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メールマガジン日台共栄

日本の「生命線」台湾との交流活動や、他では知りえない台湾情報などを、日本李登輝友の会の活動とともに配信するメールマガジン。

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メールマガジン 「日台共栄」第30号

2004/06/25

>>>>> http://www.ritouki.jp/ ―――――――――【平成16年(2004年)6月25日】

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1>> 台湾に日本精神を訪ねて 吉國選也
   ホリデーツアーとは一味も二味も違う感動の連続
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1>> 台湾に日本精神を訪ねて 吉國選也
   ホリデーツアーとは一味も二味も違う感動の連続

 去る5月5日から9日までの4泊5日で、20代、30代の青年たちが台湾を訪れた。台
湾の人々が今でも尊敬している明石元二郎総督のお墓や八田與一技師の烏山頭ダ
ムなどを訪ねる研修旅行だった。まさに慰霊の旅といってよい。参加した吉國選
也氏から、その報告記を送っていただいたので、ここに紹介したい。
 私どもが訪台の折は、まず烏来の高砂義勇隊紀念碑、あるいは「台湾の靖国
神社」こと台中・宝覚寺境内の日本人墓地や李登輝前総統揮毫になる「霊安故郷
慰霊碑」前などで、先人や台湾出身戦歿者の慰霊祭を斎行してから研修旅行など
を始める。理由は明白だ。先人の努力や活躍がなかったら、私どもがこの世に生
を享けることはなかったからだ。高砂義勇隊など台湾出身者の崇高な死により、
南方の日本兵が生き延びて帰還できたから、今の私どもはある。そう考えざるを
得ないからだ。
 研修旅行に限らず、3月の「総統選挙視察団」の折には高雄の日本人墓地で、5
月の「総統就任式参列訪台団」の折は明石元二郎総督の墓前でそれぞれ慰霊祭を
斎行している。
 その点で、吉國氏たちの「台湾に日本精神を訪ねる旅」も、私どもとほぼ同じ
発意のもとに行われたようだ。それ故に、ホリデーツアーとは一味も二味も違っ
てくるのは、当然である。参加者自身の感動がひしひしと伝わってくる、読み応
えのある手記である。
【旅程の概要】5日:明石総督の墓前祭、李登輝前総統の生家訪問、6日:真理大
学訪問、観音山登山、二二八和平公園、蔡焜燦先生食事会、7日:六氏先生の墓
前祭、故宮博物館見学、高砂義勇隊英魂碑参拝、8日:烏山頭ダム、鵝鑾鼻、9日
:台南の日本人居住街跡見学、成功大学内の昭和天皇お手植えのガジュマル見学
 尚、明石元二郎総督のお墓の三芝郷移転で尽力された総統府国策顧問の楊基銓
氏が、去る6月16日に亡くなられた。86歳だった。謹んで哀悼の意を表し心からご
冥福をお祈り申し上げます。                  (編集部)
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 私は、このたびテマサトラベル主催の「台湾に日本精神を訪ねる旅」(5月5日
〜9日)に参加しました。以下はその旅行手記です。詰まった旅程をすべてお伝
えすることはできないため、いくつかに絞ってお伝えします。また、参加者の森
下偉作矢さんからも感想文が寄せられていますので、併せてお送りします。
                              (吉國選也)

