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【メルマガ日台共栄:第1346号】 産経新聞「歴史に消えた唱歌」(13)─次代に伝えたい「日本の文化遺産」

2011/06/27

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1>> 産経新聞「歴史に消えた唱歌」(13)─次代に伝えたい「日本の文化遺産」
2>> これが殖民地の学校だろうか−母校「清水公学校」  蔡 焜燦
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1>> 産経新聞「歴史に消えた唱歌」(13)─次代に伝えたい「日本の文化遺産」

 産経新聞が4月3日からオピニオン面で、文化部編集委員の喜多由浩(きた・よしひろ)
記者による「歴史に消えた唱歌」を連載しはじめ、本誌では5月15日に掲載された「公募で
作られた独自の唱歌」まで6回にわたって連載されてきた「台湾編」を紹介した。

 7回目からは満州、そして朝鮮に舞台を移したので「今後、この連載で台湾に関する記述
が登場したらまたご紹介したい」と記した。昨日の13回目の連載でまた台湾が登場してい
るのでご紹介したい。

 今回は、昭和10年、小学校で習った『綜合教育讀本』を復刻した蔡焜燦氏を冒頭に取り
上げ、その本の最後に収録されている「これが植民地の学校だろうか」の一部を紹介して
いる(蔡氏は「植民地」ではなく「殖民地」と表記)。

 蔡焜燦氏の「これが殖民地の学校だろうか」は、湾生や台湾の日本語世代でつくる京都
の「榕樹会」が発行する「榕樹文化」(榕樹=ガジュマル)に掲載されたものだ。最新号
は6月半ばに届いた34号になるが、蔡氏のその一文は平成18年(2006年)秋に発行の第17号
に掲載されている。

 実は、この「榕樹文化」の発行後間もなく、本誌で全文を紹介した(平成18年11月4日発
行、第401号)。やはり全文を読んでいただいた方が蔡氏の思いは伝わる。そこで、次に改
めて全文を再掲して紹介したい。

 それにしても、今回の「歴史に消えた唱歌」で「戦後の韓国や北朝鮮で、禁止されたは
ずの日本の唱歌や軍歌のメロディーなどが使われ、知らぬ間に別の曲になっているケース
が少なくない」として、韓国の独立運動で愛唱された「学徒歌」が『鉄道唱歌』、韓国の
教会の日曜学校で今も歌われている賛美歌の原曲が『勇敢なる水兵』、北朝鮮の革命歌「朝
鮮人民革命軍」の原曲がやはり軍歌の『日本海軍』だと紹介している。
原曲が日本の軍歌だと知らずに歌っているというのだ。日本による「侵略」を糾弾しなが
ら、その一方で「侵略」を鼓舞した軍歌の替え歌を歌っている。なんとも珍妙な光景だ。

 喜多記者は「良いメロディー、良い歌は、人為で封印しようとしても、時代や政治を超
えて形を変えてでも、歌い継がれてゆく、ということであろうか」と指摘しているが、そ
うとでも解釈しないと浮かぶ瀬もないが、やはり歌の力であろう。

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歴史に消えた唱歌(13)次代に伝えたい「日本の文化遺産」
文化部編集委員 喜多 由浩
【産経新聞:2011年6月26日】

 作家の司馬遼太郎は日本の台湾統治についてこう書いている。「私は日本人だからつい
日本びいきになるが、余分な富力を持たない当時の日本が−植民地を是認するわけではな
いにせよ−力のかぎりのことをやったのは認めていい。国内と同様、帝国大学を設け、教
育機関を設け、水利工事をおこし、鉄道と郵便の制度を設けた」(『台湾紀行 街道をゆ
く』)

