国際情勢

メールマガジン日台共栄

日本の「生命線」台湾との交流活動や、他では知りえない台湾情報などを、日本李登輝友の会の活動とともに配信するメールマガジン。

全て表示する >

【メルマガ日台共栄:第579号】 李登輝前総統の訪日が成功した理由[日本李登輝友の会事務局長 柚原 正敬]

2007/08/02



>>>>> http://www.ritouki.jp/――――――――――――【平成19年(2007年) 8月2日】

    ☆★☆★ 日本李登輝友の会メールマガジン「日台共栄」 ☆★☆★
       新しい日台交流にあなたの力を!!
<<INDEX>>―――――――――――――――――――――――――――――[Vol.579]
1>> 李登輝前総統の訪日が成功した理由[日本李登輝友の会事務局長 柚原 正敬]
2>> 知られざる日台融和の祭典【上】 [青森日台交流会 阿貴]
3>> 8月11日(土)、大阪日台交流協会が黄恵瑛女史を講師に特別例会【会員限定】
4>>【読者の声】台湾の地質研究者(5) 鹿野忠雄 [地質学研究者 長田 敏明]
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1>> 李登輝前総統の訪日が成功した理由[日本李登輝友の会事務局長 柚原 正敬]
   自由な発言を認めた政府の決断が中国の干渉を排除した

 7月6日発行の本誌第559号で、「『主張するシンクタンク』として日本の再生に向けた
実践運動を展開している日本政策研究センター(伊藤哲夫所長)が編集・発行する月刊
「明日への選択」7月号に、本会の柚原正敬事務局長が『李登輝前総統の訪日が成功した
理由』と題して寄稿」していることをお知らせしました。

 7月号の発売期間が終わりましたので、いささか長いのですが、ここに全文を掲載しま
す。

 なお、本誌は横書きですので、数字は漢数字から算用数字に改めています。(編集部)
------------------------------------------------------------------------------
李登輝前総統の訪日が成功した理由
自由な発言を認めた政府の決断が中国の干渉を排除した

                     日本李登輝友の会事務局長 柚原 正敬

 台湾の李登輝前総統が曾文恵夫人や孫娘の李坤儀さんなどの家族とともに、去る5月30
日に来日して6月9日に帰台した。総統退任後、3度目となる今回の訪日は「学術・文化交
流と『奥の細道』探訪の旅」と名付けられ、念願であった「奥の細道」を訪問した。

 日本人の印象に強く残ったのは、やはり靖国神社に参拝したことだろう。また、東京
や秋田で講演したことで、その肉声を初めて聞いた日本人も少なくなく、印象深く残っ
たに違いない。

 李氏は最終日の6月9日、当初の予定にはなかった外国人特派員協会で「このたびの旅
行は今までの旅の中で最高の旅でした」と述べている。その理由として、後藤新平賞の
第一回受賞者に選ばれたことや、「奥の細道」を半分だけだったが堪能できたこと、あ
るいは靖国神社に参拝できたことなどを上げている。

 来日して以降、アジア・オープン・フォーラム世話人らとの会食と拓殖大学訪問以外
の行程に同行させていただいた者としても、やはり今回の訪日は大成功だったと言える。
それは、成田空港をはじめ各地での歓迎ぶりや講演会参加者数に現れていた。

 成田空港では、平日の昼間にもかかわらず200人を超える人々が集まり、日の丸や日本
李登輝友の会会旗の小旗を千切れんばかりに打ち振って歓迎し、「李登輝先生、万歳」
の歓呼の声が空港内に響き渡った。

 また講演は、後藤新平賞授賞式後の記念講演「後藤新平と私」、秋田の国際教養大学
での特別講義「日本の教育と台湾−私が歩んだ道」、ホテルオークラ東京での講演「2007
年とその後の世界情勢」を行ったが、いずれも立錐の余地もないほど詰め掛けた。特に
ホテルオークラ東京での講演には約1300人が参加し、まさに壮観の一語に尽きる。
                    *
 今回の訪日の成功は、来日の意義を鮮明にした。平成13年4月の心臓病治療のための来
日および平成16年12月の来日と比較してみれば、さらにその意義は明瞭となる。