▼明石元二郎総督のお墓を参拝

「皆さん、胸の青いバッジをはずしてください」
 今回、同行してくださる現地案内の北島さんが神妙な顔つきで言った。
「ここ台湾では、青色は国民党支持の意味ですから……」
 一瞬どきりとして、次の瞬間その意味するところを理解した。
 今、私は台北空港からバスで三芝に向かっている。そのバスの中でのことで
ある。ツアーガイドの博文(せん はくぶん)さんも我々が襟につけている青
バッジが北朝鮮拉致被害者救出のシンボルであることを知っていた。そして、あ
えて「私たちの色は緑です」と言葉を継いだ。我々はバッジをそっとポケットに
仕舞うことにした。まだ若いが、さんは台湾を愛し、そして日本統治時代の精
神的遺産をよく知っている数少ないガイドだ。その証拠に、かの高名な蔡焜燦先
生から直接ガイドのご指名が来るほどなのだから。
 今回、私たちツアーの参加者はほぼ全員が20代、30代の若者であった。「若い
人たちに台湾に来て、見て、触れてほしい」そう言われて来た。青バッジのエピ
ソードから推察できるように、私たちの旅は我々の同世代が、いわゆるホリデー
を楽しむためにいたす旅行とは一味も二味も違っていた。だから、この手記もお
読みいただく価値があると思う。
 さて三芝郷は現在、李登輝前総統閣下の生家があることで有名になった。その
すぐ先のクリスチャン墓地に明石元二郎(あかし もとじろう)第7代台湾総督の
お墓があるという。「明石元二郎」。多くの日本人はこの御方を知らない。ある
いは歴史に詳しい人は、日露戦争勝利の陰の立役者として欧州で活躍した情報将
校と覚えているだろうか。では、この御方が最晩年、台湾で執政し、台湾の土と
なったことを知っている人は? 我々の世代ではほぼ皆無であろう。理由は明
白だ。明石総督が「軍人」だったからである。軍人のことを日本の歴史教科書は
決して書かない。
 旅行の前に明石元紹氏(あかし もとつぐ 明石元二郎閣下の令孫)を訪ねて
話をお聞きした。台湾の教育制度や日月潭の水利事業など多くの国家事業を興し
、最後は台湾の土になったこの総督。その慈しみを台湾人はけっして忘れてい
ない。
 悪夢のような戦後の戒厳令が終焉を告げるや否や、台湾人自身の手で日本統治
時代の顕彰が行われた。この流れで、大陸から入り込んだ本省人の棲家とされて
いた明石総督のお墓も整備される。明石総督を知るキリスト教徒の楊基銓(よう
 きせん)さんご夫妻の尽力によって、荒れ果てた台北市内のお墓は三芝郷に移
されたのだ。1999年のことである。
 息を切らせながら山の斜面を登っていくと、台湾海峡をにらむ高台の中腹にそ
のお墓があった。美しいお墓である。明石総督はクリスチャンではない。しかし
、死を賭けて台湾を愛した明石総督の至誠は台湾人の胸を焦がし、宗教を超えた。
 故人を偲んで慰霊の一時を持つ。「蛍の光」の歌声、そして日本酒の注がれ
る音、花束の清らかな匂い。自画自賛する気は毛頭ない。しかし我々がここを訪
れたことを、明石総督は満面の笑みで喜んでくださっているに違いないと、その
時信じられた。
 1990年代、日本はバブル経済がはじけ、「失われた10年」といって国家の進む
べき方向性を見失っていた。一方、台湾では歴史に学び、白色テロを清算し、後
藤新平や明石元二郎といった日本統治時代の精神的遺産を顕彰してきた10年だ
った。その結果、中共の危機に曝されながらも、なお民族的エネルギーの横溢す
る国家を現在建設中である。我々はここから何を学ぶか。

▼二二八和平公園

 日が変わって、二二八和平公園に行く。「二・二八」という響き。台湾人のア
イデンティティーに深く関わるこの言葉の深みを理解するには、やはりこの場所
を訪れなければならない。現在、工事中となっている公園の一角に、明石総督の
お墓に建てられていた鳥居が保存されていた。ここにも台湾人の心意気が見ら
れる。
 ガイドのさんが、事件を記念する巨大なモニュメントの前で二二八事件、そ
して白色テロについて熱弁を振るってくれる。事件のいきさつは蔡焜燦先生の『
台湾人と日本精神』(小学館文庫)に詳しいから省略する。しかし、省略できな
いことが、ある。事件の詳細を伝える黄金色のプレートがモニュメントの前にあ
るのだが、これがよく壊されるらしい。何度もである。現在も尾を引いている二
二八事件の暗闇。この暗闇と、台湾人は真正面から向き合い克服していかなけれ
ばならないのだ。
 後ろの巨大なモニュメントは、実は聖所の様相を呈している。中に入ると、真
中の祭壇らしきところを囲んで数人が立てるようになっていた。我々の前に誰か
が白ゆりの花を手向けている。祈っていると、数人の台湾の方々が感激して話し
掛けてきた。思えば、二二八事件で犠牲になった当時の台湾人は、すべてかつて
の日本人だったのではないか。そう思うと、これは他人事ではない。我々の同胞
の血が流された受難の歴史である。これを自国の歴史として知る必要があるので
はないかとさえ思う。

