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メールマガジン日台共栄

日本の「生命線」台湾との交流活動や、他では知りえない台湾情報などを、日本李登輝友の会の活動とともに配信するメールマガジン。

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【メルマガ日台共栄:第3421号】 景美人権博物館での蔡焜霖さんのお話  柘植 康成

2019/02/27

>>>>> http://www.ritouki.jp/ ━━━━━━━━━━ 平成31年(2019年) 2月27日】

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1>> 景美人権博物館での蔡焜霖さんのお話  柘植 康成
2>> 3月3日、台独聯盟日本本部が許世楷氏と李明俊氏を講師に「台湾2・28時局講演会」
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1>> 景美人権博物館での蔡焜霖さんのお話  柘植 康成

 台湾では、蒋政権による一党独裁時代に起こった2・28事件や白色テロの記憶が風化しつつある
という。しかし、実際に投獄された方々から直接その体験談を聞けば、あまりにも生々しく、身の
毛がよだつような恐怖を感ずる。

 2・28事件で投獄され、処刑一歩手前で助かった経験を持つ2・28記念館の案内をされていた蕭錦
文氏や、司馬遼太郎氏が『台湾紀行』を執筆するため台湾を案内された故蔡焜燦先生(「台湾歌
壇」代表)の実弟で、白色テロで投獄10年の体験を持つ蔡焜霖氏、同じく白色テロで22年も投獄さ
れていた故郭振純氏などから直接お聞きした体験談は、今に忘れられない。

 折しも、昨年12月に景美人権博物館を蔡焜霖氏にご案内いただいた柘植康成氏が、蔡焜霖氏のお
話を詳しく再録していた。白色テロについてこれほど詳しく紹介しているのはめったにない。かな
り長いが、一気に読ませる迫力がある。

 本会理事の加藤秀彦氏が「公式サイト」に掲載していたので下記にご紹介したい。景美人権博物
館や関連の写真などは「公式サイト」をご覧いただきたい。

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景美人権博物館での蔡焜霖さんのお話  柘植 康成
【加藤秀彦 公式サイト:2019年1月21日】
https://kato-hidehiko.asia/taiwan-national-human-rights-museum/

 2018年12月台湾訪問の際、蔡焜燦さん(2017年7月逝去)の息子さんで、物流業界で仕事をして
おられる清水さんの紹介で、蔡焜霖さん(蔡焜燦さんのご実弟)をご紹介頂き、2018年5月にOPEN
した人権博物館(新店市)を2時間にわたりご案内頂きました。

 以下は、蔡さんのお話を中心に、小職がほんの少し説明をつけたものです。台湾の事は多少は
知っているつもりでしたが、ここまで人間の尊厳を踏みにじるような行為が、当時の台湾で行われ
ていたとは全く知りませんでした(ウイグルでは、まさに現在、中国政府による100万人単位の弾
圧が行われているようですが)。

 是非、じっくりお読みください。内容に関するご意見、ご指摘は大歓迎です。

             *     *     *

蔡焜霖氏について
1930年台中清水生まれ。成績優秀で、高校時代参加した「読書会」が「共産党外郭団体」とみら
れ、1950年逮捕、緑島に送られ、「新生訓導処」(別名「緑洲山荘」)で10年過ごす。1960年出獄
後、結婚。東方出版社に入り、子供向けの雑誌出版に従事。師範学校で教師の資格を取るも、「前
科」の為、取り消される。その後、淡江文理学院の夜間部で学び、日本の漫画の海賊版の出来高払
いの翻訳に従事(北京語は緑島で習得)。1966年に「王子雑誌半月刊」を創刊。1968年8月、世界
少年野球で優勝した日本(和歌山)の選抜チームを7−0で下し、紙幣のデザインにもなっている
「紅葉少棒隊」(ブヌン族)の支援も行う。国泰人寿教育センターを経て、国華広告で松下電器担
当のコピーライターに。国泰美術館長、董事長秘書など。実兄は、司馬遼太郎を案内した「老台
北」こと蔡焜燦氏。日本語は勿論完璧。

             ◇     ◇     ◇

1)台湾白日恐怖(白日テロ)の歴史

 僕は高校を出て1950年に捕まった。台中の清水にいた時、彰化の憲兵隊が来た。最初に(萬華に
あった)東本願寺(今の獅子林商業大楼あたり)に送られ、その後、軍法処看守所に送られ、禁固
刑に処せられた。当時の軍法処は、今の台北シェラトンホテルの場所にあった。住所は青島東路3
号。監察院の隣。軍法処は1968年にここ景美に移った。戒厳令が解除されたのが1987年。その後は
「政治犯」はいなくなった。軍事裁判もなくなり、一時は撤去の話も出たが、呂秀蓮(1944年生。
1979年の美麗島事件で逮捕。懲役12年で景美軍法処に収監。2000-2008年副総統)が、施設を残す
ことを訴え、2018年人権博物館としてオープンした。