 平成13年の来日時は、ビザの発給を巡ってもめた。森喜朗首相らがビザ発給を認めた
にもかかわらず、河野洋平外相や槇田邦彦・アジア大洋州局長が頑強に抵抗し、特に槇
田局長などは「こんなことしていたら、北京の怒りを買って、日中関係はメチャクチャ
になる」などと恫喝めいた発言を繰り返していたことは未だ記憶に新しい。

 また、平成16年のときは、ビザ発給の条件として,1、記者会見しない、2、講演しな
い、3、政治家と会わない、という3つの条件が付けられ、東京は訪問しないという条件
もあったと言われている。このとき、中国の王毅駐日大使は「李登輝は中国を分裂する
方向に狂奔している代表人物。その人物を日本に受け入れることは『一つの中国』政策
に反する」と政府にビザ発給方針の再考を求めたことを思い出す人も多いだろう。

 ところが、その年の11月に李氏が翌年5月の訪日を発表したことに対し、麻生太郎外務
大臣は李氏の入国は問題ないとの見解を表明する。昨年1月のことだ。2月に入ると、政
府としても5月来日を容認する。しかも、入国条件を緩和し、政治家に会わないことは従
来通りだったが、講演は文化や歴史をテーマにしたものなら認める方針に転じた。中で
も、東京訪問を認めたことは画期的なことだった。3月に入ると、ビザの申請も必要ない
ことを表明するに至るのである。

 この5月来日は健康上の理由から、またその年9月の訪日も体調不良のため延期され、
ようやく今回の来日となった次第だが、この6年の間に政府の方針は劇的と言えるほどに
転換していたのである。

 一方、中国政府の反応は、政府方針が転換していくにつれトーンダウンしてゆく。今
回の中国政府の発言は政府を牽制する形だけのものに終り、靖国神社参拝に至っては批
判するどころか反応すらなく、李氏が「いま中国は日本と喧嘩したくない」と述べたこ
とを証明する結果となった。中国政府が抑制的にならざるを得ないと読んだ政府と李氏
の読み勝ちに終わったのである。

 そこで、今回の来日の意義をまとめてみれば次の7つとなるだろう。

 1、ノービザでの初来日実現。
 2、東京訪問の実現。
 3、講演の実現。
 4、記者会見の実現。
 5、念願の「奥の細道」散策の実現。
 6、靖国神社初参拝の実現。
 7、中国政府の不干渉の実現。
                      *
 では、これだけのことを実現し得た背景として、いったい何が変わったのか。

 まず第1に、安倍首相が首相就任後、最初の訪問国として中国へ行って「戦略的互恵関
係」を築きつつ、一方で豪州と「日豪安保宣言」を締結するなど、対中戦略を徹底的に
追求してきたことが上げられよう。

 また、平成14年に台湾のWHOオブザーバー参加を支持したあたりから、日本政府の
台湾に対する姿勢が鮮明になってきたことも大きい。それは、中国とは別に台湾で天皇
誕生日レセプションを開催し、台湾人への叙勲の再開や観光客へのノービザを実施した
ことに端的に現れている。最近では台湾免許証が日本でも使えるよう道交法を改正した。
このようなことは、日本が台湾を「統治の実態」と認識しないとできない措置である。

 李氏に自由な発言を認めた今回の訪日は、台湾併合を最大の課題とするが故に独立派
の親玉と目す李氏の訪日に反対する中国政府の発言を封じたことで、日本政府が媚中外
交を脱しつつあることを証した点からも、やはり大成功と言ってよい。
                      *
 最後に、6月7日の靖国参拝に触れておきたい。参拝は、秋田で田沢湖を訪れていた6月
5日にほぼ決定していた。

 当日、李氏は曾文恵夫人や作家の三浦朱門・曽野綾子夫妻などを伴い、実兄の岩里武
則命が祀られる靖国神社に到着した。李氏は貴賓室で南部宮司に「兄貴と僕は二人兄弟
で仲がよかったんです」と語り始めた。