▼蔡焜燦先生の食事会

 この夜、蔡焜燦先生との食事会が催された。ご存知、あの司馬遼太郎翁が「老
台北」と呼んだ人物である。宴席に現れると挨拶も早々に、一番若い未成年達が
座る円卓に御座りになった。実業家として台湾で大成功を収めているお人とは到
底想像がつかないほど、自ら会を取仕切り、我々を喜ばそうと細かな気配りをし
てくださる。日本の唱歌、愛国歌謡などを皆で歌い、歓談の時をもつ。私も明石
元紹氏との出合いを話すと、大変お喜びであった。
 終始和やかだった会食だが、後日談がある。次の日、ホテルで日本語の雑誌を
見ていると、蔡先生の記事が載っていた。それによると、蔡先生は最近よく日本
からくる若者グループを宴席に招待するそうだ。そして、最後にこう言う。
「犬でも食事を与えれば、その恩義を忘れない。君達はこの食事の恩義をどのよ
うにして返してくれるかい?」
 すると、若者達は口々に「台湾にまた来ます」「日本と台湾の掛け橋になり
ます」などと答える。すかさず蔡先生は
「いいや違う。君達は日本人だろう。だったら日本のために一生懸命尽くせ。そ
れが私に恩を返すことになる」
と諭されるのだ。
 私達との会食ではあえてこのようなやり取りはなさらなかったのかもしれない
。しかし、そういう私もかなりしっかりと、腹いっぱいに食事を平らげて
いる……。蔡先生に返すべき恩義があるのは変わりない。

▼六氏先生のお墓

 次の目的地、六氏先生のお墓にたどり着くには、100段を越える階段を上り詰め
なければならなかった。その昔、海底隆起によってできたこの高台は、芝山公
園(しざんこうえん)と名づけられている。台湾では今でも教育の聖地として名
高い。ここは井沢修二とともに台湾に赴任してきた六人の教師を記念した「六氏
先生のお墓」がある。かつては神社も建てられていたようだが、戦後壊された。
六氏先生のお墓も、大陸から来た本省人の手によって荒らされ、古いお墓の墓碑
には「殺、殺、殺」とスプレーで書かれていた。これを最近心ある台湾の方々が
きれいにし、さらに新しいお墓をも建ててくださった。
 6人の教師は台湾の学制の充実のために井沢修二の呼びかけに応じた若き秀才達
であった。井沢修二が一時帰国した折、6人の教師は原住民の暴漢に襲われて哀れ
殉職する。しかし、最後まで原住民を説得しつづけ従容として凶刃にかかったと
いう。その精神は受け継がれ、六人の悲運を知りながら、第2次教師派遣には45名
の教師がひるまず志願して、台湾の教育事業に携わったという。台湾の教育行政
はかような尊い犠牲の上に始まったのだ。
 六氏先生のお墓の前で、突然に老人が話し掛けてきた。唐さんという老人だ
った。この方は六氏先生のお墓を毎朝掃き清め、供養をしてくださっている。本
来なら我々日本人、いや日本政府が墓守をしなければならないところだ。唐さん
はたどたどしい日本語で訴える。
「この先生達立派だったよ。えらいよ。なのにお墓壊すやつがいる」
 そう、六氏先生のお墓も金槌で叩かれた痕があるのだ。唐さんがこれを大切に
守ってくれている。何もしない日本政府に代わって、唐さんに感謝の贈り物を
した。
 若い学校の先生達には一度ここを訪れることを薦めたい。教師は「労働者」で
あるという以上に「聖職」であるという自覚が生まれるに違いない。

▼烏来の高砂義勇隊英魂碑

 午後は、烏来(ウライ)にある台湾高砂義勇隊英魂碑にいった。高砂兵が、大
東亜戦争の南方戦線で勇猛な活躍をした数々の逸話を聞きながら、山道を進む。
 高砂兵の逸話として有名な話がある。隊長の命令で食糧確保に行った高砂兵が
帰ってこない。後日、ジャングルの奥で発見されたその遺体にはしっかりと部隊
のための食料が抱えられていた。死因はなんと「餓死」である。食べてしまえば
いいのにと思うが、かくも純な魂をもった民族が高砂民族だと知った。
 集落の最上部にあたる高台に、英魂碑があった。昨年末亡くなられた女酋長の
周麗梅さんが建てたものだ。このツアーが計画されたときは是非お出合いしたい
方として名前が挙がっていた。残念である。しかし、そこに台湾海交会のメンバ
ーの方が来て下さっており、共に慰霊に参加してくださる。海交会とは旧日本海
軍軍人の連絡会のようだが、当時日本だった台湾にも当然支部がある。しっかり
した日本語で、当時の様子などを語ってくださった。この方々がしきりに日台友
好を口にされる。ご自分の近所の若者を集めては、無料で日本語を教え、日本精
神を伝えようとしているとか。
「今年の8月15日には靖国神社でお会いしましょう」と約束をした。台湾と日本に
は不幸にも国交がない。しかし、この方々を見ていると国際交流、日台交流とは
今の日本外務省がしている八方美人的友好外交ではなく、真心と真心のふれる交
わりのことを指していると痛感した。この良き隣人を我々は大切にしなければ。

