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日本の「生命線」台湾との交流活動や、他では知りえない台湾情報などを、日本李登輝友の会の活動とともに配信するメールマガジン。

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【メルマガ日台共栄:第1747号】 【尖閣】 石井望・長崎純心大学准教授が中国・台湾の歴史的根拠を徹底論駁!

2012/12/09

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1>> 【尖閣】 石井望・長崎純心大学准教授が中国・台湾の歴史的根拠を徹底論駁!
2>> 馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝─尖閣論考(1)【八重山日報:2012年11月26日】
3>> 馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝─尖閣論考(2)【八重山日報:2012年11月27日】
4>> 馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝─尖閣論考(3)【八重山日報:2012年11月28日】
5>> 馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝─尖閣論考(4)【八重山日報:2012年11月29日】
6>> 馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝─尖閣論考(5)【八重山日報:2012年11月30日】
7>> 馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝─尖閣論考(6)【八重山日報:2012年12月1日】
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1>>【尖閣】石井望・長崎純心大学准教授が中国・台湾の歴史的根拠を徹底論駁!

 尖閣問題について11月23日発行の本誌で、長崎純心大学准教授の石井望(いしい・のぞ
む)氏が、中国と台湾が尖閣領有の「歴史的根拠」としている文献は日本領有の正当性を
逆証明する史料であり、その主張が崩壊したことを「八重山日報」の記事から紹介した。

 改めて石井准教授の指摘を紹介すると、台湾の馬英九総統が見つけ「釣魚台の領有権は
いささかの疑いもない」と強調したという『全台図説』(1872年)は、尖閣諸島が清国の
国外だったことを示す史料だった。

 また中国の楊潔●外相が「中国は明の時代より600年間、釣魚列島を支配している」とし
て依拠した『順風相送』という航路案内書は、600年前ではなく440年前に成立したもの
で、記述は尖閣諸島が琉球に帰属する内容となっていて、中国側の主張に歴史的根拠がな
いことを示す史料だった。(●=簾の广を厂に、兼を虎に)

 今のところ、中国と台湾からは石井准教授の指摘に対する反応はなく、口をつぐんだま
まだが、石井准教授はその後も「八重山日報」に「馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝」
と題して論考を連載し、中国と台湾の領有根拠文献について論駁している。

 連載は11月26日から12月1日までの6回。以下にその全てをご紹介したい。記事では分か
りやすい図版も掲載していて、下記のリンク先をクリックすると出てくる。

 なお、掲載にあたっては読者の便を考慮し、記事の漢数字表記を算用数字に改め、正漢
字も常用漢字に改めたことをお断りしたい。

◆石井望「馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝」(八重山日報:11月26日〜12月1日)
 http://tinyurl.com/baeikiu6

 ちなみに、石井准教授は、平成5(1993)年に蘇州大学研究院古代文学専業修士課程を修
了した後、平成7年に京都大学大学院文学研究科修士課程を修了、長崎総合科学大学講師を
経て、平成20(2008)年から長崎純心大学で教鞭と執っている漢文学者。研究テーマは、
元曲崑曲の音楽、唐人燕楽の音律、漢字音図、蘇州語、長崎の漢文。

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2>> 馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝─尖閣論考(1)【八重山日報:2012年11月26日】

 チャイナの尖閣奪取運動が猖獗(しゃうけつ)を極めてゐた本年9月14日、台湾各社報道
によれば、馬英九総統は1872年(明治5年)の成立著作「全台図説(ぜんたいづせつ)」
(清・周懋琦(しうぼうき)著)の中から、「釣魚台」(今の尖閣諸島・魚釣島)の記述
を発見したといふ。記述個所に曰く、

 「山後大洋有嶼。名釣魚台。可泊巨舟十余艘。崇爻山下可進三板船。」

 (山後の大洋に嶼(しま)あり、釣魚台と名づけらる。巨舟十余艘(よそう)を泊すべ
 し。崇爻山(すうかうさん)の下は三板(さんぱん)船を進むべし) 