「兄貴が死んだとき、血みどろになった格好で霊が現れたと家の者が言いましたが、父
は兄貴が死んだことを死ぬまで信じませんでした。家には遺骨も位牌もありませんでし
たので、兄貴の慰霊はできませんでした。気になって気になって仕方がなかったんです。
今日、六十数年ぶりにやっと兄貴の慰霊ができます。ありがとうございます」

 李氏の声はくぐもり、目には光るものがあった。隣室に控えていた私は込み上げて来
るものを抑えられなかった。

 そして、昇殿参拝が終わって貴賓室に戻ってくると、李氏は南部宮司に「長い間お世
話になりました」と頭を垂れたのだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
2>> 知られざる日台融和の祭典【上】 [青森日台交流会 阿貴]
   青森県大間町の「天妃祭」に参加して

 去る7月15日、16日、マグロで有名な青森県大間町において天妃(媽祖)祭が開催され
ました。本誌で何度か参加募集の案内を掲載したこともあり、昨年に倍する20名が参加
しました。
 
 日本李登輝友の会本部からは永山英樹理事(青森県支部担当)と片木裕一理事が参加
していますが、同じく理事で秋田県支部準備会代表の千葉文士氏、台湾李登輝学校卒業
生の飯田義人氏や小田浩氏なども参加しています。

 昨日、阿貴こと出町淑貴さん(青森日台交流会事務局長・青森李登輝友の会事務局次
長)がそのレポートをブログで発表していますので転載してご紹介します。長文ですので
2回に分けて掲載します。

 なお、ブログでは写真をたくさん掲示して、楽しかったお祭りの様子を伝えています
ので、こちらもぜひご覧ください。                  (編集部)

■ブログ「青森日台交流会&青森李登輝友の会」
 http://shukuei.blog19.fc2.com/blog-date-20070731.html
------------------------------------------------------------------------------
知られざる日台融和の祭典−青森県大間町の「天妃祭」に参加して【上】

                             青森日台交流会 阿貴

1、なぜ青森に媽祖様が?

 媽祖様は台湾では代表的な神様ですが、青森県大間町の稲荷神社にも天妃媽祖大権現
が祀られています。

 我々は今年7月15、16日に開催された「天妃様祭り」に参加して来ました。

 大間町の天妃(てんぴ)祭は毎年海の日に、町全体が全力を挙げて行うお祭です。

 「天妃様」とは航海や漁業の守り神として知られています。いわば「海上守護の女神」
です。天妃は昔から、海上安全を願う漁民たちに信仰されてきた。台湾や東南アジアの
方では別名「媽祖」と呼ばれています。媽祖信仰は台湾の代表的な民間信仰にもなって
いる。また現在では世界26か国1500余か所の地区に媽祖廟があると分かりました。特に
台湾では、媽祖廟は八百余か所くらいあるそうです。

 日本にも媽祖様(天妃様)が15箇所ほどで祀られていますが、「日台融和」の祭りは
ここ、青森県大間町だけなのです。日本の天妃祭の中でも、大間町が一番なんです。

 ちなみに旧暦の3月23日は媽祖の誕生日です。台湾の媽祖廟では4日間にも及ぶ、台湾
全土に渡って盛大な祭りが開催されています。

 なぜ天妃様が大間で祀られているのか? すごく不思議に思いました。資料によれば16
96年(編集部注−生類憐みの令を発した第5代将軍徳川綱吉の時代)、大間村の名主伊藤
五左衛門が海で遭難した。その時天妃様に助けてくださいとお願いしたところ、天妃様
が現れて助けてくれた。この時の出来事はその年から97年後に大間を訪れた紀行家菅江
真澄の天妃縁起に書かれているそうです。

 それから五左衛門は茨城県那珂湊に祀られていた天妃様を自分の屋敷に祀った。これ
が大間に来た始まりだそうです。現在は大間稲荷神社に祀られています。天妃様は明治6
年に大間町の稲荷神社に合祀され、今日に至っていますが、住民は平成8年(1996年)ま
でに、神様が天妃様だということを忘れて分からなくなっていました。大間町観光協会
会長の大見光男氏(現県会議員)の発議で、祀っている神様の身分を調べたところ、そ
の神様が「天妃様」ということが分かりました。遷座300周年にあたる平成8年に、天妃
祭での町おこし、大漁祈願がこの年から始まりました。天妃様のご神体を一般公開し、
神社の入り口に五左衛門の顕彰碑を建てました。