▼烏山頭ダムと八田與一

 今回の最大の目的のひとつは、5月8日に烏山頭ダムに行くことであった。台北
から国内線の飛行機に乗り、南へと下る。嘉南平野と呼ばれるその広い平野をバ
スでしばらく走ると、珊瑚潭(さんごたん)が見えてきた。この人工湖こそ烏山
頭ダム、別名「八田ダム」である。
 八田與一(はった よいち)さんのことはマスコミでも近年取り上げられ始め
、日本でも少しずつ知られるようになっている。嘉南平野15万ヘクタールの灌漑
をした土木技師で、農民達のために一生をささげた人である。常に現場の人で、
人夫のことを思いやり、また地勢調査のため野山に分け入っては数日も帰ってこ
ない日があった。その灌漑水路の総距離は24,000キロに及ぶという。
 5月8日は八田さんの命日である。昭和17年、命によりフィリピンの綿作灌漑調
のために出航した後、五島列島沖でアメリカの潜水艦に撃沈され、帰らぬ人と
なる。遺体は哀れにも福島県沖にまで漂流した。また、戦後、八田夫人は夫の後
を追って烏山頭ダムに身を投げる。
 しかし、八田さんの恩義を、地元の農民は決して忘れなかった。戦後、没収と
なったはずの八田さんの銅像もひそかに地元民が隠し持ち、現在、堂々とこれを
設置している。「人生は失敗と見ゆるところで成功している」との逆説を目の当
たりにする思いだった。
 ダムを見下ろす銅像の前で、我々だけでまず慰霊をさせていただいた。よく見
ると、八田さんの御墓の文字が朱色で書かれている。台湾では生前からお墓に墓
碑銘を記す習慣があり、朱色はまだ生きていることを表しているそうである。つ
まり八田與一さんは、少なくともここではまだ死んでいない。人々の中に生き
続け、ダムを見守っているのである。
 そこで一人の現地の青年と出会った。彼の名前は高嵩明さん。台中に住んで
おり、コーヒーショップを営んでおられる。おじいさんの影響で日本の精神的文
化に大変な興味をお持ちであった。乃木将軍をもっとも尊敬する人とし、一番好
きな歌は「加藤隼戦闘隊」(!?なんと)である。食事を共にする。
 この歌をいっしょに歌ったが、日本語のできないはずの高さんが、この歌だけ
はしっかりした発音で最後まで歌われた。小さいときからおじいさんに教えても
らっていたのだ。我々の方がうろ覚えだったりした。
 実は私の家の近くに加藤隼戦闘隊の生き残りのご令嬢が住んでおられる。北朝
鮮拉致問題などで東奔西走されている山谷えり子さんだ。高さんに「加藤隼戦闘
隊の精神は今も受け継がれている。こういう方が国難に今も挑んでいる」と告げ
ると、大変感心しておられた。
 加藤隼戦闘隊は高さんの憧れの的なのである。いつか高さんが山谷さんにお会
いできないかと本気で考えた。この出会いは私にとって大きな出来事であった。
私と同世代の青年の高さん。彼に日本の良き精神的遺産が受け継がれつつある。
日本でもなかなか困難なこの一大事業が台湾でなされていることを知って、大き
な衝撃だった。日本に帰っても、高さんとの親交を深めていきたいと願う。