(受難者の名前が刻まれた記念プレート前にて)

 それぞれの名前の左上の数字は捕まった年、右の数字は白いのが出所、赤いのは殺された年(す
べて銃殺刑)。浮き出ているのが終身刑。銃殺刑は昔の馬場町(今の青年公園の南側、新店渓北側
の河原。記念碑あり。)と、安坑刑場(今の新店第三公墓)の二か所だった。受難者は、武器を所
持していたのではなく、医者、教師、ジャーナリスト、若い学生などの知識階級による平和的な活
動が殆どだった。

 私が収監されていたのは1950〜1960年まで。但し、ここ(景美)ではなく、緑島にいた。景美が
できたのは1968年。当時は、最初は青島東路の軍法処に入れられた。無期懲役が多かった。結果と
して30年以上過ごした人も多く、最長は34年7か月の林書揚。

 ここには228事件の受難者は入ってはいない。白色テロは、戒厳令発布の1949年5月から始ま
り、戒厳令が解除されてもなお、1989年にはジャーナリストの鄭南榕(1947〜1989年焼身自殺)の
一件もあった。当時すでに李登輝総統の時代になっていたが、雑誌に憲法を載せたということだけ
で反乱罪として逮捕しようとした。鄭はそれを拒否し、焼身自殺を行った。それを捉えに行ったの
が、今回新たに新北市長となった候友宜(1957年〜、元内政部警察署署長)。鄭を捕まえるのに
600人の警官を動員した。

 この場所は日本時代何があったかは分からないが、当初は軍法学校だった。建物は1960年頃作ら
れたのでは。今は公園のような平和な場所だが、昔は怖かった。

 国民党政府が台湾にきたのが1945年。私は中学生だった。皆、大歓迎したが、それは瞬く間に失
望に変わった。兵隊は、天秤棒で鍋や釜を担ぎ、歩きながら唾を吐いたり、手鼻をかんだり、我々
は制服で、女学生はセーラー服で迎えにいった。そんな姿を見ても、大人は、「8年間も日本と
戦ったのだから、疲労しているのは当然」と庇っていた。ゲートルさえ上手く巻けない兵隊も多く
いた。くるぶしのところまで、緩んでずり落ちてしまっていた。私たちは、中学の頃からちゃんと
巻いていたので、彼らよりずっと上手だった。するとまた大人たちは、「あれは、ゲートルの中に
鉄板を入れ、鍛練しているのだ。戦争になったら(忍者のように)、壁にも屋根にも飛びあがれる
のだ」と(笑)。

 又、彼らは汚職まみれだった。役所で何かしてもらう為には、それまで日本時代にはなかった
「紅包」が必要になった。又、インフレ(大陸での内戦用に物資を送った為、島内物価が急騰。
1949年、4万元を1元とするデノミを実施、「新」台湾元が登場)もひどかった。1945年8月には
米1斤(600g)が20銭。これが3カ月で60倍の12円になり、庶民の生活はとても苦しくなった。

 1945年の終戦から1年半もしないうちに228事件が起こった(1947年)。はじめは、行政長官
の陳儀は民衆と和睦するようなことを言っていたが、実は(大陸にいた)蒋介石に電報を送り、兵
の派遣を要請し、3月基隆に上陸させ、無差別殺戮を行った。今でも伝えられているが、捕まえた
台湾人の掌に穴をあけ、そこに針金を通して、何十人も岸壁に並べ、後ろから機銃掃射を行った。
それと同じようなことを台湾全土でやった。それを「清郷」と呼んだ。そんなことで、それまで祖
国に憧れを持っていた若い人たちが立ち上がった。しかし、決して武器を取るわけではなく、我々
の台湾はどうするべきか、どこに自分の道を求めるべきか、などを語り合う勉強会が多く行われ
た。よく読まれたのは、中国ではやっていた魯迅や、1930年代左派の文学者の作品、毛沢東の「新
民主主義理論」(1940年)などだ。

 ところが、1949年5月に戒厳令が布かれて、出来たばかりの憲法も凍結し、非常事態ということ
で、スパイ、反乱を取り締まる条例が作られ、白色テロが始まった。それまで国民党政府の国際的
立場は随分危うかった。1950年1月、アメリカトルーマン大統領が「台湾不干渉声明」を発表、国
共内戦への介入(=汚職にまみれた国民党への支援)放棄を宣言していたが、同年6月、朝鮮戦争
が勃発、共産勢力の拡大を懸念したアメリカは第七艦隊を台湾海峡に派遣した。蒋介石、蒋経国
は、これにすっかり安心し、反体制派を次から次へと捕まえ、片っぱしから銃殺刑に処した。1950
年から銃殺刑が急増するのはこのためだ。台湾の白色テロは朝鮮戦争がきっかけだった。事実、こ
れより前に捕まった人たちは、死刑にはなっておらず、感化教育のみで釈放されている。

