは
ないか。死んでからも、人の手を煩わすのが人間である。死の始末も出来ないのであ
る。それが、自由とは笑わせる。

 新年のエッセイだから、おまけで言うが、自由、平等、博愛という思想は、それで
人の目をごまかし、良い気にさせて、支配しようとする魔物の思想である。あたか
も、それがあるかのように思わせて酔わせ、支配する。

 象徴的に言う。ハンバーガーショップでハンバーガーを食う者に自由などない。す
でに家畜のようになっているのであることを知らない。飼い馴らされて、皆さんは、
自由と平等、博愛で生きるのですと吹き込まれる。アホらし。




 日々徒然



 公務員よ恥を知れ。

 1兆6171億円という膨大な負債を抱える、転落寸前の鹿児島県は、財政再建の
一環として、県職員の「退職金特別昇給制度」の廃止に向けて動き出したという。公
明党の議員により、廃止案が出されて、漸く廃止に向けて動いてきたという。

 それにより、年間3億円の節減が出来る。お手盛り退職金と言われるものは、40
万円を上乗せして支払うもの。

 長引く不況により、民間企業は厳しいリストラ、なかには退職金を支払えないとこ
ろもある。そんな中で、公務員だけは、のうのうと特別金を貰うとは、空いた口が塞
がらない、愕然とするほどの感覚麻痺である。

 これは鹿児島県だけの問題ではない。多くの地方公務員がそうである。要するに、
現実離れしている、アホな感覚である。これを昔は、ホイト根性、つまり泥棒根性、
乞食根性と言った。言われなくなって久しい。

 貰えるものは、何でも貰うというその根性には呆れる。皆貰うから、自分も貰う。
中に、このような状況下に、特別金など頂けないという人間はいないのか。悲しいこ
とである。

 どんな思いで、県民が税金を納めているのかを想像出来ないというアホさ加減は、
悲劇である。またそれを今まで、議員たちは、よくぞ許していたものである。きっと
同じ穴のムジナなのだろう。

 さて、そして次は社会保険庁の在り方である。長官を民間人から選んでも、職員の
意識が変わらなければ、どうしようもない。組織は頭から腐る。もうすでに、下々ま
で腐っているものを、どうして新鮮なものに変えられようか。

 全く、国民の年金財産をないがしろに消滅させた責任を取る者はいない。公務員の
別名は、支配階級にあると思っているアホと言う。

 誰も言わないので、私が言う。誰に食わせて貰っているのか。

 年金集金の取り扱いから、窓口の対応等々、批判が吹き出し始めた。今までも、言
いたいことはあったが、皆、泣き寝入りしていた。泣き寝入りするしかなかったので
ある。その傲慢不遜な態度に。

 彼らは、国民へのサービス業なのであるという自覚がない。国民に食わせて貰って
いるのにである。一体、いつから公務員というものが堕落したのか。

 民は、公務員の仕事をお役所仕事と言う。お役所仕事とは、繁雑複雑にして、民を
混乱させ、意気高に見下ろす傲慢さ満ち満ちる態度である。1分で出来る仕事に一日
を掛けて、仕事をしていると勘違いしているアホのことである。

 勿論、私は知っている。公務員にしかなることが出来なかったという劣等感の裏返
しでの傲慢不遜である。自分の自己不満を、こともあろうに、食わせて貰っている者
に向けるという倒錯心理。

 今に、社会保険庁は解散して、民間に任せられる。その際に、職に溢れた公務員の
皆々様に、民間の苦難を十二分に体験してもらいたと思う者である。

 マスコミも、些細な保険庁の批判を展開するより、あの膨大な年金資金の運用の解
明に全力を尽くし、保険庁を亡き者にするべく、行動することである。

 織田信長であれば、今頃、社会保険庁など、是非もなしと焼き打ちにしているは
ず。

 是非もなしとは、議論の対象にならないということである。議論の対象にならない
ということは、終わっているということである。焼き打ちにするしか方法がない。

 これから何を、どう改善するのか。のうのうと、給料ドロボーをしている者が、改
善など講じられる訳がない。

 誰も言わないから、私が言う。公務員よ、恥を知れ。





 日々徒然



 塩の話である。

 国内産と標記してある塩が、実は、外国産のものであったという。塩までもかと憤
慨した。それならば、外国産であると標記すればいい。それをしないのは何故か。

 ここに今の日本の問題があると断言出来る。

 子供のころ、嘘つきは泥棒の始まりと言っていた。

 あたかも国内産であるかのようにして売るという根性に、改めて怒りを覚える。何
故か、それは、水とか塩とか、味噌などは、日本人、いや人の基本的な食生活の要で
ある。それは信頼から始まり、安心して買う。その安心感に便乗して、嘘をついてい
たとは、驚き、呆れる。

 一体、どうして嘘をつくのか。単に売りたいがためである。どうせ解る訳がないと
いう、その根性に怒る。商人の基本的な道理、道義を外している。掛け合いで売ると
いう、一対一なら理解する。しかし、スーパーなどの店頭に国内産として置いてあ
る。それが許せない。塩程度と考えていると、とんでもないことになる。

 潰れた雪印だって、そうだった。その程度と思う根性が悲しい。それで利益を上げ
ている。それで商売をしているのだろう。

 これを語るに落ちたと言う。

 上から下まで、日本は、このていたらくである。

 結局、在り方の道義を失ったのである。

 在り方の道義とは、生き方の道義である。時代によって道義も変わるものではある
が、それでも本筋は変わらない。

 具体的に言う。大工は、大工の道義がある。自分の建てた家は、自分の作品である
から、命を掛ける。欠陥住宅などと言う言葉はない。ある訳がない。

 先生が児童売春をする。先生を辞めてから、するべきである。別な職に就いてか
ら、新聞に載るような行動をするがいい。先生としての道義を失っているから、平気
でする。

 要するに、生業としての職なのであり、道としての職なのではない。食べるための
道具の職である。そうして、食べるための職に就いて生きるという恐ろしい生き方を
選んで、また久しい。

 一事が万事、今の日本は、道義を失って久しい。

 政治家、官僚、公務員から、商売人たち。

 残るは農業、漁業の人で、辛うじて支えられている。また、手に職の人。芸人であ
る。彼らは、ごまかしがきかない。

 時に、農の人も、平気で農薬をまいて売るが、同情する。

 60年以前の日本人は、「日本人として恥ずかしい」という言葉を使った。そうい
う道義があった。今は無い。誰のせいでもなく自分で選んだことである。道義を無く
した国民の行くべき先は、崩壊である。

 私は言う。日本は崩壊して久しい。

 塩の一件で、またその意を強くした。ただ、希望はある。崩壊からまた始まるから
だ。新しい道義の主を待つ。

 道義はまた分相応を言う。今は、皆平等だと思っているが、平等などある訳がな
い。

 目を覚ました方が身のためである。

 ちなみにもう一つ言うが、事は新しくなっているということである。古いものは滅
びる。すでに滅びている中にいても気づかずにいる人もいる。

 若者でも滅びている者もいる。

 新しく何が芽生えているのかを知らない人は、哀れである。





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2003年11月25日創刊 2005年1月5日発行    著作権はオフィスTW2に属す。
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創刊日:2003-10-16  
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