▼台湾の最南端、鵝鑾鼻から巴士(バシー)海峡をのぞむ

 今回は若者のツアーらしく、旅程一杯につまった過密なスケジュールに加え、
二転三転する行き先。ガイドのさんがこれに最大限に答えてくださった。特に4
日目には予定を大幅に変えて、台湾の最南端、鵝鑾鼻(ガランビ)まで行く強
行軍。さんも行ったことがないとか。
 ガランビは国立公園になっており、夕暮れのロマンチックな景色にあちこちカ
ップルでにぎわっていた。交通事情が悪く、日本からの観光客はあまりいないよ
うだ。我々のように慰霊のために来ている人はもちろんいない。しかし、ここは
日本人にとって記憶しつづけなければいけない場所だろう。
 ガランビから海を望むと巴士(バシー)海峡が見える。その向こうは遠くフィ
リピンにまで達する。バシー海峡では戦時中、米軍の潜水艦によって多くの日本
の輸送船が沈められた。亡くなった軍人、軍属の方々は10万人とも15万人ともい
われる。
 我々の団長の長原先生がそこでフィリピン戦線で戦死したお兄さんのことを語
ってくださる。海を前にして祈っていると先人たちの憂国の血の叫びをありあり
と聞くようであった。私にとって生涯忘れ得ない体験だった。先人たちが日本精
神を具体的に生きた尊い生き様を知り、同様に私も偉大な生涯を生きていきたい
と願わされる。
 しかし、実際は先輩の北島さんに食事時、「台湾料理は回転する円卓に盛ら
れる。それは料理を取り易いようにです。しかし、あなた方は自分の料理を取っ
た後、誰一人として横の人のために円卓を回さない。こういう足元のことから日
本人になっていってください」とたしなめられる場面もあった。具体的な歩みが
おぼつかない現実にはっとさせられる。その後は皆が円卓をわれ先にぐるぐる回
すようになったが、一時的な取り組みでなく、このような身の回りの取り組みも
、また大きな理想に向かってもしっかりした足取りで進んでいかねば。

▼胸を打つガイドのさんの話
 
 余談であるが、最終日にガイドのさんが、自分のことについて話してくれた
。さんは若いころ、兵役で金門島にいたことがある。金門島は当時、戦場の最
前線だったそうである。そこでの訓練の様子、台湾人としての意識の目覚めなど
を話してくれた。
 そして、自分がまだ予備役の身であることを明らかにした上で、「今、中国と
戦争をしたら台湾は負けるでしょう。それでも私は祖国のために戦います。負け
るとわかっていても、戦います」と言われた言葉が激しく胸を打った。
 後世、その是非が問われる特攻作戦の隊員達も、きっとこのような心境だった
に違いない。語り尽くせないが、最後に司馬遼太郎氏の『台湾紀行』の最後の一
節をもって私の気持ちを表したい。
「台湾の話、これでおわる。脳裏の雨は、降りやまないが。」

■鵝鑾鼻で巴士海峡を目の前にして 森下偉作矢(大阪府 36歳)

 5月8日、八田與一さんの命日に台南の烏山頭ダムで御墓にお参りしその後すぐ
に予定していなかった巴士(バシー)海峡に貸切観光バスで向かった。今日は台
南泊なので、帰って来られるか判らないが、ガイドさんも無謀を承知で協力して
下さった。
 まさに南国と言う景色を見ながら約200キロの道のりを運転手さんに急いでも
らい、夕刻前に鵝鑾鼻(ガランピ)に到着した。そこは岬で、古い白色の灯台が
有り、その横にはつい最近まで蒋介石の銅像が立っていたという台座のみが残っ
ていた。
 有料公園のジャングルの中のような遊歩道を通り抜け、磯のような珊瑚の岩場
にたどり着いた。ここが台湾の最南端、その又南はフィリピンであることを初め
て知った。沖縄と台湾が近いことは知っていたが、それよりも近いとのこと。
 29名が波寄せる珊瑚の岩場に座り、お兄さんがフィリピンで戦死された、長原
団長のお話を聞いた。
 目の前の巴士海峡は終戦前、民間の輸送船が敵の潜水艦の魚雷攻撃で次々に沈
没した「魔の海峡」「輸送船の墓場」と呼ばれていた。撃沈せられた船に乗って
おられた20万人以上の多くの方は、今もなお巴士海峡の海底に眠って居られる。
ここには数千人のご遺体が打ち揚げられ、地元の方が葬って下さった。
 私はこのことをお聞きし、予定されていなかった巴士海峡にまで来た意味が初
めてわかった。そこで「椰子の実」を歌い、しばらくの間、亡くなった方の為に
祈りを捧げた。志半ばで犠牲になられた方への感謝と哀悼の念で私の心は打ち
震え、あつい涙が込み上げてきた。台湾に来て初めて日本の先達の心に触れられ
たことを感謝致します。

名も知らぬ遠き島より  流れ寄る椰子の実一つ
故郷の岸をはなれて   なれはそも波にいく月

もとの樹は生いや茂れる 枝はなおかげをやなせる
われもまたなぎさを枕  ひとり身のうき寝の旅ぞ

実をとりて胸にあつれば 新たなり流離のうれい
海の日の沈むを見れば  たぎり落つ異郷の涙

思いやる八重の汐々   いずれの日にか国に帰らん

[昭和11年(1936年)国民歌謡 島崎藤村 作詞 大中寅二 作曲]
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