 この戒厳令が1987年7月まで38年間続いた。蒋介石が死んだ1975年頃は、台湾は平和な時代に入
りつつあったが、蒋経国は戒厳令を解除しようとしなかった。怖かったんだろう。また中国に戻っ
て王様になりたかったんだろう。

 戒厳令解除のきっかけになったのは、「江南案」と呼ばれる事件だ。ジャーナリストの江南(本
名:劉宜良)は、『蒋経国伝』を書き、過去を暴いた。さらに、呉国楨(1903-1984年、1949年-台
湾省政府主席)の伝記も書こうとした。内部事情を暴露されるのを恐れた蒋経国は、次男の蒋孝武
を通し、国防部情報局長の汪希苓に命じ、有名な暴力団「竹聯幫」の陳啓礼らをアメリカに派遣、
劉を暗殺した(1984年10月)。ところが、江南は台湾出身であるものの、既にアメリカの市民権を
取った「アメリカ人」であったため、かつ、影には蒋経国の姿もあった事が明るみに出て、アメリ
カの非常に強い反発(台湾への武器供給停止検討)を招いた。言ってみれば、台湾の政府が、暴力
団をアメリカへ派遣し、アメリカ国民を殺害したのだから当然だ。アメリカの対抗措置を恐れた蒋
経国は、翌1985年、アメリカのタイムズ紙に「蒋家の子孫は今後中華民国の総統には就かない、
又、総統は選挙によって選出される(国民代表大会による間接選挙)旨語った。

 このあと、蒋経国は蒋孝武をシンガポールへ送り、リークワンユーに「シンガポール駐在商務副
代表」として、その庇護を依頼している。このことを、台湾大学の歴史教授、陳翠蓮先生が詳しく
書いている。

 政府は、情報局長の汪(下写真参照)を終身刑に処し、ここ景美軍法処に送ったのだが、しっぽ
切りにすらなっていないのは、一般の囚人のような監獄ではなく、寝室、応接室、書斎などもそな
えた「別荘」に住まわせていた。おまけに1991年には減刑され「出獄」している。(人権博物館内
に残っており公開されています)

2)逮捕〜取り調べ〜判決(禁固・死刑)まで

 逮捕の後は、偵訊(取り調べ)〜審判(判決)〜服刑or槍決(銃殺)の過程がある。取り調べの
段階では様々な拷問が行われた。

<灌辣椒水>
 囚人を板に乗せ、手足を縛る、かかとのしたにレンガを入れ、高くし、膝の部分はきつく板に縛
り付ける(これで既に激痛)。やかんに、唐辛子をたっぷり入れた水を用意し、口から流し込む。
口にかかった布は濡れており、息は吐けず、吸う事しかできない。すると唐辛子水はどんどん胃に
入り込み、激痛は全身から脳まで響いてくる。

<螞蟻上樹>
 囚人をパンツ一枚にし、体中に砂糖水をかけ、手足を縛り、草地に放置する。蟻が集り、体中を
咬む。余りの痛さにショック死するケースもあった。

<抜指甲>
 囚人の爪をペンチではがす。なかには、この刑を避けるため、自ら爪を剥がすものもいたが、刑
官の怒りを買い、太い針を、爪を剥いだあとの隙間に差し込まれるケースもあった。

<その他>
 太い縄を腰より少し高い高さにしっかり張り、女性囚人の下半身を裸にして後ろ手で縛り、縄を
またがせ、刑官が左右両側から囚人を押さえつけ前後に動かす。縄は膣に食い込み、血は股を流
れ、その痛みと恥辱に耐えかね、このあと自殺する者もいた。
(人間の尊厳とは……柘植)

 これらの拷問が行われたのが、最初に送られた、昔の東本願寺。ここが戦後、保安司令部の保安
処となった。それと国防部の保密局、これは今は跡形もない。総督府の裏あたり、延平南路にあっ
たが、ここでも同じような拷問が行われていた。

 拷問は取り調べの段階で行われ、何の証拠のなかったが、自白書を無理やり作られ、その後、青
島東路の軍法処(今のシェラトンホテル)で、判決を受けた。ここまで来ると拷問はない。判決が
終わると、刑の執行がある。禁固は、当時は緑島。死刑(銃殺刑)になると、即、馬場町(今の青
年公園南側)へ送られた。

(緑島の模型前で)
 緑島の収容所は2期に分けることができる。これは第1期(1951〜1965年)のもので、牢屋ではな
く、平原のような強制収容所だった。「新生訓導処」が正式名称で、「集中営」と呼んでいた。こ
こでは「労働改造」という仕事に従事した。今では跡形もない。ここには「3大隊」がいた。1大隊
とは4中隊で、1中隊には130〜150人がいた。(今、島に残っている建物は、この頃のものではなく
第2期の1972年の施設)ここでは、昼間は外へ出られた。