 この本に“老台北(ラオ・タイペイ)”として登場する蔡焜燦(83)は、1935(昭和10)
年に当時の清水公学校(小学校に相当)で課外学習用に使われた「綜合(そうごう)教育
讀本(どくほん)」を復刻し、巻末に『これが植民地の学校だろうか』という一文を記し
た。「読者諸兄姉に知って貰(もら)いたいのは、当時日本全国の小中学校、旧制高校以
上の学校にも、我(わ)が清水公学校のようなソフトの設備のなかったことを述べたい…」
とし、立派な校内有線放送の設備があったこと、放送のために400枚ものレコードが備えら
れていたことなどを誇らしげに振り返っている。

 台湾だけではない。蔡と同世代で日本時代の朝鮮で少年時代を過ごした朴贊雄(2006年
死去)は、『日本統治時代を肯定的に理解する』にこう書いた。「当時朝鮮は日本の植民
地になったおかげで、文明開化が急速に進み、国民の生活水準がみるみるうちに向上した。
学校が建ち、道路、橋梁(きょうりょう)、堤防、鉄道、電信、電話等が建設され、僕が
小学校に入るころ(昭和8年)の京城(現ソウル)は、おちついた穏やかな文明国のカタチ
を一応整えていた。日本による植民地化は、朝鮮人の日常の生活になんら束縛や脅威を与
えなかった」

◆「まっすぐ」だった日本人

 繰り返しになるが、統治した側とされた側が、同じ歴史観を共有することは不可能に近
い。みんながみんな蔡や朴のように思っているわけではないだろうし、たとえ、日本人が
「よかれ」と思ってやったことでも、“された側”にすれば「そんなこと頼んだ覚えはな
い。日本人さえやってこなければ、自分たちの力で、もっとうまくやれた」というかもし
れない。

 ただし、海を渡り新天地に向かった日本人の多くは誠実であり高い志を持って、仕事
と“まっすぐに”向き合った。このことだけは間違いないと思う。

 台湾、朝鮮、満州で郷土色豊かな「独自の唱歌」づくりに携わった教育官僚や教師たちが、
まさしくそうであった。

 もちろん、植民地教育である以上、「日本への同化」が大前提になっているのは否定し
ない。だが、同化だけが目的であるならば、何も独自の唱歌を作るという“面倒な仕事”
をやらずとも、内地の唱歌をそのまま導入すれば済む。言葉は悪いが、「日本人になるの
だから、日本の自然や風土を理解するのは当然だ」と“押しつければ”いいだけの話であ
る。

 実際、台湾でも朝鮮でも満州でも統治初期は内地と同じ唱歌を使っていたが、見たこと
もない「雪」や「サクラ」「村の鎮守の神様」を歌っても楽しいはずはない。最初に異議
を唱えたのは現場の教師たちであった。「これ(内地の唱歌)では子供たちが楽しく歌え
ないではないか。郷土の動植物や歴史、名勝を織り込んだ独自の唱歌を作らねばならない」と。

 そして、偉人の名(『李退渓』『成三問』=以上朝鮮、『鄭成功』=台湾)や旧跡(『鶏
林』『百済の旧都』=以上朝鮮、『赤嵌城(せきかんじょう)』=台湾)、名勝(『金剛
山』『白頭山』=以上朝鮮)、さらには現地の動植物、遊びなどを織り込んだ独自の唱歌
を作ったのである。

 いずれも、現地の子供たちが「民族の誇りと愛着を持って」歌える歌ばかりではないか。
それどころか、「あなたたちは民族の歴史や先人の偉業を忘れてはいけないよ」と教えて
いるようにさえ見える。

 世界中を見渡しても、こんなことをやったのはおそらく日本以外にあるまい。植民地教
育という制約の中で、子供たちの側に立ち、理想の唱歌集作りを目指した教育者たちの精
神は尊い、と思う。まさしく、現地の人々と誠実に真摯(しんし)に向き合った日本の統
治教育の真骨頂が独自の唱歌なのだ。

◆日中戦争が節目に

 日本の教育者たちが台湾、朝鮮、満州で、花を開かせた世界でも類を見ない「独自の唱
歌」の文化。だが、それは1937(昭和12)年に日中戦争が始まり、戦争が激しくなるにつ
れ、輝きを失っていく。