2、今年も参加ツアーを組みました

 媽祖本尊の分身や千里眼、順風耳、みこし、多数の大型人形や行列用品は、台湾の媽
祖信仰の総本山であり、現在稲荷神社と姉妹宮にもなっている台湾雲林県の北港朝天宮
から寄贈された物です。双方の橋渡しを務めたのは、日本の媽祖信仰の団体である「日
本媽祖会」の入江修正名誉会長たちです。入江会長は北港出身の台湾人です。

 日本媽祖会の方々も毎年東京から大間に来て、天妃祭に参加しています。今回も会長
の顔錦川氏が10数名の方を連れて参加しました。

 青森日台交流会と青森李登輝友の会も昨年から参加しています。大見光男氏は実は青
森李登輝友の会の会長でもあるので、何か協力できたらいいなという気持ちもありまし
た。

 そこで二つの会が共同でこの祭りの参加を募集したところ、昨年の倍の人数、20人の
参加となりました。それは日本李登輝友の会をはじめ、各支部の方々の参加のおかけで
す。 本部からは事務局次長片木さん、理事永山さん、秋田県支部準備会代表の千葉さん、
青森県支部の会員村上さん&ファミリー、茨城県に住む友の会の会員小田さん、東京か
ら熱烈愛台湾の同志飯田さん、青森県支部、青森日台交流会の会員、下屋さん&ファミ
リー、秋田県在住の佐藤さんなどが参加しました。宮城県支部の方も参加する予定でし
たが、体調不良のため、欠席となりました。ぜひ来年参加できたらいいなと願っていま
す。遠いところから参加した皆様に御礼を申し上げます。

 また台北駐日代表処(台湾駐日大使館)の経済部次長である郭慶老さんは許大使の代
理で日本媽祖会と同行して参加しました。台湾宏観テレビの謝さんも取材に駆けつけま
した。                             (次号に続く)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
3>> 8月11日(土)、大阪日台交流協会が黄恵瑛女史を講師に特別例会【会員限定】
   テーマは「台湾の国連加盟について」

【特別例会のお知らせ】

■日 時 平成19年8月11日(土) 午後4時〜9時

■場 所 山荘『京大和』 http://www.kyoyamato.com/

■講 師 [第一部]
     講師 黄恵瑛女史(在米台湾人)
     演題 「台湾の国連加盟について」
     [第二部]
     懇親会(舞妓が華を添えます)

■参加費 1万3千円+追加飲み物実費(会員20名限定)

■申込み 参加   会員名

 近鉄電車 河内松原駅からの方は【1】時に集合下さい。

 尚、希望者は 海老原事務局長 携帯電話 090-5963-5668かedy@oak.ocn.ne.jpにて
 事前にご連絡下さい。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
4>>【読者の声】台湾の地質研究者(5) 鹿野忠雄 [地質学研究者 長田 敏明]

 地質学研究者の長田敏明氏からの第5弾として、昆虫学者としても著名な鹿野忠雄につ
いて投稿していただきましたのでご紹介します。             (編集部)
------------------------------------------------------------------------------
戦前の台湾の地質学研究史−地質研究者伝(5) 鹿野忠雄(1906-1945?)

                            地質学研究者 長田 敏明

■はじめに

 台湾の3分の2を占めていた「蕃地」の実体は、日本領台後に渡った日本人博物学者の
命がけの調査によって初めて明らかにされた。その中で日本が台湾を領有した後に、台
湾奥地の研究者として、博物学者の中で最も知られているのが鹿野忠雄である。鹿野は
いわゆる地学者とは少し異なるが、台湾の自然について領台初期に、蕃地を調査し貴重
な情報をもたらした人物として重要なのでここに記載する。

 この項は、山崎柄根『鹿野忠雄−台湾に魅せられたナチュラリスト』(1992)や黄文
雄『命がけの夢に生きた日本人』(2006)を参考にまとめた。民族学研究開発センター
の野林厚志(2003年6月号)著の月刊「みんぱく」に掲載された年譜に基づいて述べる。