 勉強もさせられた。三民主義や、孫文や蒋介石の教えを学ばされた。それまで勉強したこともな
かったマルクス主義や毛沢東思想などの批判も勉強した。

 島に上陸したのは1951年5月のことで、女性も30人くらいいた。台湾のモダンダンスの母といわ
れた蔡瑞月は、日本でモダンダンスを学び、台湾で広めようとしたら、「思想に問題あり」と見ら
れ、島に送られてきた。子供が生まれたばかりだったのだが、母子は引き裂かれてきた。台湾大学
病院の優秀な医者もいた。内科主任の、将来のノーベル医学賞の候補といわれた許強(1913-1950
年)は馬場町で殺された。眼科主任の胡●麟博士は生き延びた(●=金の下に金金)。その他多く
の医者がいた。

 その頃、我々思想犯や、刑務所の長官などもそれらの先生に診てもらっていたが、そのうち、島
の住人も看てもらいに来ていた。当時、こんな辺鄙なところに似合わない、先進的な医療が受けら
れる場所となっていた。

 当時は電気も水道もない、渓流ひとつに頼り生活していた。川で水を汲み、食事を作った。畑を
作り、豚や七面鳥(鶏の間違い?)など家畜も飼っていた。女性もいたが、あまり外出は許されな
かった。その他、海で石を切り出し、居住区の石塀を作らされたが、これを「万里の長城」と呼ん
でいた。

 この施設は15年ほど続いたあと、囚人は台東の泰源という監獄に送られたが、ここで1970年、蒋
経国が初めてアメリカを訪問した年、台湾独立を目指す若者による暴動事件があり、1972年、再
び、緑島に戻されたのだが、今度は24時間外出が一切できない、「緑洲山荘」と呼ばれる施設に押
し込められた。これが戒厳令解除の1987年まで続く(下の写真)。

 最後の政治犯となったのが、爆弾小包を謝東閔(台湾省政府主席)あてに送って怪我をさせた王
幸男(1941〜)で、1977年から1990年までこの施設にいた。彼は出獄するとき、車を借りて島内を
回り、小高い丘まで来て、眼下に広がる緑島と、遥か彼方に見える台湾本島と中央山脈を見て、
「こんな美しい国の為なら命をささげても惜しくはない」と言った。

 1950年代に捕まったのは、殆どが「アカ」のレッテルを貼られたものだった。が、逮捕の理由
が、次第に「台湾独立」の色がでてくる。1964年9月、彭明敏、魏延朝、謝聡敏らが「台湾自救運
動宣言」を発表し捕まる。謝のメモを、唯一日本人で服役していた小林正成(1933年〜)が秘密裏
に持ちだし、タイムズ紙で発表されるに至り、それまで「台湾には政治犯はいない」としていた蒋
父子のウソが明るみに出た。これにより、1970年代から、台湾島内にいた牧師やカトリックの神
父、国際アムネスティなどの団体が、国内外から救援活動を始めるきっかけとなった。

(女性囚の写真を前に)
 この女性は銃殺刑にあった人だが、高等女学校を出たインテリだった。恋仲だった男は先に捕ま
り、女も結婚して子供ができた後捕まった。獄中で前の男と再会し、自分の髪の毛を男に託した。
処刑の日、母と離れるのをいやがる子供を無理やり引き離され処刑された。男は出獄後、預かった
髪の毛を、女学校の大木の下に埋めたという、辛い話も多くある。

(仁愛楼=獄舎、の入り口付近)
 囚人の家族は、面会の時、この横の扉から入ってきた。従って、この道を「探親之路」と呼ぶ。
入口には24時間衛兵が立っていた。

 美麗島事件(1979年12月)で捕まった林義雄(1941〜)の母が、1980年2月27日、ここにきて、
息子と面会した。痣だらけでやつれ果てた息子を見た母親は面会室から出てくると、慟哭し、叫ん
だ。「何故、無実のわが息子がこんな目に逢わねばならないのか!一体、何をしたというのだ!」

 その翌日、警察によって24時間警備されていた「はずの」林義雄の家に何故か「賊」かが入り、
地下室に逃げたこの60歳の母親と、7歳になったばかりの愛くるしい双子の娘(下の写真)の命を
奪った。母親はなんと13か所もの刺し傷、切り傷があった。一階にいた9歳の姉は、6か所もの傷を
負ったが、奇跡的に一命を取り留めた。犯人は未だ分かっていない。(蔡氏、慟哭)

<参考>
 事件後、収入が途絶えた林家は、この自宅(信義路3段31巷16号)を売却しようとしたが、皆怖
がって買い手がつかない。これを見た長老教会が募金を呼びかけ、この場所に「義光教会」を設立
した。

 奇しくも、2月28日の出来事。我々は2回目の228事件、と呼んでいる。これが台湾の歴史だ。
勿論、国民党の仕業とは断定できないが、24時間警備体制にあった敷地内に忍び込み、これだけの
殺傷をやって逃げているのに、犯人は不明、というのがこの台湾の現実なのだ。

 ここの獄舎は「仁愛楼」という名前がついている。そして緑島の24時間外出禁止の獄舎は「緑洲
山荘」。中国人の感性がうかがい知れる。無辜の民をこんな目に会わしておいて、何が仁愛だ、山
荘だ!