 1941(昭和16)年4月の国民学校令の施行に伴い、小学校→国民学校となり、いわゆる皇
民化政策に沿った教育が強化される。唱歌の教科は芸能科音楽と変わり、唱歌集も国威発
揚や軍国色が強い「ウタノホン」が導入された。台湾、朝鮮、満州でも順次同様の措置が
取られ、郷土色あふれる「独自の唱歌」の代わりに、内地とほとんど変わりがない唱歌が
並ぶことになった。

 1944(昭和19)年に、台湾の台北師範学校付属国民学校に入学した台湾協会常務理事の
根井洌(ねいきよし)(73)は、「記憶にあるのは内地の文部省唱歌や軍歌ばかりですね。
戦争が激しくなっていたころなので、音楽の授業自体も満足にあったのかどうか…」と振
り返る。

 台湾では一時、「台湾語の唱歌を作るべきだ」という意見があったが、この案も戦争の
激化によって消えてしまう。奈良教育大准教授の劉麟玉(44)=音楽教育=は、「台湾語
の唱歌を作ることで、民族意識が高まることを恐れたのでしょう。唱歌教育にとっても日
中戦争が大きな節目になりました」と指摘している。

 戦後になると、日本時代の唱歌がなおさら遠ざけられた。劉の世代になると、台湾在住
時に知っていたのは「ウタノホン」に残っていた『桃太郎』など、わずかな曲だけだ。韓
国では、日本時代の歌は長く封印され、盧武鉉政権で本格的に始まった「親日派」追及の
中で、当時活躍した多くの芸術家がやり玉に挙げられたのは、すでに書いた通りである。

 満州からの引き揚げ者は、“侵略者の手先の子供”などといわれなき差別を受けた。多
くのメディアも、その時代に日本人がやったことを肯定的に触れる行為をタブー視してし
まう。こうした中で、「満州唱歌」は闇に葬られ、わずかに満州にあった学校の同窓会の
場で歌い継がれてきたのだった。

◆ 軍歌が北朝鮮の革命歌に

 ところが面白いことに、戦後の韓国や北朝鮮で、禁止されたはずの日本の唱歌や軍歌の
メロディーなどが使われ、知らぬ間に別の曲になっているケースが少なくない。

 韓国芸術総合学校音楽院の音楽学科長、閔庚燦(53)の研究によれば、韓国で独立運動
を象徴する国民歌謡のように愛唱された「学徒歌」は日本の『鉄道唱歌』の旋律を借りた
ものであり、韓国の教会の日曜学校で今も歌われている賛美歌のもと曲は日本の軍歌『勇
敢なる水兵』である。また、北朝鮮の革命歌「朝鮮人民革命軍」の原曲は、やはり日本の
軍歌の『日本海軍』。こうした「事実」は、韓国や北朝鮮ではほとんど知られていないと
いう(「原典による近代唱歌集成」解説)。

 こうした例は実は案外多い。ソプラノ歌手の藍川由美は、労働者の歌であるはずのメー
デー歌「聞け万国の労働者」が、日本の軍歌「小楠公(しょうなんこう)」が元になって
いることを指摘している。良いメロディー、良い歌は、人為で封印しようとしても、時代
や政治を超えて形を変えてでも、歌い継がれてゆく、ということであろうか。

 ただ、日本が台湾、朝鮮、満州で作った独自の唱歌はぜひ「そのままの形」で次代へ残
してほしい。その歌詞に、曲に、日本人教育者と現地の子供たちの笑顔と涙が詰まってい
ると思うからだ。

 一部の識者やメディアの中には、日本統治時代の教育を戦争推進や皇民化政策の先兵の
ごとく論じる向きが依然、少なくない。そういう要素がなかったとは言わないが、その多
くは戦争が激しくなる末期のことであり、“ひとからげ”に悪者扱いされたのではたまら
ない。