(1)生い立ちと経歴

 その生涯を台湾の博物学研究にささげた鹿野忠雄は、東京市淀橋区柏木(現東京都新
宿区柏木)で生まれた。少年時代から昆虫採集に熱中し、昆虫の宝庫であった台湾行き
を切望するようになる。鹿野は、大正13(1924)年に共立中学校(現開成学園)を卒業
した。大正14(1925)年に台北高等学校が開設されると聞き、この学校の受験のために、
一浪してわざわざこの台北高等学校に入学している。鹿野は、台北高等学校では、昆虫
学者の江崎悌三(1899〜1957)の書いた『台湾紀行』及び『台湾採集旅行記』などを読
んで、台湾の博物学的研究に一生をささげたいと思うようになった。

 そのため、鹿野は台北高等学校の授業にはほとんど出席せず、魑魅魍魎の跳梁跋扈す
る台湾の山野を駆けめぐった。鹿野の興味は、昆虫類の採集から脱却し、その研究範囲
は、鳥類・爬虫類・両生類をはじめとして、哺乳類・魚類などから、台湾の全生物相へ、
さらに原住民の生活習慣や文化などにも及んだ。

 旧制高等学校の学生であった鹿野は、既に博物学者・民族学者として頭角を現してい
た。昭和3(1928)年4月に、東京帝国大学理学部地理学科に入学している。同学科を昭
和6(1931)年3月に鹿野は卒業している。鹿野は大学を卒業するとすぐ、昭和7(1932)
年に氷河の痕跡を求めて台湾中央山脈に深く入り込んで調査した。

 鹿野は、昭和8(1933)年にアミ族の青年トタイ・ブテンに出会い研究のための最適な
助手を得た。このトタイは、花蓮東大寺へ入門し、京都の花園中学校で学んだので日本
語は達者であった。

 戦争中に鹿野は軍部の要請に基づいてフィリッピンの調査に向かった。当時、原住民
に拉致されていたアメリカ人学者を解放して文化財を保護したりした。さらに、鹿野は、
昭和20(1945)年、39歳の時に後輩の金子総平と伴に北ボルネオのキナバタンガン川の
調査に赴き、昭和20(1945)年7月15日にタンブンを立ち、サボンへ行く途中で、消息を
断ちそれっきりである。

 田中敦夫(2001)によれば、鹿野が消息を絶った理由は2つあるという。それは「すで
に、日本軍に反旗を翻すゲリラが各地に出没しており、彼らに襲われた可能性が高いと
いえる」ということである。しかし、田中(2001)によれば、もう一つの説もある。それ
は「憲兵に殺されたというものである」。この説は、ヨーロッパの研究者の間に流布し
ている説である。当時、北ボルネオに捕虜として抑留されていたり、戦後進駐した英国
軍人などが得た情報として伝わったようである。混乱している現地では、召集されてい
るとはいえ、民間人にあらぬ容疑をかけて連行し、暴行死させることは、当時の憲兵の
状況から十分にありえることであった。折しも、当時、彼らが立ち寄ったケニンガウの
町は空襲で焼け落ち、憲兵は殺気だっていたようである(田中敦夫:2001)。

(2)鹿野忠雄の業績

 鹿野の業績のうち広い意味で地学に関するものは、地理学評論に掲載された以下の各
論文である。鹿野の興味は地形・氷河・民族と多方面に及んでいる。

1、1932年:台湾高山地域に於ける二三の地形学的特徴。
2、1934年:台湾次高山群に於ける氷河地形研究(第1報)。
3、1936年:紅頭嶼生物地理に関する諸問題。
4、1936年:台湾原住民族の人口密度分布並に高度分布。
5、1936年:山と雲と蕃人と−台湾山岳紀行−。文遊社、2002年(復刻版)。

  また、他の分野では、以下に記すように高等学校時代に既に新ウオーレス線という生
物地理区の境界線が台湾島と紅頭嶼(現、蘭嶼)の間にあることについて論じている。
やがて、鹿野は台湾の東側にある蘭嶼という小さな島で調査をはじめる。