(青島東路の軍法処模型前で)
 これが、我々の時代の軍法処の模型だ。先ほど話したように、最初に東本願寺に送られた。日本
時代は立派なお寺だったが、戦後、本殿を小さなブロックに分け、9月中秋節の頃、ここに送られ
た。その後、国防部保密局を経由し、10月初旬、軍法処に送られ判決となった。入口にコスモスの
花が咲いていたのを覚えている。

 元々大きな倉庫で、2階建てで窓はなかった。模型のように、左右2つの区に分けられ、40位の部
屋(牢屋)に分かれていた。1つが約6坪位の大きさで、そこに20〜30人押し込められた(=約2.5
人/畳1枚)。私は5号室で、ここには28人入っていた。トイレも窓もなかった。天井には20ワット
(かなり暗い電球)くらいの電球が一つ垂れ下がっていた。

 空気は淀むので、真ん中に毛布を吊り、それを交代で揺らし、少しでも空気の動きを作ろうとし
た。トイレの代わりに、「便桶」が一つ置いてあり、新入りはこの横が寝場所になった。1人死刑
になると、寝場所が少しずつ、いい場所に繰り上がっていく。足は伸ばせず、曲げて寝ていた。10
月から翌年の1月までここにいた。その後、新店の映画館を改造したところに送られた。当時は、
軍の倉庫、映画館、学校などが全部監獄にされていた。

 イワシの缶詰、というが、イワシは尾鰭を全部伸ばせているので、我々よりましだった。その
後、緑島に送られた時は、足を伸ばせて寝ることが来たので、それは気持ちよかった。

 怖かったことは、早朝の憲兵の足音だ。部屋の外の鉄門がギーッと開き、足音が近づいてくると
皆一斉に目を覚ます。恐怖の時間が来る。入ってきた憲兵は、囚人の名を呼ぶ。呼ばれた者はその
日のうちに、刑場の露と消えた。何回もそんなことを経験した。

 ある日、18歳の誕生日を迎えたばかりの青年が、向かいの牢屋から出てきて、我々の部屋の格子
に掴まり、「先輩方、お世話になりました。お先に失礼します。」と挨拶に来た。まだ声変わりし
て間もないような、でも体格のしっかりした青年だった。

 後で聞いた話だが、その青年は名前が呼ばれると顔色が変わり、それでも健気に身支度し、母の
写真を取り出し、「お母さん、すみません、先に参ります。」と挨拶し出て行ったそうだ。私より
2つも若い子が死刑になるなんて、死神も自分のところの近くまで来たのか、と思った。

 多くの人が、早朝点呼で呼ばれ、身支度し、出て行く時、我々は安息歌、鎮魂歌を歌ってあげ
た。あなたが流した血は道を照らし、我々はそれを又、中国大陸で多くの大学生が殺された時、そ
れを追悼する歌だった。

 時には、先輩の中には、日本教育を受けていた為、早くから覚悟を決め、家から真っ白なシャツ
を持ってきて、「逝く時は真っ白なシャツに真っ赤な血を流すんだ」と言っていた者、短歌を詠む
者など、ロマンチックな死に方をした人も多くいた。

 処刑の時は、呼ばれていくと、がんじがらめに後ろ手に縛られ、胸に名前を貼られ、処刑前・後
の写真を撮られる。その写真は、保安司令部〜国防部を経由し、総統府まで届けられ、蒋介石自身
が確認する。大陸で多くの部下の寝がえりに会い、共産党に負け、台湾に逃げてきて、人を信じる
ことが出来なくなっていたのだろう。時には、20人のうち、例えば死刑が5人だと、それに満足せ
ず、「12年以上は全部死刑」、とか、又、特定の人を指定し、「こいつは死刑!」とか「こいつは
何故死刑にしないのか」などと赤い筆で指示を書いたりしていた。「軍法」に基づいた判決なのだ
が、実際には蒋介石の意見で殺された人も多くいた。

 私は1950年、20歳の誕生日を、シェラトンホテルの地で迎えたのだが、今でも自慢している。誕
生日は、5つ星のホテル(軍法処)で、何百人ものお客さん(囚人)にお祝いしてもらったと(笑)