 と。「山後」とは台湾島の東半分である。崇爻は今の花蓮である。三板船は小船であ
る。文意は、「台湾東側の大海に島が有り、島名は釣魚台といふ。大船十艘あまりが碇泊
可能である。花蓮の海岸には小船を入れられる」となる。

◆NYタイムズにも

 馬英九氏は釣魚台を題材に博士論文を書いたほどのマニアで、漢文史料をめくってゐた
時にこの記述に出逢ったといふ。早速ニュースは台湾だけでなくチャイナのインターネッ
トを馳せ巡った。数日後には台湾外交部の公式ネットページにも、領有史料の一つとして
掲載された。 

 少し遅れてニューヨークタイムズ紙の著名記者、ニコラス・クリストフ氏のブログに台
湾の国際法学者邵漢儀氏の論文が掲載され、「全台図説」のこの記述も取り上げられた。
クリストフ記者はチャイナ側の主張を支持してゐる。それに対し駐ニューヨーク日本領事
館の川村総領事が反論を投稿したことは、ひろく報じられたのでご記憶だらうか。しかし
川村氏は漢文史料に論及しなかった。

◆日本領有の直前に

 この記述そのものは他史料にも屡見するので、私はまた同じものが一つ増えただけのこ
とと思った。新発見といふのも疑はしく、誰かが以前に論及してゐた可能性もある。とは
言へ史料が成立したといふ西暦1872年は、日本が尖閣を領有した西暦1895年から僅か23年
前であり、国際法上で決定的な意味を持つかも知れない。よって念のため原書をしらべて
みることにした。

 その結果、何のことはない、「全台図説」のこの個所は「奇来」(今の花蓮)の段の中
で述べられてゐた。奇来は清国の領外であるから、釣魚台も国外としての記載なのである。

(本連載は、11月5日八重山日報記事への解説です。石井氏の希望で旧仮名使いにしてあり
ます)
                              (長崎純心大准教授)

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3>> 馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝─尖閣論考(2)【八重山日報:2012年11月27日】

 「山後の大洋の釣魚台」の記述は多くの史料に見えるもので、西暦1852年の官製地理書
「葛瑪蘭(カバラン)庁志」にも見える。私は他と同じやうなものと思って注意しなかっ
たのだが、馬英九総統の一件もあってこちらの原書もしらべてみた。

 するとこれまた何のことはない、釣魚台(尖閣)は「蘭界外」といふ一段に記載され、
蘭(宜蘭)の境外すなはち清国外に釣魚台が在ったことを示してゐる。チャイナ側はこれ
まで釣魚台が宜蘭に属すると公式に主張してをり、その根拠の一つがこの書なのだが、よ
くみると逆に主張を全否定する史料なのである。

 「蘭界外」の記述を見つけてから、念のためインターネットを検索したところ、今年9月
10日に台湾の著名人・潘建志氏のブログ「BILLY・PAN的部落格」で既に発表され
てゐた。私は第一発見者になり損ねたのだった。

 宜蘭(葛瑪蘭)の領域はどこからどこまでか。同じ「葛瑪蘭庁志」内の記述で確認して
置かう。巻一「疆域」(領域)の段に曰く、

 「東北至[三水偏に卯]鼻山、水程九十五里。……東南至蘇澳過山大南澳界、八十里。」

 (東北のかた[三水偏に卯]鼻山に至る、水程九十五里なり。……東南のかた蘇澳より山
 を過ぎたる大南澳の界に至る、八十里なり) 

 と。[三水偏に卯]鼻山(ぼうびさん)は宜蘭領域の東北端の岬である。蘇澳(そおう)
は宜蘭の東南端の臨海平原である。大南澳は平原から山を越えて更に最南端の村である。
釣魚台は宜蘭の東北方向170キロメートル先に在るから、明白に宜蘭の界外である。この記
述は潘建志氏も既に引用してゐる。