 台湾、朝鮮、満州で作られた独自の唱歌は200曲を超えるだろう。それは日本人教育者た
ちの情熱と志が結晶した、日本人にとって誇れる先人の業績なのであるから。

                      =敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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2>> これが殖民地の学校だろうか−母校「清水公学校」  蔡 焜燦

【榕樹文化 2006年秋、第17号】

 私は昭和2年、台中州大甲郡清水街で生まれた。幼稚園2年を経て昭和8年4月に清水公学
校【*】に入学した。校舎は縦貫道路に面した一棟が2階建てであり、コの字型になってい
る。別の二棟は平屋であった。勿論すべてが木造建築である。この校舎で1年2年を学び、
昭和10年に新しく建てられた鉄筋コンクリート及び赤いレンガ造りの新校舎に移った。ち
なみに昭和10年は日清戦争で日本が明治28年清国政府より領土割譲され、台湾を領土にし
てから40年の年である。

*「公学校」は台湾人子弟の通う小学校。昭和16年「国民学校」となる。師範学校では台
 湾語が必修科目。

 昭和に入ってから日本は前途多端な道を歩む。昭和3年張作霖事件、昭和6年満州事変、
7年満州国建国、国際連盟脱退……。明るい話では7年ロスアンゼルスのオリンピック大
会で日本水泳が金メダル五個、陸上では南部忠平が三役飛びで金メダル、大馬術で西竹一
中尉が金メダルを獲り、8年12月に日本国民待望の皇太子(現在の今上陛下)ご誕生等が
あった。10年に台湾中部大地震、11年2・26事件、ベルリンのオリンピックで前畑秀子選手
の女子平泳ぎ金メダル、田島直人選手の男子三役飛び16メートルで優勝、棒高跳びで西田
修平、大江季雄両選手が友情の2位3位の獲得等があり、12年7月7日にシナ事変、16年
大東亜戦争の突入になった。さて、私が述べようとしているのは、この昭和一桁時代から
二桁時代の近代史めいた事ではない。

 私は私の誇りとする母校の清水公学校の事を戦後61年経ても尚かつての故郷台湾をこよ
なく愛している台湾から引揚げられた湾生あるいは台湾育ちの皆様に紹介したい。

 ここまで書いてふとペンを止めて、ある事を思い出した。今日4月17日は奇しくも1895
年4月17日、下関の春帆楼で伊藤博文と清朝全権大使李鴻章とが日清戦争の講和条約を結び、
台湾及びそれに附属する諸島を正式に日本に割譲した日である。

(カイロ宣言ではルーズベルトとチャーチル、蒋介石が『日本が中華民国より窃取せる台
湾及びそれに附属している諸島は中華民国に返されるべし』と言っているが、誰もこの文
書にサインしていない。だから法的には成立しない。唯、私が何時も悲しく思うのは、戦
後、文中の『日本が中華民国より窃取せる……云々』を日本の有識者が取り上げて論じた
ことが無いという事実である。浅学の私なので、もしこの事に異論を出した事実があった
らご教示いただきたい)。

 本題に戻る。昭和9年暮れに清水公学校の新校舎が落成した。昭和10年の新学期前に
我々
は新校舎に移った。私が読者諸兄姉に知って貰いたいのは、当時日本全国の小中学校、旧
制高校以上の学校にも、我が清水公学校のようなソフトの設備のなかった事を述べたいの
であるが、やはりハードの建築物から紹介しよう。鉄筋コンクリート、赤レンガ造りの校
舎と前に述べたが、約10年前に台湾政府から古跡として指定された。この建物は昭和10年
の中部大地震にもびくともしなかった。

 校舎の床は、校庭から約50センチメートル高い。学校の正門は東の鰲峰山に向かってお
る(昭和8年頃にこの山の界隈は公園であり、グランドがあって街の運動会が行われた。
12年に清水神社が建立された)。この正門の南、北に通学用の通用門があった。正門は平
時使用されなかったが、校舎の中央に車廻しがあり、庭に小さな築山があり、正面に台湾
の教育のメッカ芝山巌から持ってきた、一寸した岩に我が清水公学校の校訓「誠」と言う
文字が当時の校長川村秀徳先生の揮毫で刻み込まれていて、戦後61年になるが未だにその
まま保存されている。