 この軍法処が1968年、ここ景美に来た。ここには洗濯工場があった。アイロンかけもやってい
た。

 当時、総統府に機密室があった。その資料組の主任が蒋経国だった。彼は、情報組織と軍を一手
に収め、そこから意見が出てきて、蒋経国から蒋介石に上がっていたかもしれない。総統府に行く
前に、作戦部があったが、ここの主任も蒋経国だった。国防部でも、蒋経国の部下から意見があが
り、国防部長も認め、総統府に送られた。従って、すべての情報機関は蒋経国の支配下にあった。
その次男、孝武(1945〜1991年)も蒋経国に習い、国防部の情報機関にいたが、父と同じように情
報組織を抑えていたら、蒋経国の後を継いでいたかもしれなかったが、早まって暴力団をアメリカ
に送ってしまったことが裏目にでて、夢は破れた。それがなかったら、後を継ぎ、台湾は北朝鮮の
ようになっていたかもしれない。

(売店にて)
 ここが売店。囚人は自由に買い物は出来なかった。欲しいものがあると紙に書いて、外役(雑役
に従事する囚人)に頼む。外役はまとめ買いして、囚人に分配した。

(面会室にて)
 差し入れをするときは、ここで登録した。差し入れの品は厳しくチェックされた上で囚人に届け
られた。果物などは、切られて中身も確認された。判決を待つ人、判決がでた人は面会が出来る。
登録後、面会室で面会する。囚人とはガラス越しに電話で会話をする。面会は10分に限られてい
た。言葉も北京語のみで、台湾語や日本語は硬く禁止されていた。我々の時代は戦争が終わったば
かりで、まだ北京語が十分できない人も多かった。

 青島東路の軍法処にいた時、印象に残っているのは、基隆高校(台湾省立基隆中学)の校長をし
ていた鐘浩東(1915〜1950年)だ。

 早朝の点呼で呼ばれ、死刑にされたが、彼は以前から「俺が行く時は安息歌のような悲しい歌は
歌わないで、幌馬車の歌、を歌ってくれ」(これだって十分悲しい)と言っていた。彼は、李登輝
と同様、台北高等学校を出て、その後明治大学を卒業、台湾へ戻り、蒋渭水(1890-1931年、台湾
の社会運動家)の娘と結婚した。熱血漢で、奥さんと中国に渡り抗日運動をやっていた。向こうで
憲兵に捕まり、学歴の高さから日本のスパイと勘違いされ、あわや銃殺されそうになったが、台湾
から来ていた丘念台(広東出身の台湾客家人)に助けられた。戦後、台湾に戻り、高級官僚にもな
れたのだが、官を嫌い、教育の道を選んだ。生徒から慕われた校長だったそうだ。国民党の堕落に
怒り、ガリ版で新聞(「光明報」)を作り、政府批判を行い、捕まった。

 私は、「幌馬車の歌」は、日本人の叔母から習い知っていた。鐘浩東が牢から出されるとき、多
くの部屋からこの歌が聞こえてきた。どんどん声が大きくなり、泣きながら歌っている人もいた。
私が、青島東路の軍法処に来て間もないころだ。

 因みに「非情城市」(1989年、監督:候孝賢)でも「幌馬車の歌」が出てくる(映画の1h-41m-
22sシーン)が、これは間違い。この映画は228事件(1947年2月)を扱っており、この頃は、ま
だこの歌は獄中で歌われていない。1950年10月に鐘浩東の為に皆が歌ったのが始まりだ。

 鐘浩東は、1949年に捕まり、最初は内湖の国民学校に送られ、感化教育を受けた。中国で抗日活
動を行い、「祖国」の為につくしたのが評価された。始末書(反省文?)を書けば許してやる、と
言われたらしいのだが、私は最後にみんなと歌でお送りすることができ光栄だった。

(軍事法廷にて)
 ここは秘密(非公開)裁判が行われた軍事法廷。家の人は掴まってから、ここへ送られるまでど
こへ送られているのか分からない。取り調べや拷問に合っているときは、家の人は自分の子供が、
1年も2年も、どこで何をされているのか全くわからない。ここにきて、判決を受けるとようやく手
紙を書くことができる。私も、青島東路の軍法処に来てから初めて家に手紙を書いた。

 判決前から差し入れはできるが、面会は判決後しかできない。

 この軍事法廷の建物は、いくつかの部屋に分かれている。各部屋に壇があり、裁判官、検察官は
上、囚人はもちろん下だが、1968年から付くようになった公設弁護人も下。普通は、弁護人と検察
は同じフロアに座るのだが、軍事法廷では違った。また、弁護人といっても刑を軽くするのではな
く、自白を強要するようなことが役割だった。ここにあるようなベンチはなかった(非公開だから
見に来る人はいない)。

