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【メルマガ日台共栄:第567号】 井上伊之助の生涯【下】[榕樹会顧問 山口政治]

2007/07/15



>>>>> http://www.ritouki.jp/――――――――――――【平成19年(2007年) 7月15日】

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<<INDEX>>―――――――――――――――――――――――――――――[Vol.567]
1>> 井上伊之助の生涯【下】[榕樹会顧問 山口政治]
2>>【読者の声】李登輝前総統を京都大学にお迎えしたい[京都大学助教授 柏 久]
3>>【読者の声】台湾の地質研究者、大江二郎[地質学研究者 長田 敏明]
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1>> 井上伊之助の生涯【下】[榕樹会顧問 山口政治]
   台湾原住民のために生涯を捧げた「台湾のシュバイツアー」と呼ばれた伝道師

 昨年11月4日発行の本誌に、「老台北」こと蔡焜燦氏が母校である台中の清水(きよみ
ず)公学校のことを書いた一文「これが殖民地の学校だろうか」を掲載したことがあり
ました(11月4日発行、第401号)。また、林彦卿氏の「海を渡る蝶アサギマダラ」とい
う文篇を紹介したこともありました(4月17日発行、第502号)。

 いずれも初出は「榕樹文化」という、台湾で生まれ育った日本人(湾生)や台湾人が
集う榕樹会(小川隆会長)が年4回発行している雑誌です。編集長は本会会員でもある
内藤史朗氏です。

 この「榕樹文化」の最新号(第20号)に、20号発刊を祝し、榕樹会創設時より顧問を
務め、本会理事でもある山口政治(やまぐち まさじ)氏が「井上伊之助の生涯−『榕
樹文化』第20号発刊を祝す」という一文を寄稿されています。

 山口政治氏といえば、最近、長らく東台湾研究の一級資料の名著で、絶版となってい
た『東台湾開発史』を改訂して、労作の大著『知られざる東台湾史−湾生が綴るもう一
つの台湾史』を上梓していますが、体験に裏打ちされた該博な知識には脱帽です。

 この井上伊之助という人物にしても、台湾研究者でさえどれほどの人がその名前を知
っているでしょうか。こういう人物が台湾の開発に尽くしていたことを知ることは、私
ども後進の者にとっては喜びです。

 早速、ご紹介します。長文ですので2回に分載します。漢字を開いたりメルマガ用に
改行するなど、少し編集させていただいていることをお断わりします。

 前号で「榕樹」が「植樹」や「椿樹」となっていました。訂正してお詫びします。
                                  (編集部)


山口政治(やまぐち・まさじ) 大正13年(1924年)、台湾・花蓮港庁吉野村生まれ。旧
制台北高等学校、京都大学法学部卒。昭和23年に労働省入省、年少労働課長、愛知労働
基準局長などを歴任、同52年に退官。この間、内閣総理大臣官房、大分県庁へ出向。以
後、産業医科大学常務理事、安田火災海上保険顧問などを経て、現在、ユースワーカー
能力開発協会会長、日本李登輝友の会理事、榕樹会顧問、蕉葉会副会長。主な著書に
『太魯閣小史』『東台湾開発史』『知られざる東台湾史』など。
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井上伊之助の生涯−『榕樹文化』第20号発刊を祝す【下】
台湾原住民のために生涯を捧げた「台湾のシュバイツアー」と呼ばれた伝道師

                            榕樹会顧問 山口 政治

 ところで、蕃界での布教には、いろいろな障害が立ちはだかっていた。第一、当時、
台湾総督府では、蕃地でのキリスト教の布教を禁止していた。

 井上は公然と伝道できないため、やむを得ず、医療に従事し、蕃人に接しながら、間
接的に布教しようと考えた。幸い千代子夫人との媒酌にあたった中田重治氏の紹介によ
り、明治43年、伊豆の宝血堂医院で医学を学ぶ機会を得、「医療伝道」によって愛の奉
仕をする自信を得た。

 もとより、医療伝道は、井上の志ではなかった。その後、渡台してのことになるが、
井上は何度も当局に足を運び伝道の許可願いを展開し、大正末期から昭和9年まで実に
15回にわたって請願書を提出した。しかし、大正デモクラシーの思潮が流れる社会にお
いても、遂に採択されることはなかった。

 井上は明治44年、東京に妻子を残して台湾に渡り、冒険的な伝道に踏み切ることとな
った。早速、新竹州北部のタイヤル族の住むカラパイ療養所に勤務することとなるが、
布教の第二の難関は言葉の問題であった。言葉が通じなければ、愛の伝道をすることは
出来ない。

 幸い、角板山蕃語講習所で蕃語の大略を学ぶ機会を得、強い武器を授けられた。ちな
みに、角板山は「蕃界の東京」といわれていた。井上はそのときの喜びを「天父の恩寵
と上司の賜物」と残している。

 カラパイを振り出しに、井上は新竹教会、台中方面の白毛、バイバラ、マレッパ、ナ
マガバンと、日本人が住んでいない蕃地を巡回伝道するが、行く先々で、命を脅かされ
るような思いをした。