◆未知の領土外情報の集まり

 「蘭界外」の一段には、山後(台湾東部)の奇来(花蓮)を中心とする先住民の情報が
集められてゐる。情報源は道光辛卯(西暦1831)年の福建人蔡某の報告及び、それ以前の
地誌諸本の零砕(れいさい)記述である。地誌からの情報では、山後の先住民の一部が毎
年「社餉」(貢物)を清国にもたらしたとする。蔡某は名前も記録されないから、山後の
先住民の中で邪利を貪った民間通事(仲買人)か、もしくは通事を介して先住民と交易し
た社商(清国指定商人)の類だらう。仮に社商だとしても、その情報源は矢張り通事であ
り、社商は直接先住民の中まで這入らない。

 念のため社餉の実際を粗覧しよう。古典とされる「裨海紀遊」などによれば、一部の先
住民が狩猟で得た鹿などを、通事が不平等交易でしぼり取り、社餉として清国の社商に転
売し、社商が地方政府に納めたといふ。清国側は税に類する貢物と位置づけるが、かりに
貢物を定期的に納めたとしても、それは近隣の朝貢国と同じことに過ぎない。実際には先
住民側にとっては民間通事との不平等交易であって、仲買を経て間接的に清国に転売され
たのだから、貢でも朝でもない。朝貢国よりも更に疎遠である。しかも交易したのは先住
民のうち所謂「化蕃」(貢納する先住民)に過ぎない。

 「葛瑪蘭庁志」の記録は、道光年間に至ってなほこの種の民間通事の情報に頼るほどだ
から、清国が山後を統治してゐなかったことをよく示す。されば未知の国外の情報を集め
たのがこの一段なのである。

▼領土外情報の末尾に釣魚台

 これら国外情報の末尾に、「重修台湾県志」といふ地誌から釣魚台及び花蓮の記述が引
用される。馬英九氏発見の史料とほぼ同文である。そして引用文の後に曰く、

 「竟有至其地、可知也。」

 (竟に其の地に至る有りと知るべきなり) 

 と。「竟」は古義で「つひに」と訓ずるが、ここではチャイナ語習が混入して驚きを表
はす語だらう。句意は「驚くべきことにその地に到達した人がゐると分かる」となる。到
達をわざわざ述べるのだから、花蓮も釣魚台も国内ではないとの認識を看て取ることがで
きる。

                              (長崎純心大准教授) 

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4>> 馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝─尖閣論考(3)【八重山日報:2012年11月28日】

 長い歴史の中で、尖閣航路の渡航を主導してゐたのは常に琉球人であった。「全台図説
(ぜんたいづせつ)」に至る釣魚台(尖閣)情報も、琉球人が提供した可能性が極めて高
い。清国人(しんこくじん)は使節として琉球に渡る際に情報を得て、それを地誌の編纂
者が採用したと推測するのが最も自然である。

 そもそも尖閣の帆船航路は季節風を利用せねばならず、無人島で折り返すことはできな
い。西から来れば、必ず琉球まで進んで季節風の移ろひを待つ。尖閣を宜蘭領域の限界線
として確認し、そのまま台湾へと折り返すといふのは空想に過ぎない。

◆花蓮は領土外か

 チャイナ側主張の宜蘭(ぎらん)には、釣魚台が属してゐなかったこと前述(連載第2
回)の通りである。では釣魚台とともに記載される花蓮は確かに国外なのか。念のため台
湾史の通説を概観しておかう。

 清国は康煕22(西暦1683)年に台湾島の西側から上陸して、今の台南(たいなん)附近
を占領し、台湾島の西半分を侵略し始めた。19世紀初頭には東側北部の宜蘭にまで領土を
ひろげたが、東側中部の花蓮は最も遅くまで国外であった。

 明治7年(西暦1874年)5月に至り、日本の西郷従道(つぐみち)軍は東側南部の清国領
外「牡丹社」地域に遠征した。高校教科書に「台湾出兵」として載る事件である。清国領
外であるから清国との戦闘は無く、先住民との戦闘が行なはれた。