 国民党に情報公開(「転型正義」)を請求しているが、なかなか出てこない。林義雄のお母さ
ん、娘さんが殺害された「林宅血案」の件も真相は今でも闇の中だ。24時間、警察が監視していな
がら何故そんなことが起こったのか。もし当時の国民党の文書や、蒋経国のメモでも出てくれば何
かわかるかも知れないが……。

(美麗島事件の法廷にて)
 1979年12月10日、高雄で美麗島事件が起こった。当時、アメリカや世界各国から、又、国外にい
る台湾のエリート達からも蒋経国に、公開裁判や死刑反対の意見がだされ、最終的に美麗島事件は
公開裁判となった。美麗島事件はその点で幸運だった。海外からの圧力がなければ、我々の時代と
同様、秘密裁判だったかもしれない。政府は、この事件で民主化の動きを一網打尽にしようとした
が、逆に公開裁判とせざるを得ない状況となった。

 相変わらず検事と裁判長は上で、弁護人は下だが、この裁判では、弁護人は、公設ではなく、の
ちに総統となる陳水扁や、駐日大使の謝長廷らの民間弁護人が弁護を務めた。傍聴席が出来たの
も、この美麗島事件が公開裁判となったことの成果だ。

 (後ろに貼ってある)写真には、起訴された8人のうち、7人しか写っていない。林義雄は、母子
殺害事件の処理の為、一時釈放されていたからだ。呂秀蓮、陳菊もいる。施明徳は笑っている。後
ろにいるのは憲兵。傍聴者は海外からも来て、連日メディアで報道された。

 今まで、暴動だと思っていた人々は、施明徳らが、台湾の発展を心から願い、自分たちの考えを
堂々と語ることに感銘を受け、政府の(民主化を抑えようとする)狙いとは逆に、民主化の動きが
一気に高まった。施明徳などは英雄視されるようにすらなった。

 悪いことをしたやつをかくまった「別荘」、軍事法廷や、仁愛楼、美麗島事件の公開裁判を見る
と歴史の流れが見えてくる。一般的に、蒋経国はオヤジよりも開明的で民主的だと言われている
が、蒋経国こそが白色テロの張本人である。

 今日はここお越し頂き本当にありがとうございました。時間があれば是非緑島の方もご案内させ
ていただきます。

                                         以 上

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2>> 3月3日、台独聯盟日本本部が許世楷氏と李明俊氏を講師に「台湾2・28時局講演会」

 台湾の歴史において、決して忘れてはいけない重大事件が1947年に起きた二・二八事件です。

 尊厳と社会参画を求めて立ち上がった台湾人に対して、中国国民党は容赦なく大量殺戮を行い、
わずか1カ月で3万人以上の知識人が犠牲になりました。その後も長く続いた国民党の独裁政治から
脱却するためには、地道な長期に亘る努力が必要でした。海外で行われた台湾独立運動が台湾の民
主化に果たした役割について、長年、独立運動に尽力してこられた許世楷先生(元駐日大使)に
「台湾独立運動が台湾の民主化に果たした役割」と題してお話を伺います。

 また、11月24日の統一地方選挙の結果についての分析や、現在の台湾の直面する問題と今後の情
勢の見通しについて、台湾安保協会副理事長の李明峻先生に「台湾は中国の侵略を如何に防ぐか」
と題して見解をお聴きしたいと思います。

 有意義な講演会になると思いますので、お誘いあわせの上、ご来場下さいますよう御案内申し上
げます。【使用言語:日本語】

許世楷(きょ・せいかい)氏:
1934年生まれ。台湾大学法学部卒。早稲田大学修士課程・東京大学博士課程修了。津田塾大学名誉
教授。法学博士。「台湾共和国憲法草案」起草者。2004年〜2008年、駐日台湾大使。夫人盧千恵氏
と共に台湾独立運動に尽力。主な著書に『日本統治下の台湾』『台湾は台湾人の国』『台湾という
新しい国』など。

李明峻(り・めいしゅん)氏
1961年生まれ。台湾大学卒。京都大学博士課程修了。法学博士。岡山大学法学部助教授を経て、台
湾中原大学助教授、新台湾国策シンクタンク研究所等勤務。台湾安保協会副理事長。

 2019年1月吉日

                        台湾独立建国聯盟日本本部 委員長 王 明理
 
                     記

◆日 時:2019年3月3日(日)  14:00〜17:00(13:30開場・途中休憩有)

◆会 場:京王プラザホテル 本館4階 花の間

     東京都新宿区西新宿2-2-1 TEL :03-3344-0111
     【交通】JR「新宿駅」西口 徒歩7分
         地下鉄大江戸線「都庁前駅」徒歩5分

◆講 師:
 許世楷氏「台湾独立運動が台湾の民主化に果たした役割」
 李明峻氏「台湾は中国の侵略を如何に防ぐか」

◆参加費:2,000円 (学生1,000円)