 当時はまだ出草(首狩り)の因習が残っており、全島的な統計になるが、明治45年(大
正元年)には、出草による死傷者は実に1,297名と、日本時代最高の数を示していた。入
山した頃は、「付近の脳寮(樟脳製造のため山中にある寮)で夫婦と子供ら6名が蕃人
に首を獲られた」「昨晩、警察署の弾薬庫に蕃人が潜入した」「今夜、当所を襲う噂が
あるので警戒を厳に……」などを耳にし、生と死の隣り合わす生活を経験した。

 また、産婆の居ない山中での出産は危険なので、長女出産のとき、最初は下山してと
思ったが、蕃人の支えになろうとするなら、なるべく原住民と同じような生活を味わわ
ねばならぬと思い、妻に話したところ、「下山しなくても大丈夫です」と賛成し、安産
することが出来、天父に感謝した。

 井上は、在台36年間、伝道と治療に勤めたが、この間、6人の子供のうち、4人がマ
ラリアや赤痢で死亡し、自分もマラリア、腎臓炎、眼病等を併発し、台湾での全治は見
込みなく、一時、台北病院や九州帝大付属病院で療養し、幸い健康を取り戻すことが出
来た。

 以上は、大正14年、井上が父の20回忌に、渡台以来15年間の体験記として綴った『生
蕃記』と、戦後昭和26早秋に、井上自身の入信50年を記念して綴った『蕃地の曙』を加
えて、昭和35年9月2日に、『台湾山地伝道記』と題し、新教出版社から出版したもの
と、『台湾における井上伊之肋先生』とし、石倉啓一氏が昭和54年、日本プロテスタン
ト史研究会で報告したものなどによって、まとめた。約500頁にわたるものを要約したの
で、不十分な箇所もあるが許していただきたい。(終り)

写真:晩年の井上伊之助氏(昭和34年11月16日、77歳頃。静岡県清水市にて)
写真:マレッパ社の井上伊之助氏(昭和7年3月、マレッパ社着任1週間目、工事中の診
   察室にて)
*写真は三田裕次氏提供
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2>>【読者の声】李登輝前総統を京都大学にお迎えしたい[京都大学助教授 柏 久]

 一昨日(7月13日)の本誌で、新刊紹介として柏久編著『「生きる」ための往生−李登
輝台湾前総統恩師柏祐賢の遺言』をご紹介しました。この「新刊紹介」は本会のホーム
ページにも掲載していますが、本日、その編著者の柏久氏から下記のようなお便りをい
ただきました。

 内容から、このお便りに「李登輝前総統を京都大学にお迎えしたい」とタイトルを付
けました。

 今回の訪日中に、李前総統は「京都にも行ってみたい」と洩らされたことがありまし
た。やはり、心残りだったのかもしれません。柏久氏は「どんなことがあろうと実現し
たい」と述べられています。李前総統はすでに満84歳ですが、「あと10年は大丈夫」と
おっしゃっています。成せるものなら成してみたいものです。

 なお、柏久氏のホームページに『「生きる」ための往生−李登輝台湾前総統恩師柏祐
賢の遺言』の「あとがき」が掲載されましたので、明日、ご紹介します。  (編集部)
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李登輝前総統を京都大学にお迎えしたい

                      京都大学地球環境学堂助教授 柏 久

 人間には、やはり一目惚れというものがあるものですね。2004年の大晦日、私は李登
輝先生に一目惚れしました。

 あの時の私には、李登輝先生について、父の教え子で偉くなられた方、という程度の
認識しかありませんでした。2年間の勉強により、一目惚れが単なる幻想ではないと思う
ようになりましたが、今年5月3日に台湾において6時間にわたりお話を聞かせていただき、
そしてその後、秋田と東京で講演を聴かせていただいたことによって、わたしの心は不
動のものとなりました。

 追悼本『「生きる」ための往生』の「あとがき」に書きましたように、今や李登輝先
生は私の恩師です。

 わたしは、京都大学の定年まで後2年半余りの歳となりました。無事定年を迎えられる
とすると、35年間、京都大学に勤めたことになります。京大で生活した月日は、学生時
代から数えれば40年を遙かに超えます。否、父の関係で、生まれたときから京大と共に
生きてきたと言っても良いと思います。当然に京大を愛しています。

 その京大が、2004年大晦日に李登輝先生に対してとった態度は、人としての道から外
れた、恥ずべきものだったと私は思っています。覆水は盆には返りません。しかし、今
後の態度如何で汚名をそそぐことは出来ると思います。

 私は、5月3日に李登輝先生を訪問した際、来年の京都訪問を約束していただきました。
その際、京大は君子の礼をもって、李登輝先生を迎えなければなりません。

 様々な困難が予想されますが、どんなことがあろうと実現したいと思っていますし、
そのために私のすべてを捧げるつもりをしています。皆様のご支援を心からお願い申し
上げます。(7月15日)
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3>>【読者の声】台湾の地質研究者、大江二郎[地質学研究者 長田 敏明]