 このとき清国が台湾の東南部を「化外(くわがい)」即ち国外と位置づけたことが有名
で、清国の文書「籌弁(ちうべん)夷務(いむ)始末」内の間接的言説中に見えるほか、
羅惇融(らとんゆう)「中日兵事本末」などの野史(やし)に見える。化外の地は台湾全
土だと勘違ひされがちだが、主に東部だけである。日本の研究者の間では、化外であった
史実について清国に贔屓(ひいき)する政治的論調が多いので注意を要する。

 出兵後、同年10月に日清両国は条約を結び、日本はこれ以後台湾の東南部を清国領土と
することを認めた。しかし清国はまだ実効統治を始めたわけではなかった。

 焦った清国は、翌年(西暦1875年)に至り、東南部のみならず花蓮まで清国の行政区画
に編入することを決定した。そして「開山撫蕃(かいさんぶばん)」といふ武力侵攻を経
て、ほぼ西暦1878年に花蓮の大部分を清国統治下に入れた。その最後の「カリャワン戦役
(せんえき)」は、民族浄化の惨劇(さんげき)として近年の台湾史研究の一焦点となっ
てゐるらしい。多数の先住民が殺され、残虐な酷刑も執行された。

 「開山撫蕃」以前にも少数の清国人が花蓮に侵殖(しんしょく)してゐたが、違法とさ
れてゐた。清国は台湾に於ける国外入殖を禁じてをり、解禁したのは開山撫蕃と同じ西暦
1875年である。

 このやうに台湾史の大事を概観すれば、馬英九(ばえいきう)氏が「全台図説」の成立
年とする西暦1872年には、花蓮が清国の国外だったことが容易に分かる。

◆未知の尖閣を防衞する中華思想

 釣魚台は宜蘭に属せず、花蓮も国外であった。しかし西暦1878年前後に花蓮が清国の有
となった後も、釣魚台まで併せて清国となったわけではない。釣魚台は花蓮とともに記載
されただけであって、花蓮に属してゐたわけではない。

 その一証左(しょうさ)となるのが、「開山撫蕃」とともに釣魚台を記述した史料であ
る。清国の方濬頤(しゅんい)著「台湾地勢番情(ちせいばんじゃう)紀略」に曰く、

 「鷄籠山陰有釣魚嶼者、舟可泊、是宜設防。」

 (鷄籠(けいろう)山陰に釣魚嶼(てうぎょしょ)なる者有り、舟泊(はく)すべし、
 これ宜(よろ)しく防を設くべし)

 と。陰とは北である。この著作は「開山撫蕃」即ち台湾東部侵攻による領土編入の史事
を概論する。

 その中で「防を設ける」とは、同じく侵攻して領土に編入することを指す。「宜しく設
くべし」とは未来の空想である。されば西暦1875年の開山撫蕃の後にも、釣魚台は領土に
編入されてゐなかったことが分かる。しかも「釣魚台なる者有り」といふのだから尖閣を
ほとんど知らない。

 知りもしないのに防衞を大言するのが中華思想であり、この種の大言は到る処(とこ
ろ)に見られる。「普天(ふてん)の下、王土にあらざるなし」といふ古語も有り、全世
界の無主地は本来なら自国領土だと勘違ひしてゐる。

 そんな中華思想の基準は、聖徳太子時代からつづくユーラシア東半のインド文明圏諸国
と決して相容れないし、況(いはん)や近代国際公法に於いてをや。日本は断じてこの基
準を受け容(い)れてはならない。

                              (長崎純心大准教授)
 
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
5>> 馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝─尖閣論考(4)【八重山日報:2012年11月29日】