◆懇親会:17:30〜19:30(南館 4階 扇の間)
     会費=7,000円(学生3,000円)

◆申込み:申し込みフォーム:goo.gl/forms/PrteGch4Eldt5XX52
     又はFAX 03-6869-5059で

◆締 切:2月28日(木)

◆後 援:全日本台湾連合会 、日本李登輝友の会、日本文化チャンネル桜、日本政策研究セン
     ター、台湾研究フォーラム、アジア自由民主連帯協議会、民主維新、基進党

◆主 催:台湾独立建国聯盟日本本部
 TEL:03-6869-3239  FAX:03-6869-5059
 E-mail:wufijapan77@gmail.com
 ホームページ:www.wufi-japan.org/

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2019年「台湾2・28時局講演会」FAX用申し込み票 (03-6869-5059 宛て)

・御氏名:
・学生:在籍校名
・連絡先:
・FAX:
・メールアドレス:
・出 席: (  )講演会に参加します。  (  )懇親会に参加します。

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【日本李登輝友の会:取扱い本・DVDなど】 内容紹介 ⇒ http://www.ritouki.jp/

*ご案内の詳細は本会ホームページをご覧ください。

● 台湾フルーツビール・台湾ビールお申し込みフォーム  
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*台湾ビール(缶)は在庫が少なく、お申し込みの受付は卸元に在庫を確認してからご連絡しますの
 で、お振り込みは確認後にお願いします。【2016年12月8日】

● 美味しい台湾産食品お申し込みフォーム【常時受付】
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*台湾の高級調味料XO醤は在庫切れのためお申し込みを中止しています。悪しからずご了承のほ
 どお願いします。入荷予定が分かり次第、本誌やホームページでお伝えします。(2019年1月9日)

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 *詳細は本会HP ⇒ http://www.ritouki.jp/index.php/info/2018pineapplecake/

*沖縄県や伊豆諸島を含む一部離島への送料は、宅配便の都合により、恐縮ですが1件につき
 1,000円(税込)を別途ご負担いただきます。【2014年11月14日】

*パイナップルケーキ・マンゴーケーキを同一先へ一緒にお届けの場合、送料は10箱まで600円。

・奇美食品の「鳳梨酥」「芒果酥」 2,900円+送料600円(共に税込、常温便)
 [同一先へお届けの場合、10箱まで600円]

・最高級珍味「台湾産天然カラスミ」 4,160円+送料700円(共に税込、冷蔵便)
 [同一先へお届けの場合、10枚まで700円]

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・浅野和生編著『日台関係を繋いだ台湾の人びと1・2』*new
・劉嘉雨著『僕たちが零戦をつくった─台湾少年工の手記』
・渡辺利夫著『決定版・脱亜論─今こそ明治維新のリアリズムに学べ』
・呉密察(故宮博物院長)監修『台湾史小事典』(第三版)
・王育徳著『台湾─苦悶するその歴史』(英訳版) *在庫僅少
・浅野和生編著『1895-1945 日本統治下の台湾』
・王明理著『詩集・故郷のひまわり』
・李登輝著『李登輝より日本へ 贈る言葉』 *在庫僅少
・宗像隆幸・趙天徳編訳『台湾独立建国運動の指導者 黄昭堂』
・林建良著『中国ガン─台湾人医師の処方箋』 *在庫僅少
・盧千恵著『フォルモサ便り』(日文・漢文併載)
・黄文雄著『哲人政治家 李登輝の原点』
・李筱峰著・蕭錦文訳『二二八事件の真相』

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・2018年 李登輝元総統沖縄ご訪問(2018年6月23日・24日)*new
・2014年 李登輝元総統ご来日(2014年9月19日〜25日)
・片倉佳史先生講演録「今こそ考えたい、日本と台湾の絆」(2013年12月23日)
・渡部昇一先生講演録「集団的自衛権の確立と台湾」(2013年3月24日)
・野口健先生講演録「台湾からの再出発」(2010年12月23日)
・許世楷駐日代表ご夫妻送別会(2008年6月1日)
・2007年 李登輝前総統来日特集「奥の細道」探訪の旅(2007年5月30日〜6月10日)
・2004年 李登輝前総統来日特集(2004年12月27日〜2005年1月2日)
・許世楷先生講演録「台湾の現状と日台関係の展望」(2005年4月3日)
・盧千恵先生講演録「私と世界人権宣言─深い日本との関わり」(2004年12月23日)
・許世楷新駐日代表歓迎会(2004年7月18日)
・平成15年 日台共栄の夕べ(2003年11月30日)
・中嶋嶺雄先生講演録「台湾の将来と日本」(2003年6月1日)
・日本李登輝友の会設立総会(2002年12月15日)

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