 法政大学文学部地理学教室で非常講師をされていたという長田敏明氏から、戦前の台
湾において地質調査に従事した日本人地質学者で、台湾総督府の技師であった大江二郎
についてお便りをいただきました。

 台湾の近代化に尽くした日本人はたくさんいます。思いつくままに挙げてみれば、伊
沢修二、楫取道明、伊能嘉矩、後藤新平、新渡戸稲造、西郷菊次郎、八田與一、磯永吉、
末永仁、長谷川謹介、速水和彦、森川清治郎、河合[金市]太郎、羽鳥又男など、数え
上げれば切がありません。本誌前号と今号でご紹介した井上伊之肋も入ります。

 しかし、地質学者については編集子もほとんど知りません。大江二郎という名前も初
めて知りました。

 長田さん、ありがとうございました。またのご投稿をお待ちしております。

 なお、掲載に当りましては、元号を先に記して西暦を括弧でくくり、字句の訂正や句
読点の付け直しなど少し編集させていただいたことをお断わりします。

 では、じっくりお読み下さい。                    (編集部)
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台湾の地質研究者、大江二郎

                           地質学研究者 長田 敏明

 はじめまして。長田敏明(元法政大学文学部地理学教室非常講師)と申します。最近、
戦前の台湾における地質学研究史をてがけているものです。

 ここでは、戦前に台湾の地質について調査した日本人地質学者を取り上げて投稿して
行きたいと思います。今回は手始めに、台湾総督府の技師であった大江二郎について投
稿いたします。

戦前の台湾の地質学研究史−地質研究者伝

(1)大江二郎(1900〜1968)

 台湾の本格的な地質調査は、明治28年(1896年)に台湾総督府内に設けられた鉱務課
によって行われた。この鉱務課は終戦間際の昭和19年(1944年)に省立地質調査所とな
るが、大江二郎は、台湾省地質調査所の初代所長であった。その意味で重要な人物であ
る。

 大江は明治33年(1900年)に東京で出生。東京京華中学校から旧制第一高等学校を経
て、大正10年(1921年)に東京帝国大学理学部鉱物学科に入学、同13年(1924年)に同大
学を卒業した。

 そのまま大学院へ残り、大学院では鉱物の結晶構造を研究し、特選奨学金の給付を受
けた。同15年(1925年)に同大学院を修了した後、理化学研究所で結晶鉱物学を研究し
た。

 大江は、昭和2年(1926年)に台湾総督府殖産局に勤務後、同22年に帰国するまで20
年間、台湾に在住した。この間、敗色の濃かった同19年(1944年)に台湾省地質調査所
の初代所長となるが、台湾では、地質調査の傍らこの省立地質調査所の設立に努力した。

 大江は台湾において、5万分の一台東図幅などの調査に従事した。当時の台東地方は
たいへん治安が悪く、しかもブヌン族の住んでいる険峻の地であった。大江はこの秘境
の調査を敢然としてやってのけた。その学位論文は「台湾における金属鉱物資源」で、
同36年(1964年)北海道大学より授与された。

 敗戦後、留用されて同22年(1947年)まで台湾に在住し、その年の1月に帰国した。

 同年、通産省工業技術院地質調査所に勤務した。そして、同25年(1950年)3月から
は岡山大学理学部の教授(大学院兼担)となった。

 岡山大学には16年間勤務し、鉱床学・温泉学・粘土学などの多方面の研究をおこなっ
たのみでなく、学生や若手研究者の育成にも努力し、岡山大学の基礎を確立した。同26
年(1951年)から同28年(1953年)までは理学部長を勤めた。同41年(1966年)に定年
退官する。

 大江二郎は「徳篤のひとで、寛容温厚で、接するものの心を温めた」ということであ
る(木野崎:1969)。

 定年退官後、神奈川県二宮の徳富蘇峰の梅林の近くに寓居を構えた。しかし、パーキ
ンソン病となって、10ヶ月の闘病生活昏睡の後に同43年(1968年)に死去した。

 大江は静子夫人との間に2男4女をもうけたが、死の直前、外国の大学に医学留学し
ていた長男に「自分のために帰国することはまかりならん」と伝え、学問を徹底するこ
とを教えたという。これも大江の人格を示すエピソードとしてあげられる。

 この項の記載にあたっては,木野崎(1969年)や日本地質学会60周年記念誌(1953年)
などによった。

 台湾の国立台湾大学理学院地質科学系では、今年から2012年まで6年間、戦前の台湾
地質学研究史を検討して総括しようという研究計画が実行に移されています。協力して
くださる方を望んでいます。

 ご協力いただける方や、大江二郎についてのお問い合わせは、下記のメールアドレス
までお願いします。

104akiosada@mth.biglobe.ne.jp
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  • 私は台湾人2008/01/11

    1999年9月21日台湾で大きい地震があった時、日本政府は、台湾にいろいろ大な援助をしました。本当にありがとう ございました