 馬英九氏最愛の「全台図説(ぜんたいづせつ)」の釣魚台(尖閣)の前段には、中部の
埔里(ほり)及び中部東路の花蓮の情勢を述べる。その文に曰く、

 「此時不即為患者、各国互相観望、不肯発端。久則必為外人所拠。心腹既為所拠、沿
 辺・海口交午相通、患有不可勝言者矣。」

 (この時即(すなは)ち患とならざるは、各国互ひに相ひ観望し、端を発(はつ)する
 を肯(がへ)んぜざるなり。久しければ則ち必ず外人の拠(よ)る所とならん。心腹既
 に拠る所となれば、沿辺(えんぺん)・海口、交午に相通じ、患あげて言ふべからざる
 者有り)

 と。大意は下の通り。「奇来(きらい)(花蓮)及び埔里など中部に対して、列強各国
は形勢を観望し、兵端を開いてゐない。心腹(中部)が列強に占領されれば、沿辺(領土
線)から東海岸まで交互に通じ合って害をなすだらう」と。沿辺の外として花蓮の情勢を
述べるのだから、国外である。 

◆同一史料で領土外

 「全台図説」は更に国内の記述部分でも、

 「将卑南以北各社、全行収隸版図。」

 (卑南(ひなん)以北の各社をとりて、全行して版図(はんと)に収隸(しうれい)せよ)

 との建議を述べる。卑南とは台湾島の東南部である。その北の各社とは、花蓮の各村落
を指す。領土編入の建議であるから、花蓮はまだ領土ではない。

 このやうに清国の統治は未だ台湾全土に及ばず、奇来を含む東部中路は国外であったこ
とが、馬英九氏の同一史料で明白である。そこに記載する釣魚台も、国外情報である。馬
英九(ばえいきう)先生には大いに感謝せねばなるまい。

 史実も重要だが、それよりも重要なのは、釣魚台を記録する史料自身が、花蓮を国外扱
(あつか)ひで記載することである。だからこそ、同個所に附記される釣魚台も国外扱ひ
と分かる。花蓮が国外であった史実そのものは補説に過ぎない。

▼馬英九史料は日本派兵の前年

 馬英九氏は「全台図説」を西暦1872年の成立とした。根拠は著者の周懋琦(しうぼう
き)が台湾府知事となったのがこの年なるがゆゑだらう。しかし篇中に曰く、

 「現在六社之中多設立教堂」

 (現在六社のうちに多く教堂を設立す)

 と。六社とは、台湾中部の埔里地域である。教堂とはキリスト教の教会堂である。埔里
に多数の教会堂(長老派教会)が建てられたのは西暦1873年(平成19年の張珣(ちゃうじ
ゅん)氏・姚嘉音(えうかいん)氏・林文徳の論文などによる)であるから、「全台図
説」の成立はこの年以後である。

 また全篇の内容は、前述の「開山撫蕃(かいさんぶばん)」(連載第3回)よりも前の地
方官制に本づいて書かれてをり、西暦1875年より以前の著作と分かる。しかも前述のやう
に兵端は開かれてゐないのだから、西暦1874年5月に日本が派兵するより以前である。

 更に篇中に「本年四月(陰暦)に外人が埔里で救災活動をしてゐる」と述べるので、成
立の月度(げつど)は陽暦6月から12月の間である。台湾キリスト教史にとっても重要な記
述だらう。

 以上により、成立年月は西暦1873年6月から12月の間と推定できる。この時、花蓮はなほ
清国の国外である。
                              (長崎純心大准教授)
 
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
6>> 馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝─尖閣論考(5)【八重山日報:2012年11月30日】

 「全台図説(ぜんたいづせつ)」と同じ「釣魚台」(尖閣)の記述は、2年前の西暦1871
年に出版された官製地理書「重纂(ぢゅうさん)福建通志」の「海防」の部の宜蘭(葛瑪
蘭(カバラン))の項目にも見える。宜蘭の項目に載ってゐることを根拠として、今のチ
ャイナ側の公式文書では釣魚台を宜蘭の所属とする。しかし、項目の劈頭(へきとう)に
曰く、

 「北界三貂、東沿大海」。

 (北のかた三貂(さんてう)に界(かい)し、東のかた大海に沿(そ)ふ)