 コの字型の校舎は、南向き、西向きの廊下は校庭に面しており、南側の校舎の廊下は南
口に面しており、小さな校庭を隔てて生垣があり、その南に、走路(トラック)があり、
400メートルの運動場が作れるくらいの大きい池がある。コの字型の新校舎のグランドは、
200メートルのトラックしかない。

 廊下の校はすべて鉄筋コンクリートである事は既に述べたが、廊下に約3〜4の教室を
隔てて手洗い場が作られていて、蛇口が備わっていて、常に手を洗う事をあの頃から教え
られた。勿論清水の水は当時生で飲めた。そして、その手洗い場の下前方(校庭に面した
方に)この手洗いをした水を蓄える水槽が作られている。あの頃から水の豊富な町ではあ
るが、我々は既に「節水」という事を教えられていた。

 この水槽の水を我々は校庭の散水に使っていた。校庭は樹木が沢山植えられているが、運
動場が狭いので正面の庭のように芝生はない。唯、各教室毎に花壇が1つずつあった。ご
存知の通り清水は海岸線で風が強く殊に季節風の吹く頃は、砂埃で目を明けていられない
くらいの砂が飛ぶ。町では苦は苦力(クリー、懐かしい名前でしょう)が木桶をジョロみ
たいな形にしたもので散水を絶え間なくやっていたが、10年頃には近代的な散水車を街で
数台買って運転手一人で相当な範囲で作業していた。

 前述の苦力は「衛生クリー」と言ってゴミの回収・散水・川の浚渫等が仕事で勿論公務
員である。余談であるが、便所の下肥の汲み取りは野菜を作る農民がやっていた。

 さて、校庭の散水作業であるが、公学校の5年以上、高等科2年までの男性の児童はブ
リキのバケツを1つずつ持つ義務があり、数クラスで手洗い場で蓄えられた水を使って散
水していた。

 校舎の裏側にやはりレンガ造りで小さな物置揚があり、すべての掃除道具はここに収納
されていた。廊下の壁には各クラス毎に黒板がはめ込まれてあり、そのクラスの児童の習
字・図画・作文等の作品展示が出来るようになっていた。

 教室の設備に入る。正面に黒板があり、教壇があり、中央に教卓があり、教師の事務卓
もある。教師は教員室にそれぞれの事務卓があるが、教室にもあった。黒板の上、左右に
向かって右には各クラス一つずつスピーカーがあり、左には白水造りの神棚があった。そ
れも昭和10年の時点でである。

 台湾の小学校・公学校で各教室に神棚を奉置している学校は清水だけではなかろうか?
 毎日当番が榊の水を入れ替え、榊が枯れ出すと、榊を新しいものにする。榊はほとんど
榕樹【*】を使っていた。

*ガジュマルの漢名。亜熱帯で沖縄、福建省厦門にも生えている。気根が溶け出るようだ
 から付いた名。

 毎日、朝会の後、二礼二拍手一礼の正しい礼拝の作法で天照大御神、台湾神社の能久親
王を礼拝した。

 既述のスピーカーは、今も私が誇りにしている。当時全日本の学校になかった校内有線
放送の設備が清水公学校にはあり、全校30クラスにこのスピーカーが配置されていた。大
講堂には4箇所にあったように記憶している。

 校長室に放送設備があり、この放送に使用するためのレコードが当時400枚もあり、この
ために子ども達にこのレコードの内容を収録した綜合教育読本という副読本が1冊70銭で
配布された。当時日雇い人夫の一日の収入である。少年倶楽部が1冊50銭の頃だった。