 当時、紅頭嶼とよばれていたこの島には、東南アジアと中国大陸側との動物相の関係
を考える上で重要な鍵となる昆虫が生息していたためである。鹿野が発見したいくつか
の昆虫の学名には Pachyrrhynchus insularis Kano(コウトウカタゾウムシ)のように
鹿野の名前が発見者として記載されている。そして鹿野の調査によって、台湾とフィリ
ピンとの間に引かれていた動物相の境界は、改めて台湾島と紅頭嶼とのあいだで引きな
おされ、新ウオーレス線と呼ばれ、国際的にもその業績は高く評価された。その後は、
軍の要請で占領地の民族調査などをやっていた。

1、1927年:ウォーレス線と紅頭嶼。台北高等学校交友会雑誌、14-23。
2、1935年:台湾山地に生息するサクラマスと其の古地理学的意義。日本学術協会報告、
  10、4。
3、1940年:Zoogeographical Studies of Tsugitaka Mountain of Formosa。Shibusawa
   Inst。Ethnogr。 Res。、 1-145。

 また、鹿野は、台北高校をようやく卒業後、東京帝国大学理学部に進学するが、選ん
だのは地理学科であった。これは、彼の興味が昆虫や動植物だけではなかったことを示
している。生物地理に興味があり、そのために、地理学科を選択したのであろう。

 東京帝国大学を卒業すると同大学院に進学する。大学院生のまま、台湾総督府の嘱託
職員となり、台湾の山々に分け入る過程で、氷河地形の存在を確認する。これは、地理
学評論に発表され、過去の氷河が台湾まで覆っていたことを示す世界的発見であった。
当時、日本の地形学界は、氷河論争で持ちきりであった。

 そして、鹿野が次に派遣されたのが、北ボルネオであった。こちらも占領地の文化的
調査が中心であった。その時期は、昭和19年で戦況は悪化しており、赴くだけでもたい
へんだったようである。それでも、すぐさま後輩の金子総平らとともに、北ボルネオの
少数民族の調査に従事した。同時期、同じ北ボルネオのキナバタンガン川上流に入った
日本人に従軍記者・里村欣三がいるが、鹿野も同じく熱帯のジャングルを歩き回り、各
民族について調べた。

 ちなみに、この調査の目的は、軍にとって西海岸と東海岸をつなぐ要路の確保と、敵
が上陸した際のジャングル戦に備える意味があったのであろう。様々な探検活動が行わ
れていた。戦争という異常な時期に、日本の探検家は、大きな舞台を与えられた。

■あとがき

 鹿野忠雄は、不可解な死に方をしているが、享年はわずか39歳であった。当時の日本
の常識には囚われなかった鹿野の死に方かも知れない。鹿野が戦争を乗り越え戦後に生
きていたならば、日本の民族学研究は、新しい展開があったかも知れないと思うと、あ
のような形で鹿野を失ったことは残念でたまらないと思うのは筆者だけでろうか。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
●メルマガのお申し込み・バックナンバーはホームページから
 http://www.ritouki.jp/
●投稿はこちらに
 ritouki-japan@jeans.ocn.ne.jp
------------------------------------------------------------------------------
日本の「生命線」台湾との交流活動や他では知りえない台湾情報を、日本李登輝友の会
の活動情報とともに配信するメールマガジン。
●マガジン名:メルマガ「日台共栄」
●発   行:日本李登輝友の会(小田村四郎会長)
●編集発行人:柚原正敬
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Copyright(C) 2007 Friends of Lee Teng-Hui Association in Japan

規約に同意してこのメルマガに登録/解除する

メルマガ情報

創刊日:2003-10-06  
最終発行日:  
発行周期:週3回以上刊  
Score!: 99 点   

コメント一覧コメントを書く

この記事にコメントを書く

上の画像で表示されている文字を半角英数で入力してください。

※コメントの内容はこのページに公開されます。発行者さんだけが閲覧できるものではありません。 コメントの投稿時は投稿者規約への同意が必要です。

  • 事務長2007/12/06

    この度9月に日本媽祖会の念願でありました東京朝天宮が都内江戸川区に開廟しました。12月20日には総本山北港朝天宮より鎮殿媽をお迎えし安置させて頂きます。