 と。これは宜蘭の界域を述べてゐる。三貂は領域の東北端の岬の地名であり、前述(連
載第2回)の[三水偏に卯]鼻山(ぼうびさん)とほぼ同地である。「大海に沿ふ」とは、普
通の地誌では「大海に至る」と書くところだが、宜蘭の本府(ほんぷ)が緩(ゆる)やか
な入り江の内側に在り、直線で正東に至ると入り江の奥の海岸であるため、領域の東端に
ならない。海岸に沿って東北に進めば東端兼北端の三貂に至る(連載第2回の図を参照)。
それゆゑ「大海に沿ふ」といふ書き方になったのである。

 要するに宜蘭は東端も北端も三貂までであり、尖閣は更に東北に170キロメートル先に在
る。明白に宜蘭の界外であって、チャイナ側主張は同一書の同一項目で否定される。

 「重纂福建通志」の三貂について、私は本年9月15日午後11時38分に台湾外交部(外務
省)主催の「釣魚台短文コンテスト」に電子メール送信で応募し、その文中で論及した。
外交部からは9月21日午後6時10に返信があり、「受け取った」とのことであった。後にな
って他の人がブログなどで同じ論旨に言及したやうだが、嬉しいことに私が先である。応
募した原文は落選したが、今後別の媒体(ばいたい)で一字も改めずに公表するつもりで
ある。

▼不正確な前時代の情報

 「重纂福建通志」については別の問題がある。巻四「疆域(きゃうゐき)」には宜蘭
(葛瑪蘭)が載ってゐないのだ。「疆域」の巻は領域を明示するもので、他の巻の零砕の
記述に較べて公式の領土記録である。載ってゐない原因は、宜蘭を領土に編入する以前の
情報のまま改めなかったに過ぎない。しかし、かりに「重纂福建通志」を基準とするなら
ば、清国領土に宜蘭が存在しなくなり、「宜蘭に釣魚台が属する」といふチャイナ側主張
も存在すらし得ない。

 「山後の大洋の釣魚台」の記述は、更に後の西暦1885年の成立史料「台湾生熟番(せい
じゅくばん)紀事」にも載ってゐる。しかしその上下文に見える各地行政区画は、前述
(連載第3回)の「開山撫蕃(かいさんぶばん)」(西暦1875年)で改編されるより以前の
ままである。されば釣魚台も、同じく西暦1875年より以前の国外情報として記録されたも
のに過ぎない。

▼あたり前の結論

 結局、馬英九総統は釣魚台が国外だったと示す史料をみづから発表したことになる。早
速私は駁論を書いて前述(連載第1回)のクリストフ記者に送った。しかし返事は、既に受
付を締め切ったとのことだった。私としては折角なので大手英字新聞に掲載したいと思
ふ。

 諸史料で常に国外情報として「釣魚台」が記録されるのは、日本側に都合良い話ではな
く、ただの必然である。清国の人々にとって統治外の花蓮も釣魚台もほぼ未知の領域であ
った。未知の釣魚台の僅有(きんいう)の情報を、未知の花蓮とともに末尾に附録する。
あたり前である。それを断章(だんしゃう)取義して西太平洋侵略を企てる人々に、我々
は決して迎合してはならない。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
7>> 馬英九閣下 尖閣史料ご提供に感謝─尖閣論考(6)【八重山日報:2012年12月1日】

 本年10月18日、夕刊フジ(インターネットZAKZAK)に、保守陣営の勇将八木秀次
氏の「宣伝工作に負けてゐる日本」と題する注目すべき論説が載った。八木氏は、チャイ
ナ側が盜まれた失地恢復の物語を虚構して世界に訴へてをり、日本側としても領有を説得
力をもって説明できる「物語」が必要だ、と述べる。我が意を得たり、それは琉球人の物
語である。漢文史料の中にその痕跡が多々有ることを世に訴へたいと私は思った。