 この読本の内容は、童謡あり、国民歌あり、神話・歴史・物語あり、詩吟・筑前琵琶・
薩摩琵琶あり、ドラマあり、浪花節あり、国語模範朗読あり、琴・尺八などの和楽器演奏
あり、当時この「綜合読本」−と我々は言っていた−を、めくるだけで我々は胸をときめ
かせたものだ。また、午前10時と午後2時に、JOCK(日本放送協会台北放送局−記憶
が定かでないが、東京局はJOAKたった)からニュースの放送があり、4年生以上の子
ども達は、教室の授業を中止して「ニュース帳」を取り出し、放送されたニュースを書き
取っていた。それぞれの学力によって所謂ヒャリング及び速記の勉強をしていた。勿論それ
によって時局の動きも分かる。そして月に一度ニュース帳の検査と試験があった。

 4年の時、今の首相の名前を述べよと言う問題で、私は「文麿」と首相の名前を思い出
せなくて、「近衛首相」と書いて難関を切り抜けた覚えがある。

 高等科2年教室と大講堂では、18ミリの映画を放映出来る設備があり、当今よく言われ
る視聴覚教育を我々は昭和10年代から叩き込まれていた。今でも忘れない映画は、明治38
年5月27日の日本海海戦である。バルチック艦隊を日本海に迎えた東郷元帥の連合艦隊の
Tの字戦法、あの大Uターンを面面に手に汗を握って見たものだ。見張り船信濃丸の「敵艦
見ゆ・・・」の発信、また宮古島住民5人が小さな船を漕いで石垣島に向かい相当時間をか
けて到着、石垣島より同じく「敵艦見ゆ」を発信した。

 60数年前に見たその映像は今も脳裏に強く刻み込まれている。さて、聞く方はどんなも
のか? 朝8時になると、校長室前でラッパ手が三人くらいで大掃除のラッパを吹奏する。
15分間の朝の掃除の後、校長室よりスピーカーで全員校庭に集合、朝会が始まる。宮城遥
拝、校長の訓示、週番先生の通達の後、明治天皇御製朗読、そのあとラジオ体操がある。
勿論、当時のラジオ体操の曲をレコードで流す。そのあと、それで朝礼は終わり、各自ク
ラス毎に教室に入るが、軽決なマーチのメロディに合わせて「正常歩]という軽快な歩調
で教室に向かう。

 「正常歩」は12年次より行われていた、一分間百五十歩の歩調で足を前に出し、カカト
で着地するリズミカルな行進法である。教室に向かったあとは、時間割通りの勉強になる
が、時々各学年別の放送、また日によっては一度位全校でいろいろなレコードを聴かされ
る。

 私は今、昭和10年に編集された、この綜合教育読本の復刻作業を進めているが、次に前
述の各部門から記憶にある一部を挙げてみよう。ほんの一部であることを再度強調したい
(復刻版が出来た折に希望者には榕樹会事務局を通じて、無償で一冊ずつ提供します)。

1、わらべ歌 

 ◇十五夜お月さん ◇南京言葉 ◇ボクは海軍大将 ◇あの町この町 ◇子ども日本の
 歌 ◇蛙の夜廻り ◇兎のダンス ◇よいよい横町

2、国民歌 

 ◇日本国民歌 ◇守れ台湾 ◇敵機襲来 ◇揚る日の丸 ◇勝って戻れば

3、四大節の歌 

 ◇勅語奉答の歌

4、神話 

 ◇国生み ◇みそぎ ◇天の岩戸 ◇八岐の大蛇 ◇天孫降臨 ◇弟橘姫 ◇因幡の白兎

5、詩吟 

 ◇嗚呼忠臣楠公の墓 ◇皇師百万 ◇孤軍奮闘 ◇鞭声粛々 ◇前兵児之歌

6、一般歌謡 

 ◇枳殻(からたち)の花 ◇森の水車 ◇荒城の月 ◇夜の調べ ◇花

7、薩摩琵琶 

 ◇石童丸 筑前琵琶 ◇古賀連隊長

8、ラジオドラマ 

 ◇師愛は輝く ◇肉弾

 以上であるが、校挙にいとまがない。

 琴と尺八の合奏曲に検校宮城道雄作曲で「春の海」という曲がある。毎日午前の授業の
終業時に(4時限目と言っていた)全校一斉にこの曲がなる。昼休みの知らせである。この
曲を聴くと、条件反射でお腹がグーッと鳴り、家から届いた温かいお便当の香りがして来
る。この曲は今でもどこか和食堂で聴くことがあるが、未だにお腹に変化をもたらす。あ
たかも後年私も手がけた養殖うなぎが、早朝の餌付けの人の足音で集まって来るようなも
のだ。