▼琉球人の物語

 連載第5回まで使用した史料が全て清国の著述なので、何か狐につままれた気がする人も
あらう。チャイナ側も、チャイナ人が記録したからチャイナの物だと主張してゐる。

 尖閣の漢文史料はほとんどみな明国及び清国側の著述である。尖閣は日本と琉球との間
の島ではなく、琉球と明清との間の島であった。だから弱小琉球にほとんど記録が無く、
明清側の記録ばかりのこったのは仕方ない。

  しかし中身は全く逆である。琉球人が航路上で提供した情報を、明国人及び清国人が記
録したのがこれら史料である。土着の案内者と、外から訪れた記録者。アメリカ・インデ
ィアンの提供情報を英語で記録したのと似た状況である。

 但し釣魚列島の名は、東アジア共通の漢文名であって、命名者は不明である。アメリカ
先住民の土地に英語で命名したのとは異なり、琉球人自身が漢文で命名してゐた可能性も
高い。それが東アジアであたり前なのだ。

▼陳侃(ちんかん)の三喜

 尖閣を熟知するのは琉球人であった。その代表が、最古の記録、西暦1534年の「陳侃
(ちんかん)の三喜」である。

 明国の使節陳侃は、福州から出航前、未知の琉球への渡航を畏(おそ)れた。そこに琉
球の貿易船が入港したので、情報を得られると喜んだ。一喜である。次に琉球から迎接船
が入港したので、先導船になると喜んだ。二喜である。次に迎接船が針路役及び水夫を派
遣して陳侃と同船させ、琉球までの指導を申し出た。三喜である。

 明らかに琉球人のお蔭で尖閣を記録できたと分かる。琉球人のもてなしの心が記録から
溢れてくる。以後の歴代記録でも常に琉球人に頼り切りだった痕跡が、そこかしこに見ら
れる。我々は「陳侃三喜」を四字成語としてひろめて行きたいものだ。

▼先住民差別

 また陳侃の時及び以後の渡航では、琉球の船は低速であり、高速の使節船から落後した
ことが幾度も記録される。造船・操船の技術に劣る琉球人が尖閣を先に見つけた筈(は
ず)がないと、チャイナ側は主張する。確かに日本とチャイナとの間の小国琉球は、ある
時期まで技術的に優位ではなかった。しかしそれを以て尖閣が我が物だと言ひ張るのは、
技術的優位の西洋人が、土地を熟知する先住民を軽視するのと同じである。現地の熟知度
とは別問題であり、これもまた先住民差別である。

 記録と技術の二つの優位による差別を、日本は世界に知らしめるべきである。今後我々
がこの差別と戦ってゆく物語は、彼らのやうな虚構ではない。真に説得力ありと私は考へ
る。

▼琉球から日本へ

 明治日本の領有まで、尖閣前史の記録をたどれば、それは文化的琉球圏にして法的無主
地の歴史である。チャイナ側の領有を感じさせる文化的な影すらも無い。さらに遡れば八
重山文化圏だった可能性も高いが、惜しいことに記録が無い。発掘すれば古代八重山人の
骨が出土するかも知れない。

 琉球文化圏を強調すると、日本領有の否定に繋がらないかと憂慮する人も有るかも知れ
ない。しかし我々は、琉球が縄文時代からの長い歴史を経て、徳川初期に日本に併合され
て現在に至る事実を、否定する必要は全く無い。まして中華人民共和国人になりたいとい
ふ沖縄人もほとんど存在しないだらう。沖縄人を先住民族に位置づけて、国家への帰属を
搖るがさんとする陰謀家に対しては、逆に先住民族自身の利益として尖閣を守り、他国の
侵略と戦ふ意志を示す好機会である。

 本稿で使用した正かなづかひ及び正漢字の趣旨については、「正かなづかひの會」刊行
の「かなづかひ」誌上に掲載してゐる。「國語を考へる國會議員懇談會」(國語議聯)と
協力する結社である。(終)

                              (長崎純心大准教授)

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