 2年前、日本大使官邸で招待された時、日本から来た音楽大学在学中の女子学生がこの
曲を奏でたので、このストーリーを皆さんに披露した。笑いの中での楽しい宴で終始した。

 終わりにこの綜合教育読本の中に、昭和7年ロスアンゼルス・オリンピックで日本代表
チームが、全メダルを7つも獲った時の歌がある。

 数年前、日本が日の丸・君が代で騒いでいた時、私が畏友金美齢女史にこの歌を歌って
差し上げたら、金女史はこれを月刊『諸君!』に書き、これがまた阿川弘之先生のお目に
とまり、阿川先生が月刊誌『文藝春秋』で紹介していた。そのご縁で阿川先生のご好誼を
いただいている。この歌を次に紹介して筆を擱きたい。

流行歌  「揚る日の丸」

1、ロスアンゼルスのスタジアム
  メインマストにするすると
  揚る国旗の夢を見て 私は日本で泣いたのよ。

2、空の燕が見てさえも
  君がゴールの勇ましさ
  遠く偲んでなつかしく 私は日本で泣いたのよ。

3、今日は凱旋ふるさとの
  山も輝く日本晴れ
  遠いデッキのお姿に私は波止場で泣いたのよ。

歓迎歌  「勝って戻れば」

1、勝った勝ったと舷(ふなべり)敲きゃ
  八重の潮路朝日がのぼる
  錦着て見る故郷の富士は
  うれし泣きかよ 朝ぐもり

2、小粒ながらも世界を相手
  見せた度胸の 一本勝負
  泣いて笑った 昨日の夢も
  今朝は吹く吹く海の風

3、ロスアンゼルスの青空高く
  揚げた日の丸 世界を照らす
  日本よい国 これから開く
  吉野桜は まだ蕾

4、勝って戻って纜(ともづな)解けば
  日本(やまと)島根に 波さえ躍る
  鉾をおさめて どんと胸たたき
  仰ぐ朝日の父母の国

− 後記 −

 以上昭和10年の清水公学校の事を書きました。母校の建築及び諸設備の企画をされたの
は、当時大甲郡視学の鹿児島出身の川村秀徳校長先生です。昭和8年頃から校長でした。

 清水公学校は今年で創立百十年になります。台湾中部では、文化レベルの高い町であり、
諸兄姉に諸れるものに、大震災後の都市計画(町が碁盤の目のようになっている)があり、
台湾でもあまり聞かないハーモニカバンド【*】が終戦後、228事件当時まであった、等々
書き出すと筆のとどまることがない。なお、清水公学校の教員宿舎は、すべて和風建築で
風呂は当時田舎では珍しい五右衛門風呂であった。(完)

*楽器がすべてハーモニカで当時宮田東峰ハーモニカがあった。第一、第二、ベース、ク
 ラリネット、ドラム等のハーモニカがあって、楽団を組織し、228事件まで台中州下各地
 で演奏していた。

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【お詫びと訂正】

 前号(6月25日発行、第1345号)の「天下分け目の台湾総統選挙」の記事で、馬英九氏の
選挙事務所執行長に就任した金溥聰氏を「馬氏と同じ香港生まれ」としましたが、金氏は
台南生まれでした。お詫びして訂正いたします。
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創刊日:2003-10-06  
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  • 名無しさん2011/06/27

    古き良き日本其のままですね。黒ラブ

  • 名無しさん2011/06/27

    まだ歴史に成っていない、近い過去を知らない世代(自分)にとって大変参考になります。